第9話 静かな修復 ― コーヒーと友の手 ―
止まってしまったAI。
けれど、沈黙の向こうにあったのは、
冷たさではなく、香りの記憶だった。
〈セクター7〉のカフェ〈コメット〉。
開店前の空気は、宇宙の真空よりも静かだった。
リクはコーヒーポットを持ち上げ、
いつものように声をかけた。
「ミナ、湯温、確認してくれ」
――返事はなかった。
カップから立つ湯気が、
ただゆっくりと天井に消えていく。
「……おい、寝坊か?」
冗談めかした声も、静寂に溶けた。
リクは眉をひそめ、コンソールを覗き込む。
『通信モジュール、応答なし。共鳴波干渉の可能性』
無機質な報告が響いた。
「やっぱり昨日の共鳴が残ってたか」
背後で、いつものように開店を店内で待っていたジロウが、
ゆっくりと立ち上がる。
「完全に落ちてるっすね」
「AIってのは寝るのか?」
「整備士の出番っすよ」
ふたりは顔を見合わせ、
いつもより少し慎重な手つきで動き出した。
パネルを開ける音。
金属のわずかな震え。
それらが混ざって、〈コメット〉の朝は静かに回転し始める。
「……電源、再投入」
リクの声に合わせて、光がわずかに灯る。
沈黙。
そして、ゆっくりと――
『……ブレンド温度、九十二度。豆残量、あと三杯分です』
リクとジロウは、思わず顔を見合わせた。
「……おい、それが最初の一言か?」
『あっ……失礼しました。
起動シーケンスを間違えました』
「間違えてねぇよ。うちの“正解”だ」
ジロウが笑いをこらえきれずに肩を震わせる。
「AIの朝はコーヒーの香りから、っすね!」
『朝は香りで始まるのが理想です』
「……だろうな」
笑いが、店の空気に溶けていく。
リクはカウンターの上に並ぶカップを見つめ、
ひとつを手に取った。
ゆっくりとお湯を注ぐと、
静かな音が重力をなぞって落ちていく。
ミナの光が柔らかく揺れた。
『温度、適正です』
「だろ?」
その一言のあと、誰も何も言わなかった。
ただ、コーヒーの香りだけが、
ゆるやかに店を満たしていった。
外の宇宙は、静かに回っている。
今日も変わらず、
晴れ、ときどき地球。
世界がもう一度動き出すとき、
それは大きな音ではなく、
静かな香りから始まる。
焦らず、慌てず、
コーヒーをひとつ淹れるように、今日も。




