始まりの水音Ⅰ
『助けて……カイト』
暗闇の中で声が聞こえた。小さな女の子の、助けを呼ぶ声。
闇が祓われた途端、巨大な槍を構えた仮面の男が目の前に現れる。どうしてかは分からないが、敵意を向けられている事は分かった。それも、現実ではありえないような、殺意にも似た感触。
使命感に駆られてか、俺は手に持った大きな斧を使い、その仮面男へと攻撃を仕掛けた。
程良い温さに癒され、俺は眠っていた。
教室の前方に設置されている時計を見るに、五時間目の授業は終わった後らしい。教師が指摘しない人である為か、こうして心地よい目覚めをするまで眠っていられた。
六時間目は真面目に受け、板書をしていく。昨日はお隣さんの荷物整理を手伝ったせいか、どうにも疲れが溜まっている。
授業を終えた後、俺はクラスメートと談笑をしながら下校し、帰りがけに買いたい漫画があったので途中で別れた。
信号が青なのをいいことに、俺は走っていこうと考える。しかし、すぐに荷物を持ったお婆さんがいる事に気付き、はやる足を止めた。
「お婆さん、荷物持ちますよっ」
「いいんですか?」
「ええ! 困っている人を助けるのは当然でっす!」
そうして一緒に信号を渡るどころか、話をしながらお婆さんの家まで荷物を運んでいく。
「ありがとうございました。本当に助かりましたよ」
「いえいえ、困った時はお互い様だよ」
お婆さんに手を振って別れを告げ、俺は思い出す。
「あ……漫画買いに行くの忘れてた」
翌日の帰り、今度こそ買おうと書店へと足を向けた俺は、目当ての漫画が置かれているコーナーに立ち寄った。
「おっ、あったあった」
手を伸ばした途端、俺の手は小さな手に当たる。
「あっ、ごめんなさい」
小学生と思われる男の子はそう言い、手をひっこめた。
俺は内心で笑いながら、棚から漫画を引きぬき、それを少年へと手渡す。
「ほら、俺はまた今度でいいからさ」
「えっ、いいの? サンキュー」
カタカナ語の英語を使い、少年は本を持ってレジに行った。
欲しかった漫画は一冊しか入っておらず、今日もまた買い逃す。ただ、明日でもいいという事に二言はなく、一人の子供が楽しめる方がいいと思ってしまった。
電車に乗って祐天寺駅に到着した俺は手持無沙汰気味に家へと戻っていく。買ってきていればこの帰り道にでも読めたが、たらればを言っても仕方がない。
ふと、何の気もなく裏路地を見ると、そこから奇妙な気配が漂ってきた。
「何か変な感じがするんだよなぁ……」
いつもは立ち寄らないような裏路地へと足を進めていくと、黒い煤のようなものが大量に付着した一人の男がいる事に気付く。
「あのー大丈夫ですか?」
刹那、男の目が光った。
銀色の煌めきを捉えた瞬間、俺の腕からは一筋の赤が滴る。見えなかったけど、今確実にナイフで切られた。
「な、何で切るんですか!?」
問い掛けるが、男は俺の知らない言語で何かを言うだけで、一向に刃を収めようとしない。
顔立ちから判断するに、アジア系ではない外国人のようだ。ロシアかアメリカ辺りの外人さんなのだろうか。
しかし、発せられた言語はそれらとは違っていた。英語は授業で聞いていたそれと違っており、ロシア語はインターネット翻訳サイトで聞いたそれと一致しない。
赤い水たまりができた時点で、焦りが頭の中を支配した。相手が何であるかはともかく、この人は俺を殺そうとしている。
「あの、困っているなら警察署の場所を教えますけど……」
西洋チックなナイフを構えた男は、そのまま俺に向って突進を仕掛けてきた。さすがに二度目は攻撃予兆も読め、回避に成功する。
話が通じないと分かるや否や、俺は逃げ出した。会話が出来ないとあっては、どうする事も出来ない。
しかし、男はナイフを持ったままこちらへと迫ってきた。
急いで家へと向かった俺も、途中で行き止まりにまで追いつめられ、逃げ道を失ってしまう。走れば二分で家につくけど、この場所からは向かえない。
刹那、頭の中に声が響いてきた。夢で見た、小さな女の子の声。
気付くと、俺の指は二、三本飛ばされていた。ナイフとは思えない切れ味で、骨の抵抗すらなく切断されてしまった。
痛みと溢れ出す大量の血液で、俺は何も考えられなくなる。
痛い。
逃げたい。
生きたい。
単純な、生存本能だけが思考として残った。
生きたい。
もう一度、頭の中にその言葉が巡る。
咄嗟に俺は首筋と手首を守りながら、突進した。男は驚いたようにナイフを振り、俺に反撃を加えようとする。
ナイフが三、四回辺り、服は引き裂かれて、血が滲んできた。痛みは増し、声をもらしそうになるが、それでも俺は行き止まりの場所から抜ける。
息切れをしながら、鮮血を垂らしながら、俺はひたすらに走った。後一分で家につく。家に付かなくても、叫べば声が届く。
素早く背後を確認してみると、やはり男はついてきていた。それも、全速力にも近い速度で走り、彼の付近には見た事もない藍色をした光の文字が追随してきている。
家の真ん前に到着した俺は、何も迷うことなく門を開け、家の中に入ろうとした。
次の瞬間、無数のナイフが体に突き刺さり、体が倒れる。後一歩というところで扉も開けられず、助けを呼ぶだけの声も出せなかった。
視界がぼやけていく中、体に刺さっているナイフが藍色に光っていた――藍色の光そのものだと認識した時点で、これが夢なのだと気付く。
魔法なんてありえない……ファンタジーやゲームじゃあないんだから。