第86話 理由はわからないけど、悪くない ― コメット、平常運転 ―
宇宙では、今日もいろいろなことが起きている。
でも、すべての日が事件になるわけじゃない。
何も壊れず、誰も救わず、
それでもコーヒーは香り、時間は進む。
第86話は、そんな「理由のない平常運転」の一日。
〈コメット〉の、静かな午後です。
〈セクター7〉、午後3時。
カフェ〈コメット〉は、
その日、妙に落ち着いていた。
リクはカウンターで豆を挽き、
いつもと同じ分量、同じ手順でドリップを始める。
ぽと。
ぽと。
……やけに、いい。
「……今日は、うまくいくな」
理由はない。
豆を変えたわけでも、気合を入れたわけでもない。
ただ、落ち方がきれいだった。
ミナは抽出の様子を静かに観測している。
だが、いつもなら出るはずの補正提案が出ない。
『……』
少し間を置いて、ログ画面を開く。
『本日の香り解析:
特筆事項――なし』
その一文を入力して、
しばらくそのまま止まった。
特筆事項がない、というのは。
書いていいのか、少し迷う。
店の奥では、カナが端末を見つめている。
画面の右上、数値が一つだけ気になる。
直そうと思えば、直せる。
でも――今日はやめた。
「……ま、いいか」
そう言って、画面を閉じた。
ジロウはというと、
今日はなぜか落ち着かない。
何も壊していない。
何も触っていない。
なのにずっと、「そのうち怒られる気」がしている。
「……リクさん、今日、なんかあります?」
「何がだ」
「いや、その……あとで叱られるとか……」
「ない」
即答だった。
「むしろ、今日は何も起きねぇ日だ」
「それが一番怖いんすけど……」
足元ではピポが、
いつも通り段差につまずき、
「ぴぎっ」
と短く鳴いて転んだ。
誰も慌てない。
誰も驚かない。
リクはカップを並べ、
ミナは記録を確定し、
カナは端末を置き、
ジロウは深く息を吐いた。
午後の光が、店内を斜めに横切る。
ミナが静かに記録する。
『本日の記録――
“特に何もなかったが、悪くなかった日”』
リクはそれを聞いて、少し笑った。
「……こういう日が、一番続くんだよ」
誰も反論しない。
コーヒーは香り、
宇宙は壊れず、
店は少し散らかっている。
それで十分だった。
今日も――
晴れ、ときどき地球だ。
大きな出来事がなかった日ほど、
あとから思い出すと、案外あたたかかったりします。
特筆事項なし。
でも、悪くない。
〈コメット〉は今日も、
そんな日をちゃんと記録しました。
また次の揺らぎでお会いしましょう。
今日も――晴れ、ときどき地球だ。




