始まりの水音Ⅱ
無我夢中で歩いていた。体には藍色をした光のナイフが刺さり、立ち上がる事の出来ない激痛が襲いかかっているはずだが、それでも歩き続けていた。
妙に湿り気が増えてきて、空気が変化したように感じる。まるで、日本ではないどこかに来てしまったような気分だ。
「大丈夫ですか?」
聞き覚えがある声が聞こえ、俺はなぜか安心してしまう。今もなお、命の危機が迫っていると分かりながらも、安心感はそうした緊張感を和らげてしまうのだ。
「俺の記憶に残っているのはここまでだね」
「なるほど、そういう事だったんですね」
瀕死の傷を負っていた俺を助けてくれたのは、青い髪とアホ毛が特徴的な少女だった。まるでこの世の者とは思えない程に可愛らしく、そして浮世離れした格好をしている。
「そういえば、君って変わった服をきているね」
「そ、そうですか? 私からすると、あなたの服の方が珍しいと思うんですが」
西洋風の部屋、確かにこの様な趣味を持っている子からすれば、俺は珍しい格好だろう。なにより、今はダメージ系でもないのに服のあちこちが破れているのだ。
「その黒い服は何ですか? 軍服ですか?」
「学生服って言うんだよ。うちの高校は未だに学ランだからね、俺としてはブレザーとかにしてほしいって思うけど」
「ガクラン? ブレザ……? どちらも聞いた事がありませんね」
どうも発音がおかしい。この子は日本に来たばかりの帰国子女なのだろうか。
「まだ聞いてなかったけど、ここってどこかな?」
「あっ、私のお家……フォルティス城ですね」
「へぇ、お城かぁ。大阪城とか姫路城が見た事あるけど、こういう西洋的な城も日本にはあったんだなぁ――って、君お城に住んでいるんだ!」
「オサカジョー? ヒメジジョー? 私はお城に住んでいますが……」
どうもこちらの知識は通用しないらしい。少なくとも会話が通じるだけましだが、これではあの時に襲ってきた男と大差ないではないか。
「で、住所はどこかな? 俺は祐天寺と上目黒の中間らへんに住んでるんだけど」
「えっと……どちらも分かりませんが、ここは水の国の首都、フォルティスですよ」
「へぇ……海外?」
「えっと、あなたからすればそうかもしれません」
あれだけの傷を負って海外に来る、考えづらい展開だ。
しかし、水の国といえばヴェネツィア辺りだろうか。地理で習ったが、あれはイタリアの都市であり、国などではなかったはず。
「ちょっと電話掛けていい?」
「えっ……あっ、はい」
首を傾げたままの少女に一礼すると、俺はポケットにしまっていたスマートフォンを取りだす。イヤホンを付けたままだった為に、素早く抜き、電話のアプリを起動させた。
親の電話番号に掛けるが、何度やっても接続されない。そこで俺は左上の電波状況を確認した。
圏外。海外ではSIMフリーがなんとやら、などと聞いた事があるが、その影響で繋がらないのだろうか。国外に出る気がなかった俺からすると、まったくの予想外でしかない。
「Wi-Fi回線とかないかな?」
「あの……分からないです」
さすがに数日も連絡謝絶だとすれば、親も心配している事だろう。それどころか、捜索届けが出ている可能性がある。学校で気まずくなりそうだ。
「あなたはどこから来たんですか? 変わった格好をしていますし、あんな怪我でしたし、困っている事なら何でもしますよ」
「いやいや、ありがと。でもなぁ……」
ふと、腹が減っている事を思い出す。お城に住んでいるというのであれば、軽食くらいは用意してくれるだろう。少し厚かましいかもしれないが、厚意に預かるとしよう。
「じゃあご飯を出してもらえると嬉しいかな。もうお腹ペコペコでさ」
「はいっ、じゃあ頼んできますね」
少女は笑い、部屋を出ていった。
しばらくして、俺は窓際に行き、カーテンを開ける。せっかくの海外旅行――意図しないところだが――だから、少しは観光していってもいいかもしれない。
バックパッカーという旅行者や、小学生で世界を渡り歩くなどという話を聞くに、俺もそういう事に挑戦してみようか。
それに、ヒッチハイクで空港にまで向かえば、とりあえずは電話にありつけるだろう。
外の風景を見た時、俺はそうした考えを全て放擲する事になる。
広がる大地、森や山や湖畔、城の周囲に広がる城下町。まさに中世ファンタジーを思わせる、RPGの世界。
道路もなく、車もなく、馬車が数台走っているのが見える程度。これは海外と言う次元ではない。そもそも、海外の田舎町だとしたら、ここまでの城が建てられるはずもないのだ。
扉をノックし、少女が入ってきた。
「あと少しできますから、少し待っていてくださいね」
「……あのさ、ここの世界は何って言うの?」
「ミスティルフォードですよ?」
それだけでなんとなく察してしまった。
所謂、ここは異世界なのだ。通りで日本の話が理解されず、電波が繋がらず、あれほどの重傷があっさり治ったわけか。
「……俺は池尻海人、気軽にカイトって呼んでくれ。ちなみに高校一年生――十六歳だよ。君は何って名前なんだい?」
「私はシアンです……十才です」
「じゃあシアン、もう一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
シアンは笑い、「何ですか?」と言ってくれた。
「……仕事を見つけるまで、養ってくれないかな?」