第70話 午後の常連未満 ― なんか落ち着く店 ―
特別な事件は起きません。
宇宙が揺れることも、世界が救われることもありません。
ただ、午後の〈コメット〉に
ひとりの客が立ち寄るだけの話です。
理由のない時間と、
名前を知らないままの会話。
それが、なぜか少し心を軽くする。
そんな一杯の記録です。
〈セクター7〉、午後2時。
カフェ〈コメット〉は、珍しく静かだった。
静かすぎて、ジロウが落ち着かないくらいに。
「……今日、宇宙揺れないっすね。」
「揺れない日もあるだろ。」
リクは豆を挽きながら、あくびをひとつ噛み殺す。
『観測上、特異事象は検出されていません。
……平和です。』
「ミナが“平和”って言うと逆に不安になるな。」
そのときだった。
ドアが、いつもより控えめに開いた。
「……あの、やってますか?」
入ってきたのは、
ごく普通の格好をした中年の男だった。
作業着でも制服でもない。
名札もバッジも、肩書きもない。
カナが一瞬きょとんとする。
「え、はい。どうぞ。」
男は周囲を見回し、少し困ったように笑った。
「いや、すみません。
道……間違えたかと思って。」
「どこ行くつもりだったんですか?」
「えーと……第三区の休憩ラウンジ。
でも、気づいたらここに。」
ジロウが小声で囁く。
「絶対ワープしてきてますよね……?」
「言うな。」
男はカウンター席に腰を下ろし、
メニューを眺める。
「コーヒー……だけ?」
「それしかない。」
「潔いですね。」
リクはケトルを手に取った。
「初めて?」
「はい。なんか……
この辺、空気が違う気がして。」
ミナの光が、わずかに揺れた。
『その感覚は誤りではありません。』
「おい。」
「……いや、冗談です。
たぶん。」
男は肩をすくめる。
「変な店ですね。」
「よく言われる。」
ぽと……ぽと……
コーヒーが落ちる音が、
店内にゆっくり広がる。
男はそれを眺めながら、
ふっと息を吐いた。
「……ああ。」
「どうしました?」
「いや。
理由は分からないんですけど……
肩の力、抜けました。」
ジロウが目を丸くする。
「え、何もしてないっすよ?」
「それがいいんじゃないですかね。」
男はカップを受け取り、一口飲む。
「……美味しい。」
「普通だろ?」
「ええ。普通です。
でも……」
少し考えてから、こう言った。
「ここ、
“大事なことが起きなさそう”でいいですね。」
一瞬、全員が固まる。
「……それ、褒めてます?」
「最大級に。」
男は笑った。
「最近、どこ行っても
“大事なこと”ばっかりで。
評価だの成果だの、意味だの。」
ミナが静かに言う。
『意味を持たない時間は、
人間にとって必要です。』
「……そう。
今、それです。」
男はカップを飲み干し、立ち上がった。
「ごちそうさまでした。
あ、名前も聞かずにすみません。」
「聞いてないし、言ってない。」
「ですよね。」
ドアの前で、男は振り返った。
「また来てもいいですか?」
リクは豆の袋を肩に担ぎながら言った。
「理由がなくてもな。」
「それが一番いい。」
男は手を振って出ていった。
ドアが閉まる。
しばらく、誰も何も言わない。
ジロウがぽつり。
「……あの人、
何しに来たんすかね。」
「さあな。」
カナが微笑む。
「でも、なんか……
いい客だったね。」
ミナの光が、やわらかく灯る。
『今日の香りの記録:
“何も知らないまま、少し軽くなった午後”。』
リクはカウンターを拭きながら言った。
「常連未満ってやつだな。」
「また来ますかね?」
「来なくてもいいし、
来てもいい。」
コーヒーの香りが、
いつも通りに漂っていた。
今日も――
晴れ、ときどき地球だ。
「何も起きない」が、
いちばん贅沢な時間のこともあります。
説明されない安心や、
意味を持たない居場所。
〈コメット〉は今日も、
そういう時間を静かに淹れています。
また理由がなくなったら、
いつでもどうぞ。
今日も。
晴れ、ときどき地球だ。




