第36話
ライブラリーの重い扉を抜けると、外の空気は少しだけ夕方に近づいていた。
高いところにあったお日様は、街の屋根の向こうへゆっくり傾き始めている。
その反対側の空には、まだ淡い二つの月が、薄い雲の奥で静かに浮かび上がろうとしていた。
琥珀は、ライブラリーの中で見た本の絵を思い返していた。
空を進む船。
帆のようにも、翼のようにも見える形。
背景に描かれていた、山のような輪郭。
そして、その絵を見つめながら、ラファが静かに言った言葉。
――私は、この場所へ行ってみたいです。
胸の奥が、まだふわふわしている。
ラファが、自分から行きたい場所を言ってくれた。
それが、琥珀にはたまらなく嬉しかった。
「……イメージが、膨らんだ」
ふいに、隣で絵描きが足を止めた。
絵描きは、抱えていた画帳をぎゅっと胸に寄せる。
その目は、まだライブラリーの中に残っている絵や文字ではなく、もう別の景色を追いかけているようだった。
「本にあった船も、山のような景色も、若いふたりの旅も……それに、君たちが本を見ていた顔も」
「だめだ。今、描きたいものが多すぎる」
「少し、部屋に戻って描いてくるよ」
琥珀はぱっと顔を上げた。
「うん! また見せてね!」
絵描きは小さくうなずくと、画帳を大事そうに抱え直し、自分の部屋の方へ歩いていった。
その背中を、マーレはやわらかい目で見送った。
誰かの中に、何かが生まれる瞬間。
それは、形になる前から、少しだけ光って見える。
絵描きの背中が角を曲がって見えなくなると、マーレは今度は琥珀の横顔を見た。
琥珀の目は、空を見ている。
それから、さそり座風車を見ている。
そのあと、まだ見えない遠くを探すように、少しだけ揺れている。
マーレは、その顔を知っていた。
どこかへ行きたい顔。
けれど、ここを置いていきたくない顔。
胸の奥に、少しだけ寂しさが落ちた。
風月の鐘亭で笑っていた琥珀。
ご飯をおいしそうに食べていた琥珀。
片づけを手伝ってくれた琥珀。
犬のパジャマで厨房に立ち、ラファと一緒にスープを作っていた琥珀。
この子は、ずっとここにいる子ではないのだと、マーレは改めて思った。
風が吹けば、猫の耳はそちらを向く。
月明かりが道を照らせば、きっと足は前へ出る。
けれど、それでいいのだとも思う。
帰ってくる場所があるから、人は遠くへ行ける。
送り出す場所があるから、旅は始められる。
寂しさはある。
けれど、その寂しさで琥珀を止めたいわけではなかった。
マーレは、胸の奥に落ちた小さな寂しさを、そっと両手で包むようにして、いつものやわらかい声で言った。
「次に見たいものができた顔だね」
「でも、今見ておきたいものもある顔だよ」
琥珀は、少し驚いたようにマーレを見上げた。
「……分かる?」
マーレは小さく笑った。
「分かるよ。鐘亭の女将だからね」
「お腹が空いてる顔も、眠たい顔も、何か言いたいけど言えない顔も、だいたい分かるものさ」
琥珀は、少しだけ照れたように笑った。
けれど、その笑顔はすぐに、さそり座風車の方へ向いた。
風車の周りでは、まだ人が動いている。
石材を運ぶ職人。
水路の縁を確かめるドワーフ。
道に置かれた荷を動かす若者。
休憩場所の位置を見ている人たち。
作りかけの鍛冶場は、まだ完成していない。
小さな火の場所も、これから大きな仕組みへ育っていく途中だった。
街の火は、街の手で育ち始めている。
それは嬉しいことだった。
琥珀とラファがずっと隣にいなくても、みんなが自分たちの手で続けていける。
そのことが、琥珀にはとても嬉しかった。
でも、だからこそ。
「私、行きたい」
「ラファお姉ちゃんが行きたいって言ってくれた場所、ちゃんと見たい」
「でも、ここも……中途半端にしたくない」
ラファは、琥珀の隣で静かに聞いていた。
「はい」
「私も、すぐに出発したいという意味で申し上げたわけではありません」
「記録の照合と、私自身の関心。その両方から、いつか確認したいと判断しました」
「いつか、じゃなくて……ちゃんと行こうね」
琥珀はそう言ってから、少しだけ下を向いた。
「でも、その前に、ちゃんと見たい」
「この風車が、どう変わっていくのか」
「ベルグじいたちが作ってる鍛冶場が、どんな場所になるのか」
「赤い玉が、ここでどんなふうに一緒にいるのか」
ラファは、琥珀の言葉を一つずつ受け取るように、ゆっくりとうなずいた。
「記録します」
「次の目的地候補を確認する前に、現在地の変化を見届けたい」
「琥珀ちゃんらしい判断です」
「えへへ。そうかな」
マーレは、二人のやり取りを聞きながら、目を細めた。
寂しさは、まだ胸の奥にある。
けれど、その寂しさの上に、あたたかいものが重なっていく。
この子たちは、ちゃんと帰ってくる場所を大事にできる。
だからきっと、遠くへ行っても大丈夫だ。
マーレは、琥珀の背中をそっと見守った。
その時、琥珀はふと、さそり座風車を見上げた。
街の中で、一番高い場所。
熱を抱え、風を通し、赤い玉と共に新しい呼吸を始めた場所。
あの上からなら。
本に描かれていた山のような形。
ラファの記録に残っている光の向き。
ラファが見たいと言った場所の方角。
何か、見えるかもしれない。
琥珀の耳が、ぴくりと動いた。
「ラファお姉ちゃん」
ラファが、琥珀の視線を追って風車を見上げる。
「はい」
「一番高いところからなら……何か、見えるかな」
二つの月が、淡い光を少しずつ強くし始めていた。
さそり座風車の羽根が、夕方の風を受けて、ゆっくりと鳴った。
「一番高いところからなら……何か、見えるかな」
琥珀の視線の先で、さそり座風車の羽根がゆっくりと動いていた。
夕方の風を受けた羽根は、もう以前のように苦しそうには鳴っていない。
けれど、完全に落ち着いた音でもなかった。
熱を抱えたまま、風を通しながら、少しずつ息の仕方を覚え直しているような音だった。
ラファは、琥珀の隣で風車を見上げた。
「確認します」
ラファは小さく目を伏せた。
ライブラリーで見た古い本。
空を進む船のような絵。
帆のようにも、翼のようにも見える形。
背景に描かれていた、山のような輪郭。
そして、自分の中に残っている記録。
琥珀とラファが初めてこの世界に立った日の光。
空気の流れ。
月光粒子。
遠くに見えた山の影。
それらは、まだ一つには繋がらない。
けれど、完全に無関係とも言い切れなかった。
「ライブラリーの本に描かれていた景色そのものを、ここから確認できる可能性は高くありません」
「その場所が、そのまま見えるわけじゃないんだね」
「はい」
「地形、周囲の山、建物の高さを考えると、本に描かれていた景色が、山の向こう側に関係している可能性があります」
「ただし、高い位置からであれば、山の輪郭、街の外へ続く道、そして私の記録に残る光の向きと照合できる可能性があります」
琥珀の耳が、ぴくりと動いた。
「じゃあ、場所は見えなくても、どっちの方かは分かるかもしれないんだ」
「はい。断定はできませんが、候補を絞ることは可能です」
琥珀は、もう一度さそり座風車を見上げた。
風車の上。
街の中で一番高い場所。
あそこからなら、遠くの山が見えるかもしれない。
本に描かれていた山のような形と、ラファの記録に残る景色を比べられるかもしれない。
胸が、少しだけ跳ねた。
「行ってみたい……」
言ったあとで、琥珀はすぐに口を結んだ。
さそり座風車は、まだ完全に直ったわけではない。
上の排熱口は開いた。
内部も歩けるようにはなった。
けれど、焦げた壁も、歪んだ足場も、直すべきところも、まだたくさん残っている。
以前なら、見たい気持ちのまま走り出していたかもしれない。
けれど今は、違う。
琥珀は、風車の上へ続く扉ではなく、作業をしている人たちの方へ視線を向けた。
石材を置く場所を確認している職人。
水の流れを見ているドワーフ。
道具を抱えて走る若者。
手を止めず、でも急ぎすぎず、街の火を育てている人たち。
ここは、もう琥珀だけが走ってどうにかする場所ではない。
みんなが一緒に扱っている場所だった。
「……勝手に上がっちゃ、だめだよね」
ラファが静かにうなずく。
「はい」
「現在のさそり座風車は、安定に向かっていますが、完全復旧状態ではありません」
「上部へ向かう場合、足場、熱、風の流れ、壁面の状態を確認する必要があります」
「うん」
「ちゃんと、ベルグじいに聞こう」
マーレは、その言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
勢いだけで走らない。
見たいものがあっても、今いる場所と、そこに関わる人たちをちゃんと見ている。
琥珀は、少しずつ変わっている。
けれど、琥珀らしさは変わっていない。
マーレは、胸の奥に残る寂しさを隠すように、やわらかく笑った。
「そうだね。ベルグさんに聞くのが一番だよ」
「風車のことも、今の足場のことも、誰より分かっている人だからね」
「うん!」
琥珀は力強くうなずいた。
その横で、ラファは少しだけ首を傾ける。
「マーレさんは、同行されますか」
マーレは、少し考えるように空を見上げた。
淡い二つの月が、少しずつ明るさを増している。
風月の鐘亭の方からは、夕方の支度を始める音がかすかに聞こえてきた。
鍋の蓋が触れる音。
木の扉が開く音。
誰かが帰ってくる足音。
マーレは、小さく首を横に振った。
「私は鐘亭に戻るよ」
「そろそろ、戻ってくる人たちの分も見ておかないとね」
「そっか」
琥珀の声に、少しだけ寂しさが混じる。
けれどマーレは、それを見逃さなかった。
「大丈夫」
「高いところから何か見えたら、あとでちゃんと教えておくれ」
「そのかわり、無茶はしないこと」
琥珀は背筋を伸ばした。
「はい!」
「ちゃんとベルグじいに聞いて、ちゃんと気をつける!」
「よろしい」
マーレは満足そうにうなずくと、ラファの方も見た。
「ラファも、お願いね」
「この子が耳をぴんと立てた時ほど、足が先に出るから」
ラファは、まじめな顔でうなずいた。
「了解しました」
「琥珀ちゃんの耳角度と移動開始の相関について、注意深く観察します」
「そこまで記録しなくていいよぉ!」
琥珀の声に、マーレがくすりと笑った。
ラファも、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
夕方の空気が、やわらかく揺れた。
けれど琥珀の胸の中には、次へ続く小さな灯りがともっていた。
まだ見えない場所。
ラファが行ってみたいと言った場所。
本の中に描かれていた、空を進む船。
山のような輪郭。
そして、ラファの記録に残る、初めてこの世界に立った日の光。
それを探すために、まずは今いる場所で、できることをする。
琥珀は、さそり座風車の方へ向き直った。
「じゃあ、ベルグじいのところに行こう」
「はい」
マーレは二人の背中を見送った。
琥珀とラファは、作りかけの鍛冶場の方へ歩き出す。
夕方の光の中で、風車の影が少しずつ長く伸びていた。
石を運ぶ音。
道具が触れる音。
誰かが声をかけ合う音。
その全部の向こうに、ベルグの姿が見えた。
琥珀は少しだけ足を速める。
けれど、走り出しはしなかった。
ちゃんと聞く。
ちゃんと確かめる。
ちゃんと、今いる場所を大事にしてから進む。
琥珀はベルグの近くまで行くと、両手を胸の前で小さく握った。
「ベルグじい」
ベルグが、石材の並びを確認していた手を止め、顔を上げる。
「どうしたんじゃ、琥珀」
琥珀は、さそり座風車を一度見上げてから、ベルグを見た。
「お願いがあるの」
琥珀が話し終えると、ベルグはしばらく黙って、さそり座風車を見上げた。
ライブラリーで見た、空を進む船のような絵。
ラファの記録に残っている、この世界へ来た日の光。
そして、風車の上からなら、遠くの山や道の向きを確かめられるかもしれないということ。
ベルグは、琥珀の顔を見て、それから隣に立つラファを見た。
「なるほどのう」
「上から見る、か」
琥珀は、こくりとうなずいた。
「うん」
「でも、勝手に上がっちゃだめだと思って」
「まだ、風車は全部直ったわけじゃないから」
「だから、ベルグじいに聞きに来たの」
ベルグの目が、少しだけやわらかくなる。
「よく、勝手に入らずに来たの」
琥珀は、少しだけ胸を張った。
「ちゃんと聞くって決めたから」
「そこは褒めておくかの」
ベルグはそう言ってから、すぐに表情を職人のものへ戻した。
「じゃが、簡単に『よいぞ』とは言えん」
「さそり座風車は、以前のように暴れてはおらん」
「だが、まだ完全に直ったわけではない」
「上へ行くなら、足場も、壁も、熱の抜け方も、確認しながらじゃ」
ラファが小さくうなずく。
「同意します」
「上部へ向かう場合、途中経路の状態確認が必要です」
「熱の残留、階段部の損傷、壁面の歪み、風の抜け方を確認すべきです」
「じゃろうな」
「ちょうど、上の具合も見ておきたかったところじゃ」
「わしも行こう」
琥珀の顔がぱっと明るくなる。
「いいの!?」
「ただし、わしの言うことを聞くこと」
「先に走らんこと」
「耳が何を聞いても、足を先に出さんこと」
琥珀はびしっと背筋を伸ばした。
「はい!」
ラファは、琥珀の耳へ視線を向けた。
「耳の動作を確認しながら、移動開始前に制止可能な位置を維持します」
「ラファお姉ちゃんまでぇ……」
ベルグは、くつくつと笑った。
その時、少し離れた場所で荷の置き場を確認していたロクスが顔を上げた。
「おいおい、風車の上に行くって聞こえたぞ」
ロクスは、肩に道具を担いだまま近づいてくる。
額にはうっすら汗が浮かんでいたが、その足取りは軽かった。
「俺っち抜きで上に行くつもりだったのか?」
「まだ決まったばっかりだよ」
「なら、俺っちも行く」
琥珀は目を丸くした。
「ロクスも?」
「当たり前だろ」
「まだ足場がどうなってるか分からねえ場所に、琥珀とラファだけで行かせられるかよ」
「ベルグじいが中を見るなら、俺っちは足元を見る」
「誰かがふらついた時に支える役もいるだろ」
ベルグは、少し呆れたようにロクスを見た。
「おぬし、ただ心配なだけじゃろう」
ロクスは、そっぽを向いた。
「ついでだよ、ついで」
「上から道も見えるだろ?」
「街の外へどう伸びてるか、地形がどうなってるか、見ておいて損はねえしな」
ラファが静かにロクスを見る。
「ロクスさんの視点は有効です」
「地形、道、距離、足場の感覚は、記録だけでは補いきれない部分があります」
「だろ?」
ロクスは得意げに笑った。
琥珀もつられて笑う。
「じゃあ、四人だね」
ベルグは、作業場の方へ顔を向けた。
そこでは、ひょろりとしたドワーフ職人が、石材の置き場と水路側の線を確認している。
手には、木の板と簡単な線引きの印がついた棒を持っていた。
ベルグは、その職人へ声をかける。
「おい」
「少し上を見てくる」
「ここの指揮は、おぬしに任せる」
ひょろりとしたドワーフ職人は、すぐに背筋を伸ばした。
「承知しました」(ひょろりとしたドワーフ職人)
「石材の置き場、水路側の空き、休憩場への道は、こちらで見ておきます」(ひょろりとしたドワーフ職人)
ベルグは満足そうにうなずく。
「頼んだぞ」
「はい」(ひょろりとしたドワーフ職人)
ひょろりとしたドワーフ職人は、すぐに女性ドワーフ職人へ視線を向けた。
「石材班は、内側の線を越えないように」(ひょろりとしたドワーフ職人)
「水路側は空けたまま。休憩場へ続く道も、荷で塞がないようにお願いします」(ひょろりとしたドワーフ職人)
女性ドワーフ職人は、にやりと笑って、肩に担いでいた道具を持ち直した。
「任せな!」(女性ドワーフ職人)
「石材班! 二人は内側の線を見な! 水路側に置いた道具はすぐ寄せるよ!」(女性ドワーフ職人)
「馬族の若いの! 荷を運ぶ前に通り道を空けな!」(女性ドワーフ職人)
「休憩場への道は塞ぐんじゃないよ!」(女性ドワーフ職人)
「はい!」(若い職人)
「こっちの石、少し内側へ寄せます!」(馬族の若者)
「水路側、空けました!」(ドワーフ職人)
声が返り、現場がすぐに動き直す。
ひょろりとしたドワーフ職人が全体を見て、女性ドワーフ職人が班へ声を飛ばす。
若い職人たちは、それぞれの場所で手を動かし、馬族の若者たちは荷の流れを止めないように道を空けていく。
ベルグが離れても、作業は止まらない。
石を置く音。
木材を運ぶ音。
誰かが声を返す音。
水路の縁を確かめる音。
現場の音は、ひとつの流れになって続いていた。
琥珀は、その様子を見て、胸の奥が少し温かくなった。
ここはもう、ベルグじいひとりが支える場所ではない。
琥珀とラファがずっと隣にいなくても、止まってしまう場所ではない。
みんなで見て、みんなで声をかけて、みんなで続けていく場所になり始めていた。
ベルグは、琥珀たちへ向き直った。
「では、行くかの」
「うん!」
四人は、さそり座風車へ向かって歩き出した。
夕方の光は、少しずつ赤みを帯びている。
作りかけの鍛冶場の影が伸び、石材の角が淡く光る。
風車の扉の前には、以前よりも落ち着いた風が流れていた。
琥珀は、その扉を見上げる。
あの日、熱が噴き出し、近づくことさえ難しかった場所。
ラファが外から呼び、琥珀が中で必死に窓へ向かった場所。
赤い玉が、今は風車の内側で、熱に寄り添っている場所。
怖かった記憶は、消えていない。
けれど、それだけではなくなっていた。
ここは、みんなで直そうとしている場所。
街の手で、もう一度息を整えようとしている場所だった。
ベルグが扉に手をかける。
「入るぞ」
「熱は落ち着いてきておるが、油断はするでない」
「はい」
「了解しました」
「おう」
扉が開く。
中から流れてきたのは、以前のように肌を刺す高熱ではなかった。
それでも、外よりははっきりと熱い。
「まずは、ゆっくりじゃ」
「上へ行く前に、通る道を見ていく」
「うん」
四人は、さそり座風車の内部へ、慎重に足を踏み入れた。
さそり座風車の中は、以前入った時よりも、ずっと静かだった。
あの日のように、熱が喉元へ押し寄せてくることはない。
扉を開けた瞬間に肌を刺すような熱も、今はもうない。
けれど、完全に冷えているわけでもなかった。
以前見た焦げ跡は、まだ壁に残っている。
熱で歪んだ金具も、補修を待つ床板の傷も、そのままの場所にあった。
ただ、その全部が、前とは違って見えた。
暴れている熱の中に置き去りにされた傷ではなく、これから直されるために、そこに残っている跡のように見えた。
琥珀は、ラファの隣を歩きながら、耳をぴくりと動かした。
奥の方で、風が抜ける音がする。
ふう、と細く。
時々、ぎしり、と何かを揺らしながら。
それはもう、苦しそうな音ではなかった。
けれど、元気に回っている音でもない。
眠りから起きたばかりの風車が、まだ自分の体を確かめているような音だった。
「前に見た傷は、まだ残っておるな」
「じゃが、熱の逃げ方は変わっとる」
ベルグは足元と壁を見ながら、一歩ずつ進んでいく。
「ここは後で補強じゃ」
「焦げたところを削って終わりではない。熱が通った道も見ておかねばならん」
ラファは壁面と床を交互に見ながら、小さくうなずいた。
「記録」
「一階通路、以前確認した焦げ跡、歪み、床板損傷を再確認」
「熱の残留はありますが、流れは安定方向に変化しています」
「補修時は、熱の通り道を塞がない構造が必要です」
「塞がない……」
琥珀は、壁の焦げ跡を見た。
怖かった跡。
でも、ただ消せばいいものではない跡。
「ここも、風と熱の道なんだね」
「そうじゃ」
「傷を見るだけでは足りん」
「なぜそこに傷ができたのかを見ねば、直したつもりでまた詰まらせる」
ロクスは少し後ろに立ち、琥珀とラファの足元を見ている。
「この辺、板が鳴るな」
「乗れなくはねえけど、二人で同時に踏むのはやめた方がいい」
「うん」
琥珀は、ロクスの言葉に合わせて、少し右へ寄った。
ラファも、琥珀と同じ板を同時に踏まないよう、半歩だけ歩幅をずらす。
「記録」
「床板の沈み、複数箇所に確認」
「通行は可能。ただし、複数人が同時に同一点へ荷重をかけることは推奨されません」
「荷重……」
琥珀は自分の足元を見た。
「私、そんなに重くないよ?」
「琥珀ちゃん単体の重量ではなく、床板にかかる力の分散の問題です」
「分かってるけどぉ」
ロクスが後ろで笑った。
「安心しろ。琥珀は軽い方だ」
「けど、軽くても落ちる時は落ちるからな」
「怖いこと言わないでよぉ!」
琥珀の声が、風車の内側に小さく響いた。
ベルグは、くつくつと笑いながらも、足元から目を離さない。
「冗談を言えるなら、まだ大丈夫じゃの」
「じゃが、油断はするでないぞ」
四人は、ゆっくりと二階へ上がった。
二階へ出ると、熱の感じ方が少し変わった。
下よりも風が通っている。
けれど、壁の奥に残った熱が、じんわりと肌へ触れてくる。
そこには、以前見た壁画のある場所があった。
琥珀は、自然と足を止めた。
火と風。
近すぎず、遠すぎず。
消すのでも、閉じ込めるのでもなく、通しながら共にあるもの。
あの時、壁画は琥珀たちに何かを見せた。
火を壊すのではなく、安定させるための光景を。
風と熱が、同じものになるのではなく、互いの距離を探すような姿を。
今も、壁画はそこにあった。
けれど、何も起きなかった。
線は光らない。
色も変わらない。
月光粒子が集まることも、マナが大きく揺れることもない。
けれど、拒んでいるようには見えなかった。
ただ、そこにある。
火と風が、近すぎず遠すぎず、共に巡る姿を刻んだまま。
琥珀たちが次に何を見るのかを、静かに見守っているようだった。
「今日は、何も教えてくれないんだね」
ラファは、壁画を見つめたまま静かに答えた。
「月光粒子の集中、マナの揺らぎ、風の変化は確認できません」
「今は、共鳴していない状態だと判断します」
「そっか」
琥珀は、少しだけ壁画に近づいた。
「今日は、見守ってくれてるんだね」
壁画は答えない。
けれど、風車の奥を通る風が、ふう、と細く抜けた。
それは返事ではなかった。
けれど、琥珀には、急かさず、止めず、ただそばにいてくれる音のように聞こえた。
ベルグは壁画を見上げながら、低く言った。
「いつでも答えを示してくれるわけではない、ということじゃろうな」
「なら、今日はわしらの目で見る日じゃ」
「うん」
琥珀は、壁画へ向かって、そっと頭を下げた。
「行ってくるね」
壁画は、やはり何も答えなかった。
琥珀は小さく頭を下げ、ラファと一緒に壁画の前を離れる。
その時だった。
ふわり。
壁画の縁から、月光粒子が数個だけ、静かに舞った。
光は集まらない。
線も浮かび上がらない。
何かを示すような形にもならない。
ただ、琥珀たちの背中を追うように、ほんの少しだけ宙を漂い、風の中へ溶けていった。
「……ラファお姉ちゃん」
「はい」
「大きな共鳴は確認できません」
「ですが、微量の月光粒子反応を確認しました」
琥珀は、もう一度だけ壁画を振り返った。
「いってらっしゃい、って言ってくれたみたい」
壁画は答えない。
けれど、風車の奥を通る風が、もう一度だけ、ふう、と細く抜けた。
それで十分だった。
四人は、壁画の場所を離れた。
奥へ進むと、上部へ向かう昇降機が見えてきた。
木の枠。
太い鎖。
滑車。
熱で少し黒ずんだ金具。
床板の一部には、古い焦げ跡が残っている。
昇降機は、風車の背面側へ少し張り出すように設けられていた。
外壁の内側をまっすぐ上がるのではない。
途中から、風車の背へ回り込むように進み、大きな八角歯車の横を通って上へ向かう。
その八角歯車は、風車の背面に半分だけ飛び出すように組まれていた。
外から見れば、風車の背に大きな骨が浮かんでいるように見えるのかもしれない。
夕方の光が、八つの角を淡く照らしていた。
ベルグは、その歯車を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「ベルグじい?」
琥珀が声をかけても、ベルグはすぐには答えなかった。
ベルグにとって、その八角歯車は初めて見るものではなかった。
外からは、何度も見てきた。
街の動きに関わる仕組みを作る時も、その歯車の位置と回り方を頼りにした。
どの方向から力が伝わるのか。
どの角度で噛み合えば、街の仕組みに無理なく繋げられるのか。
何度も測り、何度も考え、何度も手を入れてきた。
けれど、内側へ入ることはできなかった。
だから、外に出ている部分から、見えない中を想像するしかなかった。
ずっと、そうしてきた。
今、その歯車を、ベルグは内側から見ている。
風を受けた力が、どこへ渡るのか。
熱を避けるために、どこに余白があるのか。
外からはただの影に見えていた厚みが、内側ではちゃんと意味を持っている。
ベルグは、歯車の歪みと、その奥へ続く伝達の道を、目で追った。
「……そうか」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
琥珀は、ベルグの横顔を見上げた。
ベルグの目元が、わずかに光っていた。
「ベルグじい……?」
ベルグは、片手で目元を軽くぬぐった。
「いや……なんでもない」
「ただ、長いこと外から見ておったものを、ようやく内側から見られた」
「職人には、それだけで十分すぎる時があるのじゃ」
琥珀は、八角歯車を見上げた。
大きな歯車。
外から見ていたもの。
ベルグがずっと向き合ってきたもの。
琥珀には、ベルグが見ている全部は分からない。
けれど、ベルグがとても嬉しいのだということだけは分かった。
ラファは、記録を口にしようとして、少しだけ止まった。
今のベルグの表情は、数値や構造だけでは記録しきれないものだった。
それでも、ラファは静かに言葉を選んだ。
「記録」
「ベルグさんは、外部から観察していた八角歯車を、内部側から初めて確認」
「外部改造時の推測と、内部伝達構造の一部に整合を確認」
「……職人として、重要な確認であると判断します」
ベルグは、少しだけ笑った。
「ふふ」
「ラファ、おぬしも少し、言葉を選ぶようになったのう」
「現在のベルグさんの表情は、通常記録だけでは不十分と判断しました」
「そうか」
ベルグは、もう一度だけ八角歯車を見上げた。
「見えなかったものが見えた」
「なら、次は直せる」
その言葉は、静かだった。
けれど、職人としての熱があった。
琥珀は胸の奥があたたかくなるのを感じながら、昇降機の手すり越しに八角歯車を見上げた。
「大きいね……」
「背面側の八角歯車じゃな」
「回すためだけのものではない。風の力を受け、内側へ伝えるための要でもある」
「じゃが、あそこも熱を受けておる。近くを通るなら、よく見ておかねばならん」
ラファは、歯車の角を目で追う。
「記録」
「背面八角歯車、外部構造と内部伝達機構の中間に配置」
「熱の影響により、一部に歪みが見られます」
「昇降機経路は、この歯車の横を通過します」
ロクスは昇降機を見上げ、少し顔をしかめた。
「感動してるところ悪いけどよ」
「これ、ほんとに乗るのか?」
ベルグは目元をぬぐった手を下ろし、いつもの職人の顔に戻った。
「乗る」
「上まで全部歩くには、途中の足場の方が怪しい箇所もある」
「昇降機で行けるところまでは使う」
「ただし、おかしな音がしたらすぐ止める」
ラファは昇降機の枠と鎖を見つめた。
「記録」
「昇降機、使用可能状態に近いものの、安定性に不安あり」
「鎖の張り、滑車部の摩耗、床板固定部に確認事項があります」
「確認事項だらけだね……」
「それを確認しに来たんじゃ」
「怖いなら、無理に乗らんでもよいぞ」
琥珀は少しだけ昇降機を見上げた。
こわくない、と言えば嘘になる。
けれど、ここで引き返したいわけでもなかった。
「乗る」
「でも、ちゃんと気をつける」
「よし」
ベルグが最初に乗り、床板を踏んだ。
ぎし、と低い音がしたが、すぐに沈むことはなかった。
次にラファが乗る。
その後に琥珀。
最後にロクスが乗り込むと、床板がもう一度、深く鳴った。
「……俺っちのせいみたいに鳴るなよ」
「ロクスは大きいからね」
「琥珀よりはな」
「比べないでよぉ」
小さなやり取りのあと、ベルグが昇降機の操作部に手をかけた。
「上げるぞ」
鎖が動く。
ぎり。
ぎりり。
滑車が重そうに回り、昇降機はゆっくりと上へ動き始めた。
下の床が少しずつ遠ざかる。
壁の焦げ跡が横へ流れていく。
風の音が、少しずつ近くなる。
昇降機は、背面側へ回り込むように上がっていく。
やがて、巨大な八角歯車がすぐ横に見えた。
八つの角が、ゆっくりと影を作っている。
歯車そのものは動いていない。
けれど、その横を通るだけで、風車の奥深くに触れているような感じがした。
琥珀は、手すりを両手で握ったまま、少しだけ眉を寄せる。
「前に乗った時より、音が重いね」
「分かるのか?」
「うん。ぎりぎりって、ちょっと引っかかってる感じがする」
ラファは周囲を見渡しながら、淡々と記録していた。
「以前の昇降時と比較」
「昇降速度、低速」
「揺れ、軽微」
「ただし、右側の鎖に不均一な張りを確認」
ベルグの眉が動いた。
「右側か」
昇降機が、八角歯車の横へ差しかかった時だった。
ぎぎっ。
右側の鎖が、不自然に鳴った。
八角歯車の影が、琥珀の足元を横切る。
「……今の音」
「動くな」
ベルグの声が低くなる。
昇降機が、一度止まった。
そして次の瞬間。
がくん、と大きく傾いた。
「っ――!」
足元が抜けるような感覚に、琥珀の体がふわりと浮いた。
ラファが手を伸ばす。
けれど、それよりも先に、横から伸びた腕が琥珀の体を脇ごと抱え込んだ。
「琥珀!」
ロクスだった。
片腕で琥珀を抱え、もう片方の手で昇降機の柱をつかむ。
蹄が床板を強く踏みしめ、ぎしりと木が鳴った。
「動くな! 足元、まだ沈んでる!」
「ひゃ、ひゃい……!」
琥珀は、ロクスの腕の中で目をぱちぱちさせた。
胸がどきどきしている。
怖かった。
本当に、一瞬だけ落ちたかと思った。
けれど、落ちなかった。
その安心が遅れてきたせいで、琥珀の口から、少し変な笑いがこぼれた。
「あ、あはは……びっくりしたぁ……」
「ロクス、ありがと……でも、ちょっと持ち方が荷物みたい……」
「文句言えるなら無事だな」
ロクスは、少しだけ笑った。
その後ろで、ラファが一歩遅れて琥珀へ手を伸ばしていた。
伸ばした手は、空中で止まっている。
琥珀の顔からは見えない位置で、ラファはほんの少しだけ頬を膨らませた。
「……記録」
「ロクスさんの初動対応、極めて迅速」
「琥珀ちゃんの保護、成功」
声はいつも通りだった。
けれど、頬だけは、ほんの少しだけ丸い。
ベルグは、それを見た。
見てしまった。
一瞬だけ、口元が動く。
けれど、ベルグは何も言わなかった。
少しだけ笑いを堪えるように目をそらし、傾いた床板へ視線を戻す。
「……まずは、足場じゃな」
その声はいつも通りだった。
ただ、ほんの少しだけ、笑いを含んでいるようにも聞こえた。
ラファは、何も言わずに頬を戻した。
琥珀は気づいていない。
ロクスも、昇降機の柱を押さえるのに集中していた。
ベルグは咳払いをひとつして、傾いた昇降機の端を確認する。
「右の金具が噛んだな」
「鎖は切れておらん。じゃが、このまま上げるのは無理じゃ」
「八角歯車の歪みに引かれて、横の案内も少し狂っとる」
ラファはすぐに周囲を確認した。
「左側に点検用の細い通路があります」
「距離、約一・五歩」
「ただし、足場幅は狭く、移動には補助が必要です」
ロクスは琥珀を抱えたまま、ちらりと左を見た。
「あそこに移るんだな」
「琥珀、まだ動くなよ」
「う、うん」
「荷物みたいで悪いけど、このままの方が安全だ」
「それ、自分で言うんだ……」
ロクスは、琥珀を抱えたまま、慎重に片足を動かした。
ベルグが先に点検通路へ移り、足場を確かめる。
「ここは使える」
「一人ずつじゃ」
「焦るな」
まずベルグが位置を取る。
次にロクスが、琥珀を抱えたまま点検通路へ移る。
床板が、ぎしりと鳴った。
琥珀は思わず目を閉じる。
「大丈夫だ」
「俺っちの足は、こういう時のためにあるんだよ」
その言葉に、琥珀は少しだけ目を開けた。
ロクスの腕は、しっかりしていた。
足元も、揺れてはいるけれど、崩れてはいない。
「……うん」
「ありがと、ロクス」
ロクスは、少し照れたように鼻を鳴らした。
「おう」
ロクスは点検通路の足場を確かめてから、琥珀をそっと下ろした。
「よし。ここなら立てる」
「ベルグじいの近くにいろよ」
「うん」
琥珀がベルグのそばへ寄ったのを確認すると、ロクスはすぐに昇降機の方へ向き直った。
まだ昇降機には、ラファが残っている。
ラファは一歩目を置く前に、琥珀の位置を確認した。
琥珀が無事に立っているのを見てから、細い通路へ足を乗せようとする。
その前に、ロクスが手を差し出した。
「ラファ、こっちだ」
ラファは、差し出された手を一度見た。
それから、ロクスの顔を見る。
ロクスは、少しだけ口の端を上げた。
「俺っちはお姫様じゃなくて、紳士だからな」
黙っていれば、少しかっこよかった。
けれど、言ってしまうところまで含めてロクスだった。
ラファは、ほんの少しだけ瞬きをした。
それから、くすりと小さく微笑む。
「あの時のお姫様が、今度は紳士に、ですね」
「ありがとうございます」
ラファは静かにロクスの手を取った。
ロクスは一瞬、言い返そうとして、少しだけ口を開いた。
けれど、足場が揺れていることを思い出したように、すぐ真面目な顔へ戻る。
「……おう。足元、気をつけろよ」
ロクスは強く引くのではなく、ラファの歩幅に合わせて支える。
ラファは細い通路へ足を移し、揺れる床板の上を静かに渡った。
「ラファお姉ちゃん、気をつけて」
「はい」
ラファが通路へ移り終えると、ロクスは手を離した。
「よし。全員こっちだな」
「琥珀ちゃん、怪我はありませんか」
「うん。大丈夫」
「ロクスが支えてくれたから」
「はい」
「確認しました」
また少しだけ、ラファの声が平らになる。
けれど、それはロクスへの嫌なものではなかった。
怖かった一瞬。
届かなかった手。
それでも、琥珀を守ったロクスの動き。
そして今、自分へ差し出された手。
ラファは、その全部を静かに受け取っていた。
ベルグは、それを聞いて、今度は完全に壁の方を向いた。
「……ふむ」
笑ってはいない。
たぶん、笑ってはいない。
少なくとも、琥珀にはそう見えた。
昇降機は、斜めに傾いたまま止まっている。
鎖は切れていないが、右の金具が噛み込み、床板の一部が沈んでいた。
すぐ横では、八角歯車の大きな影が、夕方の光の中で静かに揺れている。
ベルグは金具と歯車の位置を見比べて、短く息を吐いた。
「やはり、まだ全部を任せられる状態ではないのう」
「上部確認が先で正解じゃった」
ラファがうなずく。
「記録」
「昇降機右側金具に噛み込み」
「床板固定部に沈み」
「背面八角歯車付近の案内経路に歪みを確認」
「上部移動用機構、補修優先対象に追加します」
「追加しておいてくれ」
「このまま使えば、いつか本当に落ちる」
琥珀は傾いた昇降機を見つめた。
さっきまで、自分たちを上へ運んでいたもの。
今は、途中で止まっているもの。
壊れている。
でも、完全に駄目になったわけではない。
ちゃんと見つけたから、直せる。
「……来てよかったね」
ベルグは、琥珀を見た。
「そうじゃな」
「壊れてから気づくより、壊れかけで気づく方がずっとよい」
「うん」
ロクスが、少し得意げに腕を組んだ。
「だから俺っちが来て正解だったろ」
「それは、そう」
琥珀は素直にうなずいた。
ロクスが少し驚いた顔をする。
「お、おう。素直だな」
「だって、ほんとに助かったもん」
琥珀は少し照れたように笑った。
「荷物みたいだったけど」
「そこは忘れろよ」
そのやり取りに、空気が少しだけやわらかくなる。
ラファは黙って琥珀を見ていた。
その表情は、いつもの落ち着いたものに戻っている。
けれど、ほんのわずかに、琥珀のそばへ立つ位置が近くなっていた。
ベルグはそれにも気づいたが、今度も何も言わなかった。
「ここからは歩きじゃ」
「昇降機は使わん」
「点検通路を抜ければ、上部へ続く狭い階段に出られる」
「狭い階段……」
「怖いなら、ここで待つか?」
琥珀は首を横に振った。
「行く」
「怖かったけど、でも、行く」
「ちゃんと気をつけて、上まで行く」
ラファが小さくうなずく。
「私も同行します」
「琥珀ちゃんの近接位置を維持します」
「近接位置って……」
「隣です」
その言い方に、琥珀は少し笑った。
「うん。隣にいて」
ラファは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
四人は、点検通路を進み始めた。
通路は狭く、壁に肩が触れそうだった。
木の板はところどころ黒ずみ、足元には細かな金属片が落ちている。
背面八角歯車の横を抜けた風が、下から上へ流れ、時々、衣服の裾を揺らした。
外の光が、少しずつ近づいている。
上の方から、空の色が差し込んでいた。
夕方の赤。
淡く強まり始めた二つの月の白。
そして、風車の上で待つ風の気配。
琥珀は、ゆっくりと足を進めた。
さっきの怖さは、まだ胸に残っている。
けれど、その怖さの隣に、別の気持ちもあった。
ロクスが支えてくれた。
ラファが隣にいてくれる。
ベルグが道を見てくれている。
怖かった場所を、ひとりで進んでいるわけではない。
「……もう少しだよね」
ベルグが前から答える。
「もう少しじゃ」
「この先を抜ければ、上へ出る」
風の音が変わった。
閉じた内部を通る音ではなく、外へ抜ける音。
琥珀の耳が、ぴくりと動く。
今度は、足を先に出さなかった。
ベルグの背中を見て、ラファの隣を確かめて、ロクスの足音を後ろに聞いてから、琥珀は一歩ずつ進む。
狭い階段の先に、光があった。
四人は、その光へ向かって、ゆっくりと上っていった。
狭い階段を上りきる少し手前で、風の音が変わった。
さっきまで聞こえていたのは、風車の内側を通る風だった。
木の隙間を抜け、金具を揺らし、焦げ跡の残る壁をなでていく音。
けれど、階段の先から流れてきた風は違っていた。
やわらかい。
夕暮れの赤を含んだ風が、出口の隙間からそっと入り込み、琥珀の頬を撫でた。
「……風」
琥珀は、思わず足を止めた。
昇降機が傾いた時のどきどきは、まだ胸の奥に残っている。
けれど、その上から、外の空気が静かに重なっていく。
ラファも、琥珀の隣で出口の方を見た。
「外気流入を確認」
「温度、内部より低下」
「風の流れ、安定しています」
ベルグは、目を細めた。
「風車の上の風じゃな」
「下とは違う。街も、空も、全部を通ってくる風じゃ」
ロクスは、少し肩を回しながら笑った。
「やっと外か」
「さっきの後だと、この風はありがてえな」
琥珀は、小さくうなずいた。
出口の向こうには、夕暮れの赤があった。
その赤の奥で、二つの月が、少しずつ白さを増している。
琥珀は、ラファの隣を確かめてから、一歩進んだ。
今度は、走らない。
けれど、足は自然と前へ出る。
四人は、夕暮れの風に迎えられるように、さそり座風車の上へ出た。
外へ出ると、空はひとつの色ではなかった。
街の向こうには、まだ夕暮れの赤が残っている。
けれど、その反対側では、二つの月の白い光が、少しずつ空へ広がり始めていた。
赤と白。
昼の終わりと、夜の始まり。
そのあわいに、さそり座風車は静かに立っていた。
風が吹くたび、夕暮れのぬくもりと、月明かりの冷たさが、少しずつ混ざり合って四人の頬を撫でていく。
「わあ……」
琥珀は、手すりのそばまで歩いた。
眼下に、街が広がっていた。
風月の鐘亭。
作りかけの左側小鍛冶場。
石材置き場。
水路。
人が歩く道。
休憩場所。
帰る場所。
いつも歩いていた街が、上から見ると、まるでひとつの大きな絵のように見えた。
「街って、こんなふうに見えるんだね」
作りかけの鍛冶場には、まだ人の動きがあった。
小さな灯りが置かれ、職人たちが声をかけ合いながら、道を空け、石を運び、水路のそばを整えている。
琥珀たちがいなくても、作業は止まっていない。
街の火は、街の手で育ち始めていた。
ベルグは、その光景を静かに見下ろしていた。
「ええ流れになってきたのう」
「一人で抱える火では、長くは続かん」
「見る者がおって、運ぶ者がおって、直す者がおって、休ませる者がおる」
「そうしてようやく、火は街のものになる」
琥珀は、ベルグの言葉を聞きながら、少し離れた場所へ視線を向けた。
そこには、ベルグの工房が見えた。
月明かりを受け始めた屋根。
外に置かれた部品。
うまく動かなかった試作。
役目を待っている形。
どこか馬力車スーツへ続いていったもの。
使われなかったけれど、捨てられずに残されたもの。
それらが、静かに並んでいた。
「ベルグじいの工房も見える」
「あそこにも、始まりがいっぱいあるんだね」
ベルグは、少し照れたように鼻を鳴らした。
「失敗したからといって、終わりではないからのう」
「残しておけば、いつか次の誰かが、そこから始められる」
「最初の形は、上手くいかぬことの方が多い」
「じゃが、最初がなければ、次もない」
ラファは、工房の方を見つめた。
「記録」
「ベルグさんの工房周辺に、複数の試作物を確認」
「破棄ではなく、保管状態」
「始まりを残すための場所、と判断します」
ベルグは、少しだけ笑った。
「ずいぶん、よい記録をするようになったのう」
琥珀は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ここで生まれたもの。
うまくいかなかったもの。
それでも捨てられずに、次へつながるもの。
次の場所へ行きたい。
けれど、ここを置き去りにしたいわけではない。
その気持ちが、前よりもはっきりしていた。
やがて、琥珀の視線は、街の向こうへ移っていった。
遠くの山は、はじめ、夕暮れの赤に照らされていた。
沈みかけた光を受けて、その斜面はほんのりと赤く染まり、高く連なる尾根の重なりまで、やわらかく浮かび上がっている。
けれど、空から赤みが少しずつ引いていくにつれて、山は色を失っていった。
そのかわり、消えたわけではなかった。
二つの月の明かりが広がり始めると、暗くなっていく空の中で、山は今度は影として、その姿をはっきりと残した。
黒く、静かで、けれど揺るがない。
夕暮れの中では景色のひとつだったものが、月明かりの下では、そこに在るべきものとして、確かな存在感を持って立っていた。
ラファは、その山をじっと見つめた。
「記録」
「中央の山と思われる輪郭を確認」
「私たちが初めてこの世界に立った時に見た山の形とは、少し違いがあります」
「ただし、山の輪郭は、見る位置によって変化する可能性があります」
ラファは、そこで少しだけ目を細めた。
「……私たち、かなり歩いて来たのですね」
そう言って、くすりと小さく笑った。
琥珀は、その横顔を見て、ぱっと耳を立てた。
しっぽの先が、夕暮れの風に合わせるように、ふわりと揺れる。
「うん」
「いっぱい歩いたね」
「でも、まだ見たいところがあるんだよね」
琥珀は、胸の前で両手をきゅっと握った。
「次は、ラファお姉ちゃんの行きたいところ」
「なんだか、すっごくワクワクする!」
ロクスは、遠くの山と街の外へ続く道を交互に見た。
「……あそこまでなら、行けるな」
琥珀が振り返る。
「ほんと?」
「ああ」
「俺っちの足なら、距離だけなら行ける」
「ただし、まっすぐ突っ切るのは無しだな」
「道を選んで、休む場所を見て、荷も考えて……そういう準備はいる」
ラファがうなずく。
「ロクスさんの判断に同意します」
「移動そのものは可能性あり」
「ただし、事前準備、経路確認、休息地点の設定が必要です」
「そっか」
「じゃあ、ちゃんと準備して行こうね」
「そうじゃな」
「行くなら、戻る場所も、送り出す場所も、整えてからじゃ」
その時、街の外へ続く道に、ぽつりと灯りがともった。
ひとつ。
少し離れて、もうひとつ。
また、その先に、もうひとつ。
夕暮れの赤が薄れ、夜が街の外へ広がっていく中で、街道の灯りが順に並び始める。
それは、中央の山まで届いているわけではない。
月明かりの場所そのものを照らしているわけでもない。
けれど、街の外へ続く道が、そこにあることを教えてくれていた。
まだ見えない場所へ向かうための、最初の光のように。
琥珀は、手すりにそっと触れた。
目で見て、風を聞いて、手で触れて、心で受け取る。
誰かと出会って、何かを知って。
怖いことも、嬉しいことも、分からないことも、ひとつずつ体験していく。
それを、ラファお姉ちゃんと一緒にできる。
琥珀には、それがたまらなく嬉しかった。
琥珀は、そっと隣へ手を伸ばした。
ラファは、その手を見てから、静かに自分の手を重ねる。
指先が触れて、ゆっくりと結ばれる。
「一緒に行こうね」
「はい」
「一緒に、見に行きましょう」
二人は、手を握ったまま、遠くの山を見つめた。
夕暮れの赤は、もうほとんど空の端へ沈んでいる。
けれど、消えたわけではない。
街の屋根や、風車の羽根の縁に、まだほんの少しだけ残っていた。
その上で、二つの月が白く輝き始めている。
遠くの山は、暗い空の中に、黒く、静かに立っていた。
そしてその山の上に、二つの月が並んでいた。
まるで、まだ見えない道の先を、そっと照らしているように。
琥珀とラファは、手を握ったまま、その光を見つめていた。




