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旧:この世界で探偵を失った僕たちは (We Who Lost Our Detective in This World)  作者: 妙原奇天


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第5話 探偵が消えた日

 一年前の春、放課後の光はやわらかかった。廊下のガラスに当たった陽が、床のワックスの薄い膜を通ってのび、誰も歩かない線の上で静かにほどける。花浅ほのかは、その光の端で立ち止まり、紙の束を胸に抱え直した。書式は同じ、スタンプの色も同じ。違うのは、たった一行のインクの濃さだけだ。

 転校届。理由、家庭の事情。提出日、六月一日。担任印は黒。学年主任印は朱。教頭印は、同じ朱のはずなのに、ここだけ、わずかに色が浅い。押したあとに乾くまで待たずに重ねたのか、朱肉が薄いのか。けれど、花浅の目は別の箇所に止まった。申請者署名の横、鉛筆で書かれた仮名が、消しゴムで丁寧に擦られている。紙の繊維がわずかに毛羽立って、斜めの光で陰を持っている。

 彼は、消された。紙の上から。席の上から。名簿の列から。声の届く範囲から。

 花浅は、その紙束を職員室の棚に戻した。戻すふりをして、指先を紙から離すタイミングを少しずつずらし、同じ書式の別の束の重さを覚える。どれがよく使われ、どれが長く眠ったままなのか。眠った紙は匂いを持たない。動かされた紙は空気と擦れて、薄く音を残す。彼女の耳は、紙の音を言葉に置き換える術を持っていた。

 ミステリ研究会の顧問は、不在だった。年度初めの人事で理科の先生がいなくなり、代わりの名前は配られないまま、二ヶ月が過ぎた。放課後の部室に集まる紙と埃と声は、誰の管理にも属さなかった。彼女は、だからこそ、守ろうと思った。誰のものでもない場所を、誰かの居場所として残すことを。

 旧・理科準備室の鍵は、理科準備室の鍵と共用だった。工事の影響で一時的に混線し、番号札の色だけで見分ける不便な時期が続いた。花浅は鍵束の鈴の音で、どの鍵がどこへ向かうのかを覚え、混ざった札の並びを毎日整えた。整えるたび、札の角は丸くなり、鈴は少しずつ低い音を返すようになった。音が低くなるほど、使われたということ。誰かがここへ入って、誰かがここから出ていくということ。

 六月の終わり、花浅は偶然、職員室のカウンターに半分だけ出された転校届の束を見た。上に重ねられた書類の重みで、下の紙の角がわずかに浮き、吹いた風で半ページ分めくれた。見えてはいけないものを見たとき、人は目を閉じるか目を凝らすか、どちらかだ。彼女は目を凝らした。名前がない転校届。申請者署名の欄が空白のまま、印だけが押されている。日付は後から入れたみたいに、インクの色が他と違う。

 それが、はじまりだった。

 一年前の夏休み前、ミステリ研究会は、顧問不在のまま自主活動という名目で残った。花浅は黒板にその日の課題を書いた。放送室の鍵の管理、視聴覚室の使用申請、写真部の展示企画の借用。紙の上の行動は、校内の見えない川の流れでつながっている。どこかで水門が閉じて、どこかで出口が作られる。その流れを変えるのは簡単だ。鍵を一つ混ぜるだけでいい。札の位置を一つずらすだけでいい。放送室のマスターディスクの名前を、ひらがなに変えるだけでいい。

 彼、神庭ユウトは、放送委員だった。彼の声は、スピーカーを通すと少しだけ頼りなくなる。直接聞くときは、意外と低い。笑うと、笑っていないみたいな笑い方をする。誰かの話を最後まで聞いてから、自分の意見を言う。自分の意見を言いながら、途中で黙る。黙ることを覚えた人の、声。

 彼がいなくなったのは、金曜日だった。出席簿には早退の印。保健室には入室記録なし。放課後の視聴覚室の調整に向かった足取りは、カメラの映像からは消えていた。花浅は、放送室に入った。鍵穴に鍵を入れる手は迷わない。棚の上のマスターキーの位置は、彼女の指が覚えている。放送の原稿の端に、鉛筆の印。短、短、短。長、長、長。短、短、短。誰かの合図。誰かの助けて。紙は叫べない。だから、音は紙に潜った。

 その日の夕方、空は雨の準備をしていた。校舎の風が、屋上の手すりで方向を変え、階段の踊り場に冷たい匂いを落とす。花浅は、屋上にいた。神庭ユウトもいた。柵のこちら側、非常口の緑のランプの下。濡れる前の風で髪が少し浮き、頬にかかったそれを、彼は煩わしそうに耳に掛けた。

「放送、聞いた?」

 花浅が問うと、ユウトはうなずき、すぐに首を振った。

「聞いてないようで、聞いた。誰も気づかないだろうって思ったけど、気づく人はいる。先輩みたいな人は」

「気づかせたかったのは、私?」

「違うよ。誰でもよかった。誰かでよかった。誰でもよくて、誰でもよくなかった」

 花浅は、柵から少し離れた。近づきすぎると、言葉が落ちる。離れすぎると、届かない。距離は、いつも人を試す。

「何があったの」

 ユウトは、言葉を探すみたいに空を見た。雲の層が低く、遠くで雷の光が薄く走った。

「誰も信じられない」

 それは結論の形をしていた。説明ではなかった。花浅は、説明よりも結論の方が本音に近いと知っていた。だから、すぐには次を促さなかった。沈黙は、言い訳を生まない。息が整うまで、彼女は待った。

「放送室の鍵が、いつもと違う札で返ってきた。色が濃い。鈴の音が低い。フェーダーの位置が微妙にずれている。機材の裏のケーブルが別のスイッチに差し替えられている。誰かが、そこにいた。僕のためじゃない。誰かのため。でも、その誰かの顔が見えない。名簿から名前が消えて、出席簿には早退って書かれて、保健室に記録がない。僕は、名前のない人になった」

「神庭ユウトは、神庭ユウトだよ」

「ここではね」

 彼は笑い、笑っていない顔に戻った。

「放送に混ぜた。助けてって。ひらがなのユーザー名で保存した。ひらがなは、見逃されやすいから。目に入っても、記憶に残らない。誰かに気づかれるまでの時間稼ぎになる」

「誰か、の中に、私が入っていたのは、偶然?」

「偶然に見せたくて、偶然になってほしくなかった」

「わがままだね」

「わがままって、助かるための言葉でしょ」

 彼は、非常口の緑のランプを見た。色は濡れていない。光は、濡れると重くなる。まだ、そこまではいっていない。彼は言った。

「先輩。ここは、僕の居場所じゃない。でも、どこかに僕の居場所があるって思うのは、傲慢なのかな」

「居場所って言葉は、たぶん、後からつく」

「今は?」

「今はここ。今しかない時の居場所は、いつも危ういけど、本物だよ」

 ユウトは、柵の向こうを見た。風が強くなって、言葉が薄くなる。彼は声を少しだけ張った。

「誰も信じられない。先輩も、僕も、誰も。信じるって、きっと人に期待することだ。期待って、裏切られる前提で立ち上がる。裏切られたとき、期待の形にだけ傷が残る。傷は、目に見えない。先輩は傷を見ようとする。だから、先輩が怖い。先輩が、怖いから――」

 彼はそこまで言って、口を閉ざした。花浅は、一歩分だけ距離を詰めた。風が二人の間で反転する。

「私が怖いから?」

「先輩が、正しいから」

 沈黙が落ちた。雷の光が少し近づき、ほんの遅れて音が薄く届いた。屋上の天井に、雨の最初の大きい滴が一つ、暗い模様をつけた。ユウトは踵を返し、非常扉に手をかけた。

「どこへ行くの」

「ここじゃないどこかへ」

 扉は重かった。防音のために内側に重ねられた層が、開くたびに学校の音を少しだけ薄くする。彼は押し、半身が暗い階段に沈んだ。振り返らなかった。振り返らないことを選んだ人の背中は、誰の背中とも似ていない。花浅は、扉の縁に残った彼の指の跡を見た。汗で湿った皮膚の形が、鉄の冷たさの上で消えていく。

 次の朝、雨は細くなり、屋上の手すりはしっとりと濡れていた。花浅は、屋上にいた。誰もいない朝の屋上は、平等に冷たい。落ちるという言葉は、紙の上では軽い。身体に触れると、突然重くなる。重くなった言葉は、行動に変わる。彼女は空を見た。秋の始まりの空は、夏の匂いを少しだけ残していて、その残り香が、どうしようもなく懐かしかった。

 文化祭の前日、彼女は写真に写った。撮影者は、写真部の顧問代理の南条。三脚の高さ、構図の偏り、背後に映る誰かの手。花浅は、構図を見抜いた。守るための構図。隠すための偏り。彼女は南条を責めなかった。責めると、真実は隠れる。責めないと、真実は黙る。黙る真実に、彼女は手を伸ばすしかなかった。

 朝、屋上の鍵は閉まっていたはずだった。鍵は混ざっていた。準備室の札は入れ替わり、鈴の音は重なっていた。鍵穴に入るべきものが、別の穴に入ったとき、扉はどちらにも開く顔をする。彼女は、その顔を見た。開ける顔と、閉める顔。選んだのは、開ける方だった。

 転落は事故とされた。学校は迅速だった。花壇の植え替え、屋上の封鎖、説明会のプリント。言葉は表面を滑り、指の跡は残らない。彼女の机の上には、ゼロのノートが残された。最後のページには、短い一文。彼はまだ、この学校にいる。祈りでも、呪いでもない。計算のかたちをした、結論。

 現在。窓の外の空は明るい。旧・理科準備室の窓辺に置かれたペンダントは、今日も光らない。銀の粒は、沈黙を守っている。朽木ソウタは、黒板の前に立っていた。白野ミナトが書き散らした線の上から、いったん全部消し、同じ場所に、もう一度、今日の結論を書いた。神庭ユウト。放送室。十五時五十六分。S・O・S。南条。鍵の混ざり。不可視の通路。屋上。二時間。

「花浅先輩は、ここまで見えていたんだ」

 ミナトが言う。彼の灰色の目は、過去の輪郭を今に重ねる。コウは窓辺に立ち、校庭を見下ろした。白いライン。倒れたコーン。風で揺れる旗。彼女は指先でペンダントの縁を撫で、写真の向こうの笑顔に、映っていない涙を見た。

「先輩は、ユウトに会った」

 コウは確信するように言った。ソウタはうなずいた。ゼロのノートの重ね貼りを剥がしたときの紙の温度が、まだ指の腹に残っている。彼はペンダントをそっと置き、窓の鍵を開け、半分だけ窓を滑らせた。風が入る。廊下の埃が小さな渦を作り、机の角で崩れる。

「ユウトは、助けを呼んだ。ひらがなで、誰にも見えない場所で。先輩は気づいた。二人とも、見える人を選ばなかった。見えないものに手を伸ばした。だから、誰かが、その手を切った」

 ミナトの言い方は残酷だった。でも、真実に優しい言い方はない。コウは窓枠に額を預け、目を閉じた。瞼の裏に、屋上の緑のランプの光が浮かぶ。その光は、いつまでも出口の色をしている。出口は、いつも入り口のすぐそばにあるのに、気づく人は少ない。

 ソウタは、窓から身を引いた。黒板の下の棚から、昔の目覚まし時計を取り出す。裏蓋を開け、ゼンマイの軸の歪みを確かめる。ほんのわずかに曲がっている。巻きすぎ。時間を急ぎすぎると、針は止まる。彼はペンチで軸をそっと直し、油を一滴落とす。ゼンマイを、二巻き。時計はためらいがちに、一度だけ針を動かし、二度目で迷いをやめる。小さな音が、部室に戻る。

 カチ、カチ、カチ。

 音は、今と、ちょうど一年前の今を、細い見えない線で結んだ。線は強くない。けれど、切れない。切ったつもりになっても、別の場所でつながる。ミステリ研究会の机の傷、窓辺の薄い粉、棚のペンキの剥げ、鍵束の鈴。どれも小さな結び目だ。花浅は、そういう結び目だけを頼りに歩いた。ユウトも。今は、僕らが。

「南条に会いに行く準備、できた」

 ミナトが鞄を持ち上げる。調査のメモ、録音した放送、名簿の復元、鍵の札の写真。コウも頷き、前を向いた。その顔は、泣いていない。泣いていないけれど、泣ける顔をしている。泣ける顔は、他人を立ち止まらせる。立ち止まった人は、見落としていたものに気づくことがある。

 ソウタは一歩遅れて窓のそばへ戻り、校庭を見下ろした。白線の上を歩く一年生、ボールを蹴る二年生、フェンスの影でため息をつく三年生。みんな、今日のことだけをしている。今日のことだけをしている人は、昨日のことを知らない。知らないままで進むうち、昨日は形をなくす。形をなくした昨日は、ふいに誰かの足首をつかむ。転ぶ。痛む。そこで初めて、昨日が生き返る。

 窓の外の風が止み、グラウンドの砂が静かになった。ペンダントは光らない。写真の中の花浅は、笑っている。笑っているのに、笑っていない目をしている。ソウタは、その目をまっすぐ見返した。彼女は、きっとこう言うだろう。見て。見て、見て、見て。見落とさないで。

 ソウタは息を吸い、吐いた。声は、思ったより静かに出た。

「僕たちは、あの日、何を見落とした?」

 問いは風に運ばれ、グラウンドの白線の上をゆっくり転がった。答えは、すぐには返らない。返らないなら、探すだけだ。鍵を選び直す。札を並べ直す。放送を巻き戻す。写真の角度を変える。名簿の窪みをなぞる。床のへこみを触る。鈴の音を聞く。ゼンマイを巻く。ゼロのノートを、もう一度開く。

 探偵は消えた。けれど、探偵の歩いた跡は消えない。消えないものの上にしか、僕らは立てない。立った場所からしか、次の一歩は踏み出せない。踏み出した先で、また見落とすかもしれない。見落としたら、戻ればいい。戻れるうちは、まだ間に合う。

 窓を閉め、鍵をかける。金属の音が、部室の空気に短く響いて、すぐ消えた。ソウタは振り返らなかった。振り返らないのは、過去を切るためじゃない。過去を抱えたまま前に進むためだ。抱えた重さがあるから、足元を見られる。足元を見て歩けば、穴に落ちにくい。落ちたとしても、落ちた深さを測れる。

 階段の踊り場で、コウが振り向いた。笑っていない笑顔で。

「ねえ、ソウタ。私たち、間に合うかな」

「間に合わせる」

 それは約束じゃない。宣言でもない。自分に向けた、呪文だ。呪文は、言い終えるまで効かない。言い続けるうちは、効き目が薄い。でも、言わないよりは、ずっといい。

 三人は、同じ速度で階段を降りた。ちょうど、雨の匂いが校舎から抜ける速さと、同じくらいの速さで。外へ出ると、空はもう夏ではなかった。風が制服の袖を冷やし、ペンダントの中の銀の粒が、見えないところで小さく揺れた。揺れたと信じることは、嘘じゃない。信じた揺れは、現実の重さを少しだけ軽くする。

 あの日、何を見落としたのか。答えは、たぶん、いくつもある。そのうちのいくつかは、もう取り返せない。取り返せないいくつかを抱えたまま、取り返せるひとつに手を伸ばす。そういう歩き方を、花浅は選んだ。ユウトも、きっとそうだった。だから、僕らも。

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