第85話 午後三時、席がひとつ多い ― コメット、知らない常連がいる ―
午後三時。
コーヒーを淹れるにはちょうどよくて、
誰かが来るには少し遅くて、
何も起きないはずの時間。
でも〈コメット〉では、
「何も起きない」は、だいたい起きない。
席がひとつ多い午後から始まる、
いつも通りで、少しだけ不思議な話。
カフェ〈コメット〉の窓際に、
いつの間にか一人分多く席が埋まっていた。
リクは豆を量りながら、ちらっと視線をやる。
「……今日、予約入ってたか?」
ジロウが即答する。
「入ってないっす。
ていうか、あの人いつからいるんすか?」
カナも端末を確認して首を傾げた。
「入店ログ……ないわね。
でも座ってる。普通に。」
窓際の席には、
グレーのコートを着た中年の男が、
コーヒーを前に静かに座っていた。
話しかけるでもなく、
急ぐ様子もなく、
ただ香りを確かめるように、ゆっくり呼吸している。
ミナの光が、ほんの少し慎重になる。
『識別を試みます……
……該当データ、ありません』
「ないってどういう意味だ?」
『“いない”とも、“いる”とも断定できません』
「それ一番困るやつだろ。」
リクはため息をつき、
いつも通りカップを温めた。
「……まぁいい。
コーヒー飲んでるなら客だ。」
そう言って、
男のカップに静かに注ぐ。
ぽと……ぽと……
男はそれを受け取り、
初めて口を開いた。
「……変わらないな」
全員の動きが止まる。
「え?」
「香りだよ。
昔と、ほとんど同じだ。」
ジロウが小声で言う。
「昔って……いつの話っすか?」
男は少し考えてから答えた。
「そうだな……
ここが“まだ場所じゃなかった頃”だ」
「全然わからん。」
カナは警戒半分、興味半分で尋ねる。
「……あなた、誰?」
男はカップを置き、肩をすくめた。
「名乗るほどじゃない。
ただの通りすがりだよ。」
『通りすがりにしては、
観測痕が深すぎます』
ミナの指摘に、男は少し笑った。
「君が“記録する側”だから、そう見えるだけだ。」
一瞬、
店内の空気が静止したように感じた。
だが次の瞬間。
「おかわり、もらえるか?」
「普通に頼むなよ。」
リクは苦笑しながらドリップを始める。
「砂糖は?」
「いらない。
甘いのは、後で思い出すからな。」
「意味わかんねぇ。」
二杯目を飲み終えると、
男は立ち上がった。
「じゃあ、行くよ。」
「会計は?」
男は振り返り、
軽くポケットを探すふりをして言った。
「……ツケで」
「初来店でツケはねぇ。」
男は楽しそうに笑い、
カウンターに見慣れない硬貨を置いた。
それは、
どの時代の通貨でもなかった。
『……未知材質。
ですが――価値は“十分”です』
「ミナ、なんでわかる。」
『香りが残っています』
男は満足そうに頷き、
ドアへ向かう。
「また来る。」
「いつだよ。」
「忘れた頃だ。」
ドアが閉まる。
――次の瞬間。
窓際の席は、
最初から空いていたかのように静かだった。
ジロウがぽつりと言う。
「……今の、何者っすか?」
カナも首をかしげる。
「常連……だったのかしら?」
ミナが小さく光る。
『記録不能。
ですが――嫌な感じはしません』
リクはカップを拭きながら言った。
「なら、問題ない。」
「判断基準それ!?」
「居心地が悪くなきゃ、だいたい大丈夫だ。」
窓の外、地球はいつも通り回っている。
〈コメット〉には、
一つ多かったはずの席と、
少しだけ残った香りがあった。
今日も――
晴れ、ときどき地球だ。
名乗らない人が来て、
大したことは起きなくて、
でも香りだけは、ちゃんと残った。
〈コメット〉では、
理由がわからなくても、
居心地が悪くなければそれでいい。
また来るかどうかもわからないし、
正体が何だったのかも、たぶん重要じゃない。
コーヒーが美味しくて、
午後が続いていくなら、それで上出来だ。
今日も――
晴れ、ときどき地球だ。




