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第38話

夕暮れの風が、さそり座風車の外壁をなでていた。


昼の熱を抱えていた大鍛冶場は、今もまだ石と土の奥に、ほのかな温かさを残している。

けれど、火床のまわりで響いていた職人たちの声は、少しずつ片づけの音へ変わっていた。


小鍛冶場の火も落とされている。

始まりの歯車の隣には、繋ぐ歯車が置かれた。

その向こうで、赤い玉が小さく光り、風車の内側に静かな余韻を残していた。


「……ふぅ」


琥珀は、満足そうにしっぽを揺らした。


今日も、いろいろなものを見た。

大きな鍛冶場の中。

火の腹。

風の道。

蒸気の逃げ道。

人が戻るための道。


それから、小鍛冶場で生まれた繋ぐ歯車。


まだ全部が完成したわけではない。

でも、途中だからこそ、次に何をすればいいのかが見える。


そう思うと、胸の奥がぽかぽかした。


「琥珀」


後ろから、マーレの声がした。


「はい?」


琥珀が振り返ると、マーレが腰に手を当てて立っていた。

その目は少し呆れていて、でも口元はやさしく笑っている。


「……本当に、わんぱくだねぇ」


「えっ?」


「興味が湧くことはいいけどね」

「洋服が、まーた土まみれになってるよ」


琥珀は、ぱちぱちと瞬きをした。

それから、自分の袖を見下ろす。


薄い布のあちこちに、乾いた土がついていた。

裾にも、袖口にも、頬にも、細かな煤が少しだけ残っている。

髪の先にも、作りかけの窯の中でついた土が、ほんの少し絡んでいた。


「こ、これは、遊んでたわけじゃなくて……」

「窯の中を見せてもらって、風の道とか、蒸気の逃げ道とかを見てただけで……!」


「はいはい」

「ちゃんと見てきたのは分かってるよ」

「けど、見てきたぶんだけ、しっかり服も土を覚えてるじゃないか」


「服が土を覚えるの!?」


マーレは、くすくすと笑った。


「石と土が火を覚えるなら、服だって土を覚えるかもしれないだろう?」


「ええっ」

「それは、ちょっと違う気がする……!」


琥珀は両手をぱたぱたと振った。

けれど、その手にも土がついていて、振るたびに小さな粉が夕暮れの光の中へ舞った。


マーレは、それを見てさらに笑った。


「ほら」

「手もこの通りだ」


「だから、もう!」

「私、そんなに子どもじゃないよ!」


琥珀は頬をふくらませて、マーレへ訴えた。


けれど、頬にも土がついている。

そのせいで、ふくれた顔は少しだけ泥んこの子どもみたいに見えた。


マーレは笑いながら、ラファのほうを見た。


「ラファ」

「琥珀を、しっかり洗ってあげな」


「はい」

「洗浄対象、琥珀ちゃん」

「付着物は土、煤、作業場の細かな粉塵と推定されます」


「ラファお姉ちゃんまで!」


ラファは、琥珀の袖と頬を静かに見た。

そして、一度だけ言葉を止める。


「……つまり、今日は丁寧に洗ったほうがよさそうです」


「言い直しても、あんまり変わってないよ!」


「いえ」

「少しやわらかくしました」


「そこなの!?」


マーレは、楽しそうに肩を揺らした。


「ほら、銭湯へ行くよ」

「湯船に入る前に、しっかり流してからだね」


「うぅ……」


「今日は、たくさん頑張った証拠でもあります」


琥珀は、少しだけ目を丸くした。


ラファの声は、いつものように落ち着いている。

でも、ただ汚れていると記録するだけではなかった。

注意するだけでもなかった。


頑張った証拠。


そう言われると、袖についた土も、少しだけ違って見える。


「……うん」

「頑張った証拠なら、ちょっとだけ嬉しいかも」


「では、その証拠をきちんと洗い落としましょう」


「落としちゃうの!?」


「はい」

「残したままだと、服にも肌にもよくありません」


「むぅ……」

「ラファお姉ちゃん、そういうところはちゃんとしてる……」


「はい」

「ちゃんとしています」


ラファが少しだけ胸を張る。

その姿を見て、琥珀は思わず笑った。


──────────


街の銭湯には、夕暮れの湯気がやわらかく満ちていた。


石の床は温かく、木の桶が並び、湯船のほうからは、ほっとするような湯の香りが漂ってくる。

外では一日を終えた職人たちの声が遠く聞こえ、時々、笑い声が湯気の向こうで揺れた。


「まずは髪からだね」


「自分で洗えるよ!」


「はいはい」

「じゃあ、自分で洗ってごらん」


琥珀は桶に湯を汲み、自分の髪にそっとかけた。


温かい湯が、髪の間を流れていく。

土と煤が混じったしずくが、ぽたりぽたりと床に落ちた。


「わ……」

「本当に、けっこうついてた……」


「だから言っただろう?」


「でも、窯の中、すごかったんだよ」

「風が通るところがあって、蒸気が逃げるところがあって」

「火を閉じ込めないようにしてるの」

「人が戻る道も、ちゃんとあって……」


琥珀は、髪を洗いながら、今日見たものを思い出した。


まだ火を入れたばかりの大鍛冶場。

弱い火を受けて、ゆっくりと温かくなっていく石と土。

そして、火を覚えるように沈黙していた窯の腹。


「大きな子だった」

「あの鍛冶場も、これから少しずつ火を覚えるんだね」


「そうだねぇ」

「いきなり働かせるんじゃなくて、少しずつ慣らしていく」

「人も、鍛冶場も、そういうところは似てるのかもしれないね」


琥珀は、手を止めた。


「人も?」


「そうさ」

「できなかったことを、急に全部できるようにならなくてもいい」

「少しずつ覚えていけばいいんだよ」


琥珀は、湯気の中で少しだけ黙った。


少しずつ。


その言葉を聞いて、ラファの横顔を見る。


ラファは、琥珀の隣で桶を持っていた。

いつものように静かで、姿勢もきれいで、言葉も落ち着いている。

けれど最近のラファは、少しだけ変わってきた。


ただ記録するだけではなくなった。

硬い言葉を、琥珀にも分かるように言い直してくれるようになった。

時々、ほんの少しだけ笑うようにもなった。


「ラファお姉ちゃん」


「はい」


「今日も、言い直してたね」


「言い直し、ですか」


「うん」

「土とか煤とか、難しい言い方したあとに」

「今日は丁寧に洗ったほうがいいって」


ラファは、少しだけ視線を落とした。


「琥珀ちゃんに伝わりやすい言葉を選ぼうとしました」

「まだ、うまくできているかは不明です」


「できてるよ」

「私、ちゃんと分かったもん」


琥珀が笑うと、ラファはほんの少しだけ目元をやわらげた。


「それなら、よかったです」


湯気が、ふわりと二人の間を通った。


琥珀は、ラファの髪を見る。

湯気の中で、ラファの髪はしっとりとまとまり、背中へ流れていた。

お揃いの髪留めは今は外してある。

けれど、いつもなら後ろで髪を留めるその姿が、琥珀の頭に浮かんだ。


ラファお姉ちゃんは、少しずつ変わっている。

記録だけではない言葉を覚えて、笑い方も少しずつ増えている。


それなら、自分も少しだけ変わってみたい。


そう思った時、琥珀は無意識に自分の髪の先をつまんでいた。


濡れた髪は、指先で小さくまとまる。

まだ、後ろで結ぶには短い。

ラファと同じように髪留めを使うには、少し足りない。


もう少し伸びたら。


琥珀は、声に出さずに思った。


もう少し伸びたら、ラファお姉ちゃんみたいに後ろで留められるのかな。


「琥珀ちゃん?」


「えっ」


ラファに呼ばれて、琥珀はぱっと手を離した。


「髪に、まだ土が残っていますか」


「う、ううん!」

「そうじゃなくて……」


「そうじゃなくて?」


琥珀は、少しだけ頬を赤くした。


言おうか迷った。

けれど、まだ言葉にすると、少し恥ずかしい気がした。


だから、琥珀は首を横に振った。


「なんでもない」


ラファは、琥珀をじっと見た。

記録するように。

でも、問い詰めるようではなく。


「分かりました」

「では、今はなんでもないこととして扱います」


「なにそれ」


「琥珀ちゃんが、まだ言葉にしないことを選んだためです」


琥珀は、きょとんとした。

それから、少しだけ笑った。


「ラファお姉ちゃん」

「そういうのも、分かるようになってきたね」


「……そうでしょうか」


「うん」

「前なら、もっと細かく聞いてたかも」


ラファは、少しだけ考えるように目を伏せた。


「言葉にしないものも、ある」

「最近、そう感じることが増えました」


湯気の向こうで、マーレがやわらかく笑った。


「いいことだよ」

「言わないで置いておきたい気持ちも、人にはあるからね」


琥珀は、自分の髪の先をもう一度だけ見た。

そして、小さくうなずいた。


まだ言わない。

でも、少しだけ決めた。


髪を、もう少し伸ばしてみよう。


ラファお姉ちゃんみたいに、というだけではない。

少しずつ変わっていく自分を、ちゃんと見てみたいから。


「琥珀ちゃん、流します」


「うん」


ラファが、桶の湯をそっと琥珀の髪へかけた。


温かい湯が、髪から土を流していく。

今日の頑張った証拠は、少しずつ落ちていく。

でも、見たものや、感じたことや、胸の奥に生まれた小さな気持ちは、流れていかなかった。


「きれいになったね」


「ほんと?」


「ほんとさ」

「これなら鐘亭へ戻っても、床に土を落とさずにすむね」


「もう、マーレさん!」


琥珀が笑うと、湯気の中でラファも少しだけ笑った。


──────────


銭湯を出る頃には、空はすっかり夜へ傾いていた。


街の灯りがぽつりぽつりとともり、さそり座風車の影が月明かりの下に静かに立っている。

大鍛冶場のほうには、まだ小さな見張りの灯りが残っていた。


琥珀は、湯上がりの髪を指でそっと触った。


まだ短い。

でも、少しずつ伸びていく。


大鍛冶場が火を覚えるように。

ラファが言葉を覚えるように。

自分も、少しずつ変わっていける。


そう思うと、胸が少しだけくすぐったかった。


「戻りましょう、琥珀ちゃん」


「うん」


マーレが先を歩き、ラファが隣に立つ。

琥珀は二人の間で、夜の風を感じながら歩いた。


風月の鐘亭の窓には、温かな灯りがともっている。

その奥では、もう何人かが集まり、紙や木札を広げているようだった。


明日は、風車の中を直すための一日になる。


でも今は、その前の夜だった。

湯気の温かさと、胸の奥に生まれた小さな背伸びを抱えたまま、琥珀は鐘亭の扉へ手を伸ばした。


──────────


風月の鐘亭の扉を開けると、温かな灯りと食事の香りが琥珀たちを迎えた。


外の空気は、もう夜の冷たさを含み始めている。

けれど、鐘亭の中には湯気と人の声があり、木の床には昼間とは違う落ち着いた音が響いていた。


「ただいま」


「はい、おかえり」

「土まみれ娘は、ちゃんと人の子に戻ったかい?」


「もう!」

「戻ったよ!」


琥珀は頬をふくらませた。

けれど、その頬はもうきれいに洗われ、湯上がりの赤みだけがほんのり残っている。


ラファが、琥珀の髪の先を見た。


「髪の土は除去済みです」

「煤の残留も確認できません」


「残留って言わないでよぉ」


「では……」

「きれいに洗えています」


「うん」

「そっちのほうがいい!」


ラファは小さくうなずいた。


そのやり取りを見て、マーレがくすりと笑う。

琥珀は少し照れながら、まだ湿り気の残る髪の先を指でつまんだ。


もう少し伸ばしてみよう。


さっき湯気の中で思ったことは、まだ誰にも言っていない。

けれど、胸の奥には、小さな灯りみたいに残っていた。


そのまま食堂の奥へ目を向けた時、琥珀の耳がぴんと立った。


奥の大きなテーブルに、紙が広げられている。

木札がいくつも並び、小さな金具の見本や、石片、細い釘のようなものも置かれていた。


ベルグ。

ひょろりとしたドワーフ職人。

女性ドワーフ職人。


そしてラファが、琥珀の隣からすっと離れ、テーブルのほうへ向かった。


「戻りました」


「おう、戻ったか」

「琥珀はきれいになったようじゃの」


「ベルグじいまで!」


「いやいや」

「さっきは本当に土を着ておったからのう」


「着てないよ!」

「見てただけだよ!」


ベルグは白いひげを揺らして笑った。


「見て覚えるには、近づく必要がある」

「近づけば、土も煤もつく」

「悪いことではないわい」


琥珀は少しだけ口を閉じた。


悪いことではない。

そう言われると、昼間についた土も、少し誇らしいものだったように思えた。


「……うん」


琥珀が小さくうなずくと、ベルグは紙の上を指で軽く叩いた。


「さて」

「湯上がりで悪いが、今は明日の段取りを詰めとるところじゃ」


「明日の段取り?」


「内部修復に必要な部品の一覧です」


ラファは椅子に座り、紙の端に書かれた文字を琥珀へ見せた。


「床板補強材」

「点検通路用の仮支え」

「昇降経路右側案内金具の仮固定具」

「落下防止用の留め具」

「背面八角歯車付近の確認用支え」

「安全線用の金具」


「た、たくさん……」


「たくさんに見えるじゃろう」

「じゃが、全部を一度に直すわけではない」


ひょろりとしたドワーフ職人が、木札をいくつか並べ替えた。


「最初は、人が安全に立てる場所からです」

「奥へ進む部品より、戻るための部品を先に置きます」


女性ドワーフ職人が腕を組んだまま、うなずく。


「昇降機を動かすのは後だよ」

「まず、そこまで行く床と通路だ」

「足元が鳴る場所へ、荷物も人も乗せられないからね」


「昇降機、まだ動かさないの?」


「動かしたいのは山々じゃ」


ベルグは目を細めた。

その目は、困っているというより、どこか楽しそうだった。


「背面の八角歯車に近い右側の案内が傷んどる」

「外からは長いこと見えておった」

「じゃが、内側から手を入れられるようになったのは、今が初めてじゃ」


「ベルグじい、嬉しそう」


「嬉しいとも」


ベルグは隠さずに笑った。


「外から眺めて、音を聞いて、歯車の動きを読んで」

「それでも分からんかった内側に、ようやく手が届くんじゃ」

「職人が嬉しくならんわけがない」


「じゃあ、すぐ直したい?」


「直したい」


ベルグは即答した。

それから、紙の上の木札を一本、指で押さえる。


「じゃが、すぐ動かすのとは違う」

「嬉しいからこそ、順番を間違えてはならん」


ラファが筆を取り、紙へ書き込む。


「修復優先度」

「第一、作業者が安全に立てる床板と点検通路」

「第二、昇降経路右側案内金具の仮支え」

「第三、背面八角歯車付近の確認」

「第四、昇降機本体の動作確認」


そこまで書いて、ラファは一度だけ筆を止めた。


「……つまり」

「上へ急ぐためではなく、戻れる場所をなくさないための順番です」


琥珀はぱっと顔を上げた。


「戻れる場所……」


夜、鐘亭でマーレが言ってくれた言葉が、胸の奥でそっと揺れた。

戻れる場所があるから、近づける。

火へも。

風車の内側へも。

まだ知らない場所へも。


「そうじゃ」

「風車の中を直す時も同じじゃ」

「先へ進む道より、帰ってこられる道を先に作る」


女性ドワーフ職人が、木札を二つに分けた。


「こっちは明日の朝、小鍛冶場で作る分」

「こっちはまだ形を決めるだけ」

「大鍛冶場は、しばらく様子見だよ」


「火を入れたのに?」


「火を入れたからじゃ」


ベルグは紙の横に置いた小さな石片を手に取った。


「大きな鍛冶場は、まだ火を覚えとる最中じゃ」

「無理に働かせると、腹を壊す」

「明日は小鍛冶場で、細かな支えや留め具から作る」


「大きい子が火を覚えている間に、小さい子が風車の中を直す支度をするんだね」


ラファが、琥珀を見た。


「はい」

「その表現は分かりやすいです」

「記録に補足します」


ラファは紙の端に小さく書き加えた。


――大鍛冶場は火を覚える期間。

――小鍛冶場で内部修復用の小部品を制作。


「ラファお姉ちゃん、それ書くの?」


「はい」

「ベルグさんの言葉と、琥珀ちゃんの言葉は、役割が異なります」

「両方残すと、あとで見返した時に分かりやすいです」


琥珀は少し照れた。


「私の言葉も?」


「はい」

「大きい子、小さい子、という分類は正式名称ではありませんが」

「……大鍛冶場と小鍛冶場の状態を伝える言葉として有効です」


「ふふ」

「ラファお姉ちゃん、また言い直した」


「はい」

「練習中です」


その言葉に、マーレが湯呑みを運びながら微笑んだ。


「ずいぶん賑やかな予定表だねぇ」


「賑やかじゃが、これでも絞っとる」

「本気で全部書けば、紙が足りんわい」


「なら、紙が足りるくらいにしておくれ」

「明日の朝ごはんを食べる場所まで、木札で埋められちゃ困るからね」


「それは困ります」


「ラファお姉ちゃん、そこは真面目に返すんだ」


ラファは、ほんの少しだけ首を傾げた。


その小さなやり取りに、テーブルの空気が少しやわらかくなる。


琥珀は、そこでふと気づいた。


紙を広げるベルグ。

木札を並べるひょろりとしたドワーフ職人。

腕を組む女性ドワーフ職人。

記録をするラファ。

湯呑みを運ぶマーレ。


けれど、いつもなら大きな声で笑っていそうなロクスの姿がない。

それから、金属片を大事そうに分けていた若いドワーフ職人の姿も。


「あれ?」

「ロクスと、若い職人さんは?」


ベルグが紙から顔を上げた。


「大鍛冶場の見張りじゃ」


「見張り?」


「昼に火を入れたじゃろう」

「あれは消えたように見えても、石と土の腹には熱が残っとる」

「火を使うからには、そばに人がおらんと危険だからな」


琥珀の耳が、少しだけぴんと立った。


「……そっか」

「火を覚えてる途中でも、ひとりにしちゃいけないんだね」


「そうじゃ」

「夜中には、ほかの者と交代する」

「ロクスと若いのは、今その番をしとるだけじゃ」


琥珀は、窓の外を見た。


夜の向こう、さそり座風車のほうに、小さな灯りが見える。

大鍛冶場の近くに残された見張りの明かりだろう。


昼間の熱は、もう炎としては見えない。

でも、石と土の奥では、まだ火の記憶が続いている。


「みんな、ちゃんと続けてるんだね」


「作るというのは、火をつけて終わりではないからの」

「火を入れたなら、火が落ち着くまで見届ける」

「そこまで含めて、仕事じゃ」


琥珀は、きゅっと手を握った。


何かしたい。

そう思った。


見張りに行くこと。

荷物を持つこと。

中へ入って確かめること。


いろいろな言葉が、胸の中に浮かびかける。


その時、湯気の中で見たラファの横顔を思い出した。

自分の髪を指で触って、少しだけ大人っぽくなりたいと思ったことも。


前に出るだけが、手伝いではない。


琥珀は、ぱっと顔を上げた。


「行くのは、いか……」


ベルグが、先に釘を刺そうと口を開く。


けれど、その言葉を消すように、琥珀が明るく言った。


「じゃあ、帰ってきた時に温かいスープを飲めるように作る!」


そう言って、琥珀はにこっと笑った。


湯上がりの赤みが残る顔。

少し背伸びをしているのに、笑みはいつもの琥珀のままだった。


ベルグは、途中で止めた口の形のまま、目を丸くした。

ラファの筆先が、紙の上で止まる。

ひょろりとしたドワーフ職人も、木札を持った手を止めた。

女性ドワーフ職人は、腕を組んだまま、少しだけ眉を上げた。


そして、食堂の空気が、ふっとやわらかくなった。


「……ほう」


ベルグが、嬉しそうに目を細める。


「そりゃあ、ええ手伝いじゃ」


「見張りって、寒いし、疲れるでしょ?」

「ロクスも若い職人さんも、帰ってきたらお腹すくと思うんだ」

「だから、私、スープ作る」


マーレは一瞬だけ目を丸くした。

それから、胸元のブローチにそっと指を添え、やさしく笑った。


「……そうかい」

「なら、台所を少し貸してあげようかね」


「うん!」


「ただし、ひとりで全部やろうとしないこと」

「温める火も、包丁も使うからね」


「分かってるよ」

「ラファお姉ちゃんにも見てもらう!」


「はい」

「調理補助、引き受けます」


ラファは、そこで少しだけ言葉を止めた。


「……帰ってくる人を、温かく迎える準備を手伝います」


琥珀は嬉しそうに笑った。


「うん」

「私も、そういうのやってみたい」


女性ドワーフ職人が、ふっと息を抜くように笑った。


「いいじゃないか」

「見張り帰りに温かいものがあるのは、ありがたいよ」


ひょろりとしたドワーフ職人も、木札を置きながらうなずく。


「明日の作業予定にも、追加しておきましょうか」

「夜間見張り帰還者用、温かいスープ」


「それ、予定表に入れるの!?」


「大事な作業です」


ラファが真面目に言う。

琥珀は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「じゃあ、ちゃんと作らなきゃ」


「まずは手を洗うところからだね」


「お風呂入ったばっかりだよ!?」


「台所に入るなら、もう一回だよ」


「はーい……」


琥珀は少しだけ頬をふくらませた。

けれど、その足取りは軽かった。


マーレに案内され、ラファと一緒に台所へ向かう。

背中では、ベルグたちが再び紙と木札へ向き直っていた。


「では、明日の朝一番はこの三つじゃな」

「床板の仮支え」

「安全線の金具」

「右側案内の仮固定具」


「小鍛冶場で作る順番を分けます」

「最初の一つは合わせ確認。形が決まれば、同型を続けて作れます」


「無理に数を急がないよ」

「でも、形を掴めばこっちのもんだ」


その声を聞きながら、琥珀は台所の入口で振り返った。


テーブルの上には、風車の中へ入れる小さな支えたちの予定が並んでいる。

台所には、帰ってくる人を迎えるための鍋がある。


どちらも、明日へ続く準備だった。


「ラファお姉ちゃん」

「スープ、温かくできるかな」


「できます」

「マーレさんの指示と、琥珀ちゃんの気持ちがあれば」


「気持ちも材料?」


「はい」

「少なくとも、今回のスープには必要です」


琥珀は、ぱっと笑った。


「じゃあ、いっぱい入れる!」


「入れすぎて味が濃くならないようにね」


「気持ちって、味が濃くなるの!?」


マーレの笑い声が、台所にやわらかく響いた。


その夜、鐘亭の奥では、風車の内側を直すための予定表が作られていった。

そして台所では、見張りから帰ってくる人のためのスープが、ことことと温められていった。


──────────


翌朝。


琥珀は、ベッドの中でぱちりと目を開けた。


窓の外は、もう明るい。

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、床の上に細く伸びている。


「……あれ?」


琥珀は、ぼんやりと天井を見上げた。


昨夜、鐘亭の台所でスープを作った。

マーレに教えてもらいながら、ラファに見てもらいながら、鍋をかき混ぜた。

見張りから帰ってくるロクスと若い職人のために、温かいまま出せるようにと、何度も火の加減を見た。


そこまでは覚えている。


けれど、そのあとが少し曖昧だった。


湯気。

鍋。

マーレの声。

ラファの手。

それから、眠くて眠くて、目をこすったこと。


「……あれ?」

「朝!?」


琥珀は、がばっと体を起こした。


「ロクスは!?」

「若い職人さんは!?」


すぐそばで支度をしていたラファが、静かに振り返った。


「おはようございます、琥珀ちゃん」


「おはよう!」

「じゃなくて!」

「ロクスは!?」

「若い職人さんは帰ってきた!?」


「はい」

「琥珀ちゃんが寝てから、しばらくして帰ってきましたよ」


「えっ」

「帰ってきたの!?」


「はい」

「大鍛冶場の見張りは、夜中に交代しました」

「ロクスさんと若い職人さんは、戻ってきたあと、食堂で休憩を取りました」


琥珀は、布団をぎゅっと握った。


「……作ったスープ」

「飲んでくれたかな?」


ラファは、少しだけ目元をやわらげた。


「それは、下へ行けば分かります」


「今すぐ行く!」


琥珀は布団を跳ねのけようとした。


けれど、ラファがすっと前に立つ。


「その前に、着替えです」


「えぇっ」

「ちょっとだけ!」


「駄目です」

「寝間着のまま食堂へ降りるのは推奨できません」


「推奨……」


ラファは少しだけ考えた。


「……ちゃんと着替えてから行きましょう」


琥珀は、ぱちぱちと瞬きをした。

それから、少しだけ笑った。


「うん」

「そっちのほうが分かりやすい」


「練習中です」


ラファがそう言うと、琥珀は急いでベッドから降りた。


服を手に取り、頭からかぶろうとして、少しだけ引っかかる。


「んむっ」


「琥珀ちゃん、袖が反対です」


「分かってる!」

「今、分かった!」


「それは、分かっていなかった状態から、今分かった状態へ移行したということですね」


「朝から難しいよ!」


そう言いながらも、琥珀は笑っていた。


服を直し、髪を整える。

ラファが櫛を通してくれる間、琥珀は鏡の中の自分を見た。


昨日、湯気の中で思ったことが、少しだけよみがえる。


髪を、もう少し伸ばしてみよう。


まだ誰にも言っていない。

でも、今朝の髪先を見ると、少しだけくすぐったい気持ちになった。


「琥珀ちゃん?」


「なんでもない」


「分かりました」

「今は、なんでもないこととして扱います」


「うん」

「それでお願い」


ラファは、琥珀の髪をやさしく整えた。


「できました」


「ありがとう!」


琥珀はぱっと振り返り、そのまま扉へ向かう。


「走らないでください」


「走ってないよ」

「急いで歩いてるだけ!」


「速度は走行に近いです」


「歩いてるもん!」


そんなやり取りをしながら、二人は階段へ向かった。


──────────


食堂へ降りると、朝の香りがふわりと広がっていた。


焼きたてのパン。

温め直されたスープの湯気。

朝から働く職人たちの声。

木の器が置かれる音。


鐘亭の朝は、すでに動き出していた。


「あら、おはよう」

「よく眠れたかい?」


マーレが、器を運びながら笑った。


「おはよう、マーレさん!」

「ロクスは!?」


「まず挨拶ができたのは偉いね」

「その次に聞くのがロクスかい」


「だって、スープ……!」


「分かってるよ」


マーレは、くすりと笑って食堂の奥を指さした。


その先で、ロクスが椅子に座ってパンをかじっていた。

少し眠そうではある。

けれど、琥珀に気づくと、ぱっと明るい顔になった。


「琥珀、おはよう!」


「お、おはよう……」


琥珀は、少しだけ足を止めた。


聞きたい。

でも、聞くのが少し怖い。


スープ。

飲んでくれたかな。

ちゃんと温かかったかな。

味、変じゃなかったかな。


琥珀が迷っていると、ロクスのほうから立ち上がった。


「昨日のスープ、ありがとな」


琥珀の耳が、ぴんと立った。


「飲んでくれたの?」


「飲んだ飲んだ」

「あったかくて、うまかったぜ」


ロクスは明るく笑って、琥珀の頭をぽんぽんと撫でた。


「見張りで冷えた腹に、ちょうどよかった」

「若いのも、うまいうまいって飲んでたぞ」


「ほ、本当?」


「本当だって」

「おかわりしようとして、マーレに明日の分も考えなって止められてたくらいだ」


「えっ」

「そんなに!?」


「そんなにだ」


ロクスは、もう一度ぽんと琥珀の頭を撫でた。


「お前さん、いい迎え方を覚えたな」


琥珀は、一瞬だけ固まった。


いい迎え方。


その言葉が、胸の奥にぽとんと落ちる。


見張りに行ったわけではない。

重い荷物を持ったわけでもない。

風車の中を直したわけでもない。


でも、帰ってきた人のために温かいものを用意した。

それが、ちゃんと届いていた。


琥珀の耳が、じわじわと熱くなる。

頬も、首も、耳の先まで一気に赤くなった。


「そ、そんなに褒めなくてもいいよ……!」


しっぽが、落ち着きなく左右に揺れる。


ロクスは、それを見て、さらに楽しそうに笑った。


「褒めるだろ」

「うまかったんだからな」


「うぅ……」


「琥珀ちゃん」

「照れていますね」


「言わないで!」


「耳の先まで赤くなっています」


「だから言わないで!」


マーレが、湯気の立つ器を置きながら笑った。


「いいじゃないか」

「褒められるのも、作った人の仕事だよ」


「褒められるのも仕事なの!?」


「そうさ」

「受け取るまでが、ちゃんとしたやり取りだからね」


琥珀は、まだ赤い顔のまま、小さくうなずいた。


「……じゃあ」

「えっと……」

「飲んでくれて、ありがとう」


ロクスは、目を丸くした。

それから、いつもより少しやさしく笑った。


「こっちこそ」

「作ってくれて、ありがとな」


その言葉に、琥珀のしっぽが小さく揺れた。


昨日の夜、少しだけ背伸びをして作ったスープ。

その温かさは、ちゃんと誰かの朝へ届いていた。


──────────


朝食の席につくと、琥珀は食堂を見回した。


マーレ。

ロクス。

ラファ。

何人かの職人たち。


けれど、そこにベルグの姿はなかった。


「あれ?」

「ベルグじいは?」


「ああ、じいさんなら、もう小鍛冶場だぜ」


「えっ、もう!?」


ロクスは、パンをちぎりながらうなずいた。


「夜明け前から、昨日の紙と木札を持って出ていった」

「ひょろりの兄さんと、女性の職人さんも一緒だ」


「そんなに早く?」


「そりゃそうさ」

「あのベルグが、ようやく風車の内側に自分の手を入れられるんだよ」

「朝まで待てただけ、えらいくらいだね」


琥珀は、昨日の夜のベルグの顔を思い出した。


内部の傷み。

右側の案内金具。

背面の八角歯車。

点検通路。

床板。

安全線。


それを話している時のベルグは、確かに目をきらきらさせていた。


「ベルグじい、楽しそうだったもんね」


「楽しいんだろうな」

「外から眺めて、音を聞いて、ずっと読んできた場所だ」

「今度は中から直せるんだからな」


ラファは、朝食の横に置いた小さな紙を確認した。


「小鍛冶場では、内部修復用の初期部品制作が始まっています」

「予定では、床板の仮支え、安全線用金具、右側案内金具の仮固定具の順です」


「もう作ってるの?」


「はい」

「ただし、最初の一つは確認用です」

「寸法、当たり、風の通り、熱の影響を見ます」

「その後、形が決まれば、同型部品の制作速度は上がると予想されます」


「ドワーフは、形を掴めば早いからな」

「適当に急ぐんじゃねぇ」

「最初に何度も合わせて、削って、確かめる」

「でも、これだって分かったら、そこからは正確で早い」


マーレもうなずいた。


「職人の手は、覚えた形を忘れにくいんだよ」

「特にあの人たちは、金属や石の言うことを聞くのが上手いからね」


琥珀は、パンを手にしたまま、少しだけ目を輝かせた。


「じゃあ、最初の一個が大事なんだね」


「はい」

「最初の一個は、次を作るための基準になります」

「始まりの歯車と同じです」


琥珀は、はっとした。


始まりの歯車。

繋ぐ歯車。

そして、今日作る最初の補修部品。


どれも、最初から完全ではない。

でも、次に進むための基準になる。


「……そっか」

「今日も、始まりを作ってるんだ」


ラファは静かにうなずいた。


「はい」

「風車の内側を直すための、最初の部品です」

「……息ができるように支える、小さな部品になる予定です」


「息ができるように?」


「はい」

「床を強くするだけでは、風の通りを塞ぐ可能性があります」

「そのため、支えることと、通すことを両立する必要があります」


琥珀は、少しだけ首を傾げた。


「支えるけど、塞がない……」


「昨日、火や風の道を見たでしょう」

「風車の内側も同じです」

「強くするために全部を覆うのではなく、必要な場所だけを支えます」


琥珀は、パンを持ったまま首を傾げた。


「全部を覆わない……」

「でも、支える……」

「動きを邪魔しない……」

「風車スーツ……」


ラファは、少しだけ瞬きをした。


「風車スーツ、ですか」


「うん」

「前に、ベルグじいが言ってたやつ」

「さそり座風車さんに、いつか着せるって」


「はい」

「補修案の一つとして、その表現はありました」

「ただし、厚く覆うものではなく――」


「スーツ……」

「ロクスが着てた、馬力車のスーツみたいな……」


琥珀の耳が、ぴくっと動いた。


外側から、がしっと守るもの。

動きを助けるもの。

かっこよくて、ちょっと強そうなもの。


それを、風車さんが着る。


琥珀の頭の中で、何かが少しずつ形を作り始めた。


ラファはその様子に気づき、筆を止める。


「琥珀ちゃん」

「今、何か別の映像を想像していますか」


「うん」

「ちょっと、すごいの想像してる」


ロクスが、にやりと笑った。


「お、なんだなんだ」

「面白そうな顔してるな」


「まだ内緒!」


琥珀は、両手で口元を押さえた。

けれど、しっぽはすでに楽しそうに揺れている。


朝食が終われば、小鍛冶場へ向かう。

ベルグはきっと、もう最初の支え金具を火の前で見ている。


風車の中を直すための一日が、始まっていた。


そして琥珀の頭の中では、なぜか少しだけかっこいい風車スーツが、ゆっくりと組み上がり始めていた。


──────────


朝食を終えると、琥珀たちは小鍛冶場へ向かった。


風月の鐘亭を出ると、朝の風が頬をなでる。

まだ早い時間なのに、さそり座風車のまわりはもう動き始めていた。


石材を運ぶ音。

木材を並べる音。

職人たちの声。

馬族の若者たちが荷を引き、ドワーフ職人たちがそれを受け取って、決められた場所へ分けていく。


大鍛冶場のほうからは、まだ本格的な火の音はしない。

石と土が、昨日の火を抱いたまま静かに落ち着いている。


その代わり、小鍛冶場のほうでは、軽い金属音が朝の空気に響いていた。


かん、かん。

きん、と高く。

ころり、と小さな部品が石の台の上に置かれる。


「もう始まってる……!」


琥珀の耳がぴんと立つ。


小鍛冶場の前では、ベルグが腕まくりをしていた。

白いひげの先を少し揺らしながら、赤く熱した細い金具を、慎重に形へ近づけている。


隣には、ひょろりとしたドワーフ職人。

その手元には、昨夜の木札と紙がある。


女性ドワーフ職人は、作業台の横で完成した試し部品を並べ、ひとつずつ形を確認していた。


「おお、来たか」


ベルグは顔を上げた。

目の奥は、朝からすでにきらきらしている。


「ベルグじい、本当に早いね!」


「寝ておれるか」

「ようやく風車の内側へ手を入れられるんじゃぞ」


ベルグは、金具を水に入れた。

じゅ、と小さな音がして、白い湯気が上がる。


「外から眺めて、音を聞いて、歯車の動きを読んで」

「それでも分からんかった場所じゃ」

「今度は、わしらの手で直せる」

「そりゃあ、朝も早うなるわい」


「楽しそう」


「楽しいとも」

「じゃが、楽しいからこそ急がん」

「最初の一つを間違えれば、後が全部ずれるからの」


ひょろりとしたドワーフ職人が、紙の上へ小さな印をつけた。


「確認用の仮支え、三つ目まで形を見ました」

「一つ目は厚みがありすぎて、風の抜けが悪い」

「二つ目は軽いですが、床板を受ける面が足りません」

「今の三つ目が、いちばん近いです」


「一発では決まらないんだね」


「決まらんよ」


ベルグは笑った。


「風車の中は、ただ真っ直ぐな場所ではない」

「古い板、歪んだ金具、熱で変わった石」

「そこへ合わせる部品じゃ」

「紙の上だけで決まるなら、職人はいらん」


女性ドワーフ職人が、三つ目の試し金具を持ち上げた。


「でも、形が見えれば早いよ」

「この曲がり、この厚み、この逃げ」

「ここまで掴めば、同じ働きをするものを作るのは速い」


「逃げ?」


「風の逃げだよ」

「支える場所は支える」

「でも、風が抜ける隙間は残す」

「全部ふさいだら、風車が息苦しいだろう?」


「息苦しい……」


琥珀は、小さな金具をじっと見た。


ただの金具に見える。

けれど、その形には、隙間があった。

床板を受けるところ。

横へ力を逃がすところ。

風が通るところ。


「これが、息ができるように支える部品なんだ」


「そうじゃ」

「強くすればよい、厚くすればよい、というものではない」

「風車の動きを邪魔せんように支える」

「それが今日の仕事じゃ」


ラファは、紙へ書き込んだ。


「確認用仮支え、三型」

「一型、風抜け不足」

「二型、受け面不足」

「三型、候補」

「評価項目、支え、逃げ、熱変化、取り付け位置」


そこまで記録して、ラファは少しだけ言葉を止めた。


「……支えることと、息を邪魔しないことの両方を満たす形です」


「うん」

「それ、分かりやすい」


琥珀はうなずいた。


けれど、頭の中の別のところでは、朝食の時に浮かんだ言葉がまだ転がっている。


風車スーツ。


前にベルグが言っていた言葉。

さそり座風車さんに、いつか着せると言っていたもの。


ロクスが着ていた馬力車のスーツ。

外側から、がしっと守るもの。

動きを助けるもの。

かっこよくて、強そうなもの。


それを、風車さんが着る。


琥珀は、少しだけ口元を押さえた。


「琥珀ちゃん」


「はいっ」


「先ほどから、しっぽの動きが活発です」

「風車スーツについて、まだ何か想像していますか」


ロクスが隣でにやっと笑った。


「そういや朝から、すごいの想像してるって言ってたな」

「なんだよ、そろそろ教えてくれよ」


「えっとね……」


琥珀は、少し迷った。

でも、みんなが見ている。

ラファも、ベルグも、ロクスも、職人たちも。


琥珀は両手を広げた。


「風車スーツって聞いた時ね」

「私、ロクスが着てた馬力車のスーツみたいなのを想像したの」


「俺っちの?」


「うん!」

「風車さんの外側に、こう、八角の大きな肩がついて」

「胸当てみたいなのが、がしっと閉じて」

「羽根の横から、強そうな腕みたいなのが出て」

「それで……」


琥珀は、目をきらきらさせながら、両手を大きく動かした。


「ガッシーン!」

「風車の外側に、かっこいいスーツが合体〜!」


しん、と一瞬だけ小鍛冶場が静かになった。


火の音だけが、ぱち、と鳴る。


ロクスが、最初に吹き出した。


「ぶっ」

「風車に腕!?」


女性ドワーフ職人が、口元を手で押さえる。


「八角の肩……」

「胸当て……」


ひょろりとしたドワーフ職人は、木札を持ったまま固まっていた。


「外装合体式……」

「いや、いやいや……」


ベルグは、白いひげを震わせていた。


「ふ、ふむ」

「ずいぶん勇ましい風車になりそうじゃの」


「でしょ!?」

「強そうでしょ!?」


「強そうではある」

「ただ、街の上で腕を振り回されたら困るな」


「振り回さないよ!」

「たぶん!」


「たぶんなのですね」


ラファが、ぽつりと言った。


その声が、少しだけ震えていた。


琥珀はラファのほうを見た。


「ラファお姉ちゃん?」


ラファは、口元に手を当てていた。


「風車に、八角の肩」

「胸当て」

「強そうな腕」

「合体」

「ガッシーン」


ひとつずつ、確認するように繰り返す。

けれど、その最後の「ガッシーン」が、少しだけ震えた。


「ラファお姉ちゃん……?」


「いえ」

「記録としては、かなり想定外の風車スーツ解釈です」

「ですが……」


ラファの肩が、小さく揺れた。


「……ふふ」


「えっ」


「すみません、琥珀ちゃん」

「その風車さんは、少し……」

「とても……」


ラファはそこで、とうとうこらえきれなくなった。


「ふふっ」

「ガッシーンと……」

「八角の肩が……」


ラファは目元に小さな涙を浮かべながら笑った。


琥珀は、ぱちぱちと瞬きをした。


「ラファお姉ちゃんが笑った!」

「しかも、笑い泣きしてる!」


「申し訳ありません」

「ですが、頭の中で、肩のある風車さんが……」

「ガッシーンと……」


「もう!」

「そんなに笑わなくてもいいでしょ!」


琥珀は耳の先まで赤くなり、両手で頬を押さえた。

しっぽが、恥ずかしそうに左右へ揺れる。


ロクスは腹を抱えて笑っている。

女性ドワーフ職人も、とうとう口元を隠したまま肩を震わせた。

ひょろりとしたドワーフ職人は、木札の端に何かを書きかけて、慌てて消している。


「今、何か書こうとしたよね!?」


「いえ」

「八角肩案、と書こうとしただけです」


「書かないで!」


小鍛冶場に、明るい笑い声が広がった。


火の音も、金属の音も、その笑いの中で少しだけやわらかく聞こえた。


ベルグは、白いひげを揺らしながら、くつくつと笑った。


「いやいや、ええぞ琥珀」

「そういう勘違いは、嫌いじゃない」


「勘違いなの!?」


「勘違いじゃ」


「はっきり言った!」


「じゃが、発想は悪くない」


ベルグは、作業台に置いた三つ目の仮支え金具を指で軽く叩いた。


「確かに、着せると言ったからのう」

「琥珀がそう思ったのも、無理はないかもしれん」


琥珀は、少しだけ頬を赤くしたまま、耳をぴくりと動かした。


「じゃがな」

「中の修復も、服を着せるのと同じじゃ」


「中も?」


「そうじゃ」

「破れたところを塞ぐだけなら、ただの当て布じゃ」

「けれど、動きに合わせて縫わんと、服は体を邪魔する」


ベルグは、古い床板の見本と、新しく作った仮支え金具を並べた。


「風車も同じじゃ」

「熱の通り道」

「風の通り道」

「人が戻る道」

「そこを邪魔せず、傷んだ場所を支える」

「それが、風車に服を着せるということじゃ」


琥珀は、作業台の上をじっと見た。


古い板。

新しい金具。

風が通るための隙間。

支えるための厚み。


「じゃあ……」

「風車さんの服って、息ができる服なんだ」


ベルグは満足そうにうなずいた。


「そうじゃ」

「息ができて、熱を逃がせて、動きを止めん服じゃ」


ラファは、目元に残った笑い涙を指でそっと拭った。

それから、紙へ新しく書き加える。


「風車スーツ」

「外側を覆う鎧ではなく、内外の修復と補助を含む、通り道を守る構造」

「……息ができる服」


「最後の言い方、好き!」


「私も、分かりやすいと判断します」


ラファはまだ少しだけ目元をやわらげていた。

さっきまで笑い泣きしていた名残が、声にほんの少し残っている。


琥珀は、それを見て、胸の奥がふわりと温かくなった。


ラファお姉ちゃんが、笑った。

記録じゃなくて、訂正でもなくて。

おかしくて、楽しくて、笑っていた。


自分の勘違いは少し恥ずかしかった。

でも、その笑いが嫌ではなかった。


「ラファお姉ちゃん」


「はい」


「その風車さん、そんなに面白かった?」


ラファは、少しだけ考えた。

そして、ふっと目元をやわらげる。


「はい」

「とても」


「むぅ……」


琥珀は頬をふくらませた。

けれど、すぐに笑ってしまった。


ロクスが、まだ笑いの残る声で言う。


「でもよ、俺っちのスーツを思い出してくれたのは、ちょっと嬉しいぜ」


「だって、かっこよかったもん」


「だろ?」


「ただし、風車さんに腕は不要です」


「まだ言うの!?」


また小さな笑いが起こった。


ベルグは、笑いが落ち着くのを待ってから、三つ目の仮支え金具を手に取った。


「さて」

「笑ったところで、こやつを中へ持っていくぞ」


琥珀の耳が、ぴんと立つ。


「中へ?」


「確認用じゃ」

「実際に点検通路の床板へ当ててみんことには、良い形かどうか分からん」


ひょろりとしたドワーフ職人が、紙と木札をまとめる。


「取り付けは仮です」

「当たりを見るだけなら、今の人数で足ります」

「ただし、奥へは進みすぎません」


女性ドワーフ職人が、道具を布に包んだ。


「琥珀は、見る場所を守ること」

「指示より前に足を出さない」

「床が鳴ったら止まる」

「ロクスの後ろから出ない」


「はい!」


琥珀は元気よく返事をした。


「返事はいいね」

「その返事の半分くらい、足にも言い聞かせておきな」


「足にも!?」


ロクスが、ぽんと自分の胸を叩く。


「安心しろ」

「俺っちが先に見る」

「危なそうなところは、俺っちが止めるからな」


「うん」

「お願い、ロクス」


ラファは、記録用の紙をまとめながら言った。


「作業目的」

「点検通路床板への確認用仮支えの当て合わせ」

「安全線用金具の位置確認」

「昇降経路右側案内金具は目視のみ」

「……今日は、風車さんの服の一針目を入れる場所を見に行きます」


琥珀はぱっと笑った。


「うん!」

「一針目、見に行こう!」


ベルグは、仮支え金具を布に包み、ゆっくりとうなずいた。


「まだ縫い始めじゃ」

「大きな服は、一針目を急がん」

「さあ、行くぞ」


小鍛冶場の火が、ぱちりと小さく鳴った。


朝の光の中、琥珀たちは風車の内側へ向かう準備を整えた。

笑いの余韻と、金属の温かさと、息ができる服という言葉を抱えながら。


──────────


さそり座風車の入口は、朝の光を受けて静かに立っていた。


昨日までより、少しだけ近く感じる。

それは、風車が小さくなったからではない。

始まりの歯車と繋ぐ歯車が置かれ、そこから内側へ手を入れる準備ができたからだ。


琥珀は、風車の壁を見上げた。


外側には、まだ焦げた跡が残っている。

熱に焼かれた石。

歪んだ金具。

欠けた縁。


けれど、赤い玉のある場所からは、かすかに温かい光がにじんでいた。


「……おはよう」


琥珀は、小さく声をかけた。


風車が答えたわけではない。

でも、羽根の影の奥で、月光粒子がひとつだけふわりと揺れた気がした。


「琥珀ちゃん」

「入口付近は安全確認済みですが、奥はまだ不安定です」


「うん」

「勝手に走らない」


「はい」

「その認識を維持してください」


「認識を維持……」

「えっと、ちゃんと守る!」


「はい」

「その言い方が適切です」


ロクスが、琥珀の前に立った。


「俺っちが先だ」

「床が鳴ったら止まる。ベルグじいが言った場所しか踏まない」

「いいな?」


「うん!」


女性ドワーフ職人が、道具の入った布包みを肩にかけた。


「返事はいい」

「あとは足だよ」


「足にも言い聞かせてある!」


「ならよし」


ベルグは、確認用の仮支え金具を抱え、入口の石段に足をかけた。


その顔は、嬉しそうだった。

けれど、笑っているだけではない。


長い間、外から見てきた場所。

音を聞き、動きを読み、それでも手が届かなかった場所。

そこへ、今度は壊すためではなく、直すために入る。


ベルグは一度だけ、風車の内側へ目を向けた。


「行くぞ」

「今日は、一針目じゃ」


風車の中へ入ると、空気が少し変わった。


外よりも温かい。

けれど、以前のように息が詰まる熱ではない。

上のほうから、かすかな風が降りている。

壁の傷や焦げ跡の間を、細い光がなぞっていた。


琥珀は、思わず足を止めた。


「……前より、息しやすい」


「排熱口が開いたからの」

「じゃが、直ったわけではない」

「息がしやすくなったからこそ、今のうちに手を入れる」


ラファは紙を取り出した。


「内部温度、歩行可能」

「風の流れ、上部排熱方向へ微弱」

「床板損傷、入口から点検通路にかけて複数」

「……風車さんは、まだ休みながら息をしています」


琥珀は、ラファを見た。


「その言い方、好き」


「記録表現としては不正確ですが」

「現在の状態を伝える補助として、有効と判断します」


「うん」

「風車さん、休みながら息してる」


ベルグは、足元の床板を杖で軽く叩いた。


こん、と乾いた音がした。

次に、少し離れた板を叩く。


ぎし、と低い音が返った。


「ここじゃ」


ロクスが琥珀の前へ片腕を出した。


「止まれ」


琥珀は、ぴたっと止まった。


「止まった!」


「えらい」


「褒めるところなの!?」


「今は褒めるところだ」

「危ない場所で止まれるのは、大事だからな」


琥珀は少しだけ照れた。


女性ドワーフ職人が膝をつき、床板の隙間をのぞき込む。


「昨日見た通りだね」

「板そのものが全部駄目なんじゃない」

「下の受けが歪んでる」


ひょろりとしたドワーフ職人が、木札を取り出して印をつけた。


「床板は再使用可能」

「下受け、部分補修」

「仮支えを入れて、鳴りを確認」


「外すぞ」


ベルグと女性ドワーフ職人が、古い床板の端に手をかけた。

無理に引き剥がすのではなく、石と木の隙間を見ながら、少しずつ浮かせていく。


ぎ、と小さく鳴る。


琥珀の耳がぴくりと動いた。


「痛そうな音……」


「無理に引けば、もっと痛がる音になる」

「だから、ゆっくりじゃ」


「風車さんも、服を脱ぐ時に引っかかると痛いのかな」


ベルグは、床板から目を離さないまま笑った。


「そうかもしれんな」

「古い服を直す時も、力任せにほどけば布を傷める」

「風車も同じじゃ」


床板が、ゆっくりと持ち上がった。


下には、黒く焦げた跡と、少し曲がった古い受け金具が見えた。

風の通り道らしい細い空間もある。

そこを塞がないように、古い構造はぎりぎりの形で残っていた。


ラファが膝をつき、記録する。


「床下空間、風の通り道あり」

「古い受け金具、右側へ変形」

「焦げ、部分的」

「交換ではなく、仮支え追加が適切」


そこまで言って、ラファは少しだけ考えた。


「……全部を取り替えるのではなく、残せる場所は残します」


「うん」

「全部変えちゃうんじゃないんだね」


「そうじゃ」

「古いものにも、まだ働ける場所がある」

「壊れたところだけ見て、全部駄目と決めつけてはならん」


ベルグは、布から確認用の仮支え金具を取り出した。


小さな金具だった。

でも、その形には、朝見た時と同じように隙間がある。

支えるところ。

逃がすところ。

風を通すところ。


ベルグは、それを床板の下へゆっくり当てた。


「……少し厚いな」


女性ドワーフ職人が横からのぞく。


「風の抜けが狭いね」

「ここを削れば入るけど、支えが弱くなる」


ひょろりとしたドワーフ職人が木札に印をつけた。


「現場合わせ、必要」

「候補三型、風抜け側を少し広げる」

「受け面は維持」


「戻って削る?」


「いや」

「試しに少しだけ当てる」

「今日の目的は、これで完成させることではない」

「どこを直せばよいか、風車に聞くことじゃ」


「風車に聞く……」


ベルグは、金具を少し角度を変えて当てた。


今度は、古い受け金具の下へ静かに入った。

けれど、ぴたりとは収まらない。

少しだけ浮いている。


「ここじゃな」


ベルグは指で浮いた場所を示した。


「ここの歪みが、思ったより大きい」

「このまま押し込めば、板は支えられる」

「じゃが、風の道を狭める」


「じゃあ、押し込まない?」


「押し込まん」


ベルグは、きっぱりと言った。


「服も同じじゃ」

「無理に引っ張って着せれば、見た目は整う」

「じゃが、動けば苦しい」

「風車にそんな服は着せん」


琥珀は、じっと金具を見た。


小さな部品ひとつ。

でも、そこには、ただ支える以上のことが詰まっていた。


風を通す。

熱を逃がす。

人が戻れるようにする。

古い部分を無理に壊さない。


「……一針目って、難しいね」


「難しい」

「だから面白い」


ベルグの目が、また少しだけ輝いた。


「直すというのはな、琥珀」

「壊れた場所を責めることではない」

「どうすれば、もう一度働けるかを探すことじゃ」


琥珀は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


「もう一度、働けるように……」


「そうじゃ」

「そして、戻れるようにする」

「人も、風も、熱もな」


ラファの筆が、静かに紙を走った。


「修復方針」

「無理な押し込み不可」

「風の通り道を保持」

「古い部材は可能な限り活かす」

「目的、再稼働ではなく、戻れる道の確保」


そこで、ラファは少しだけ筆を止めた。


「……壊れた場所を責めず、もう一度働ける形を探す」


ベルグは、にやりと笑った。


「おう」

「そっちも書いておけ」


「はい」


仮支え金具は、一度外された。

その場で少し削るのではなく、印をつけて戻すことになった。


けれど、ただ持ち帰るわけではない。


女性ドワーフ職人が、安全線用の小さな金具を取り出した。


「仮支えは調整が必要」

「でも、安全線はここに入れられる」

「この先へ不用意に入らないための線だ」


「線?」


「ここから先は、まだ服を縫っていない場所」

「踏んでいい場所と、駄目な場所を分ける」


ロクスが、壁側の金具位置を確認する。


「俺っちが押さえる」

「この高さなら、琥珀も引っかからないな」


「私が引っかかる前提なの!?」


「元気だからな」


「褒めてる?」


「半分褒めてる」


「もう半分は!?」


「注意だ」


琥珀は頬をふくらませた。

けれど、足はちゃんと止まったままだった。


女性ドワーフ職人とロクスが、安全線用の金具を壁と柱へ仮固定する。

ひょろりとしたドワーフ職人が、位置を確認し、ラファが記録する。


細い線が一本、点検通路の手前に張られた。


ただの線だった。

けれど、その線があるだけで、そこから先がまだ危ない場所だと分かる。

戻る場所と、これから直す場所の境目が見える。


琥珀は、その線をじっと見た。


「……これも、服?」


「服のしつけ糸みたいなものかもしれんの」


「しつけ糸?」


「本縫いの前に、形を崩さないよう仮に留める糸じゃ」

「今の風車には、そういうものがいる」


「じゃあ、まだ本番じゃないんだ」


「そうじゃ」

「まだ本番ではない」

「じゃが、本番へ進むための大事な糸じゃ」


琥珀は、小さくうなずいた。


安全線。

印をつけられた仮支え。

戻って削り直す金具。

まだ動かさない昇降機。

見ただけの右側案内。


どれも、完成ではない。


でも、何もしていないわけではない。


風車の服に、最初の印がついた。

どこを縫うか、どこを残すか、どこを通すか。

その一針目が、ようやく見えた。


ラファが、静かに記録をまとめる。


「本日の内部作業」

「点検通路床板下、確認用仮支え当て合わせ」

「金具三型、調整必要」

「風の通り道保持」

「安全線一本、仮設」

「昇降経路右側案内金具、次回以降の補修対象として継続」


それから、ラファは少しだけ顔を上げた。


「……さそり座風車さんに、息ができる服の一針目が入りました」


琥珀は、ぱっと笑った。


「うん」

「一針目だね」


ベルグは、まだ床板の下を見ていた。

その顔には、満足と、まだ足りないという職人の目が同時にあった。


「急ぐな」

「服は、一針目を間違えると、あとで全部が引きつる」

「風車も同じじゃ」


ベルグは、安全線を軽く指で弾いた。

細い線が、小さく震える。


「今日は、ここまででええ」

「一針目が入った」

「なら、次はその一針が、風車の動きを邪魔しとらんかを見る」


「明日、また見る?」


「見る」

「そして、直す」

「また見る」

「また直す」


ベルグは、にっと笑った。


「そうやって、服は体に合っていく」


琥珀は、風車の奥を見た。


まだ暗い場所。

まだ直していない床。

まだ動かせない昇降機。

まだ触れない右側の案内金具。


でも、そこへ向かうための線が一本できた。

ここから先は危ない。

ここまでは戻れる。

次はここを直す。


見えるようになった場所へ、ようやく手が入った。


ふわり、と月光粒子がひとつ舞った。


赤い玉のあるほうから、ほんの少しだけ温かい光が返ってくる。

それは声ではなかった。

けれど、琥珀には、風車が新しい服の一針目を、少し不思議そうに受け止めているように見えた。


「痛くないかな」


ラファが、琥珀の隣に立った。


「今のところ、風の流れに大きな乱れはありません」

「……苦しくは、なさそうです」


「そっか」

「よかった」


ロクスが、肩の力を抜いた。


「じゃあ、戻るか」

「戻って、ベルグじいの金具を削り直すんだろ?」


「そうじゃ」

「小鍛冶場へ戻る」

「今日の一針目は、次の一針を作るための印じゃ」


女性ドワーフ職人が、安全線をもう一度確認した。


「この線から先へは、まだ入らない」

「次に来る時も、まずここで止まる」

「覚えたね?」


「覚えた!」


「足は?」


琥珀は、自分の足元を見た。


「足も覚えた!」


ロクスが笑う。


「よし」

「なら合格だ」


「やった!」


「ただし、合格したからって先に走るなよ」


「走らないよ!」

「急いで歩くだけ!」


「それは走る手前です」


「ラファお姉ちゃんまで!」


小さな笑いが、風車の内側に広がった。


その笑いは、熱を消すものではない。

風を止めるものでもない。

傷をなかったことにするものでもない。


けれど、さそり座風車の中に、人の声が戻ってきていた。


ベルグは、仮支え金具を布に包み直した。

ラファは記録をまとめ、ロクスは先に立って足場を確かめる。

女性ドワーフ職人とひょろりとしたドワーフ職人は、安全線をもう一度見てからうなずいた。


琥珀は、最後にもう一度だけ振り返る。


点検通路の手前に張られた一本の線。

床板の下に残った印。

その向こうに続く、まだ直していない内側。


「また来るね」


風車の奥で、月光粒子がふわりと揺れた。


その日、さそり座風車の内側に、大きな修理は入らなかった。

昇降機も、まだ動かない。

奥の通路も、まだ危ないままだった。


けれど、息ができる服の一針目は、確かに縫い込まれた。


そして、街の手で風車の内側を直していく道が、静かに始まっていた。

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