第71話 午後の常連 ― 名前を聞かないという選択 ―
午後の〈コメット〉には、
ときどき「説明のいらない客」が来ます。
名前も、肩書きも、理由も聞かず、
ただ一杯を淹れるだけ。
それで十分な日も、あるのです。
〈セクター7〉、午後2時すぎ。
〈コメット〉のドアが、控えめに開いた。
派手さのない服装。
背は高いが、姿勢は少し猫背。
年齢も職業も、ぱっと見では分からない人物だった。
リクはちらっと視線を上げただけで、
いつも通り言った。
「空いてるぞ。」
その人は軽く会釈して、
窓際の席に座った。
ミナの光が、ほんのわずか揺れる。
『……本日のご注文は?』
「おすすめで。」
声も、驚くほど普通だった。
ジロウが小声で言う。
「逆に怪しくないっすか。
“おすすめで”って言う人。」
「偏見だろ。」
リクは豆を挽きながら、何気なく聞いた。
「甘いのと苦いの、どっちだ。」
少し考えてから、その人は答えた。
「……どちらでも。
今日は、決めない日にしてます。」
「いい日だな。」
ドリップが始まる。
ぽと……ぽと……
香りが立ちのぼると、
その人は深く息を吸い、
ほんの一瞬だけ目を閉じた。
それを見て、カナが首をかしげる。
「……懐かしむってより、
確認してる、って顔ね。」
『同感です。
“初めてなのに、知っている香り”を
再認識している反応です。』
「再認識って何よ。」
ミナは少し黙ってから、
『……気のせいかもしれません。』
と付け足した。
カップが置かれる。
「どうぞ。」
その人は一口飲み、
静かにうなずいた。
「……ちょうどいい。」
それ以上の感想はなかった。
しばらく、
誰も何も話さない時間が流れる。
外では地球が、ゆっくり回っている。
やがて、その人がぽつりと言った。
「ここは……
何かを“しなくていい”場所ですね。」
ジロウが即答する。
「それ褒めてます?
オレら結構ポンコツっすけど。」
「はい。とても。」
カナが思わず笑う。
「変わった褒め方。」
その人はカップを飲み干し、立ち上がった。
「ごちそうさまでした。」
「また来いよ。」
「……たぶん。」
支払いを済ませ、
ドアに手をかけたところで、
ふと振り返る。
「名前、聞かないんですか?」
リクは肩をすくめた。
「聞かない日もある。」
その人は少し驚いた顔をして、
それから、楽しそうに笑った。
「……助かります。」
ドアが閉まる。
静寂。
ジロウが先に口を開いた。
「……あの人、絶対ただ者じゃないっすよね。」
カナも頷く。
「空気が違った。」
ミナが静かに言った。
『セクター管理ログに照合しましたが……
該当データは、ありません。』
「消されてる?」
『最初から、登録されていません。』
リクはカップを拭きながら言った。
「まぁいいじゃねぇか。」
「いいんすか!?」
「ああ。
名前がなくても、コーヒーは冷めねぇ。」
ミナの光が、やわらかく灯る。
『今日の香りの記録——
“名乗らない客と、名付けない時間”。』
窓の外、
地球は今日も、何事もなかったように青い。
今日も。
晴れ、ときどき地球だ。
すごい人かもしれないし、
ただの通りすがりかもしれない。
でも〈コメット〉では、
その違いはあまり重要ではありません。
大事なのは、
「今日は決めない」と言えること。
また気が向いたら、どうぞ。
今日も。
晴れ、ときどき地球だ。




