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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

BL

月色

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 あ、学校行きたくない。

 牧村陽介は、唐突にそう思った。玄関のドアを開けると、梅雨入りをしたにも関わらず、外はぴかぴかに晴れていた。澄んだ青空を見て、陽介は思ったのだ。学校行きたくない。

 別にいじめられているわけでもなく、今年入学した高校に馴染めないということもないと思う。友人はまだいないけれど、クラスメイトとは普通に会話をしたりはする。それなのに、なぜこんな感情を抱いてしまうのか。陽介は、自分で自分がわからなかった。ただ、思ってしまったのだ。僕なんて、いてもいなくても同じだなあ、と。

 僕は今日、思春期に入った。陽介はそう判断した。自分の感情に嘘をついてはいけない。そう思ってからの陽介の判断は早かった。そのまま玄関のドアを閉め、

「母さーん」

 居間に引き返し、すぐ隣のキッチンで食器を洗っていた母親を呼ぶ。

「どうしたの陽ちゃん、忘れもの?」

 母親は、視線をシンクに落としたまま尋ねる。

「ううん」

 陽介は首を振る。

「僕、学校行きたくなくなった。しばらく休む」

 その言葉を聞いた母親はぴたりと動きを止め、頭だけを動かして陽介を見た。

「陽ちゃんは、学校でいじめられてるの?」

 単刀直入に淡々と言われ、陽介も淡々と首を横に振る。

「そう。ならよかった」

 母親はそう言った後、残った洗い物をテキパキと片付けると、

「じゃあ、母さんは仕事行くから、掃除機かけといてね」

 軽やかな声で陽介に言う。

「え」

 やだな。一瞬そう思い戸惑っていると、

「家にいるなら、家のことをする」

 母親はきっぱりとした口調で言った。有無を言わさぬその口調に、陽介は思わず頷いてしまう。母親は満足したように陽介を見ると、仕事へと向かった。陽介は仕方なく、居間の押し入れから掃除機を取り出す。



 陽介が不登校を実行して、一週間ほど経ったころ、玄関のチャイムが鳴らされた。午前十時すぎだった。ちょうど掃除機をかけていたところだったので、陽介はチャイムの音にすぐに気付くことができなかった。

 連打されるチャイムにようやく気付いた陽介は、足音を忍ばせて玄関へと向かう。何かの勧誘だと面倒だ。スコープを覗いて、郵便物や宅配便ではなさそうなら居留守を使おうと思っていた。

 しかし、ドアの向こう側にいたのは、勧誘でも届け物の業者でもなく、陽介と同じ年頃の男だった。金というよりも白に近い、その髪の毛の色と着崩したブレザーは、相手が誰だかを如実に物語っていた。

 皆川隼人? え、なんで?

 陽介は内心で疑問符を浮かべる。なぜ隼人がここにいるのか、陽介には全くわからない。

 皆川隼人は、不良というかヤンキーというか、いわゆるソレ系の人物である。いつも誰かと喧嘩をしているイメージがあった。時々、顔やシャツが血で汚れていたりもする。相手の返り血らしい。そんな恐ろしい噂しかない男、それが皆川隼人なのだ。陽介と隼人は同じクラスではあるので、全く接点がないというわけではない。牧村と皆川で出席番号が前後なので、入学してしばらくは席も近かった。陽介の後ろの席が隼人だったのだ。だが、それだけだ。特に親しく接していたということはない。

 不思議に思いながら、陽介は玄関のドアを開けた。隼人の髪の色を、お月さまの色だな、と思いながら、その思考に陽介はどこか既視感を覚えていた。


「皆川くん、アイスクリーム食べる?」

 隼人を居間のソファに座らせ、陽介は尋ねる。一応お客様である隼人に、なにか出そうと思ったのだ。

「いい。今日なんか寒いし」

 隼人は陽介の申し出を断った。

「雨だもんね、今日」

 相槌を打ちながら、陽介はキッチンの冷凍庫からスーパーカップを、食器棚の引き出しからスプーンを取り出して居間に戻ると、隼人の隣に腰掛け、ひとりでそれを食べ始めた。その様子を黙って見ていた隼人が、ぼそりと言う。

「おまえ、ひとりっ子だろ」

「うん。よくわかったね」

 陽介は驚いて隼人を見る。

「皆川くんは? きょうだいがいるの?」

「ああ、妹がひとり」

 答えて、隼人は後ろ頭をガシガシとかく。

「てか、俺は別にそういう話をしにきたんじゃない」

 苛立ったように隼人は言った。

「なにか用事?」

 クラスの連絡事項でもあるのだろうか。でも、平日の午前中に学校を休んでまでする連絡なんて、あるのかな。そう思いながら陽介が尋ねると、

「用事っちゃ用事だ」

 隼人は鋭い目を陽介に向け、言う。

「おまえ、最近学校きてないだろ」

「うん」

 陽介はスーパーカップを食べながら頷いた。

「担任は体調不良だっつってたけど、見たところピンピンしてんじゃん」

「うん、そうだね」

 陽介の身体はいたって健康である。体調不良ってことになっているのか、と、のんきに思った。

「おまえ、もしかして誰かにいじめられてんの? だから学校、こないのか?」

 隼人は言う。母親と同じことを言うなあ、と陽介は思う。

「もしそうなら、俺がそいつに話つけてやってもいい」

 隼人がそんなことを言うものだから、

「ちがう、ちがう。別に、いじめられてるわけじゃないよ」

 陽介は慌てて否定する。話をつける、というのはどういった意味合いの言葉だろう。言葉通りに捉えていいものかどうか、陽介にはわからなかった。

「じゃあ、なんで学校休んでんだよ」

「皆川くんも、今うちにきてるってことは、今日学校休んでるじゃん」

「俺のことはいいんだよ。今はおまえの話をしてるんだ」

 なんで、僕の話をしてるんだろう。陽介は思う。

「なんとなくだよ」

 嘘をついても仕方がないので、わけがわからないなりに、陽介は正直に答えた。

「なんとなく、行きたくなくなっただけ」

「そうか」

 隼人は、ここに来た時からずっと眉間に寄っていたしわを平らかにして、拍子抜けしたようにそう言った。続けて、

「なるほど」

 とも言った。そして、立ち上がり、

「そんじゃ、お邪魔しました」

 居間を出て行こうとする。帰るのなら見送ろうと、空になったカップをテーブルに置き、陽介は隼人の後を追う。

「明日もきていいか」

 玄関先で振り返り、隼人は言った。

「え、なんで?」

「なんとなく」

 そう言われると、なにも言えない。なんとなく、は陽介の中では最強に真実味のある言葉だ。

「きていいのか、だめなのか」

 隼人は陽介を問い詰めるように言う。特に困ることはないので、

「うん、いいよ」

 陽介は頷いた。隼人とは、今日までまともに話したことはないように思う。それなのに、いきなりどうしたのだろう。今までとなにが変わったのか、と考えた時、陽介は、自分が学校へ行かなくなった、という変化に思いあたった。隼人もそのことを気にしているようだった。

「皆川くん、もしかして僕のこと心配してくれてるの?」

 なのでそう尋ねると、隼人は陽介から目をそらし、落ち着きのない動作で口許に手をやった。そして、聞こえるか聞こえないか、そのくらいの小さな声で、

「別に、心配してるわけじゃない」

 と不貞腐れたように言った。

「あ、それ知ってる。ツンデレだ」

 陽介は思わず言う。隼人は耳を赤く染め、陽介をひと睨みすると、それ以上はなにも言わず、玄関の扉を閉めた。陽介は、目の前で思いの外ゆるやかに閉まった扉を眺め、隼人の赤くなった耳を思い出し、皆川くんは見かけによらず実はやさしいのかな、などと思っていた。



 次の日の昼過ぎ、隼人は本当にやってきた。

「皆川くん、学校は?」

 陽介が聞くと、「早退」と一言返事があった。

 陽介はまだパジャマのままで、ボウルの中のお好み焼きの生地を混ぜているところだった。少し遅い昼食だ。隼人を居間に通し、

「皆川くんも、お好み焼き食べる?」

 尋ねると、隼人は少し迷う素振りを見せ、結局、「食べる」と頷いた。

 食卓に引っ張り出したホットプレートを温め、ぼてっと生地を落とし、表面がふつふつ言い始めたので、裏返そうと陽介はヘラを差し込む。

「えい」

 思い切って裏返したものの、うまくいかず、半面だけ焼けたお好み焼きはホットプレートの上でぐしゃりと千切れてしまった。

「へったくそ」

 隼人に言われ、陽介は、

「悲しい事故だ」

 そう返す。

「貸せ」

 隼人は陽介からヘラを奪うと、千切れたお好み焼きをなんとか整えてまるく形作る。

「そっちも貸せ」

 ボウルも奪われた陽介は、隼人が作業をするのをおとなしく眺めることにした。全部やってもらえるなんてラッキー。などと思っていると、

「おまえ、自分でやらなくてよくなったからラッキーとか思ってそう」

 隼人にビシリと言い当てられて、陽介は咽喉をぐう、と鳴らす。

「皆川くんはエスパーか」

 そういえば昨日も、ひとりっ子だということを言い当てられたのだ。陽介の言葉に、隼人は微かに笑う。

「おまえ、全部行動と顔に出てる」

 陽介は自分の顔をぺたぺたとさわってみた。それを見て、隼人は口を大きく開けて笑った。あれ? と陽介は思う。なんか今、胸がキュッて縮んだ。思わず心臓のあたりを両手で押さえる。なんだ、今のは。

 誤魔化すように、隼人の傍らに置かれたボウルを自分のほうへ引き寄せ、中に残った生地を菜箸で混ぜる。

「あ」

 陽介は思わず声を上げた。

「お好み焼きの生地の色、皆川くんの髪の毛の色だね」

 黄色よりも白に近いその色を、陽介は隼人の頭髪にも見る。

「前は、お月さまの色だって言ったくせに」

 ホットプレートに視線を落としたまま、隼人がぼそりと言った。

「誰が?」

「おまえが」

「おぼえてない」

 陽介は思い出そうと視線を左上に彷徨わせる。

「でも、言ったんだろうね。皆川くんが昨日うちにきた時にも思ったから。お月さまの色だって」

 はは、と隼人は声を上げて笑った。

「やっぱいいなあ、おまえ」

 その顔のままで陽介を見る隼人に、陽介の胸は再びキュッとなり、目の奥がなぜだか熱くなった。隼人は、笑うと鋭い目が糸のように細くなる。皆川くんは、笑うと素敵。陽介はひそかにそう思った。怒られそうな気がするので、口には出さない。


「皆川くん、お腹すいてたんだね」

 お好み焼きを二枚と、陽介が手遊びで焼いた目玉焼きをたいらげた隼人に、陽介は言った。

「朝も食べてなかったからな」

 まるで独り言のように隼人が言った。

「よかったら、これ。余ったの持って帰る?」

 陽介が生地の量を間違えていたせいで、お好み焼きは思ったよりも大量に焼き上がったのだ。隼人は迷うように視線を陽介からお好み焼きへと移す。やっぱりいらないかな、と思っていると、

「いいのか」

 隼人は言った。

「もちろん、いいよ」

 陽介は力いっぱい頷く。四等分したお好み焼きを重ねてタッパーに詰めてやると、

「ありがとう」

 少し照れたように言って、隼人はそれをスクールバッグに大事そうにしまった。

 そうしてしまった後は、特にすることがない。食卓にふたりで向き合って座って、ただ黙っていた。

「元気そうだな」

 沈黙を破ったのは、隼人だった。

「元気だよ」

 陽介はそう返す。

「おまえ、結局ずっとパジャマだったな」

 隼人は笑い、

「じゃあ、ごちそうさま。お邪魔しました」

 そう言って立ち上がる。


「皆川くん。明日、またくる?」

 玄関先で陽介は隼人に尋ねた。

「うん?」

 腰を曲げてスニーカーの踵を直していた隼人が、その体勢のまま、目だけで不思議そうに陽介を見上げる。

「またきて」

 そう言ってしまってから、自分は一体なにを言っているのだろう、と陽介は自分で自分にハラハラしてしまう。変に思われなかっただろうか、と心配していたのだが、隼人は、

「うん」

 と小さく頷いただけだった。

「またくる」

 そう言った隼人が少しうれしそうだったのは、陽介の希望的観測だったのかもしれない。



 次の日、隼人はこなかった。

「またくるって言ったのに」

 ソファで体育座りをした陽介は、拗ねたように呟いた。実際、拗ねていた。そわそわしながら、玄関のチャイムが鳴るのを、ずっと待っていたのだ。それなのに、三時を過ぎても隼人はこない。しかし、隼人だって、そう毎日学校を早退するわけにもいかないだろう。隼人は、不良と呼ばれているわりには、ほぼ毎日、きちんと学校へ来ていたように思う。じっと居間のソファに座って待っていたのだが、いつまでもそうしているのも馬鹿らしい。陽介は立ち上がり、隼人の分まで作ってしまった焼きそばにラップをかけ、冷蔵庫にしまった。外が暗くなってきた。母は夜勤で、遅くなると言っていた。陽介は、財布を持って家を出る。

 目的もなく、学校までの道をふらふらと歩く。いや、目的ならあった。陽介は、隼人を探していた。またくる、と言った隼人がこなかった。それはとても寂しいことで、同時に、もしかしたらどこかで行き倒れているんじゃないかと半ば本気で心配になったのだ。しばらくすると校門に到着する。職員室にだけ灯りがついた学校は、昼間のそれとは違い、なんだか大人の匂いがした。陽介は、きた道を引き返す。


 玄関の前に、隼人がいた。暗くて顔はよく見えないが、あのお月さまみたいな髪の毛の色は隼人だ。

「皆川くん」

 呼びながら駆け寄ると、

「牧村。いないから、帰るとこだった」

 隼人は言った。門灯もつけていない玄関先は暗い。

「上がって」

 そう言いながら、陽介は玄関の鍵を開ける。靴を脱ぎ、居間の灯りをつけたところで、陽介は気付いた。

「皆川くん。どうしたの、それ」

 隼人の唇の端には痛々しく血が滲んでいたのだ。

「喧嘩?」

 陽介は隼人をソファに座らせる。

「親父が」

 隼人は困ったように言った。

「親父は、酒を飲んだら、時々俺を殴る」

 そんなこと、あってはならない。

 頭が、ずしっと重くなったような気がした。陽介の脳味噌はチカチカと赤く危険信号を点滅させていた。親が子どもを殴るなんて、あってはならない。もしかしたら、と陽介は思う。今まで喧嘩だと思っていた隼人の怪我や、制服に付着した血液などは、全て隼人の父親のせいなのかもしれない。なにも言わない陽介の様子を訝しげに見ながら、

「昨日、お好み焼き、ありがとな」

 隼人は思い出したように言い、スクールバッグからタッパーを取り出して陽介に差し出した。きれいに洗ってある。

「でも、あれ、ほとんど皆川くんが作ったんだし」

 受け取りながら、陽介は言う。

「うち、ホットプレートないからさ。妹が、よろこんでた」

 笑いながら発せられたその言葉に、陽介の脳味噌は、再び重くなる。

「妹さんは? 妹さんは大丈夫なの? 殴られたりしないの?」

 そう尋ねると、

「妹は、大丈夫」

 隼人は言った。

「親父の子だから」

「え、皆川くんは?」

 反射的にその疑問を口にしていた。もうちょっと慎重に言葉を選ぶべきだったと思っても、放ってしまった言葉はもう元には戻らない。

「俺は、違う。母さんが、別の男とやった結果だ」

 隼人は気を悪くした様子もなく、淡々とした口調で答える。

「たぶん、外国人だと思う。俺の髪の色だけ、こんなだから。親父も母さんも何も言わなかったけど、親戚も近所のやつらも、みんな知ってる」

「お母さんは?」

 陽介の声は震えてしまう。

「何年か前に出てった。たぶん、その男と。日本にいるかどうかもわかんねー」

 そして、弁解するように、隼人は続ける。

「親父、普段はそんなんじゃないんだ。俺のこと、捨てずにいてくれたし、小学校の時の父親参観にも仕事が休みなら来てくれた。親としての義務はちゃんと果たしてくれてると思う。でも酒を飲みすぎると、時々……」

 なおも続けようとする隼人を、陽介はソファに膝立ちになり、ぎゅむっと抱きしめる。

「ど、どうした、牧村」

 少し驚いたように隼人は言った。腹の底のほうから、溢れ出てくる得体の知れない感情に、陽介自身も戸惑っていた。

「やだ」

 その得体の知れない感情が、陽介に言わせる。

「僕、皆川くんが痛いのは、やだよ」

 隼人はなにも言わない。ただ、遠慮がちに陽介の背中に手を回してきただけだ。

 しばらくそのままでいて、お互いの体温でむしむしと暑くなってきた頃、

「おまえが」

 隼人がかすれた声で口を開いた。

「入学式の日、おまえ、言ったんだ。後ろの席の俺を振り返って、言ったんだ。その髪、お月さまの色だねって。きれいだねって」

 隼人の咽喉が、く、と小さく鳴った。

「うれしかった」

 そう言われ、陽介の鼻の奥がつんと痛くなる。

「ごめん。僕、おぼえてなくて」

「いいんだよ、それで」

 隼人はかすれた声で、穏やかに言う。

「なんとなく言ったんだろ? なんとなくで、さらっと言ったんだ。そういうのでいいんだ」

 隼人は言う。

「そういうのが、よかった」

 陽介は隼人から少し身体を離し、その切れた唇を舐めてみた。そうしたい、と思ったのだ。

「痛い?」

 尋ねても返事はない。隼人が、じっと陽介の目を見つめる。

「しみる?」

 陽介はもう一度、尋ねる。隼人がなにも言わないので、陽介はもう一度隼人の唇を舐める。

「皆川くん、なんでいやがんないの?」

「わかんね」

 隼人は惚けたように言った。

「俺、こんなふうに優しくされたことって、あんまないから」

 そして、しばらく言葉を探しているようだった隼人は、こう言った。

「気持ちいい」

 その言葉を聞いた陽介は笑ってしまい、隼人は拗ねたような表情で耳を赤くした。


 冷蔵庫の焼きそばを出してきて、電子レンジで温める。隼人はそれをきれいに平らげた。

「誰かが作ってくれた飯はうまいよな」

 独り言のように呟かれた言葉を、陽介は聞き逃さなかった。

「もしかして、ごはんはいつも皆川くんが作ってるの?」

「いつもじゃない。妹と順番で」

 うちの妹の飯はうまいぞ、と、うれしそうに言うので、妹とは仲良しなんだな、と陽介もうれしくなる。

「お父さんは?」

「親父はそういうのはしない。一度仕事に出たら、しばらく帰ってこないから。休みの時はずっといるけど」

 隼人の言葉に、僕は皆川くんのことを何も知らないな、と陽介は思う。

「お父さん、仕事なにやってるの?」

「海自。自衛隊。人のためにちゃんと働いてるし、悪い奴じゃないんだ」

 なおも父親を庇う隼人に、

「そっか」

 陽介は頷くだけに留める。

「僕の母さんは、看護師をしてる。父さんは僕が三歳の時に死んだ」

「ふうん」

 隼人は頷いた。

「僕たち、いろいろすっ飛ばしてキスなんてしちゃったけど、お互いのことなんにも知らないね」

 陽介の言葉に、

「ばっ」

 隼人は過剰に反応する。

「馬鹿か、おまえ。よくそういうこと、口に出せるな」

「だって、本当のことだもん。皆川くん、気持ちいいって言ったくせに」

 そう返すと、隼人は顔を真っ赤にしたまま口をぱくぱくと動かし、そして怒ったような表情で唇を引き結び、黙ってしまった。その様子を見ていると、陽介の中のなにかが、どろりと溶けたような感覚になる。

「もっかい、しよ」

 そう言葉に出してみると、なんだか鳩尾がむずむずした。

「ね、皆川くん。もういっかい」

 隼人は何も言わない。

「いや?」

 そう尋ねると、

「……そんなことは、ない」

 躊躇った後、腕で顔を隠すようにして絞り出すように言った隼人を、陽介は、かわいいと思った。


 居間のソファで、二の腕がぴったりとくっつく距離に座り、陽介と隼人はテレビを観た。こうしていると、まるで家族のようだ、と陽介は思う。

「もう遅いし、帰る」

 バラエティ番組がひとつ終わったところで、隼人が言って立ち上がった。

「帰したくないよ」

 陽介は座ったまま、隼人の手首を掴む。

「また殴られたりしない?」

「しないって」

 隼人は陽介を安心させるように笑う。

「親父は、たぶんもう寝てる。それに、またすぐに仕事で、当分帰ってこない」

 納得できないものの、

「妹が待ってるし、帰らないと」

 そう言われると陽介はなにも言えない。

「明日もくる?」

 陽介のその言葉に、「いや」と隼人は首を振った。

「どうして?」

 ショックを受け、陽介は問い返した。

「おまえが学校こい」

 隼人は言った。

「俺はずっと、おまえがいるから学校に行ってた。おまえに会いに行ってたんだ」

 ああ、と陽介は思う。そんなふうに言われると、うれしい。そんなふうに思われていたなんて、うれしい。

「じゃあ僕は、皆川くんに会いに学校へ行くよ」

 陽介は言い、隼人の手首を掴んだままソファから立ち上がり、その手を滑らせて隼人の手を握る。握り返してはこないものの、隼人はいやがらなかった。

「明日、学校で会おうね」

 隼人の手を握ったまま一緒に玄関まで行き、その背中を見送りながら陽介は手を振った。



 朝、学校へ行く準備をしている陽介を見ても、母親は何も言わなかった。ただ背中を、ぽん、と叩いただけだ。

「いってきます」

 陽介は言った。

「いってらっしゃい」

 そう言って送り出してくれた母親に、陽介は笑顔を返した。

 学校は、久しぶりに登校した陽介に対する物珍しげな視線以外は、不登校を始める前と特に何も変わらなかった。自分の不在が何かに影響すると言うことはないし、かといって、自分の存在が何かに影響を与えることもない。いてもいなくても同じだ。そう思っていたけれど、教室に入ってきた隼人のお月さまのような髪の色を視界にとらえた瞬間、陽介は考えを改めた。自分の存在も不在も、確実に隼人に何かしらの影響を与えていた。そうじゃないと、隼人が自分の家にやってくるなんてことはなかったはずだ。そう思うと、とても心強いような気がした。

「皆川くん、おはよう」

 そう声をかけると、隼人は無言で困ったような笑みを浮かべた。

 そうした後は、なにを話すわけでもなく、おとなしく午前の授業を受け、昼休憩は職員室に呼ばれ、そして午後の授業をまたおとなしく受けた。

 放課後になって、

「帰ろ」

 陽介は隼人にそう一言だけ声をかけた。

「うん」

 隼人は小さく頷いて、スクールバッグを掴んだ。

「お父さん、まだいるの?」

 帰り道でそう尋ねると、

「いる」

 隼人は短く答えた。

「大丈夫?」

「大丈夫だって。昨日みたいなことは、時々しかないし、おまえが心配するようなことじゃない」

「でも、心配だ」

 陽介は言う。

「皆川くんが痛いのは、いやだ」

 隼人はただ、「うん」と言っただけだった。そして、陽介の手を弱々しく握ってきたのだ。どうしたんだろう、と思う。隼人が泣き出しそうに見えて、陽介は慌てて、隼人の手を強く握り返す。

「今度、殴られたらさ、どこか遠くに逃げようか。いっしょに」

 半ば本気で陽介は言う。

「妹を置いては行けない」

 しっかりとした口調できっぱりと断られ、

「そうだよね」

 陽介は呟くように言った。そして、僕もお母さんを置いては行けないもんなあ。そんなことを思った。なので、

「今度なにかあったら、うちにきて。妹さんも一緒に」

 そう言い直した。

「うん」

 隼人はやはり、小さく頷いただけだった。すれ違った中学生の男女が、手を繋いでいる陽介と隼人を見て、不思議そうな顔をした。それを気にすることもなく、ふたりは手を繋いで歩く。繋いだ手が、ひどく熱い。夏は、すぐそこまできている。



 玄関のチャイムが鳴らされたのは、日曜日だった。スコープを覗くと、隼人ともうひとり、同じ年頃の女の子がいた。ポニーテールに結っている髪の毛は、隼人のそれと同じ色だ。妹さんかな、と陽介は思う。もっと小さな子かと思っていた。想像よりも随分と大きい。そこまで考えて、先日自分が陽介に対して口にした言葉を思い出した。

 今度なにかあったら、うちにきて。妹さんも一緒に。

「なにかあったの!?」

 ドアを開けて、慌てて尋ねる陽介に、

「なにもないけど」

 照れくさそうに隼人は言った。

「なにもないけど、遊びにきた」

 その隣では、女の子がにこにこと笑って言った。

「隼人の妹の凛です。遊びにきました」

 ふたりを居間に通し、ソファに座らせる。

「凛ちゃんの髪の色も、皆川くんと同じだね」

 人数分のオレンジジュースをテーブルに置きながら、陽介は言う。前に聞いていた話と違う。この色の髪は、自分だけだと隼人は言っていたはずだ。

「わたしのは人工です。お兄ちゃんと同じがよかったから脱色して、染めてるんです」

 凛は言った。

「でも、やっぱりお兄ちゃんの髪の色のほうがきれいでしょ」

「うん」

 陽介は凛の言葉に、力いっぱい同意する。

 遊ぶと言っても、陽介の家にはなにもない。ふと思いついて、雑多な物入れになっている引き出しから、陽介はトランプを出してきた。ババ抜きをしながら、一喜一憂する皆川兄妹を見て、いいなあ、と陽介は思う。僕も、皆川くんともっと仲良くなりたい。そして、ゆくゆくは家族になるんだ。自然とそんなふうに思い、

「ねえ、凛ちゃん。僕が大人になって働くようになったら、お兄ちゃんをもらってもいい?」

 凛にそう尋ねると、

「いいけど、わたしも一緒じゃだめですか?」

 予想外の言葉を受けて、陽介はうーん、と唸る。

「ちょっと考えさせて」

 その会話を聞いた隼人が目を細めて笑っているのが見え、陽介はまた、鳩尾のあたりがむずむずするような心地になった。


「父のことは、わたしがちゃんと見張っています。お酒を飲みすぎないように。だから、陽介くんは安心していてください」

 帰り際、凛が言った。

「わかった」

 陽介は頷く。

「大丈夫だっつってんのに」

 隼人が不貞腐れたように言い、凛が肘で隼人の脇腹を小突いた。

「僕、そこまで送ってく」

 そう言って隼人の左手を取ると、隼人は驚いたような表情で陽介を見た。

「おま、なに」

「あ、ずるい!」

 そう言って、戸惑っている隼人の右手を凛が握る。

「なんなんだ、おまえら」

 両手を拘束された隼人が苦笑いを浮かべた。隼人の言葉を無視して、

「暑いなあ」

 凛が言った。

「夏になったら、三人で海に遊びに行きましょう」

「三人で?」

 陽介は問い返す。できれば、隼人とふたりきりで行きたい。

「半裸のお兄ちゃんと陽介くんをふたりきりになんてできないよ」

 そう言って凛が笑うので、陽介はふたりきりの海は諦めることにする。

「変なこと言うなって」

 そう言った隼人を見ると、楽しそうに笑っていたので、まあいいか、と思う。でも、

「今度は、ひとりで遊びにきてね」

 陽介は、隼人の耳もとでひそひそと囁いた。隼人はくすぐったそうに身を捩る。青空の下、皆川兄妹の髪の毛が、太陽の光を反射させて、きらきらと輝いていた。



 次の日曜日がきた。隼人はひとりで陽介の家に遊びにきてくれた。素直だ、と陽介は思う。

「皆川くんて、いつもなにして遊んでるの?」

 外は雨が降っている。外出するのも億劫で、居間のソファでくっついて座りながら、陽介は隼人に尋ねる。遊びにきて、と言ったものの、なにをして遊んだらいいのかいまいちわからない。ふたりだけでトランプというのも、盛り上がりに欠けるような気がする。

「俺、友達いねーから、遊ぶっつっても凛としか」

 隼人の返答に、

「ああ」

 陽介は納得した声を出す。

「ゲーセンでぬいぐるみ取ったり、買いものに付き合ったり、あとマック行ったり」

「なんか、デートみたいだね」

 陽介が言うと、うーん、と隼人は唸り、

「同世代の男とは、喧嘩しかしねーし」

 と言う。

「喧嘩?」

 そういえば、隼人は不良だった、と思い出す。時々していた怪我は、やはり父親だけが原因ではなかったようだ。

「でも、今は、そんなしてねーよ」

 隼人はぼそぼそと言う。

「痛いのは、やだよ」

「うん。わかってる」

 頷く隼人の肩に手を伸ばし、ぎゅっと抱き寄せてお月さま色の頭を撫でてやると、隼人は甘えるように陽介の胸にもぐり付いてきた。

「え、どうしたの?」

 予想していた反応と違っていて、陽介は戸惑ってしまう。

「もっと、ぎゅっとしてくれ」

 隼人が言う。

「……うん」

 頭の中にはクエスチョンマークが大量発生していたが、陽介は隼人の言う通りにする。隼人の身体を強く抱きしめると、隼人は安心したように、身をすり寄せてくる。

「ねえ、どうしたの、皆川くん」

 陽介の心臓は、ばくばくと過剰な運動を続けていて、脳みそも心臓も今にも破裂してしまいそうだった。しかし、

「まともな母ちゃんって、こんなだったんかな」

 隼人の口からぼそりとこぼれた言葉に、陽介の心臓は、ぷしゅっと縮んでしまった。

「僕は、お母さんじゃないよ」

 陽介は言う。

「うん。わかってる」

 隼人は少し寂しそうに頷いた。

 もしかしたら、と陽介は思う。もしかしたら皆川くんは、お母さんに甘えたことがないのかもしれない。

 隼人の母親がどういう人なのかは知らないが、隼人の話を聞く限りでは、あまり甘えられるような環境ではなかったようだ。父親にはもちろん、妹である凛に甘えるわけにもいかなかっただろう。そう考えると、陽介は、別にお母さんでもいいかな、とも思うのだ。しかし、陽介が隼人に抱いている感情は、やはり母親のそれとは違う。もっと甘くて即物的で、身も蓋もない言い方をしてしまえば、性欲を多大に含むものだった。

「僕は、皆川くんのこと、たぶん愛してる」

 陽介は言う。

「でも、僕はお母さんじゃないから、お母さんがしないようなこと、皆川くんにしたいとも思ってる」

 隼人の身体が、陽介の腕の中で一瞬びくりと震え、そして固まった。

「エッチなこととか」

 目を見開いた隼人の唇に自分の唇を押しつけ、すぐに離す。

「皆川くんの唇、やわっこいね」

 内心では、心臓ごと吐いてしまいそうなくらいどきどきしていたのだが、それを悟られたくなくて、陽介はそんなことを言う。

「変なこと言うな、馬鹿」

 焦ったような隼人の声を無視し、耳たぶを甘噛みしてやると、ひゅっと音をさせて隼人は息を吸い込んだ。ティーシャツの中に手を滑り込ませると、隼人の身体はわかりやすく強張る。

「大丈夫だよ。やなら、やめる」

 ぎゅっと固く目を閉じている隼人を、安心させるように陽介は言う。

「やじゃないけど」

 隼人は言った。

「やじゃないけど、今はちょっと……こ、心の準備が」

「そっか。じゃあ、準備ができるまで待つよ」

 陽介は言い、隼人に触れていた手を離す。少し、ほっとしてもいた。自分だって経験があるわけではない。ここから先は、未知の世界だ。隼人に経験があったらどうしようかと思っていたが、あの様子を見る限りでは、どうやら隼人もこういうことは初めてのようだ。

「準備ができたら言って」

 知らぬ間に力の入っていた肩から力を抜き、陽介は言った。

「俺から言うのか?」

 隼人が不安そうな声を出すので、

「注文が決まったころにまた聞きにきてくれるような、親切なファミレス店員じゃないんだよ、僕は」

 陽介は少し意地悪く言ってみる。

「ご注文が決まりましたらお呼びください」

 笑顔で言うと、

「注文決めるの、時間かかるかも」

 不本意そうに言って、隼人は俯いた。

「いいよ。いつまでも待つよ」

「うん」

 隼人は小さく頷き、陽介の小指と薬指を遠慮がちにやわやわと握った。そんな初心な仕草がかわいくて、陽介は笑ってしまう。

「笑うな」

 隼人は言うのだが、

「だって。皆川くん、かわいいんだもん。かわいいもの見たらさ、思わず笑っちゃうでしょ」

 陽介の笑いは止まらない。そして、今はまだ、このくらいでいいのかな、と陽介は思うのだ。なので、

「今度、ふたりで遊びに行こ」

 陽介は隼人にそう言った。

「ゲーセン行って、買いものして、そんで、ハンバーガー食べよ」

「うん」

「夏には、海に行かなくちゃ」

「ああ。凛が、楽しみにしてる」

 隼人は頷き、陽介の肩にそのお月さまの色をした頭を静かに置いた。甘えられている。そう思うと、陽介はやはり笑いが込み上げてくるのだった。

 自分は隼人の母親ではないし、母親にはなれないけれど、こんなふうに甘えられるのは気持ちがいい。

「笑うな」

「だって」

 陽介は笑いながら言う。

「気持ちいいんだもん」

 陽介は思う。これから、皆川くんとたくさん話をして、そして、たくさん遊ぼう。僕たちはまだ若いのだから、時間はたっぷりある。それに、夏はまだ始まってもいないのだ。

「これから、これから」

 陽介の言葉に、「ん?」と隼人は呟いて、不思議そうな表情をする。



【十年後】


「明日わたし、お父さんの様子を見に行くから」

 晩飯時、ちょっとくらい手伝ってよ、と陽介をキッチンに呼んだ凛が、まな板の上の玉ねぎと包丁を陽介に示して言った。

「そのまま実家に泊まるから」

「了解」

 陽介は玉ねぎを細かく刻みながら返事をする。今日はハンバーグだと聞いた。

「お兄ちゃん、何時に帰るって?」

「わかんない。でも、少し遅くなるって言ってた」

 隼人は高校を卒業してすぐに就職し、家を出た。そのため、陽介よりも社会人歴は長い。最近、職場でリーダーを任されるようになったらしく、ここのところ帰りが遅い。

「そう。うっわ、きも。なに泣いてんの?」

 陽介の顔を見た凛がぎょっとしたように言う。

「玉ねぎだって」

 服の二の腕あたりで涙を拭いながら陽介は返事をする。

 陽介は大学を卒業後、就職してすぐに隼人との同居を決めた。凛も交えて三人で暮らし始めたのは、凛が大学を卒業し、偶然にも陽介と同じ会社に就職してから、ここ一年ほどだ。部署が違うので、会社では顔を合わせることはまずないが、帰りの時間は、今日のようにだいたい同じくらいになることが多い。

「凛ちゃんはさあ、恋人つくんないの?」

 なにげなく尋ねると、

「つくろうと思ってできるもんでもないじゃない」

 あっさりとした答えが返ってきた。それもそうだ、と思いつつ、陽介は刻んだ玉ねぎをミンチの入ったボウルに移す。たまごとパン粉を入れ、ナツメグと塩こしょうをし、

「陽介くん、わたしのこと追い出そうとしてるんでしょ」

 ボウルの中の種をがつんがつんと乱暴にこねながら凛が棘のある声で言った。

「してないよ」

 急にどうしたのだろう、と思いながらも、陽介は凛の言葉を否定する。

「わたしのことが邪魔なんだ」

「邪魔じゃないって。なんでそういうこと言うの」

 凛が髪の毛を元の色に戻したのは、就職活動を始めたころだった。日の光を反射させて、きらきらしていたお月さまのような髪の毛は、今はもう隼人しか持っていない。

「わたしみたいな小姑がいたら、お兄ちゃんといちゃいちゃできないもんね」

「どうしたの、凛ちゃん。今日、なんかやけに突っかかってくるね」

 そう言うと、凛は黙ってしまった。凛の右手と左手を、ハンバーグが行き来している。ぺたんぺたんとハンバーグの空気を抜く音だけが妙にのんきに聞こえる。陽介はキャベツを刻みにかかる。

「失恋したの」

 怒りをぶつけるように凛が言った。ざくっと切れたキャベツが思いの外、太くなってしまう。

「ごめん」

 思わず謝ってしまった。それを無視して、凛は続ける。

「取引先の人で、何回か食事に行って、プレゼントとかもらって、うれしかったのに。でも、そいつ奥さんがいたの。子どももいるんだって。わたし知らなかった。わたしと会う時は、いつも指輪外してたから。浮かれちゃって馬鹿みたい。家庭があるのに、どうしてよその女を食事や旅行に誘ったり、プレゼントしたりするわけ? ああもう、なにそれ、なんでそんなことできるの? 男って、本当わけわかんない」

 うぐ、と凛の咽喉が鳴った。凛がいま悲しいのだということは痛いほどわかるのだが、陽介はどんな言葉をかけたらいいのかわからない。

「陽介くんは、好きな人に好きになってもらえていいね。いっしょに暮せて幸せだね」

 湿った声で言われ、改めて思う。現在の自分のこの状況は、とてもありがたいものなのだと。

「泣かないで、凛ちゃん」

 熱いフライパンがハンバーグを、じゅう、と言わせる。

「泣いてない」

「でも」

「玉ねぎよ」

 キッチンペーパーで洟を噛みながら凛が言う。

「うそつき」

 陽介は笑う。

「凛ちゃんがいたいんだったら、いつまでもここにいていいんだよ。凛ちゃんは、隼人くんと僕の妹だもの」

「ありがと。でも、いつまでもはいないよ。まだしばらくはいるけど、いつかは出てく」

 凛は言い、陽介は、そっか、と頷いて、朝の残りの味噌汁を温め直す。

「お兄ちゃんには、陽介くんがいるんだもん。もう、わたしが髪の毛の色をおそろいにする必要なんてない」

 涙声で小さく囁かれた言葉は、陽介の胸をじんわりと熱くした。

 お兄ちゃんと同じがよかったから。中学生だった凛が口にしたこの言葉はきっと、隼人をひとりにしないためのものだった。ひとりだけ色の違っていた隼人と同じ色になることで、凛は、自分の思いつく限り精一杯のやり方で隼人を守ろうとしていたのかもしれない。

「ちょっと、陽介くん。キャベツ、もっと丁寧に切ってよ」

 そんな凛に家族同然に怒られることすらうれしくて、陽介は少し泣いてしまった。

「あ、うそ、なに泣いてんの? わたし、そんな強く言ってないでしょ」

 ぎょっとしたような凛の声を聞きながら、陽介はキャベツを皿に盛る。



「ただいま。凛は?」

 隼人が帰宅した時、凛は風呂に入っていた。

「おかえり。凛ちゃんはお風呂」

 最初の頃こそ、自宅で女の子が入浴しているというだけで戸惑っていたけれど、今ではすっかり慣れてしまった。

「ごはんあっためるから、手洗っておいで」

 ハンバーグの皿を電子レンジに入れながら、隼人に言う。返事はないが、隼人が洗面所に行った気配はわかる。素直だ、と陽介は思う。

「凛ちゃん明日、実家泊まるって」

「そうか」

 短い返事をして食卓についた隼人は、もくもくとハンバーグを食べる。食べ終わり、食器を流しに運んだところで、

「すみませーん」

 隼人がまるで店員を呼ぶように言った。リビングでテレビを観ていた陽介は、

「なに?」

 声だけで答える。

「いいぞ、明日」

 隼人の声は食器を洗いながらなので、その音に重なって聞きとりにくい。

「え、なにが?」

 陽介は立ち上がり、隼人のそばまで行って聞き返した。

「心の準備ができた。注文が決まったら呼べつっただろ」

 視線は手もとの食器に落としたままで、隼人は言った。

「あ」

 一瞬で、あの日の記憶がよみがえる。青かった、子どもだった。思い出すと、少し恥ずかしい。

「はい、わかりました」

 なぜか気持ちが改まってしまい、敬語で返事をしながら、長かったなあ、と陽介は笑う。十年待った。

「では明日、よろしくお願いします」

「うん」

 隼人は耳を赤くして、小さく頷いた。

「大事にしますので」

 堅苦しく言った陽介の言葉に、

「もう、じゅうぶん大事にしてもらってるよ」

 そう言って、隼人は鋭い目を糸みたいに細めて笑う。食器洗剤の泡がふわっと舞って、甘い香りがした。

 今ある幸せを、今まで以上に大事にしますので。そう思いながら陽介は、お月さまの色をした隼人の髪の毛に手を伸ばす。



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