帝国陸軍仮称四式水陸両用戦車
海軍さんが戦車を造っていると聞きましてな、碌な物じゃないと言うのは予想していました。で、初めて車両を見て、やっぱりかと本当に思いましたよ。
確かに戦車のようなキャタピラは付いてましたよ。それに車体全体を無骨な鋼鉄で覆っていました。しかし、戦車と共通するのはそこだけです。砲塔も大砲もなく、車体はまるで船みたい。実際に尾部にはスクリューまでありました。こんな戦車を海軍さんはどうして造ったのか、理解に苦しみました。
あとで聞いたところでは、こいつの元の名前は特四式内火艇と言うらしいですね。やっぱり戦車じゃなくて船ですよ。
戦争が終わってず~っと経ってから知ったんですけど、海軍はこの特四式内火艇を使って、南方の敵泊地に突入して、敵艦隊を襲撃することを考えていたらしいですね。車体上は運転台以外は平らになっていたんですが、ここに魚雷を据え付ける筈だったとか。
潜水艦から発進して、まずはスクリューで航行し、敵艦隊がいる泊地の外海から一端陸上をキャタピラで走り、また海面に入って内海側の敵艦に魚雷を叩き込む筈だったとか。
ただ、それを知った時は心底呆れましたね~。こいつでそんなこと出来るわけないからですよ。
海軍から譲渡を受けて試しに我々も走行試験と航行試験をやったんですがね、キャタピラの能力が貧弱で脱輪しやすい。そして海の上は走れるには走れますが、速度が遅い上に騒音がやかましい。
海軍さんはこのやかましさに辟易して、こいつを手放したらしいですね。で、陸軍に回ってきたと。
なんで陸軍がこいつを引き取ることになったかについては、たくさんの本や手記に書かれていて今さらですが、まあ簡単に言うと大東亜戦争が島を巡る戦いだったってことに尽きますね。
島を巡る戦いでは、敵前上陸なんてことは珍しくないでしょう。そうなると、どうしても水陸両用戦車が必要になるわけです。
陸軍でも一応水陸両用戦車は試作したりしていたようですけどね、でも結局完成しなかったみたいです。
しかし、太平洋での戦いで急に必要になったからと言うことで、海軍で開発していた水陸両用車両をもらったみたいです。海軍といえば軍艦と言うイメージですけど、陸で戦うための陸戦隊と言う組織がちゃんとあって、そこで使うためのものでした。
ただ先ほどの理由もあってか、海軍ではこいつを持て余したみたいで、それで水陸両用戦車を欲しがっていた陸軍と、同数のチハ改とトレードしたそうです。もちろん、こいつだけでじゃなくて、本当の戦車である特二式内火艇も何両か貰い受けたとか。
私としては、戦車である特二式内火艇の方に乗りたかったですね。腐っても戦車兵でしたし。しかし、軍隊は命令が絶対でしたし、私のような幹候上がりの中尉では、上に意見出来る立場ではありません。今あるものでがんばるしかないのです。
私が当時いたのは、島嶼戦を想定したとある新設の戦車連隊の小隊でした。で、そこで小隊長をしていました。と言っても、配備されたのは件の水陸戦車もどきでした。
ただ、上としてもこいつをそのまま使う気はなかったようで、早速技師が派遣されてきて改造が施されました。
と言っても、武装を強化するとかそう言う類の改造ではありませんでしたね。なにせ砲塔を積むとか、装甲を厚くするとかなれば、車体構造やエンジンそのものを変える必要があったでしょうから。
派遣されてきた技師の主な目的は、やかましいエンジンの防音対策と、脱輪し易いキャタピラの改良でしたね。防音ゴムを噛ませたり、キャタピラの種類や取り付け具を小改造したりしてましたよ。そのおかげで、少しは使い易くなりましたかね。
でも武装の方は、海軍さんの時は魚雷以外に機関砲を搭載していたらしいですが、それはこっちでも変わらずで、結局海軍さんからいただいた25mm機関砲をそのまま使用しました。
戦車隊なのに、武器が25mmの機関砲だけと言うのは、情けない気分でしたが、どうやら上は我々に二式水陸両用戦車と組んで、その補給支援をやらせたかったみたいです。ああ、二式水陸両用戦車と言うのは、特二式内火艇につけられた仮称でした。結局終戦まで、陸軍の制式採用にはならなかったようです。
なので、我々も特四式内火艇を四式水陸両用戦車と呼んでいました。装甲車でもトラックでもないのは、戦車隊に配属された戦車であると言う、まあ言わば我々乗員たちのあがきみたいなもんでしょうかね。
しかし、皆こいつは戦車じゃなくて装甲車だと思ってましたね。
そんな四式水陸両用戦車を我々が受け取ったのは、昭和19年の5月でした。そして技師と共に改良を終えたのが、それから3ヵ月後の8月でした。
いやあ、これは微妙なタイミングでしたね。と言うのも、当初私の属した戦車隊はマリアナ諸島の守備隊強化の戦力として、サイパンに派遣されると言う話だったからです。しかし、そのマリアナに6月に米軍が上陸してしまったので、結局その話はぽしゃりました。
続いてフィリピンと言う話も出ましたが、こちらも錬成中の10月に米軍がレイテに上陸し、さらには輸送艦艇の不足から、結局流れました。
で紆余曲折の末に、12月になって沖縄へ移動することになりましたね。米軍がフィリピン、そして台湾を落としたら沖縄へ来る可能性は高かったですから、ついに死地へ赴くのだなあと思いました。
しかし、本土を離れた途端から死と隣り合わせでしたね。と言うのも、このころ米潜水艦は本土の目と鼻の先にまで出没していましたから。
私が直卒する第一小隊の4両は、SB艇に搭乗出来たので、沖縄に無事たどり着くことが出来ました。しかし、輸送船に乗った第二・第三小隊の8両は敵潜水艦によって輸送船もろとも沈められてしまいました。何人か隊員は生きてたんですが、もちろん車両も装備も全損ですから、完全な着たきり雀です。
幸いだったのは、海軍の輸送艦に乗せてもらえた第四小隊の4両は無事に沖縄に揚陸できました。半分になってしまいましたが、とりあえず8両の水陸両用戦車と修理部品が確保できたのは幸いでした。
で、沖縄に上陸した我々を待っていたのは、訓練を兼ねた輸送任務でした。後方の魚雷搭載の部分に武器や兵員を乗せて、ひたすら那覇から各地への輸送任務です。
何が悲しくて運び屋のマネをしなくちゃいけないんだかと思いましたが、皆さん良くご存知のように、我が軍はトラックなどの輸送車両が不足していましたからね、しかもこいつは水陸両用です。なので、海岸沿いの陣地に物資を輸送するには、色々と都合が良かったわけです。場所によっては、陸路より海路のほうが遥かに行き易い場所があったりもしたのです。
2月を過ぎたころから、本島北部への輸送が多くなりましたね。何でも台湾から北部疎開住民用の米が入ってきたので、それらを運ぶ必要が出たからです。この頃の本島北部は未開発の地域が多く、食料や医薬品の備蓄は極わずかでした。
しかし米軍の沖縄本島上陸が現実味を帯びてくると、本島北部は民間人を疎開させる上で重要な地域となります。折りしも沖縄を守る第32軍は戦略持久として、島の中南部に米軍を引き込んで戦闘を行う予定だったので、民間人の逃げ場所としては、北部しかなかったのです。
そう言うわけで、我々の部隊も食料や医薬品のみならず、時には疎開する住民を荷台に乗せて島の中部と南部を往復する日が続きましたね。コレは我々にとって、貴重な水陸走行のいい訓練になりましたし、島民の士気高揚にも一役買ったようです。
とは言え、そんな長閑な日々も3月の下旬には終わりましたね。米軍がついに沖縄上陸作戦を開始したからです。本島上空には敵機動部隊から発進した攻撃機が乱舞していますから、迂闊に動くことは出来なくなりました。
米軍が上陸した時、我々の部隊はちょうど本島北部の本部半島の今帰仁村にいました。予定では中部の首里の防衛線に投入される予定だったのですが、内陸持久戦となり、北部で数少ない防衛線が築かれたこの地での機甲戦力として期待されたようです。
実際、兵士や住民からは随分力強く見えたようで、戦後の証言などを見ると、我々の車両のことがしきりに出てきますね。いやはや、恥ずかしいやら光栄やら。
ただ、四式水陸両用戦車は、先ほども言いましたが戦車とは名ばかりで、装甲車と呼ぶのもおこがましいものでした。
そこで、我々は整備兵とともに現地改造を施すことにしました。これは、当時の陸軍内部では異例中の異例ですね。戦後知ったことですが、ドイツやアメリカでは、被弾に備えて戦車に現地改造を施すのは当然だったそうですね。予備のキャタピラや土嚢を車体に取り付けて、装甲代わりにしたそうです。
しかし、日本の場合は「兵器は陛下よりお預かりした物」と言う意識が強すぎて、現地で改造すると言う意識がどうも希薄でした。我々の改造にしても、いい目では見られませんでしたね。
それでも、ペラペラの装甲と申し訳程度の機銃ではどうにもなりませんからね。とりあえず、主に運転台と燃料タンク周りに鉄板を張り増しして、さらに後部の荷台に25mm機銃を特設できるように架台を設けました。
砲を搭載しなかったのは、その砲自体が不足していて取り付けられる在庫がなかったからです。25mm機銃は予備が何挺かありましたので。ただ、あとの事を思えば、これが当たったと言えますね。
と言うのも、本当北部の戦いが激化するまで、我々は任務は専ら輸送任務でした。そのため、陸上であれば大敵となったのは、航空機でしたし、海上であれば魚雷艇や巡視艇などでした。そのため、機銃のほうが都合がいいこともありました。一番痛快だったのは、低空で味方陣地を爆撃したグラマンを、撃墜した時でしたね。最初で最後の確実な撃墜戦果です。
しかし、やはり空襲や戦闘で徐々に数を減らして行きましたね、4月の半ばにはたった3両だけになってしまいました。
それでも、我々は貴重な戦力ですからね。毎日物資の運搬や小規模な戦闘に参加したりもしました。25mm機銃は戦車はさすがに無理でしたが、歩兵や装甲車相手くらいなら、なんとかなりましたから。
そして、4月20日。本部半島突端に追い詰められた頃には、稼動車両はたった2両だけになっていました。既に弾薬も付きかけ、燃料も1回満タンにしたら終わりでした。
隊内からは、爆薬を括り付けて特攻をやろうと言う意見もあったのですが、その爆薬すらもはやありませんでした。だったら車両を燃やして、切り込みと言う意見も出ましたが、もちろんそんなのがバカバカしくて大した戦果もあげられないこともわかってましたね。
一兵卒の私がここまでこれたのは、要領よく生きてきたから。言い方を変えれば、バカなことだけはしなかったからですよ。まあ、戦陣訓が配られた時に直属上官が「こんな物読んでる暇があったら、昇進試験の勉強してろ」なんていう超現実主義者だったせいもありますけどね。
だから万歳突撃もなしです。そうなると、敵に降伏ってことになりましたね。いやもちろん、部下たちからは反発を受けましたよ。明らかに私に殺意を向けてる者もいましたね。
そこで私は、言葉は悪いですが民間人をダシに使いました。この時我々の元には元々手伝いとして付きしたがっていた軍属の学生や、保護を求めてきた民間人がいました。
彼らを戦いに巻き込んでいいのか。陛下の赤子たる国民を守らずして、何が皇軍かと。幸いだったのは、北部に出来た捕虜収容所の様子が既に伝わっていて、米兵が民間人を保護していることが確認できていたことでした。
部下たちも、さすがに民間人を巻き添えにするのは気が引けたのでしょうね。結局、民間人を保護するためにやむを得ず降伏することに同意しましたよ。
いざ決めてしまうと、人間腹が据わりましたね。そのせいかわかりませんが、部下の一人が「ただ降伏するだけじゃ面白くありませんから、アメさんをアッと驚かしてから降伏してやりましょう」と言い出しましてね、私も「いいな、それ」と同意しました。
そして別の隊員が「民間人を運んでくなんて、まるで円タクですな」と言ったもんですから「そうだな、タクシーだな」「アメリカ人も、タクシーがこんな所(戦場)を走ってきたら、きっとびっくりするぞ」となりまして、で調子に乗って車体にデカデカと英語でtaxiiとかwe are no deangar とか書き込みまして。
戦後スペルを間違えてると言われたときは、赤っ恥でしたが。
こうして我々は残存する2両と、奇跡的に焼け残っていたトラック1両に分乗して、白旗を掲げて米軍のいる方へと走り出しました。もちろん、機銃は全部銃身を外し、小銃も車内に予備として格納した分を除き、全て地中に埋めて放棄しました。
「よし!出発!」
指揮下の残存将兵に、我々に従った民間人を鈴なりに乗せて我々は出発しました。
さすがに米軍の前線に近づいた際は、皆緊張しましたが、それを振り払うつもりで私はいいました。
「皆、そんな顔じゃお客さんに迷惑だ。笑っていこう!」
「なんなら歌でも歌いましょう!辛気臭い軍歌じゃなくて!」
「いいな、それ!」
戦前の流行歌を歌いながら、皆笑顔を浮かべて敵の前線に突撃ですよ。いや今思い出しても、アレは痛快でしたな。あの時の米兵たちの驚きようって言ったらありません。もう唖然を通り越して呆然としていましたね。
米軍は一発も撃つことなく、それどころか我々の前進を止めたのはかなり占領地域の中に入ってからでしたね。ようやく笛と旗を持ったMPが我々を止めに来ました。ただ最初は英語なので当然理解できません。30分ほどして、ようやく日系人の通訳が来て会話が成立しました。
「あなたがたは降伏するのか?」
1人の士官が私に問いただしました。
「降伏はまだしない。降伏するのは、民間人と部下の安全が保障され、彼らを安全な地域に届けてからだ。我々はタクシーだもんでね」
この時までに、周囲は米兵に囲まれていましたが、相手も毒気を抜かれたのか、緊張感はありませんでしたね。我々もタバコを吸ったりしていました。
そのせいか、我々も大きな態度に出ましたよ。ただそれがこの時は良かったかもしれません。
「君たちの身の安全は保障する。これより指示する場所に向かいたまえ」
「了解」
「ところで」
「?」
「私も乗せてほしいのだが、このタクシーは一マイルいくらかな?」
そう問われて、皆爆笑しましたよ。
こうして我々は民間人を収容所まで運び、沖縄での戦いを終えた・・・・・・わけではありませんでした。むしろここからでした。と言うのも、沖縄北部は食料の貯蔵が不十分で、なおかつ伝染病も蔓延していました。ですから食料と医薬品の輸送が急務だったわけですが、梅雨時の沖縄では道路が泥まみれになって、トラック輸送に支障を来たしました。
そのため、一度は武装を全て解除して収容所に入っていた我々にお呼びが掛かりました。
「収容所への物資輸送を手伝って欲しい」
降伏した我々に配慮したんでしょうかね、命令ではなく要請と言う形で来ました。利敵行為になりかねないとは思いましたが、この頃北部の収容所は食料不足や医薬品の不足に悩まされていましたから、県民を守るためには止むを得ないとなりました。
ただ驚いたのは、輸送用に用意された車両は何と我々が乗っていた四式水陸両用戦車でした。しかも、何故か一両増えていました。
「燃料切れで遺棄されたものを回収した」
と米軍の士官が答えましたが、それはともかく久方ぶりに我々は収容所を出て、せっせと港から収容所まで食料品や医薬品を運びましたね~
それも夏には終了となりました。雨季が明けたのに加えて、終戦となって我々本土出身の兵隊は復員することになりましたから。
もちろん、四式水陸両用戦車とも今度こそお別れです。米兵隊に頼み込んで、何とか撮影した記念写真だけが思い出となりました。
そして、戦後60年間。このことは忘れていました。部下とは復員後にバラバラになりましたし、戦後は忙しかったですから。当時の米軍のフィルムを見つけた君が、尋ねてくるまではね(笑)
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