第1話 重力コーヒー
宇宙でも、コーヒーの香りは人をつなぐ。
人とAIが共に働く軌道ステーションで、
今日も小さな“重力”が生まれる――。
地球を見下ろす低軌道ステーション〈セクター7〉。
その片隅に、小さなカフェ〈コメット〉がある。
窓の外には青い惑星。
ここでは、人工重力0.98Gが、わずかに軽い日常をつくっていた。
湯気が立ちのぼる。
AIバリスタのミナが、正確すぎる手つきでドリップポットを傾ける。
『本日の重力、0.98G。抽出条件、誤差±0.02以内です』
カウンターの奥で、整備士上がりの青年リクが苦笑した。
「誤差は人生のスパイスだ。そんなに気にすんな」
『スパイス……在庫にありません』
「比喩だよ」
ポトリ、と黒い液体が落ちる。
宇宙でも、コーヒーの香りは地球の記憶を呼び覚ます。
その瞬間、ドアが開き、若い整備士ジロウが転がり込んできた。
「やばいっす! 制御ユニット、またズレてました!」
「またかよ。で、直したのか?」
「なんとか。でも、センサーの挙動がちょっと変で……」
『変化の検知範囲を報告してください』
「うわ、AIさんに詰められてる気分っす」
リクが笑った。
「まぁ、ミナは根が真面目だからな。ほら、飲め」
ジロウはカップを掴んで一気に飲む。
「……うまい。でも行かなきゃ!」
『重力は逃げません』
「納期は逃げます!」
ドアが閉まると、カップの液面が微かに揺れた。
通信士カナが入ってくる。
「またジロウ、徹夜?」
「若いのは燃料投下しがちだ」
『投下は危険行為です』
「……だから比喩だって」
笑いが、軽い重力に浮かんだ。
⸻
翌朝、基地全体が震えた。
『警告:重力制御ユニット群、位相ズレ検出』
アナウンスが響く。
浮遊する工具。軋む床。
リクの胸が嫌な予感でざわめいた。
観景窓の外、補給船〈シグマ12〉がドッキングベイの前で静止している。その姿勢がふらつき、ドッキングアームの磁場が明滅していた。
「なんだ……船が寄れない?」
カナが端末を操作する。
「重力ドッキング・フィールドが乱れてる。
これじゃ艦が近づけない……下手したら激突する!」
リクが顔をしかめる。
「地面が歪んでちゃ、船も足場を見失うぞ」
『推測:ドッキング磁場の波形が崩壊しています。
安定化しなければ、接触時に船体が損壊します』
リクは通信端末を開いた。
「おい、ジロウ。何やってる。応答しろ」
数秒のノイズ。
途切れがちな声が返る。
『……リクさん、俺のユニットが……ズレてました。すぐ、直します!』
「待て、ひとりで行くな!」
『俺がやります! 迷惑、かけません!』
通信が途切れた。
リクは工具箱を掴んで走り出した。
耳元の通信端末が点滅し、ミナの声が届く。
『……重力揺らぎ、閾値超過。対応策:未登録。代替手段を検索します』
ひとり取り残され、ミナ。
リクに伝えたあと、カウンター奥のドラムを見つめ、
湯気の残るカップをそっとよけた。
『該当あり。〈コメット〉の遠心ドラム制御アルゴリズムを、
重力安定ユニットに転用可能です』
走りながら、リクは息を整える。
「どういう理屈だ?」
『重力場制御は、共鳴波の位相を一致させることで成立します。回転の“リズム”を整えれば、場の乱れは沈静化します。
コーヒードラムの制御信号を模倣波として送信します』
「つまり、ドラムで宇宙を整えるってわけか」
『正確には“宇宙に一杯の調和を注ぐ”です』
リクは口元を緩めた。
「洒落てんな」
⸻
整備区画では、ジロウがユニットの巨大な円筒にしがみついていた。
「くそっ……止まれ……!」
表示パネルには“前回点検:ジロウ”。
彼の喉がかすれる。
そこへリクの声。
「ジロウ!」
ヘルメット越しに差し出された手。
リクがワイヤーで彼を引き寄せる。
「立てるか」
「俺のせいで……」
「原因はまだ決まってねぇ」
「でも……」
「焦げたら、淹れ直せばいい」
「え?」
「コーヒーも人生も、だ」
通信が入る。
『リク、コーヒードラムの制御プログラムを重力安定ユニットに転送しました。現場ドラムの回転に同期中。——人の手による微調整を推奨します』
「了解。手で合わせるってわけだな」
『推奨されませんが、非効率な手法は時に有効です』
「気に入ったぜ、その理屈」
二人は巨大な重力場安定ドラムへ向かった。
軸が低く唸り、わずかに揺れる。
手袋越しに振動が伝わる。
「吸って、止めて、また吸う。呼吸を合わせろ」
「……はい!」
「重力も呼吸してる。乱れたら、聞いて合わせるんだ」
ドラムの唸りが静まり、波形モニターの位相が一致していく。
わずかな沈黙ののち、低い振動が途切れた。
『偏差、収束。擬似信号、同期完了。——安定しました』
⸻
重力が、ゆっくりと戻り始める。
漂っていた工具が、ぽとりと床に落ちる。
警報灯が一つ、また一つと消え、
窓の向こうで補給船〈シグマ12〉の姿勢が戻る。
金属のアームが伸び、ドッキングポートの光が青から白へ。
補助推進が静かに停止し、
艦体が〈セクター7〉に滑り込むように接続された。
その瞬間、管制全域に“GRAVITY STABLE”の文字が灯る。
沈黙のあと、小さな拍手が湧いた。
⸻
〈コメット〉に戻ると、漂っていたカップがそっとテーブルに落ち着いた。
ミナの声が静かに響く。
『任務完了です。コーヒーを、再抽出しますか?』
リクは笑って頷く。
「そうだな。焦げる前に淹れ直そう」
ジロウが照れ笑いする。
「俺、また失敗するかも」
「だったらそのたび飲みに来い」
『学習:再試行は、失敗ではありません』
カナが入ってくる。
「やったね、みんな。……それ、三人分?」
「いや、四人分だ。誰かが見てた気がしてな」
『常連ポイント、付与します』
「そんな制度、あったっけ?」
『今、できました』
笑いが広がる。
⸻
夜。
静まり返った店内に、コーヒーの香りだけが漂っていた。
窓の外には青い地球。
ミナがカップを見つめて言う。
『……香りは、重力がなくても残るのですね』
リクが頷いた。
「ああ。記憶ってのは、鼻からも心に入る」
『記録しました。“忘れない匂い”。』
しばしの沈黙。
リクが窓の向こうを見上げる。
地球の青がゆっくりと陰影を帯びる。
「なぁ、ミナ」
『はい?』
「……今日の天気、なんだと思う?」
ミナはわずかに首を傾げた。
『地球の観測データによると、晴れ、ときどき地球です』
リクは笑い、カップを傾けた。
「いい天気だ」
青い光が、ニ人の影をやさしく包んだ。
読んでくださり、ありがとうございます。
宇宙の静けさと、AIの優しさのあいだに、
人の香りのような“重力”がある気がしています。
次話「宇宙郵便」では、“時間”と“記憶”がテーマです。
感想やブクマで応援してもらえると嬉しいです。




