第10話 小さな故障、大きな音 ― ジロウの朝 ― 【第2章:香りの記録】
宇宙では音が伝わらない。
けれど、〈コメット〉の朝にはいつも音がある。
それは、誰かが働いている音――
そして、仲間が生きている音だ。
〈セクター7〉の朝。
まだ店の照明は半分ほどしか灯っていない。
カフェ〈コメット〉のカウンター下では、
若い整備士ジロウが寝転がりながら何かをいじっていた。
「ミナさん、スチーム弁の圧が上がりすぎてるっす!」
『警告。安全圧上限に接近。排出弁の開放を推奨します』
「だからそれが開かないんすよ!」
金属音と湯気が小さく弾ける。
カフェの静かな空気が、一瞬にして“朝の現場”へと変わった。
カウンター越しに、リクの低い声が聞こえる。
「昨日、調整したのはお前だろ?」
「ちゃんと締めたっす!」
『記録照合――22時15分、トルク値+15%。
過剰締め付けです』
「ミナさん! そういうの黙っててくださいよ!」
リクは苦笑しながらコーヒーポットを拭いた。
「AIは正直者だからな。整備士泣かせだ」
「ほんとに泣けるっすよ……」
その瞬間、バルブから「プシューッ!」と派手な音が鳴った。
白い蒸気が立ち上がり、店内が一瞬で霧のように包まれる。
「うわっ、やばいっす!」
『圧力解除。正常化まで十五秒。』
「ミナさん、落ち着きすぎっす!」
リクが蒸気の中で手を振った。
「おい、視界ゼロだぞ。
コーヒーじゃなくてサウナになってる」
「す、すぐ直すっす!」
ジロウが必死に弁を調整する。
やがて音が収まり、空気が少しずつ澄んでいく。
残ったのは、焦げた金属とコーヒーが混ざった香り。
「……なんか、悪くない匂いっすね」
『命名:整備士の朝ブレンド。香気成分に鉄分を含みます』
「そんなの出すなっす!」
リクが笑いながら肩をすくめた。
「まぁいい。今日の空気にはお前の努力の香りが混ざってる」
『記録します。“努力の香り”』
「ミナさん、それもログ取るんすか!」
『はい。コーヒーの記録と同等に重要です』
ジロウは工具を拭きながら苦笑した。
「ま、香りがちょっと変わっただけっすね」
「悪くない。失敗も混ざれば、深みが出る」
『今日の香り、タイトルは
――“スチームの向こう側”』
静かに笑いが広がる。
カフェの中に、いつもの朝のリズムが戻ってきた。
窓の外、青い地球がゆっくりと回っている。
今日もまた、少し騒がしくて、少し心地いい一日が始まる。
失敗のあとに残るのは、
少し焦げた匂いと、少し成長した自分。
それもまた、
コーヒーの香りのひとつだと思う。
晴れ、ときどき地球。




