第13話 漂う客 ― 宇宙を歩く男 ― 【第2章:香りの記録】
たまに、扉の向こうから“風のような客”が来る。
名前も、目的も、わからないまま。
それでも――香りを残して、去っていく。
〈セクター7〉軌道上。
カフェ〈コメット〉のドアが、不意に開いた。
外気が一瞬だけ流れ込み、店内の紙ナプキンが
ふわりと揺れた。
気圧差がわずかに残っている――〈外〉から来た証拠だ。
リクは顔を上げた。
入ってきたのは、古びた船外作業服の男。
ヘルメットの表面には霜がつき、光を反射している。
「……いらっしゃい」
リクが声をかけると、男は小さくうなずき、
ヘルメットを脱いでカウンターに置いた。
「歩いてきた」
「どこから?」
「外から」
『外装スーツの表面温度、マイナス一二〇度から急速上昇中。
呼吸パターンは安定。生命維持、継続中です』
AIのミナが淡々と告げる。
リクは眉をひそめた。
「……真空を歩いてきたってわけか」
男は椅子に腰を下ろした。
「……音が、聞こえたんだ」
「音?」
「宇宙の向こうで、なにかが鳴ってた。
それを追ってたら、ここに着いた」
リクは黙って、コーヒーを淹れ始めた。
湯の音が、静かに店内に広がる。
『抽出温度、九二度。今日の香り、柔らかめです』
「そんな気分だな」
香りが満ちていく。
男はカップを手に取り、目を細めた。
「……歩いてたとき、何も聞こえなかった。
でも、今は聞こえる。お前さんの店の音だ」
『音は、空気の記録です』
「へぇ……AIにしては詩人だな」
ミナの光がわずかに揺れる。
『ありがとうございます。褒め言葉として、記録します』
男は笑い、立ち上がった。
「悪いな、コーヒー代……持ち合わせがなくて」
「いいさ。歩いてきた客からは、香りをもらうことにしてる」
リクがそう言うと、男は軽く敬礼し、
ゆっくりとドアの向こうへ消えていった。
ドアが閉まり、静寂が戻る。
ミナが小さく囁いた。
『リクさん、あの方のデータ、どこにも存在しません』
「だろうな」
リクは微笑み、カウンターのコーヒーを見つめた。
カップの縁に、宇宙の粉塵が一粒、
金色に光っていた。
世界には、説明のつかない出来事がある。
でも、それを不思議だと思える心が、
きっと人を温かくする。
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そのひとつひとつが、次の“香りの記録”につながります。
晴れ、ときどき地球。




