第38話 観測班、現地入り ― カナ、コメットに帰る ―
遠くから眺めていた場所に、
いつか立ってみたいと思う瞬間がある。
観測者が“現場”に足を踏み入れるとき、
景色はほんの少しちがって見える。
――そして、香りはもっと近くなる。
〈セクター7〉、午後4時。
珍しく観測班のカナが、
物理的に――つまり“歩いて”〈コメット〉の前に立っていた。
「……うわ、ほんとにこの匂いしてるんだ。」
扉の前で深呼吸してしまう。
毎日ログ越しに聞いていたあの“香り”が、
今日は直接、鼻先を撫でてきた。
そっとドアを開ける。
「いらっしゃ――って、カナ!?」
ジロウの声が裏返った。
「やっと来たんすね! 本物だ!」
「本物って言い方やめて。」
カウンターの奥から、リクも顔を上げた。
「ああ。ようこそ。“観測席”じゃなくて、“客席”へ。」
その一言に、胸が少しだけ熱くなる。
観測データには記録できない種類の温度だ。
ミナの光が、ふわりと揺れる。
『お帰りなさい、カナさん。
空気中の香気粒子濃度、あなたの好みの範囲に
調整します。』
「調整しなくていいから。自然でいい。」
『自然値、設定します。』
「やっぱり調整してるじゃん!」
ジロウが笑いながらカウンターに肘をつく。
「で、なんで今日は“現場入り”なんすか?」
カナは少し照れながら、胸ポケットから小さな端末を出した。
「……観測層の空調、壊れた。」
「またかよ。」
「しかも原因が……たぶん“風のブレンド”のせいでさ。」
リクが深いため息をついた。
「遠隔で香り送りつけただけのつもりが……」
『拡散パターンの誤差です。
申し訳ありません。次はもっと精密に――』
「いや、そういう問題じゃなくて!」
カナは頭を抱えたが、すぐに笑った。
「まぁいいや。どうせなら直接来ちゃえって思って。」
その瞬間、カフェの奥で“ボフッ”という嫌な音がした。
「……あ。」
ジロウが固まった。
「ちょっと待て。あの音、またスチーム弁じゃねぇだろな?」
『警告。蒸気圧、上昇中。制御弁、応答遅延。』
「……これ、わたしが来たからじゃないよね?」
「いや、タイミングは悪いけど、お前のせいじゃねぇ。」
そう言ったそばから、“プシィィィッ‼”と
白い蒸気が噴き出す。
「わーーっ! まただよ!」
「ミナ、手動制御に切り替えろ!」
『手動制御……委譲します。
ただし、カナさんの位置は安全地帯ではありません。』
「私!? なんで私!?」
リクがカナの腕をつかんで引き寄せた。
「観測者は現場じゃ迷子になるからな。ほら、下がれ。」
「迷子って言うな!」
ジロウが叫ぶ。
「蒸気ライン、開きます! 3、2、1――!」
弁を開くと、白い霧が天井に逃げ、
店内の照明にきらきら反射した。
まるで無重力の冬景色だった。
しばらくして蒸気が収まる。
息を整えながら、カナはぽつりと言った。
「……なんか、いいな。現場って。」
リクは肩をすくめる。
「だろ? 香りは、ここにある。」
ミナの光がそっと揺れる。
『今日の香り、タイトルは――
“観測者、現場入り。少しの混乱と、たぶん笑顔”。』
カナは思わず笑った。
「……それ、悪くない。」
観測者が現場に来ると、
“想定外”は三倍、“笑顔”は五倍になる。
距離が縮まると、
香りはもっと近くなる。
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