第95話 午後三時、ちょっと言っただけ ― コメット、いつも通りポンコツ ―
宇宙では、ときどき
「大事故の一歩手前」が起きる。
だがそれは、
必ずしもサイレンや怒号と一緒に
やって来るとは限らない。
誰かが少し角度を変え、
誰かが数ミリ押し、
誰かが「まぁいいか」と言っただけで、
世界が元に戻ってしまうこともある。
〈コメット〉の午後三時は、
今日もそんな時間だ。
〈セクター7〉、午後3時。
カフェ〈コメット〉では、
いつも通り、どうでもいいことで少し揉めていた。
「だからそれは“置きすぎ”だって」
リクが言うと、
ジロウは工具を持ったまま首をかしげる。
「えー? でも安定感あるっすよ?
ほら、ガタガタしない」
「その安定感が怪しいんだよ」
床の一部が、ほんの少しだけ傾いている。
ジロウが工具を当てながら言った。
「じゃあ……こっち、1ミリ戻します?」
「1ミリでいい。
それ以上やると、また変な音する」
「了解っす」
カチ。
工具を動かした、その瞬間。
天井の照明が一瞬だけ、ふっと落ち着いた。
「……今、光変わった?」
カナが言いながら、
床に散らばった豆を拾い始める。
「またジロウが何かやった?」
「まだ何もしてないっす!
今やったのは“ほぼ何も”っす!」
ミナのホログラムが、
ドリップポットの角度をわずかに修正する。
『抽出角度、0.3度変更します』
「なんで?」
『なんとなくです』
「理由として弱すぎないか」
ぽと……ぽと……
コーヒーの滴が落ちる。
そのリズムに合わせるように、
床の微振動が、すっと消えた。
カナは豆を拾いながら、
何気なくカウンターの脚を押す。
ぎ、ではなく、
とん、と軽い音。
「……あ、これでいい感じ」
「何が?」
「脚。ちょっとズレてた」
「最初に言え」
そのとき、
店内モニターの隅で、
見慣れないグラフが静かに下がっていった。
『……重力安定度、改善』
「ん?」
『循環軌道、再同期完了』
「は?」
ジロウが固まる。
「……ミナさん?
今、何て言いました?」
『ステーション全域、
安定状態に移行しました』
沈黙。
数秒。
「……オレ、何か壊しました?」
「逆だ」
「直しました?」
「たぶん」
ジロウは頭を抱えた。
「またっすか……
オレ、普通に床直しただけっすよ!?」
リクはコーヒーをカップに注ぎながら言う。
「床だろ。
床がズレりゃ、全部ズレる」
「そんな大事なもんなんすか!?」
「知らん。
でも今、落ち着いた」
ミナが淡々と記録する。
『作業内容:
床調整、抽出角度修正、豆拾い
副次結果:ステーション危機回避』
カナが笑った。
「副次結果が重すぎる」
「書き方が悪いっすよそれ!」
リクはカップを差し出す。
「ほら。
午後三時だ」
ジロウは受け取りながら、まだ不安そうだ。
「……外、なんか騒がしくないっすか?」
「知らねぇよ。
うちは通常営業だ」
コーヒーの香りが広がる。
その頃、
管制フロアでは
“原因不明の奇跡的安定化”に
頭を抱えていたが――
〈コメット〉では、
誰もそんなことを知らなかった。
ミナが最後に、静かに記録する。
『本日の香りの記録——
“ちょっと直しただけの午後”』
今日も、
晴れ、ときどき地球だ。
後から聞けば、
あれは「ステーション全域の危機」だったらしい。
だが、
〈コメット〉では
床が少しズレていただけで、
豆が落ちていただけで、
抽出角度が気になっただけだった。
本人たちは、
直したつもりも、救ったつもりもない。
ただ、
「いつも通り」に戻しただけだ。
それが一番、
この店らしいやり方なのかもしれない。
今日も、
晴れ、ときどき地球だ。




