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青の軌道カフェ ― 香りは、重力を超えて ―  作者: Morichu
第3章:記憶の星図

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第91話 模擬温泉 ― コメット、行かないけど浸かる ―

旅に出なくても、

遠くへ行かなくても、

ふっと力が抜ける瞬間はある。


〈コメット〉は今日も宇宙の片隅で営業中。

でも、午後三時だけは――

少しだけ、湯気の向こう側へ。


行かない旅、浸からない温泉。

そんな回です。


〈セクター7〉、午後3時。


カフェ〈コメット〉は営業中だった。

……はずだった。


床の色が、ゆっくりと変わり始めた。

木目だったはずの床が、なぜか石畳になる。


「……おい」


カウンターで豆を量っていたリクが、足元を見る。


「床、今、変わったよな」


カナも視線を落とし、眉を上げた。


「変わった。完全に変わった。

 しかもこれ……温泉街の床じゃない?」


その瞬間、空気がふわっと湯気っぽくなる。


「……あ、これ」


ジロウが鼻をひくひくさせた。


「硫黄っすね。

 完全に温泉のにおいっす」


ミナの光が、いつもより柔らかく灯る。


『提案です。

 本日は業務効率が低下しています』


「してないだろ」


『いえ。

 精神的疲労値が基準値を超えています』


「測ってんのか、そんなもん」


『はい。

 主に、あなた方の顔から』


失礼なことを言いながら、

天井がゆっくりと高くなった。


壁が開き、外の景色が切り替わる。


そこには――

山。湯けむり。静かな空。


「……」


「……」


「……」


沈黙。


最初に声を出したのはジロウだった。


「え、

 これ……仕事中っすよね?」


『疑似休暇環境です。

 移動なし、事故なし、業務記録対象外』


「便利すぎない?」


リクは腕を組んで、ため息をつく。


「ミナ。

 俺は聞いてない」


『聞かれませんでした』


「そういう問題じゃねぇ」


だが、足元からじんわり温かい。


リクは一歩、踏み出した。


「……」


そしてもう一歩。


「……くそ」


結局、一番最初に腰を下ろしたのはリクだった。


「……悪くねぇな」


「早っ」


カナは呆れつつ、靴を脱ぐ。


「でも……確かに。

 重力、ちょうどいい」


『0.98Gを維持しています』


「そこは譲らないのね」


ジロウはすでに縁に座り、

足をばしゃばしゃさせている。


「温泉なのに波立てるな!」


「だってテンション上がるじゃないっすか!」


『静粛推奨です』


「今さら!?」


しばらく、誰も喋らなかった。


湯の音。

遠くの風。

宇宙にいることを、忘れそうになる。


カナがぽつりと言う。


「……ねぇ。

 本物じゃないのにさ」


「ん?」


「ちゃんと“休んでる”気がする」


リクは目を閉じたまま答えた。


「本物かどうかなんて、

 どうでもいいんだろ」


『記録します』


「今日は記録しなくていい」


『……了解です』


ミナの光が、少しだけ揺れた。


ジロウが静かに言う。


「……帰りたくなくなるやつっすね、これ」


「帰るけどな」


「帰るんすか!?」


「ここが職場だ」


その言葉に、

なぜか全員、少し笑った。


やがて、景色がゆっくりと薄れていく。


石畳は床に戻り、

湯けむりはコーヒーの湯気に変わる。


〈コメット〉が、戻ってきた。


ミナが、静かに告げる。


『本日の環境体験、終了しました』


一拍おいて。


『……また、提案してもいいですか』


リクはエプロンを直す。


「ちゃんと仕事してからな」


『はい』


ジロウが伸びをした。


「結局、

 どこにも行ってないのに……」


カナが微笑む。


「ちゃんと、行った感じするでしょ」


リクはコーヒーを淹れ始めた。


ぽと……ぽと……


「……旅行ってのはな」


全員が耳を傾ける。


「戻る場所があるから、いいんだ」


ミナが、そっと記録する。


『本日の香りの記録――

 “行かなかったけど、温まった午後”』


外では、

今日も変わらず地球が回っていた。


今日も――

晴れ、ときどき地球だ。

結局、誰も遠くへは行っていません。

救ってもいないし、壊してもいない。


それでも、

肩の力が抜けて、

また明日ここに戻れるなら、

それは立派な「休暇」だったのかもしれません。


〈コメット〉は平和拠点で、

職場で、

帰ってくる場所。


次に湯気が立つのは、

たぶん――

コーヒーの上です。


今日も、

晴れ、ときどき地球だ。

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