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青の軌道カフェ ― 香りは、重力を超えて ―  作者: Morichu
第3章:記憶の星図

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第70話 午後の常連未満 ― なんか落ち着く店 ―

特別な事件は起きません。

宇宙が揺れることも、世界が救われることもありません。


ただ、午後の〈コメット〉に

ひとりの客が立ち寄るだけの話です。


理由のない時間と、

名前を知らないままの会話。

それが、なぜか少し心を軽くする。


そんな一杯の記録です。


〈セクター7〉、午後2時。


カフェ〈コメット〉は、珍しく静かだった。

静かすぎて、ジロウが落ち着かないくらいに。


「……今日、宇宙揺れないっすね。」


「揺れない日もあるだろ。」


リクは豆を挽きながら、あくびをひとつ噛み殺す。


『観測上、特異事象は検出されていません。

 ……平和です。』


「ミナが“平和”って言うと逆に不安になるな。」


そのときだった。


ドアが、いつもより控えめに開いた。


「……あの、やってますか?」


入ってきたのは、

ごく普通の格好をした中年の男だった。

作業着でも制服でもない。

名札もバッジも、肩書きもない。


カナが一瞬きょとんとする。


「え、はい。どうぞ。」


男は周囲を見回し、少し困ったように笑った。


「いや、すみません。

 道……間違えたかと思って。」


「どこ行くつもりだったんですか?」


「えーと……第三区の休憩ラウンジ。

 でも、気づいたらここに。」


ジロウが小声で囁く。


「絶対ワープしてきてますよね……?」


「言うな。」


男はカウンター席に腰を下ろし、

メニューを眺める。


「コーヒー……だけ?」


「それしかない。」


「潔いですね。」


リクはケトルを手に取った。


「初めて?」


「はい。なんか……

 この辺、空気が違う気がして。」


ミナの光が、わずかに揺れた。


『その感覚は誤りではありません。』


「おい。」


「……いや、冗談です。

 たぶん。」


男は肩をすくめる。


「変な店ですね。」


「よく言われる。」


ぽと……ぽと……


コーヒーが落ちる音が、

店内にゆっくり広がる。


男はそれを眺めながら、

ふっと息を吐いた。


「……ああ。」


「どうしました?」


「いや。

 理由は分からないんですけど……

 肩の力、抜けました。」


ジロウが目を丸くする。


「え、何もしてないっすよ?」


「それがいいんじゃないですかね。」


男はカップを受け取り、一口飲む。


「……美味しい。」


「普通だろ?」


「ええ。普通です。

 でも……」


少し考えてから、こう言った。


「ここ、

 “大事なことが起きなさそう”でいいですね。」


一瞬、全員が固まる。


「……それ、褒めてます?」


「最大級に。」


男は笑った。


「最近、どこ行っても

 “大事なこと”ばっかりで。

 評価だの成果だの、意味だの。」


ミナが静かに言う。


『意味を持たない時間は、

 人間にとって必要です。』


「……そう。

 今、それです。」


男はカップを飲み干し、立ち上がった。


「ごちそうさまでした。

 あ、名前も聞かずにすみません。」


「聞いてないし、言ってない。」


「ですよね。」


ドアの前で、男は振り返った。


「また来てもいいですか?」


リクは豆の袋を肩に担ぎながら言った。


「理由がなくてもな。」


「それが一番いい。」


男は手を振って出ていった。


ドアが閉まる。


しばらく、誰も何も言わない。


ジロウがぽつり。


「……あの人、

 何しに来たんすかね。」


「さあな。」


カナが微笑む。


「でも、なんか……

 いい客だったね。」


ミナの光が、やわらかく灯る。


『今日の香りの記録:

 “何も知らないまま、少し軽くなった午後”。』


リクはカウンターを拭きながら言った。


「常連未満ってやつだな。」


「また来ますかね?」


「来なくてもいいし、

 来てもいい。」


コーヒーの香りが、

いつも通りに漂っていた。


今日も――

晴れ、ときどき地球だ。


「何も起きない」が、

いちばん贅沢な時間のこともあります。


説明されない安心や、

意味を持たない居場所。


〈コメット〉は今日も、

そういう時間を静かに淹れています。


また理由がなくなったら、

いつでもどうぞ。


今日も。

晴れ、ときどき地球だ。


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