第17話 香りの航路 ― コトネ、豆を届ける ―【第2章:香りの記録】
宇宙には、コーヒーの香りがない。
だからこそ、誰かが運んでくる“香り”は、
いつも少し特別だ。
「おーい、リクさん! いるー?」
低軌道補給艇〈ハミング〉のドックハッチが開く。
明るい声とともに、ひとりの女性が姿を現した。
短く結んだ髪、スーツの肩には粉の跡。
手には、真空パックのコーヒー豆。
「お、コトネか。珍しいな、この時間に」
リクがカウンターから顔を上げた。
「セクター9の配達のついでっす。
ついでに、地球便の豆を!」
『ようこそ、コトネさん。
コメットの重力場は安定しています』
「ありがと、ミナ。あんたの声聞くと落ち着くわ」
ジロウが奥から顔を出す。
「コトネさん、お疲れっす。今回も新豆?」
「そ。南米軌道農場〈サンタ・マリア〉産。
真空熟成三ヶ月モノ!」
彼女はカウンターに豆袋を置くと、
腰を下ろして、ふう、と息をついた。
「宇宙の配達屋ってさ、音より静かだよ。
重力のない航路って、なんか、時間が止まってる感じ」
リクが笑った。
「その分、豆の香りで“時差”を感じるんだろうな」
『コトネさん、ドリップしますか?』
「もちろん! あたしの特等席で!」
ミナが滑らかに動き、
カウンターの奥から湯を落とす。
香りが静かに広がり、重力の層を包みこんだ。
「……やっぱ、地球の豆は違うね。香りが“丸い”」
『成分的には同等ですが、環境音が異なります。
地球の重力で焙煎した豆には、
空気の“揺れ”が記録されています』
コトネは笑った。
「空気の揺れ、ね。あたしらが運ぶのは、
きっと豆じゃなくて、そういうものかもね」
リクが頷いた。
「いい言葉だ。ミナ、今の記録しとけ」
『記録しました。“香りの航路”。』
カップを手に取るコトネ。
香りを鼻先で受け止めて、目を細めた。
「……はぁ、やっぱここが一番落ち着く」
リクが照れくさそうに笑う。
「配達ついでに寄るには、ちょっと長居しすぎだぞ」
「いいじゃん、軌道の寄り道くらい。
宇宙にカフェがあるんだもん」
ミナの光が、湯気の中でやさしく揺れた。
『今日の香り、タイトルは――“寄り道ブレンド”。』
「うん、それいいね。次回の仕入れ名にしとく!」
カフェの外、ドックの向こうで星が瞬く。
宇宙航路を渡るコトネの船が、
静かに回転しながら、光の粒になっていった。
香りは、重力を超えて届く。
それを運ぶ人たちがいる限り、
宇宙は、少しだけ温かい。
晴れ、ときどき地球。




