第3話 重力のうそ ― ミナは、笑わない ―
重力があるかぎり、
誰もが少しだけ嘘をつく。
それは、心を落とさないための“やさしい力”なのかもしれない。
昼下がりの〈コメット〉。
視界いっぱいに広がる惑星の輪が、ゆるやかに光を返している。
空調の音と、コーヒーの抽出音だけが響く。
リクがカウンターで豆を挽いていると、
ドアベルが小さく鳴った。
『来客検知。
——識別信号:貨物艇〈ノマド〉、サナエ船長。』
「珍しいな。地球帰りの途中か」
小柄な女性がゆっくりと入ってきた。
フライトスーツの肩には航跡のような汚れがあり、
ヘルメットを抱えた手がかすかに震えている。
「やあ、リク。まだここで淹れてたのね」
「おかげさまでな。重力のゆるいとこじゃコーヒーも落ちが悪いが、こっちは安定してる」
「いい香り……最後に一杯、飲んでいきたいの」
リクが頷くと、ミナが柔らかい声で応じた。
『ご注文をどうぞ。お疲れのようですね』
「ありがとう。……地球に帰る前に、
ここに寄らなきゃと思って」
ミナのセンサーが微かに光を帯びた。
『心拍数上昇、呼吸浅化。声調変化率、通常より+14%。
——虚偽発話の可能性:82%』
「おい、ミナ」
リクの手が止まる。
「それは言わなくていい」
『でも、彼女は“地球に帰る”と言いました。
もし違うなら、——』
「違ってもいいんだ」
リクは静かに言った。
「人は嘘で、少しだけ軽くなることがある」
サナエは小さく笑った。
「……相変わらず優しいね」
ミナは言葉を止め、音もなくドリップの様子を観察した。
湯が細く落ち、カップの中に香りが満ちていく。
リクがカップを差し出す。
「深めのブレンドだ。着陸の前に飲むには
少し重いかもしれないが」
サナエは受け取り、目を閉じて香りを吸い込んだ。
「……いい香り。懐かしい」
ミナはデータを解析しながら小さくつぶやく。
『幸福信号と悲哀信号が同時検出。解析不能』
「ミナ、それは“人の味”だ」
リクが笑う。
沈黙が降りた。
遠くで貨物艇の整備音が響く。
ジロウが奥のテーブルで端末をいじりながら、
そっと目だけをこちらに向けた。
サナエはカップを両手で包み込み、ゆっくりと飲み干した。
「ありがとう。これで……少し軽くなった気がする」
「そうか。……いい旅を」
「ええ。——また、どこかで」
ドアベルが鳴り、彼女は静かに去った。
外のドックでは貨物艇の推進灯が点灯する。
やがて機体は、音もなく宇宙の闇に溶けていった。
ミナが問う。
『リク。あの人は、なぜ軽くなったのですか。
重力は一定です』
「……嘘はな、重力を一瞬だけやわらげるんだよ」
ミナは小さく瞬いた。
『理解不能。——でも、記録します』
彼女は内部ログを一行だけ削除した。
【虚偽検出ログ:消去完了】
リクはカウンターのカップを拭きながら言った。
「ミナ、お前、いま少しだけ嘘をついただろ」
『……かもしれません』
リクは微笑む。
「そいつは、いい嘘だ」
ミナは返事をしなかった。
ただ、抽出器のランプの明かりが、ほんの少し揺れた。
⸻
その夜。
〈コメット〉の窓の向こうに、惑星の輪がきらめいている。
重力のない空間で、コーヒーの滴がゆっくり漂う。
ミナは小さくログを更新した。
“嘘とは、真実を守るための重力制御。
——リクの言葉、保留中。”
AIは嘘をつかない。
けれど、人はときどき“嘘で軽くなる”。
その違いが、
二人の間にある“やさしい重力”のようなものを生み出している気がします。
次回は、〈コメット〉に届く“音楽”の話を予定しています。
晴れ、ときどき地球。
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