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青の軌道カフェ ― 香りは、重力を超えて ―  作者: Morichu
第3章:記憶の星図

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第71話 午後の常連 ― 名前を聞かないという選択 ―

午後の〈コメット〉には、

ときどき「説明のいらない客」が来ます。


名前も、肩書きも、理由も聞かず、

ただ一杯を淹れるだけ。


それで十分な日も、あるのです。

〈セクター7〉、午後2時すぎ。


〈コメット〉のドアが、控えめに開いた。


派手さのない服装。

背は高いが、姿勢は少し猫背。

年齢も職業も、ぱっと見では分からない人物だった。


リクはちらっと視線を上げただけで、

いつも通り言った。


「空いてるぞ。」


その人は軽く会釈して、

窓際の席に座った。


ミナの光が、ほんのわずか揺れる。


『……本日のご注文は?』


「おすすめで。」


声も、驚くほど普通だった。


ジロウが小声で言う。


「逆に怪しくないっすか。

 “おすすめで”って言う人。」


「偏見だろ。」


リクは豆を挽きながら、何気なく聞いた。


「甘いのと苦いの、どっちだ。」


少し考えてから、その人は答えた。


「……どちらでも。

 今日は、決めない日にしてます。」


「いい日だな。」


ドリップが始まる。


ぽと……ぽと……


香りが立ちのぼると、

その人は深く息を吸い、

ほんの一瞬だけ目を閉じた。


それを見て、カナが首をかしげる。


「……懐かしむってより、

 確認してる、って顔ね。」


『同感です。

 “初めてなのに、知っている香り”を

 再認識している反応です。』


「再認識って何よ。」


ミナは少し黙ってから、


『……気のせいかもしれません。』


と付け足した。


カップが置かれる。


「どうぞ。」


その人は一口飲み、

静かにうなずいた。


「……ちょうどいい。」


それ以上の感想はなかった。


しばらく、

誰も何も話さない時間が流れる。


外では地球が、ゆっくり回っている。


やがて、その人がぽつりと言った。


「ここは……

 何かを“しなくていい”場所ですね。」


ジロウが即答する。


「それ褒めてます?

 オレら結構ポンコツっすけど。」


「はい。とても。」


カナが思わず笑う。


「変わった褒め方。」


その人はカップを飲み干し、立ち上がった。


「ごちそうさまでした。」


「また来いよ。」


「……たぶん。」


支払いを済ませ、

ドアに手をかけたところで、

ふと振り返る。


「名前、聞かないんですか?」


リクは肩をすくめた。


「聞かない日もある。」


その人は少し驚いた顔をして、

それから、楽しそうに笑った。


「……助かります。」


ドアが閉まる。


静寂。


ジロウが先に口を開いた。


「……あの人、絶対ただ者じゃないっすよね。」


カナも頷く。


「空気が違った。」


ミナが静かに言った。


『セクター管理ログに照合しましたが……

 該当データは、ありません。』


「消されてる?」


『最初から、登録されていません。』


リクはカップを拭きながら言った。


「まぁいいじゃねぇか。」


「いいんすか!?」


「ああ。

 名前がなくても、コーヒーは冷めねぇ。」


ミナの光が、やわらかく灯る。


『今日の香りの記録——

 “名乗らない客と、名付けない時間”。』


窓の外、

地球は今日も、何事もなかったように青い。


今日も。

晴れ、ときどき地球だ。


すごい人かもしれないし、

ただの通りすがりかもしれない。


でも〈コメット〉では、

その違いはあまり重要ではありません。


大事なのは、

「今日は決めない」と言えること。


また気が向いたら、どうぞ。


今日も。

晴れ、ときどき地球だ。


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