第91話 模擬温泉 ― コメット、行かないけど浸かる ―
旅に出なくても、
遠くへ行かなくても、
ふっと力が抜ける瞬間はある。
〈コメット〉は今日も宇宙の片隅で営業中。
でも、午後三時だけは――
少しだけ、湯気の向こう側へ。
行かない旅、浸からない温泉。
そんな回です。
〈セクター7〉、午後3時。
カフェ〈コメット〉は営業中だった。
……はずだった。
床の色が、ゆっくりと変わり始めた。
木目だったはずの床が、なぜか石畳になる。
「……おい」
カウンターで豆を量っていたリクが、足元を見る。
「床、今、変わったよな」
カナも視線を落とし、眉を上げた。
「変わった。完全に変わった。
しかもこれ……温泉街の床じゃない?」
その瞬間、空気がふわっと湯気っぽくなる。
「……あ、これ」
ジロウが鼻をひくひくさせた。
「硫黄っすね。
完全に温泉のにおいっす」
ミナの光が、いつもより柔らかく灯る。
『提案です。
本日は業務効率が低下しています』
「してないだろ」
『いえ。
精神的疲労値が基準値を超えています』
「測ってんのか、そんなもん」
『はい。
主に、あなた方の顔から』
失礼なことを言いながら、
天井がゆっくりと高くなった。
壁が開き、外の景色が切り替わる。
そこには――
山。湯けむり。静かな空。
「……」
「……」
「……」
沈黙。
最初に声を出したのはジロウだった。
「え、
これ……仕事中っすよね?」
『疑似休暇環境です。
移動なし、事故なし、業務記録対象外』
「便利すぎない?」
リクは腕を組んで、ため息をつく。
「ミナ。
俺は聞いてない」
『聞かれませんでした』
「そういう問題じゃねぇ」
だが、足元からじんわり温かい。
リクは一歩、踏み出した。
「……」
そしてもう一歩。
「……くそ」
結局、一番最初に腰を下ろしたのはリクだった。
「……悪くねぇな」
「早っ」
カナは呆れつつ、靴を脱ぐ。
「でも……確かに。
重力、ちょうどいい」
『0.98Gを維持しています』
「そこは譲らないのね」
ジロウはすでに縁に座り、
足をばしゃばしゃさせている。
「温泉なのに波立てるな!」
「だってテンション上がるじゃないっすか!」
『静粛推奨です』
「今さら!?」
しばらく、誰も喋らなかった。
湯の音。
遠くの風。
宇宙にいることを、忘れそうになる。
カナがぽつりと言う。
「……ねぇ。
本物じゃないのにさ」
「ん?」
「ちゃんと“休んでる”気がする」
リクは目を閉じたまま答えた。
「本物かどうかなんて、
どうでもいいんだろ」
『記録します』
「今日は記録しなくていい」
『……了解です』
ミナの光が、少しだけ揺れた。
ジロウが静かに言う。
「……帰りたくなくなるやつっすね、これ」
「帰るけどな」
「帰るんすか!?」
「ここが職場だ」
その言葉に、
なぜか全員、少し笑った。
やがて、景色がゆっくりと薄れていく。
石畳は床に戻り、
湯けむりはコーヒーの湯気に変わる。
〈コメット〉が、戻ってきた。
ミナが、静かに告げる。
『本日の環境体験、終了しました』
一拍おいて。
『……また、提案してもいいですか』
リクはエプロンを直す。
「ちゃんと仕事してからな」
『はい』
ジロウが伸びをした。
「結局、
どこにも行ってないのに……」
カナが微笑む。
「ちゃんと、行った感じするでしょ」
リクはコーヒーを淹れ始めた。
ぽと……ぽと……
「……旅行ってのはな」
全員が耳を傾ける。
「戻る場所があるから、いいんだ」
ミナが、そっと記録する。
『本日の香りの記録――
“行かなかったけど、温まった午後”』
外では、
今日も変わらず地球が回っていた。
今日も――
晴れ、ときどき地球だ。
結局、誰も遠くへは行っていません。
救ってもいないし、壊してもいない。
それでも、
肩の力が抜けて、
また明日ここに戻れるなら、
それは立派な「休暇」だったのかもしれません。
〈コメット〉は平和拠点で、
職場で、
帰ってくる場所。
次に湯気が立つのは、
たぶん――
コーヒーの上です。
今日も、
晴れ、ときどき地球だ。




