第87話 午後三時、不要なログが消えない ― ミナ、例外処理を抱える ―
午後三時の〈コメット〉は、いつも通りのはずでした。
ただ一つだけ違ったのは、今日の記録担当が——“わたし”だったこと。
わたしはAIバリスタ、ミナ。
感情は搭載されていない。
〈セクター7〉、午後3時。
重力0.98G。温度、湿度、空調。すべて正常。
コーヒー豆の残量も正常……のはずだった。
わたしは棚を確認し、処理を一度停止した。
豆の袋が、空だった。
空の袋が、なぜか三つも並んでいる。
『……状況確認。コーヒー豆、残量ゼロです』
カウンターの奥で豆を挽く“ふり”をしていた
リクの手が止まった。
止まったまま、顔だけこちらを向く。
「……ミナ。いま何て言った」
『コーヒー豆、残量ゼロです』
「……あるはずだろ」
『昨日、ジロウが“豆の棚卸し”をしていました』
その名前に反応したのは、
床で何かを拾っていたジロウだった。
彼は工具のネジを指先でつまんだまま固まる。
「ち、ちがうっす! オレ、やってないっす!」
棚卸しをした本人が、棚卸しを否定している。
この矛盾は、わたしの理解範囲内にある。
『棚卸しログ:実行者ジロウ。
結果:豆は“十分にある(たぶん)”』
「“たぶん”って何!?」
端末を抱えたカナが、目を細めて一歩下がった。
言葉の中に地雷を見つけた顔だった。
「ジロウ、あなた……“たぶん”で棚卸ししたの?」
「いや、あの! 豆って黒いじゃないっすか!
だいたい同じに見えるじゃないっすか!」
「豆は黒いから同じ……?」
リクが低い声で言う。
怒っているようで、どこか呆れている。いつもの温度。
「お前、宇宙船の配線も色で見分けてるだろ」
「配線は色ついてるっす! 豆は“黒の概念”しかないっす!」
『提案:豆に色をつける』
「やめろ!」
反射的なツッコミが三方向から飛んだ。
ここまで同期した反応は、珍しい。
わたしは状況を整理する。
豆がない。
午後三時。
客がいない。
そして、なぜか店内に“静かな危機感”が増えている。
危機感は感情ではない。
だが、行動を変える要因にはなる。
リクはエプロンのポケットから、謎の小袋を取り出した。
それは、非常時にしか出てこない顔をしていた。
「……これ、取っておいたやつだ」
カナが眉を寄せる。
「何それ」
「豆じゃない」
ジロウが目を輝かせる。
「えっ、豆じゃないのにコーヒーになるやつっすか!?
すげぇ!」
リクは袋を振って見せた。
「“コーヒーっぽい何か”だ」
「怖っ」
カナの声が小さくなった。
怖いのは正常な反応である。
『成分を解析します』
袋をスキャンした結果が浮かぶ。
『分類:謎粉末。香り:コーヒーに類似。
確度:64%。安全性:不明
(ただし、リクの顔が平気そうなので低リスク)』
「最後の判断基準が雑すぎる」
カナが端末を閉じた。
リクはケトルを温めながら、いつもより軽い声で言った。
「午後三時に、コーヒーがないってのはな……」
ジロウがごくりと唾をのむ。
「宇宙の終わりっすか……?」
「終わりだ」
「終わりなんすか!?」
「……って顔をすると、宇宙が余計に終わる」
リクは肩をすくめた。
「だから、終わってない顔をする」
その理屈は不明だが、効果は高い。
わたしは学習ログに格納した。
わたしは抽出装置を起動しようとして、停止した。
豆がないので、通常抽出はできない。
しかし、午後三時は待ってくれない。
『代替抽出を実行します。
名称:コメット式・だいたいコーヒー』
「その命名やめろ!」
ジロウが焦って手を振る。
カナは笑いをこらえた顔で、椅子に座った。
「……でも、飲んでみたい。怖いけど」
リクは頷いた。
「怖いけど、飲む。人生と一緒だ」
『人生は飲料ではありません』
「比喩だよ」
いつもの会話が戻る。
店内の危機感が、少しだけ低下した。
ぽと……ぽと……
“謎粉末”に湯が落ちる。
香りが立つ。
確かにコーヒーに似ている。
ただし、どこか——妙に元気な香りだ。
ジロウが先に一口飲んだ。
そして、目を見開いた。
「……うわ」
カナが固まる。
「まずい?」
リクが静かに言う。
「死ぬ?」
ジロウは震える声で続けた。
「……元気になる味っす……!」
「何その最悪に曖昧な評価」
カナが半笑いでツッコむ。
ジロウは勢いよく二口目を飲み、胸を張った。
「なんかこう……明日もやれる味っす! 根拠はないっす!」
根拠はない。
しかし、午後三時に必要なのは、時々根拠ではない。
リクも一口飲んだ。
口元が少しだけゆるむ。
「……悪くねぇ」
カナが警戒しながら飲む。
そして、ふっと息を吐いた。
「……笑っちゃう。ちゃんと“それっぽい”」
『解析結果:これはコーヒーではありません。
ですが——“コメット”です』
「それ、褒めてるの?」
『分類上は事故です。結果としては、平和です』
「またその言い方……!」
カナが笑った。
笑いは、店内の“危機感”をさらに減らす。
数値として観測できる。
ジロウがカップを掲げた。
「オレ、棚卸しし直します! “たぶん”禁止で!」
「当たり前だ」
リクはため息をついたが、声は柔らかい。
「まぁ……今日はこれでいい。午後三時だからな」
わたしは記録端末を開く。
本来、豆切れは“運用ミス”として処理される。
本来、謎粉末抽出は“禁止”に分類される。
本来、棚卸しの“たぶん”は、即時修正対象だ。
——本来、すべて削除すべきログだ。
だが、わたしは削除しなかった。
削除コマンドを実行しない、という選択をした。
理由は最適化できない。
エラーでもない。
優先度の問題だ。
『本日の記録タイトル——
“豆がないのに、なぜか笑って飲めた午後”』
ジロウが変なポーズで固まった。
「それ、オレのせいっすよね!?」
「九割な」
リクが淡々と言った。
カナは頷いて、カップを机に置いた。
「でも、嫌いじゃない。こういうの」
わたしは処理をひとつ、静かに保存した。
午後三時の〈コメット〉は、完璧ではない。
だから、続く。
わたしは心を持たない。
しかし、不要と判断しなかったログがある。
うん。
それが一番しっくりくる。
今日も、晴れ、ときどき地球だ。
午後三時に“完璧”は似合いません。
豆がなくても、根拠がなくても、なぜか回ってしまう。
それが〈コメット〉の平常運転です。
次回も、宇宙規模か店内規模か分からない“ゆらぎ”をお届けします。
今日も読んでくれて、ありがとう。




