前編
大学時代、部誌に投稿した一作を手直ししてみました。
ありきたりですみません……。
北の森の奥にある大きな屋敷には、〝魔法使い〟が住んでいるという。
しわくちゃのやせ細る体に耳まで裂けた口、泥のように濁った瞳の醜い老婆なんだそうだ。悪魔と契約をして力を手に入れたとか、もう何百年も同じ姿のままで生き続けているとか、森に迷い込んだ子どもを食べてしまうとか、恐ろしい噂は尽きることがない。
はるか昔、魔法使いの機嫌を損ねたとある一国の王が、一夜にしてその魔法使いに国を滅ぼされたという。辺りは一面焼け野原と化し、生き残った人はひとりもいなかった。その罰を受けて魔法使いはここ、世界の端にある北の森の奥に幽閉されてしまう。以来、魔法使いはずっとそこにいるという。
そんな伝説のある北の魔法使いは「どんなことも叶えてくれる」のだそうだ。
日照りの続く土地に雨を降らせることだってできるし、逆に雨季の多い地方を日照りにしてしまうことだってできる。作った薬はどんな病気もたちどころに治すし、一瞬で億万長者にもなれるし、世界一の美女にだってなれる。恋する者を振り向かせることも、世界の誰よりも強い破者となることも、そして若くして生き続けること、不老長寿だって可能なのだ。
そんな噂が耐えないから、かつては森の奥に足を踏み入れる者が多かったという。けれどもそういった人たちはそれ以来森から出てこなかったし、あるいは記憶を失ってぼろぼろの姿で放浪しているのを近くの街の人が見つけたりして、ひとり残らず無事に帰ってくる者はいなかった。次第に魔法使いは人々から恐れられ、今では森の奥に足を踏み入れる者は誰もいなくなっていた。一部の愚か者を除いて。
その森の中に私はいる。
そしてよりによって、目の前には〝魔法使い〟がいた。
「いやぁ見てるとあんまりにも怖がっちゃって哀れだったから、つい同情心が沸いたんだよね。ほらよくあるじゃない、土砂降りの雨の日に粗末な箱で捨てられた子犬とか。生まれたばかりの子猫を抱えて薄汚れた裏道を歩き回るお母さん猫とか。新天地を求めて歩くカルガモの親子とか。
なんかそういうの思い出してさ、ついこう、放っておけなかったんだよ」
言ってる傍から、彼の前にボールで遊ぶ子犬と転がるようにあとを追いかける子猫が通り過ぎていった。後ろには暖炉の前で呑気に昼寝をするお母さん猫と、その横をほてほてとカルガモの親子が横切っていく。
ニコニコと人好きのする笑みを浮かべて、〝魔法使い〟だと名乗った目の前の人物はマグカップを傾けた。中には暖かい飲み物が入っていて、黒い色をしたそれはほろ苦くどこか甘いという不思議な飲み物だ。
「あ、コーヒー知らないのお嬢さん? 遠い異国で栽培されてる飲み物だよ。体にいいし温まるし、なにより香ばしい匂いがたまらないと思うんだ。結構気に入ってるんだけど、こんな森の中に住んでるからこの美味しさを分かち合う人がいなくて。だから嬉しいよ」
ひょろ長い印象を受ける優男は、こちらが相槌を打つ間もなくぺらぺらと喋り続ける。よく回る口だと思った。こちらの質問イチに対して、二倍どころか十倍の量で返ってくる。
〝魔法使い〟だと名乗った青年は、ぜんぜんまったくもって外の噂とかけ離れていた。
まず、しわくちゃの老婆ではなく年若い男性だった。外見から推測すれば成人になって少し経った頃ぐらい。長い髪をひとつに縛り、すらりとした体つきを木の椅子に落ち着けて、長い足を組んで優雅に〝コーヒー〟を飲んでいる。その顔には丸眼鏡がかけられていた。
偏屈で意地悪でもなく、むしろ陽気な性格のようだ。おしゃべりでマイペースらしい。そして迷い込んだ挙句野犬に襲われ、命からがら逃げ出したあと崖から落ちた私を助けてくれるぐらいには、人の良い魔法使いらしい。
迷い込んだ者の身包みを剥いで人肉を食べてしまうような化け物でもなく、見た目だけはごく普通の青年だった。たしかに常人よりも整った顔つきをしているけれど、それにしたって絶世の美人というわけではない。
髪の色だけは噂を彷彿とさせるものだった。色が抜け落ちたように真っ白だったのだ。始めてみたときは老人の白髪かと思った。呼応するように瞳は真っ赤な色をしているし、肌も病的なほど白い。
けれどそんな外見とは裏腹に、彼は先ほどから目をきらきらとさせて楽しそうに喋り続けている。
「はてさてお嬢さん、キミのような女性がこんな森の奥に何の用かい? まぁだいたい予想はつくけど。北の森に住む恐ろしい魔法使いに願いをかなえてもらえにきたんだよね? うむ、戦う術も持たないキミが無謀にもひとりで森に入ったこと、その勇気に敬意を表して聞くだけは聞いてあげよう。かなえてあげるかは別だけど。さて願い事はなにかな?」
「……その前に、ひとつよろしいですか」
「うんなに?」
控えめに片手をあげて主張すれば、彼はニコニコと笑いながら首を傾げた。アドバンテージが回ってきたところで、私はこくりと喉を鳴らし、それから小さく〝魔法使い〟に問いかける。
「あなたは本当に、魔法使いさまなのですか……?」
「キミが探す魔法使いがボクかは知らないが、この森に住む魔法使いはボクしかいない」
彼はにやりという擬音がとても似合うように、唇を吊り上げた。
入れば二度と出てこられないという迷いの森を、無謀にも戦う術を持たないただの女である私が行くことにしたのは、この森の伝説にある魔法使いに願いをかなえてもらうためだ。
森は噂以上に恐ろしい場所だった。昼間だというのに薄暗くて肌寒かったし、暗緑の葉が生い茂って数メートル先の場所すら見えなかったし、時折空から不気味な鳥の鳴き声が聞こえてくるし。人食い狼もいるらしく、私は外套を握り締めて震えを抑えながら森を歩いた。カンテラの灯りだけが頼りで、心臓は飛び出そうなほど痛く脈打っていたし、足はがくがく震え、腰も引けているし、足取りも危なっかしく、はたから見ていればどれほど情けない姿だったろう。それでも自分はそんな自分を省みる余裕などなく、ただひたすら奥を目指していた。
長い間歩いていたような気がするし、あるいはほんの数分だったのかもしれない。けれどその張り詰めた緊張感を崩したのは、すぐ横で動いた木の葉の音だった。臆病すぎるほど警戒していた私は過剰に反応して飛び上がり、すぐさまそちらに目をやれば、薄暗い森の向こうから無数の赤い目がこちらを覗きこんでいた。人食い狼だった。瞬間私は悲鳴をあげ、虚勢を捨てすぐさま逃げ出した。そしてしばらく走ったあと急斜面に気づかず足を滑らせた。悲鳴を上げる間もなかった。
そうして次に目覚めたのは、薪が煌々と燃える暖かい暖炉の部屋だった。赤いレンガの壁も、古い家具と調度品も、床に敷かれた絨毯も、柔らかい寝台も、まったく見覚えがない。どう見ても身分の高い人たちが使う客間で、私のような者が寝ているべき場所ではなかった。混乱しているとドアからノックの音が聞こえ、蝶番の軋む音と共に部屋に入ってきたのは、マグカップをふたつ乗せたトレイを持つ若い男性だった。それが彼、〝魔法使い〟との出会いだった。
「ボクのことは好きに呼んでいい」
最初からそう使われてハイそうですかと頷く人はどこにもいない。思わず呆気に取られると、彼は笑ったまま眼鏡を中指で直す。
「ボクの名前はそれだけで力があるの。力のない人が口にすれば縛り付けられて永久にここから離れられなくなるよ?」
ハイそうですか。私は二つ返事で了承した。
「それで、キミの名前はなんというんだい? あぁ別に気にしなくて良い、なにもキミの名前を使って魔法を発動させるとかそういうことはしないから。面白くないし」
どうも魔法というのは名前だけで効果を発揮することができるものらしい。噂によると強い〝魔法使い〟というのは道具を使ったり儀式をしたりするまでもなく言葉のみで魔法を使うことができるらしいので、〝魔法使い〟に会うときは相手の言葉に気をつけなければいけないのだそうだ。気をつけるまでもなく彼は喋りすぎだと思うのだが。
「それで? キミのお願いはなんだい?」
名を聞いておいて、答える間もなく次の質問を促してきた。なんとせっかちなヤツなんだと思いつつ、けれど名乗らずにいれたことにどこか安心して(変な呪いとかに使われるのは嫌だ)私はことの始まりを話すことにした。
私はここよりも東にある、とある街の領主に使えている侍女だ。
雇い主である領主さまと娘のエレーヌさまには恩があり、私がまだ幼い子どものころ、冷たい雪の日に親に捨てられて凍死寸前だったところをお二人に救われた。心優しいお二人はみずぼらしい子どもだった私に暖かい風呂とお腹いっぱいの食事を与えてくれ、洋服と寝床をくれた。境遇を聞いた後には屋敷の部屋をひとつ与えてくれた。
領主というのはたいがい下賤の者に対しては冷たく当たるのが常だというのに、彼らは嫌な顔ひとつすることなく迎え入れてくれた。ちょうど領主さまの妻であるお方が流行り病でなくなられたあとで、きっと妻が引き合わせてくれたのだろうと領主さまは笑った。
だから、彼ら親子には言葉で表現できないほど感謝している。
少しでも恩返しをしようと侍女を買って出て、それ以来エレーヌさま付きの侍女として暮らしているが、いまだ受けたご恩に相当するような働きを見せられていないと思う。それでも彼らは変わらず暖かかったし、屋敷の者も親切だったし、私は幸せな生活を送っていた。
そんな中、冬にエレーヌさまが病気で寝込んでしまったのだ。奥さまの命を奪った病と同じもので、かなり悪い病らしく医者も治せず回復のめどもつかないらしい。エレーヌさまの長く寝込んだ体は弱りきっていて、見る見るうちに衰弱していくのが分かった。
そしてある日、私は偶然、領主さまと医者がこっそり話していたことを聞いた。エレーヌさまの死が近いということを。
以来、領主さまも仕事の合間にできるだけ彼女の看病をしている。けれどこのままでは心労がたたり倒れてしまう。
私はこの時ほど、なにもできない自分を呪ったことはなかっただろう。
命を救ってくれた恩人なのになにもできない。できることなら代わってあげたかった。そんなとき、魔法使いの話を思い出した。
だから屋敷を抜け出してまでここへ来た。なんでも願いを叶えてくれる魔法使いにお願いして、エレーヌさまの病気を治してあげたいと思ったから。
私の長い話を聞き終わると、魔法使いは顎に手を当てて頷いた。
「ようするにその娘さんの病気が治ればいいわけだ。いいよ」
思わず顔を上げた。一瞬なにを言われたか理解ができなかったが、あまりにも簡単に言われた肯定の返事に顔が明るくなる。
「でもいくつか条件がある」
魔法使いは両手で「まぁそう慌てないでよ」と制止した後、口元を吊り上げて私の顔を覗き込んだ。
「ボクがこれから言ういくつかの条件をクリアしたら、その願いを叶えてあげよう」
その笑みがどこか邪悪なものに見え、私は思わず背筋がぶるりと震え上がるのを感じた。魔法使いが願いをかなえるために出す代償、それはどれほど恐ろしいものなのか……
「まずは掃除して欲しい」
ところが次に言われた言葉に、私はきょとんとした。魔法使いはなおも続ける。
「手始めにこの台所から」
魔法使いが指をぱちんと鳴らすと、一瞬で目の前の光景が変わった。暖かい暖炉の部屋で寝かされていたはずが、いつのまにか瓦礫の山がそびえたつ部屋に変わっていたのだ。
……。瓦礫の山?
「やー実を言うと家事とか苦手でさ、気がついたらこんな有様になっちゃってどうしようかと思ってたんだ。キミって侍女さんなんでしょ? ちょうどいいときに来てくれたよ」
山盛りに積まれていたのは、汚れた調理器具だった。それから汚いゴミも。あたりになんともいえない腐臭も漂っている。思わず青くなって口元を押さえた。
「あ、やっぱ止める? 女の人には無理か。でもやってくれないならキミのお願いをかなえるわけにはいかないなぁ」
にやり、というような笑顔が眩しい〝魔法使い〟さまは、それこそ〝邪悪〟という二文字が相応しいような顔でそんなことを言い放った。
「とりあえず今日はもういいから、明日一日でよろしく」
目眩がした。
結論から言うと、意地で終わらせた。
「わーすごーい」
ぱちぱちぱち、と感嘆の息を漏らして拍手をする呑気な魔法使いの姿に、私は大げさに崩れ落ちてやりたかったがなんとかこらえた。ゴミの山に埋もれていて腐森と化していたそこは、今はぴっかぴかの白い壁が眩しい台所に生まれ変わっている。
意地だった。魔法使いに頼んで帽子にマスクに雑巾にエプロンに手袋に……以下完全装備で挑んだ任務は、途中で理性を放棄しなければ達成できないほど困難であった。理由は察して欲しい。
「まさかホントに一日で綺麗にしちゃうなんて。なかなかやるじゃん」
魔法使いは本当に感心しているらしく、しばらく物珍しそうに台所を眺めたあと、私を見てにっこり笑った。その笑顔を睨みつける。さぁ約束を守ってください。
「え、言ったじゃん。条件を〝いくつか〟。まだ終わりじゃないよ?」
魔法使いはきょとんとそんなことを言いやがったあと、指をぱちんと鳴らした。
「次はここよろしく」
くもの巣がこれでもかと巣食う、埃まみれの書斎だった。
私はとりあえず、大げさに崩れ落ちた。
その日から、私と魔法使いの戦いが始まった。
連れて行かれる部屋はどこもかしこも酷いものだった。書斎から始まり水垢で真っ黒な風呂場、ごみだらけの玄関、見るも無残な洗面所。いったいどこで魔法使いは生活してるんだと思うぐらい、どこもかしこも人の住めるような場所ではなかった。一番最初にいた暖炉の部屋は幻だったのではないか、と思うくらいだ(そこは一時的な私室として貸してくれたので、部屋に戻るたびに現実だと確かめていた)(後にそこは私用に新しく魔法で作った部屋だから、汚れる前だったのだと聞いた)。
そのくせ広い屋敷に彼はひとりで住んでいるらしい。私がいる間、ペットはいたが使用人らしき人とは誰も会わなかった。
最終的には意地と矜持、それから闘志でやりきった。早く終わらせれば終わらせるだけエレーヌさまの病気も早く治る。こちらはともかく病気は一刻を争うのだから、じりじりと胸を焼く焦燥感と戦いつつ、重労働をひたすらこなしていった。そのたびに魔法使いは感嘆の息を漏らし、広い屋敷は綺麗になっていった。
同時に、この魔法使いのことを少しずつ知っていった。
不精であり、めんどうくさがりであまり動かないこと。めったに外に出ないこと。家事がとてつもなく下手だということ。身の回りのことは屋敷が汚くなってからはすべて魔法でしているということ(〝コーヒー〟を入れてくれたのも魔法だったらしい)。それから目が悪くて、眼鏡をかけなければすぐ前も見えないらしいということ。
指をぱちんと鳴らすだけで不思議なことができるということ。といっても普段彼が使うのはなにもないところから物を出したり消したりするだけだが、凡人の私にとっては驚きだった。「どこかにあるものをこちらに移動させているだけ、空間転移の応用だよ」と彼は言っていたが、よく分からない。とりあえず魔法の一種なんだろうとは理解できた。
皮肉屋で、笑顔できついことを言ったり毒を吐いたりするのだということ。それから鬼のように容赦がないのだということ。何度殴ってやろうかと思ったか分からない。
それでも情には弱いらしく、屋敷には彼が拾ってきたというペットがたくさんいたこと。子犬とか、猫の親子とか、カルガモの親子とかがそうだった。彼らの部屋も掃除を命じられ、おかげで最初は警戒されていたペットたちとも今ではすっかり仲良しになり、特に子犬は時折私のあとをついてくるようになるほど懐いてくれた。かわいい。
なにより彼はとてもおしゃべりで、暇があるとなにかしらからかってくるのだということ。邪魔をするなら手伝えと何度思ったか(実際怒鳴ったこともあった)。
そうして私は次第にその状況に慣れていき、いつのまにか屋敷に着いて一週間が経っていた。
その日は珍しく気が乗って、せっかく台所が綺麗になったのだからと適当にあった食材で夕飯を作ってみた。いつも夕飯は彼が魔法で出してくれていたのだ。足元の子犬におすそわけをしながら魔法使いを呼んでみれば、食卓を見た彼の顔が珍しく呆気に取られた。
「べつに魔法で出すのに」
わざわざ作ってやったのにその言葉か。私は最初の猫をそろそろ破り捨てていたので、引きつりながらもこう返す。
「なんでもかんでも魔法に頼っちゃいけないでしょう?」
この辺りになると面白いことに、綺麗になるたび他のことにも目がいってしまっていた。洗面所を掃除したときは放置された大量の洗濯物もついでに片付けてしまったし、掃除の要領も分かってきたので他の場所も手を付けているし。そうして早く終われば、彼が私の願いをかなえてくれる日も近くなるだろう。
彼はきょとんとしてこちらを見た。てっきりなにか言い返されるかと思ったから、その反応には拍子抜けした。
「魔法を使うのはいけないことかい?」
嫌味も交えず心底不思議そうに問いかけられ、私もきょとんとしてしまう。それから首を振った。
「そういうわけではないのですが、せっかく両手を持っているんですから」
みんながあなたのようにできるわけじゃない。できない人は自分の両手を使うしかないのだ。暗にそう示すと、魔法使いは自分の両手を見下げた。数秒じっと見つめたあと、ふっと笑みを浮かべる。
いつもの嫌味のような笑みではなく、ニコニコとしたものでもなく、その笑みはどこか自嘲を含んだものだった。
「……そうだね」
始めて見た彼のそういった顔に、私は思わず息を飲んだ。
次の日、彼は皿洗い中の私に話しかけてきた。
「その汚れはどうやって取るの?」
いつもの皮肉ではなく、手元を覗き込んでの質問だった。私はきょとんと振り返る。他愛もない話をして邪魔をしてきても、行動に興味を示すことはなかったからだ。
「卵の殻を入れて振るんですよ。そうすると綺麗になります」
ふぅん、と彼は相槌を打った。そのまま手元をじっと眺めているので、多少居心地悪くなりながらも私は水を流す。そして汚れの取れた食器を見せると、「綺麗になるんだね」と彼は頷いた。
「いつも思うんだ。キミみたいなちっさい人が、どうしてあんなに汚いところを綺麗にできちゃうんだろうって」
心底不思議そうに問いかけられて、私は苦笑した。
「掃除に体の大きい小さいは関係ありません。要領さえ分かれば簡単にできます。この食器洗いも慣れれば手早く綺麗にできますよ」
彼は首を傾げる。子どものように私を見るから、思わずこう言ってしまった。
「よろしければやりかたを教えましょうか?」
彼は私を見たあと、自分の手を見下ろして、それから頷いた。
魔法使いと並んでやった初めての食器洗いは、ぎこちない手つきで皿を一枚割ってしまう結果となった。
「うまくいかないもんだね」
むう、と子どものように拗ねてしまった彼に、私は笑ってこう励ます。
「私は食卓に置いてあったすべてのお皿を粉々に割ってしまったことがありますよ」
「……それはすごいね」
「つまずいてテーブルクロスを引っ張ってしまいました。
なにごとも始めからできるわけじゃありません。失敗を重ねてできるようになっていくんですよ」
彼は少しだけ笑ってくれた。
以来、少しずつ魔法使いは私のことを手伝うようになった。
「不思議だね。今まで魔法でぜんぶしていたから、自分でやることがどれだけ大変だったかを忘れていた」
今までは指でぱちんとするだけですべてのことができていたのだから、それは当然だろう。例えばお茶を入れること、料理を作ること、ペットに餌をやること、掃除をすること。さすがに〝コーヒー〟は入れ方が分からないので、それだけは魔法でやってもらったけれど。
「忘れていたということは、昔はご自分で?」
「最初は。でもボク下手だったし魔法を使うほうが楽だから」
けれどそれも考えものだなぁと彼は笑った。
「魔法で入れた紅茶より、自分で入れた渋いお茶のほうが数倍も美味しいと感じるよ」
こんな当たり前のことを何年も忘れていた。じゃれついてくる足元の子犬をなでながら、彼はそう言った。
「……あの、お聞きしたいのですが」
「なぁに?」
「その子犬、お名前はなんというのですか?」
ずっと気になっていたのだ、おまえとか子犬とかでしか彼は呼ばないから。質問すると魔法使いはきょとんとした。思いつかなかった、という顔だ。
「ないよ」
「え?」
「この子も、猫も、カルガモも名前をつけてない。彼らはこの屋敷にそれだけしかないから、区別をつける必要がないから」
「ダメです!」
思わず私は叫んでいた。魔法使いも、じゃれていた子犬もびくりとして私を見た。私は熱を込めて話す。
「草花も、動物も、そこにあるささいなものにもちゃんと名前があるんです。みな呼ばれるのを待っています。名前とは他と区別をつけるためのものではありません。呼ばれて始めて、子犬はただの〝子犬〟ではなくなります」
私の名前も領主さまに拾われたときに領主さまがつけてくれたものだ。自分の名前すら持っていなかった私が、始めて持つことができたもの。新しく付けられた名前を呼ばれて始めて私は〝私〟になることができた。
「名はそこに存在できるために必要なもの。愛情を持って呼んであげてください。それひとつで魔法が使えるほど大事なものではないのですか」
ゆるり、と魔法使いの瞳が揺らいだ気がした。感情がするりと抜け落ちて、その表情が空虚なものになる。
「……ボクは、」
ぽつりと、彼はそう言葉を紡いだ。
「ボクの名前を呼んでくれる人は、もう誰もいない」
ひどく冷たく突き放した物言いは拒絶を含んでいて、私はそれ以上の言葉を失ってしまった。