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旧:この世界で探偵を失った僕たちは (We Who Lost Our Detective in This World)  作者: 妙原奇天


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第3話 封じられたノート

 部室の窓を打っていた雨は、昼を過ぎてから弱くなった。ガラスに残ったしずくが、光をゆるく屈折させる。ここは旧・理科準備室。かつて僕らが机を寄せ、花浅ほのかが黒板に潔い字で仮説を書き連ね、誰も知らない解答を先回りして笑った場所だ。今は、机の上に広げられたノートと、古びた鍵束と、乾ききらない空気だけがある。


 僕はノートの背を撫でた。金色のペンで「No.13」と書かれた背表紙。前回、紫外線に反応して現れた「次は沈黙の証人を探せ」の一文が、背面の紙の裏側に薄く響いている気がする。指先が、紙の端でかすかに引っかかった。そこに、わずかな段差がある。紙を重ねたような、ほんの厚み。


「重ね貼りだね」


 背後で白野ミナトが言った。灰色の目が、光の具合を測るように細くなる。彼はペーパーナイフを机の引き出しから取り出し、刀身を光にかざして角を確かめた。


「剥がす前に、写真を撮る。角度も記録」


 そう言って、スマホで数枚の写真を押さえる。コウは息を潜め、僕はノートの端を押さえた。ペーパーナイフの先が、背表紙の内側を静かになぞる。湿度の高い日を選んだのは偶然じゃない。剥がした紙が砕けにくい。


「ここ」


 ミナトがささやく。ほんのわずか、糊が弱くなっている箇所。ナイフが紙と紙の境目に入る。僕は反射的に息を止めた。紙が指の腹に触れるときのささやかな温度が、音になって耳へ届く。ゆっくり、ゆっくり。角が起きる。同時に、背表紙の裏から薄い色の紙が、溺れた魚みたいに顔を出した。


「もうちょい」


 コウの声はひそやかだった。彼女の目が、涙腺の手前で光る。紙が破れないように、ミナトは刃を寝かせ、糊の線を切り離していく。最後の一点が、音を立てずにほどけた。背表紙の裏から、薄紙のノートが現れた。薄く、色は少し灰を含んだ白。表紙の端に、同じ金色のインクで、手書きの字。


 No.0


 僕は思わず手を離してしまい、紙がふわりと揺れた。空気の波で、その字が一瞬だけにじんだ気がした。コウが息を飲む音が、部屋のひらめきに混ざる。


「ゼロ……」


「最初で、いちばん奥」


 ミナトが薄紙を持ち上げ、黒い布の上に置く。ページは三十にも満たない。軽く触れただけで、紙の繊維がぷつ、と小さく鳴った気がした。花浅の字は、いつものと変わらない。細く、迷いがなく、縦画がまっすぐ降りる。けれど、その行間にだけ、微かな揺れがあった。もしかすると、ゼロという番号が、彼女にとっても未知だったのかもしれない。


 一枚目の見開きに、大きくタイトルが書かれている。


 生徒の失踪について


 僕らの喉の奥に、見えない石が置かれたみたいになった。ページの端をめくる。そこには、箇条書きではなく、時系列の短い記録が続いていた。会った人、聞いた言葉、時間帯、場所。花浅は名詞と動詞だけを抜いて、感情を一切書かない。湊かなえの小説で、登場人物が感情を伏せて事実だけを重ねる場面があるけれど、これはそれに近い。読む側の胸に、勝手に温度が溜まっていく。


 一年前、六月。二年三組、男子一名、転校扱い。名前は書かれていない。消されたのではない。はじめから空白にされている。誰かが消したのではなく、誰も書かなかった、という空白。花浅はその日の担任の連絡帳の文面を写し取っている。「家庭の事情により、しばらく休学、のちに転出予定」その後、クラス写真は撮り直され、ホームルームの名簿は差し替えられた。その子の席は物置用のスペースになり、教室の輪郭から彼は薄れていった。


「いた……よね」


 コウが言った。彼女の声が、肩の筋を震わせる。僕は首を縦に振っていた。いた。名前は曖昧なのに、輪郭だけが浮かぶ。長い前髪、いつも奇妙に白い爪、黒板を消すときの丁寧さ。体育の時間、背番号がいつも違うサイズで、袖が余っていたこと。いる。いるのに、名前が出てこない。


「ゼロのノートに、記録が続く」


 ミナトが指で追う。彼の指先は紙を押さえず、ただ空気をなぞる。花浅は、生徒の失踪が「転校」ではなく「行方不明」だと考え始めた過程を書いている。夏休みが明けても、転校先は共有されない。担任は曖昧に笑い、教頭は曖昧に怒り、保健室の先生は「心配しないで」と言いながら視線を滑らせた。


 ページの途中に、別の話題が挟まる。鍵のことだ。部室の鍵。ミステリ研究会と理科準備室の鍵は、もともと共用だった。準備室が工事に入った時期、管理の都合で鍵束のフックが一時的に入れ替えられ、その混乱が一週間続いた。番号札は色が褪せ、手書きの文字は読みにくくなっていた。ある日、鍵の取り違えが起きた。午後、ミステリ研の部室に入ると、見知らぬ箱が机の下に置かれていた。重さはほとんどない。開けると、中は空。底に、爪が引っかいたような浅い傷。


「鍵が混ぜられていた」


 コウが低く言う。彼女の眉間に、深い溝が落ちる。


「当時の準備室は半分閉鎖されてた。理科の先生たちも出入りしてたし、清掃の人も。共用鍵なら、外部からでも入れる」


「外部?」


「学校に籍はないけど、校舎に出入りできる人。業者。卒業生。保護者。転出者」


 ミナトは答えず、ページを次へ送る。花浅は、その鍵の入れ替わりの期間、準備室に誰が入ったかのメモをつけている。時刻、人物、持ち物、表情。顧問代理の南条の名はそこに三度ある。荷物はいつも黒い布の鞄。鍵束の鈴の音が小さく鳴ったことまで書いてある。用務員の佐伯、理科の山野、校長。来訪者のサインに不自然な空白。来賓用のノートに押された印鑑が、他の日付のものとずれている。花浅の目は、ほんの小さな「ズレ」にだけ止まる。


「花浅先輩、ここで一回、『鍵は混ぜられた』って断定してる」


 ミナトが読み上げる。断定にしては弱い文字。けれど線はぶれていない。花浅は、その混ぜられた鍵で、誰かが部室へ入り、何かを入れ、何かを持ち出したと見ている。何を、だろう。ノートは答えない。ゼロは、問いの形でしか喋らない。


「当時、部室に置いてあったもので、なくなったもの……」


 コウが首をかしげる。視線が棚から棚へ滑っていく。文化祭の記録、スライド、予算書、アンケート。僕の頭に、ひとつの記憶が浮かんだ。小さなテープレコーダー。花浅が、部室での会話をメモ代わりに録音しておくために使っていた。会議のあと、彼女はテープを取り替え、日付を書いて缶に入れた。ある日、その缶のひとつが空になっていた。あのとき、僕は「誰かが間違って使ったのだろう」と思った。今なら、別のことを思う。


「テープ」


 言うと、ミナトがうなずいた。


「テープは、沈黙の証人の親戚だ。声が入る。声は沈黙しない。でも、消すことはできる」


「消されたの?」


「確かめに行こう」


 ミナトは立ち上がると、棚の奥から古い缶をいくつか取り出した。錆の匂い。手のひらにひやりと移る冷たさ。缶のふたに、日付と短いメモがある。「四月部会」「六月案」「九月一週」。一つ、ふたつ、三つ。僕らは机に広げ、順に再生していく。古いレコーダーに乾電池を入れ、巻き戻しボタンが沈むときの抵抗を指先に感じる。


 声が流れる。花浅の声は、はっきりしていて、笑うときに少しだけ鼻にかかる。僕の声は、自分で思っていたより低い。コウの声は、言葉の尻がいつも上がる。どこかのページで紙がめくられる音。外でサッカーボールが壁に当たる音。それらの間に、沈黙が挟まっている。沈黙は、録音されても沈黙のままだ。


「この週は?」


「文化祭の準備のはじまり。ほのかが役割を振り分けて、僕らが反論して、最後は全部やらされるっていう、いつものやつ」


 少し笑って、僕らは次のテープを再生した。九月一週。再生ヘッドが回り始めて、すぐに止まった。無音。僕は音量を上げた。ノイズが少し上がるだけ。何も録られていないか、まっさらな状態に上書きされたか。


「消されてる」


 コウの声が、乾いた紙の上を滑る。


「この週は、鍵の混乱があった週だね」


 ミナトが手帳に書き込む。日付、テープ番号、状態。彼は無音のテープにイヤホンをあて、わずかなパルスの揺れを感じ取ろうとするみたいに目を閉じた。


「無音にも、厚みがある」


「なにそれ」


「ほんとだよ。完全な無音って、逆に不自然。電源を入れてマイクをオンにしていたなら、教室の空気の騒ぎ、蛍光灯の唸り、遠くの体育館の歓声。こういう微粒の音が砂みたいに積もる。それすらないのは、意図的に消したってこと」


「消したのは、誰」


「テープは鍵を使わなくても持ち出せる。でも、部室に入ってテープ缶を開け、選んで、持ち出して、別の無音のテープを戻すには、部室の鍵が必要。共用期間。理科準備室経由。外部から入りやすかった」


 ズレとズレが、一本の線になっていくのが、身体の奥でわかる。僕の脳の中で、ゼンマイがゆっくり巻かれていく。巻きすぎれば軸は歪む。慎重に、均等に。花浅が教えてくれたやり方だ。


 ノートの続きには、あの失踪した男子への聞き込みの記録がある。図書室で見かけた生徒がいる。グラウンドの隅でひとりで立っていたのを、用務員が見た。保健室の常連が「知ってる気がする」と言っては口をつぐむ。中でもひとつ、ページの端が指の油で暗くなっている箇所。何度も開いたのだろう。そこには、こう書かれていた。


 理科準備室で、白衣を着ない教師を見た。名札をつけていなかった。鍵束が二つ。鈴の音が重なる。


「南条」


 コウが低く名を呼ぶ。けれど、それは確信ではなく、疑いが声になっただけだ。南条が白衣を着ていなかったかどうかの記憶は不確かだ。彼は影が薄く、輪郭がいつも空気に溶けていた。名札を忘れるのは彼に限らない。鍵束が二つ、という点だけが刺さる。


「鍵束が二つあれば、一つを混ぜ、一つを戻せる」


 ミナトが言う。


「混ぜる理由は?」


「誰かに部室へ入らせるか、入らないようにするため。入口を増やすか、出口を消すか。混ぜた人間は、その効果を知っていた。鍵の配置を日常的に知ってる者」


 理科準備室と部室の鍵が共用になったのは、一時的な工事のせいだ。工事の詳細を知っている者。図面を見た者。出入りを管理する者。用務員。教頭。顧問代理。そして、もうひとつ可能性がある。準備室の中で働く、名も知られていない手。外部委託の業者。理科薬品の補充。空調。配線。台車で運ばれた箱。そこに鍵が入っていたら、誰も疑わない。


「鍵は道具。道具を渡したのは、人」


 ミナトはゼロのページを閉じず、手のひらで軽く押さえた。その仕草が、ページの文字を守るみたいに見えた。


「ゼロのノートは、花浅先輩自身のための記録なんだね」


 コウが言う。自分で言って、少し笑って、でもすぐ真面目な顔に戻る。


「誰に見せるためでもない。自分の考えを固めるための線。だから、彼女は最後のページにだけ、感情を置いた」


 最後のページ。そこには、短いメモだけがある。


 彼はまだ、この学校にいる


 僕はその文の上に影を落とさないよう、身を引いた。筆圧が強い。花浅はここだけ、線の速度を上げている。ためらいがない。断定。喉の奥が熱くなった。


「一年前の男子。転校扱いのまま行方不明。名前が消えた席。写真を撮り直したクラス。鍵の混乱。無音のテープ。白衣を着ない教師。鍵束が二つ。鈴の音。南条。業者。外部と内部の境目」


 ミナトは机に視線を落としたまま、言葉を置いていく。積み木を積むみたいに。コウは椅子に深く座り込んで、両手で顔を覆った。指の隙間から、彼女の目が覗いている。泣いていない。泣いていないのに、潤んでいる。


「彼は、どこにいるの」


 コウの声が、ゼロのページの余白に落ちた。誰も答えられない問い。


「学校は広いよ」


 ミナトが言う。軽い調子に聞こえるけれど、言葉の中身は重い。


「見える場所だけが学校じゃない。廃棄された準備室。使われない倉庫。秘密の鍵があれば、放課後の校舎は迷宮になる」


「でも、見つかってない。警察も来た。職員も探した。あれから一年だよ」


「一年なら、見えなくなるには十分だ」


 ミナトは立ち上がり、窓を開けた。湿った風が入り、紙の端がふるえた。廊下が遠くなり、雨の匂いが近くなる。彼は窓の桟を指でなぞり、薄い傷を見つめた。一本の直線。前に僕が見つけた傷だ。


「この傷も、誰かが定規にした結果だよ。目に見えない線引きを、誰かがここでやった。その線で区切られて、こちら側とあちら側ができた」


「こちら側と、あちら側」


 コウが繰り返す。彼女の視線が、ゼロのノートに落ちる。紙の繊維が、光の角度で白く立っている。


「花浅先輩は、その線を越えようとして、落ちた」


 僕は言ってしまった。喉の奥に置かれていた見えない石が、今、口から出たのかもしれない。コウが僕を見た。まっすぐに。彼女はうなずきもしなかったし、否定もしなかった。目の奥だけが、静かに痛んでいる。


「現場に行こう」


 ミナトが言った。屋上ではない。理科準備室の手前、鍵が混ぜられたというキーボックスの前だ。管理室の横に小さなスペースがあり、そこに古い金属製の箱が壁付けされている。ガラス窓の割れた跡がテープで補修され、番号札がフックにかかっている。


 管理室の担当者は出払っていた。誰もいない時間帯。僕らは扉の前に立つ。鍵の扉を開けられるマスターキーは職員室で管理されている。けれど、箱のガラスは壊れていたし、テープの端は持ち上がり、指が入るだけの隙間がある。誰かが頻繁に手を入れている。


「番号札、色が違う」


 コウが指した。二本の札の赤が、他より濃い。換え札だ。古い札の代わりに新しい札が挿し込まれている。札の穴の縁に、最近の爪の跡。そこからもぎ取られた最初の紙片が、箱の底に落ちていた。拾い上げると、背の低い子どもの字で、薄く数字が書かれている。削れた鉛筆の芯で書いたような弱い線。


「子ども?」


「もしくは、手が震える誰か。利き手じゃないほうの指で書いた可能性」


 ミナトは札の並び順を、写真で記録する。フックの摩耗具合。鈴の数。鈴の大きさ。一本だけ、鈴が二つ付いているものがあった。二つの音が重なる。ゼロのノートの一文が、背筋を走る。鈴の音が重なる。


「持ち出されたのは、どれ」


 僕が問うと、ミナトは一本の鍵を指した。札の角がより丸い。触られ続けた痕跡。札には手書きで「準備室」とあるが、文字の癖が他と違う。書いた人が違う。筆圧が弱く、線が波打つ。いかにも、急ごしらえの札。


「こうやって混ぜたんだ。誰でも取りやすい位置に置く。札の色を似せる。並び順を少しだけ崩して、毎日見ている人間には違和感のないズレにする」


「誰に、使わせたの」


「沈黙の証人は、まだ沈黙してる」


 ミナトは言い切らず、目を細めた。鍵の束の鈴が、わずかに揺れて、音が出なかった。揺れただけ。音は、鳴らないときのほうが怖い。


 部室に戻ると、夕方の光が廊下から薄れていた。ペンダントは窓辺に置きっぱなしで、金色に見えるはずの縁が、今は灰に近い。ゼロのノートは机の真ん中。ミナトは手を洗い、手袋を替えると、最後のページをもう一度開いた。


 彼はまだ、この学校にいる


 この一文の真下の紙だけ、わずかに厚い。ミナトは指で軽く叩き、音の違いを確かめる。薄紙のはずのページが、他より低い音を返した。


「ここにも、重ね貼り」


 僕とコウは同時に身を乗り出した。ミナトは刃を立てず、紙と紙の接着を指の腹でほどく。薄い紙は、刃よりも指の温度で離れるときがある。時間をかける。息を合わせる。紙の繊維が音を立てずに別れていく。剥がれた下から、さらに薄い半透明の紙片が現れた。そこには、鉛筆で描かれた簡単な図。四角が二つ。細い線が三本。印が一つ。


「配置図だ」


 ミナトが指でなぞる。見覚えのある比率。校舎の二階の、渡り廊下と物置。理科準備室の旧倉庫の隅に、四角いスペースがある。そこに小さな印がついている。印の横に、花浅らしい短い説明。


 鍵の届かない引き戸の内側


 コウが息を飲む。僕は立ち上がった。心臓がハンマーみたいに鳴る。ゼンマイは巻かれすぎていない。今は、正しい速さで動いている。花浅はここまで来ていた。ゼロは、ただの始まりじゃない。始まりのはずのページが、終わりの手前で、次の扉を指している。


「行こう」


 ミナトがノートを閉じ、布に包み、鞄にそっと入れた。コウは頷き、髪を結び直した。窓の外はほとんど夜だ。廊下の蛍光灯が冷たい。鍵の鈴は鳴らない。僕らの靴音だけが、少しずつ速くなる。


 理科準備室の旧倉庫。工事で使われなくなったエリアのさらに奥。引き戸が二重になっている。外側の引き戸は普通の鍵で開く。内側の引き戸には、表から鍵穴がない。押しても引いても、びくともしない。上部のレールのところどころに、古い埃が積もり、蜘蛛の巣が細く伸びている。


「鍵の届かない引き戸の内側」


 僕は呟く。扉の横の壁に、小さな穴が空いている。指は入らない。針金なら通る。ミナトは鞄から細いステンレスの針金を取り出した。ラジオペンチで先を曲げ、穴に差し込む。何度か角度を変え、舌打ちせずに、彼は集中する。やがて中で何かが外れ、引き戸がわずかに動いた。空気が吐息みたいに漏れた。湿った匂い。古い紙と布の混ざった匂い。懐かしくて、胃が縮む匂い。


「開くよ」


 コウの声が震える。僕らは肩で引き戸を大きく押し、内側の重さを滑らせる。隙間から、暗闇が覗いた。ライトをつける。光が埃を泳がせ、棚の輪郭が浮かび上がる。箱。箱。箱。届出書の束。使われていない実験器具。錆びた金具。床の上の、へこんだ四角い跡。そこに、畳ほどのスペースの痕跡がある。何かが置かれていた。何かが、長い間。


 コウがしゃがみ込み、床のへこみを指でなぞった。指先が黒くなる。その指で、壁の低い位置にある通気口の格子に触れる。格子の裏に、柔らかいものが詰められていた。布。引っ張ると、古い布切れが出てくる。さらに、破れた布の奥から、薄い音。固いものが床に落ちた。


 硬貨。十円玉。錆びて、色がくすんでいる。表面に、空気を吸った跡。誰かが、ここに長くいた。小銭が落ちるくらいの時間。僕の胸が、音の前に沈む。


「ここにいた」


 ミナトが言った。断定にしては優しすぎる声。断定にしては、痛すぎる言葉。


「彼はまだ、この学校にいる」


 ゼロのノートの最後の一文が、暗い部屋で光になった。床のへこみ、布の詰物、硬貨、埃の層。時間が積もっている。時間は、黙っているときに限って、雄弁だ。


 棚の隅に、古いペットボトルが倒れていた。ラベルは剥がれ、透明の表面に爪で引っかいた線がある。斜線。斜線。意味のない落書きに見える。いや。ミナトはボトルを光にかざし、線の間隔を測る。一定だ。リズムがある。三本の斜線、一本の縦線、二本の斜線。繰り返し。彼は口の中で数えた。


「これは、日付だ」


 僕は首を傾げる。ミナトは説明する。縦線は区切り。斜線の数は、日。繰り返した回数は、週。ボトルの一本には三つのまとまりがあり、もう一本には五つ。最低でも二ヶ月分の刻み。誰かがここで時間を刻んでいた。音のない時計の代わりに。


「ここで、待っていた」


 コウの言葉が、空気に触れて、音に変わる。待っていた。誰を。助けを。夜明けを。自分が見えなくなる瞬間を。どれでもない何かを。喉の奥で、何かが崩れた。花浅は、この印を見つけて、最後のページに書いたのだろう。彼はまだいる。いる。いるのに、いない。


「名を、知りたい」


 僕は言った。名がないと、呼べない。呼べないと、ここには辿り着けても、彼に触れられない。名簿は差し替えられている。写真は撮り直されている。テープは無音になっている。鍵は混ぜられている。全部が、名を隠すために働いているみたいだ。


「名は、どこかに残る」


 ミナトが棚の上段に手を伸ばす。薄い埃の下から、クリアファイルを引き抜いた。中には、古い配布プリント。保健室からの連絡、学校だより、図書室の新刊案内。その束の間に、一枚だけ紙質の違うプリントが挟まっていた。写真部の部員募集のチラシ。端に、小さく、「撮影協力者名簿は当日配布」とある。花浅の字ではない、誰かのメモが鉛筆で書き込まれていた。


 名簿、準備室に保管


 僕らは顔を見合わせた。準備室のどこか。名簿。撮影協力者の名前。文化祭前日。屋上。花浅。南条。背後の誰か。名は、そこに。花浅はそこを開けようとして、ここまで来て、ゼロに書き残し、落ちた。


「もう一度、探す。名簿」


 ミナトは暗い倉庫の奥へ進む。僕とコウもあとを追う。棚の奥の赤いファイルボックス。ラベルが剥がれ、代わりにペンで書かれた文字が滲んでいる。中身は空だった。別の箱。ベージュの厚紙。開けると、透明な袋に入った紙束。表紙のない薄冊子。フォントが古い。写真部の会計報告。その後ろに、紙質の良い一枚が挟まっていた。タイトルは「撮影協力者名簿」。日付は、文化祭の週。欄外に、南条のサイン。名前が並んでいる。クラス、氏名、連絡先。いくつかの名前に線が引かれ、消し跡がある。鉛筆で書かれ、消しゴムで優しく擦られた痕跡。


「消した、のか」


 コウが震える声で言った。ミナトは名簿を光に透かす。消した文字の跡は、紙の窪みとして残る。斜めから光を当て、スマホで撮影し、画像を反転させる。細い窪みが線になる。線が文字になる。「二年三組」。そして、名字。珍しくない字。名は、もっと珍しくない。けれど、僕の頭の奥で、何かが合致する。クラスの並び。席替え。黒板の前で体育座りをしたときに隣だった影。


「覚えてる」


 僕は言った。その名を、声に出すと、世界が少し歪む気がした。僕の声が、僕から離れて、空へ溶ける。名は刹那に重くなり、次の瞬間ふっと軽くなる。名前は鍵だ。鍵は鳴らないときがある。名を呼ぶと、扉がわずかに動いた気がする。引き戸が、内側から。


「彼は、本当に、まだここにいるのか」


 コウが僕を見た。僕はうなずき、そして首を振った。いる。いない。両方。花浅の書いた断定は、希望に見える。けれど、ゼロは見たことしか書かない。見たのだ。誰かの存在の痕跡を。花浅は、そこまで確かめた。


「夜になる」


 ミナトが腕時計を見た。秒針が、静かに進む。僕の鞄の中の古い目覚ましも、音を合わせる。カチ、カチ。引き戸を閉め、針金を抜く。扉はまた、外から開かない顔をする。僕らは部室へ戻る。ゼロのノートを布で包み直し、机の引き出しに入れる。ペンダントは、窓辺にそっと置く。光らない。けれど、そこにある。


「明日、職員室で名簿の原本を請求する。怒られてもいい」


 ミナトは軽く笑った。怒られることに、僕らの時間は慣れている。怒られるほど、何かに近づく。


「私は、保健室に行く。カウンセリングの記録は見られないけど、掲示物の貼り替えの時期と、発注の記録は見られる。あの子のために用意されたものが、何か残ってるかも」


 コウの声は固い。でも、固いものは折れる前に熱を持つ。熱は、夜道を照らす。


「僕は、準備室の鍵の札を撮影した写真を整える。並び順の変化、摩耗の違い、フックの歪みの分布。混ぜた手の癖を浮かび上がらせる。鈴の音は、重なる」


 ミナトは最後に、ゼロの最後のページをもう一度見た。彼はまだ、この学校にいる。花浅の筆圧の跡を、指でなぞったりはしない。彼は、ただ視線で触れた。


「花浅先輩」


 コウが窓の外に向かって呼んだ。呼びかけは、届く前に夜に吸われた。けれど、呼んだという事実だけが、ここに残った。僕らの声は、小さすぎる。小さい声は、消えるのが早い。でも、消える前に、何かに触れることができる。


「探偵は死んだ」


 僕は言った。ゼロのノートの横で。ペンダントの小さな円の横で。窓の外の暗闇の横で。


「でも、謎は生きてる」


 ミナトが続けた。彼の灰色の目は、夜の色とよく似ている。似ているのに、まったく違う。夜は、何も言わない。彼の目は、問い続ける。


「明日」


 コウが言った。明日に続く言葉は、誰も続けなかった。明日という言葉だけが、未来の棚に置かれる。そこに、今日の続きがある。僕らは鍵を持っている。混ぜられた鍵の中から、正しい鍵を探す術を、少しずつ身につけている。花浅が遺したゼロは、最初の合図だった。沈黙の証人は、窓辺に眠っている。鈴の音は、重なる。名は、紙の窪みに残る。床のへこみは、ここにいたことを話す。彼はまだ、この学校にいる。


 部室の灯りを落とすと、窓辺のペンダントが、ほんの一瞬だけ光った。気のせいかもしれない。けれど、気のせいだけで僕らはここまで来た。気のせいだったとしても、ここにあるということは、変わらない。僕らは扉を閉め、廊下へ出た。蛍光灯の白が、無言で道を延ばす。振り返ると、ガラス越しに、机の上の布がうっすら浮かんで見えた。花浅のゼロが、その下で静かに呼吸しているみたいに。


 夜風が、制服の袖を冷やした。校庭の隅で、風よけのネットがばさりと鳴った。遠くで、踏切の警報が短く鳴って止んだ。家へ向かう歩道の白線の上を、コウが慎重に歩く。バランスをとるその足取りは、落ちる前に少し揺れる。この揺れは、落ちる前の合図ではない。次に進む前の準備だ。僕はその後ろを歩き、ミナトは少し前を歩く。順番は、毎回違う。けれど、歩くことだけは、同じだ。


 花浅。あなたがゼロに重ねた紙は、今、僕らの指の熱でほどけて、文字になった。あなたの最後の一文は、残酷なほど優しかった。彼はまだ、この学校にいる。いるなら、探す。いるなら、呼ぶ。名を。姿を。手触りを。ここにいる時間を。


 探偵はもういない。でも、探偵の遺したものは、ここにある。僕らの呼吸の数だけ、ページは進む。ゼロから、ひとつずつ。雨はとうに止んでいる。けれど、濡れた匂いは、まだ胸に残っていた。胸の奥で、目覚ましの秒針が、静かに鳴り続ける。カチ、カチ、カチ。止めない。止めさせない。止められない。あのとき止まった時間の歯車に、少しずつ、新しい歯を噛み合わせていく。僕らの指先で。僕らの声で。僕らの、ささやかな足音で。

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