第105話 午後三時、だいたい直った(※管制室は地獄) ― コメット、通常営業 ―
宇宙では、
ほんのわずかなズレが
致命的な事故につながる。
だからこそ、
すべては厳密に管理され、
正確で、迅速で、完璧でなければならない。
——本来は。
だが〈セクター7〉の片隅には、
その理屈があまり通用しない場所がある。
今日もそこでは、
コーヒーが淹れられ、
大事件が起き、
なぜか何事もなかったように
午後が続いていく。
〈セクター7〉、午後3時。
〈コメット〉では、
リクが豆を挽いていた。
ぽり……ぽり……
その頃。
⸻
〈セクター7〉管制室。
警報が、鳴り止まなかった。
赤。
赤。
赤。
「重力ブロックC、反転継続!」
「姿勢制御、補正効かない!」
「外殻応力、許容値超えます!」
主任管制官が叫ぶ。
「原因は!? 原因はどこだ!」
「……不明です!
局所的すぎて特定できません!」
モニターに映る〈セクター7〉は、
ゆっくりと、しかし確実に傾き始めていた。
「このままだと十分以内に——」
そのとき。
別の管制員が、声を裏返した。
「……え?」
「何だ」
「異常発生源……特定しました」
「どこだ!」
「……カフェです」
「……は?」
画面が切り替わる。
〈カフェ・コメット〉
活動ログ:通常営業中
「ふざけるな!」
「いえ、本当です!
床が……浮いてます!」
⸻
〈コメット〉。
「……浮いてんな」
リクが言った。
床は、五センチほど宙に浮いている。
ジロウは屈んで、
床の下を覗き込んだ。
「なんか……音、ズレてません?」
『重力位相が、
空調の振動と干渉しています』
ミナは淡々と告げる。
カナは端末を見て、眉をひそめた。
「これ、管制が全力で抑えに来てる。
でも逆に悪化してる」
「余計なことすんなよ」
「それ言っちゃダメなやつ」
床が、ぐらりと揺れた。
〈管制室〉では悲鳴が上がる。
「傾斜角、増加!」
「外殻、ミシって音してます!」
⸻
「……よし」
リクが言った。
「一回、全部ズラす」
「全部?」
「全部」
ジロウは一瞬固まり、
それから工具箱をひっくり返した。
「床、押します!」
「待て、逆だ!」
「え!?」
「カウンターをズラす!」
『抽出ユニットも移動します』
「それは要らねぇ!」
カナは端末を閉じた。
「空調、切るわ」
「切るな!」
「もう切った!」
ブン……と音が止まり、
床の浮きが一瞬、強くなる。
〈管制室〉。
「上がった!?」
「いや、下がる!?」
「どっちだ!」
⸻
リクはコーヒーを淹れ始めた。
「今だ」
「今って何!?」
「今!」
ドリップの湯が落ちる。
ぽと……
ぽと……
そのリズムに合わせて、
ジロウが床を押す。
カナが椅子を引く。
ミナが重力係数を0.01刻みで振る。
ガタッ。
ミシッ。
カチ。
床が、戻った。
『……収束しました』
〈管制室〉。
警報が、一斉に止まる。
「……止まった?」
「重力安定……?」
「何が起きた?」
モニターには、
変わらず〈コメット〉。
通常営業中。
⸻
「……直ったな」
リクが言う。
「直りましたね」
「直ったっすね」
『分類上は、
複合干渉事象の解消です』
「雑に言うな」
ドリップが終わる。
ぽと……
……。
〈管制室〉の主任が、呆然と呟く。
「……あの店、何なんだ」
⸻
ミナが静かに記録する。
『本日の香りの記録——
“管制室が泣いて、床が戻った午後”。』
誰も謝らない。
誰も報告しない。
〈コメット〉は、
今日も何事もなかった顔で、
コーヒーを出している。
今日も――
晴れ、ときどき地球だ。
管制室では
「奇跡」と呼ばれた出来事は、
〈コメット〉では
「ちょっと面倒だった午後」に過ぎない。
彼らは特別なことをしたつもりはなく、
ただいつも通りに動いただけだ。
少し雑で、
少し遠回りで、
なぜか結果だけは完璧。
広い心と、
楽観主義と、
尽きることのない好奇心。
そして、
どうしようもなくポンコツな日常。
今日も〈コメット〉は、
特別な顔などせず、
通常営業を続けている。
今日も――
晴れ、ときどき地球だ。




