もうマッチョしか言えない
現代の脳科学をもってしても、その病の原因は全くと言っていい程に解明が進んでいないらしい。
「あ、次の授業マッチョだよね、行こ?」
崎原さんは重い病気を抱えている。語彙を奪われる病気だ。
よく『アレだよアレ』とか『それ取って』なんて、仲の良い二人の間で説明を省いた会話が成されたりするが、崎原さんが抱える病気は、あらゆる語彙が別の単語になってしまう奇病だ。
しかも本人も気が付かずに言ってしまう為、周囲が気にも留めないなら、いつまでもそのままだ。
「水谷くんも行こ?」
「あ、ああ……」
置き換わる語彙は人によって様々らしい。【フンドシ】や【ギャランドゥ】、酷いと【アホンダラ】なんて言葉が出る人も居るらしい。
崎原さんは何故か【マッチョ】だ。
マッチョが好きなのか未練があるのか、その辺は憶測の域を出ないが、やがて全てがマッチョになるのかと思うと、とてもやるせない気持ちだ。
「ほら、私ってマッチョじゃん?」
教室移動で友達と前を歩く崎原さんが、にんまりと笑った。屈託の無い純度100%の笑顔で。
崎原さんはマッチョじゃない。小さくて可愛くて、髪が長くて可愛くて、ちょっと子どもみたいな所もあって可愛くて、正直に言えば好きだったりする。
「こないだなんか七マッチョ八マッチョでさ……」
七転八倒の事だろうか、マッチョが狭い部屋に七~八人居るらしい事を想像してしまい、笑いかけてしまう。
「へぇ~」
「ホントだよ? 先週なんか二マッチョ三マッチョしたのに全然だったし」
崎原さんの隣を歩く友人は、全くマッチョを気に留めるでもなく、普通に会話をしている。伸びた爪を気にしているのか、頻りに手をいじっていた。
「あ、ごめん。マッチョしてくから先行ってて」
「おっけ~」
そう言って、崎原さんはトイレへと向かった。
俺の前を歩き続ける崎原さんの友人は、他のクラスメイトを見付けると声をかけ「崎原さんって何言ってるか分かんないけど、それ言うのも面倒なんだよね……話すの止めたくなるわ」と、愚痴をこぼし始めた。
俺は、心臓を撃ち抜かれる様な衝撃に襲われ、その場から動けなくなってしまった。
「マッチョ君?」
「あ」
しばらくて、後ろから崎原さんに声をかけられた。
張り付いた足が、ゆっくりと床から剥がれてゆく。
「どうしたの? 行かないの?」
純度100%の笑顔で笑う崎原さんに、誤魔化しの笑顔で取り繕って見せた。
「マッチョ始まっちゃうよ? 行こう行こう」
「崎原さん……!」
先を行こうとする崎原さんの腕を、咄嗟に掴んでしまった。
細い。これでもかと細くて弱々しい、それでいて守りたくなるような、そんな可愛らしさも持っていた。
「マッチョが出てる……」
「えっ? ああ。いいのに……ありがと」
崎原さんは、ただ笑った。
そしていつまでも腕を放さない俺に向かって、崎原さんはゆっくりと話し始めた。
「喋れば喋れる程、皆に嫌われていくのが分かるから……だから、本当は喋りたくないんだけど……」
掴んでいる崎原さんの腕が、そっと震えだした。
「…………黙っていると泣いちゃいそうで」
俺はそのまま崎原さんの腕を引き、抱き締めた。
身長差が少しあったが、不格好だろうが力一杯崎原さんを抱き締めた。
「水谷くん……?」
「なら、俺と……話さない? 俺は崎原さんといつまでも話していたい」
「……もしかして、私のことマッチョなの?」
「──!!」
心臓が一つ、強く跳ねた。
『私のこと』と、言っている時点でその先がマッチョだろうが関係ない。
「……うん」
俺は覚悟を決めた。
「大丈夫、心配しないで。先生もじきに良くなるって言ってたから」
「……」
──キーンコーン、カーンコーン
「あ! 急ごう?」
「……うん」
崎原さんは俺の中から飛び出して行ってしまった。
少し寂しさが残ったが、崎原さんは笑って「早く早く」と手招き、俺は応える様に走り出した。
やがて、崎原さんは友人を失った。病の進行が止まらなかったからだ。
「マッチョ君……」
夕暮れの公園のベンチで、崎原さんは泣いていた。
「崎原さん……」
「ゴメンね、こんなマッチョ見せちゃって」
「いいよ。気にしてない。それより、俺に出来る事、あるかな……?」
「…………泣き止むまで隣に居てもらってもいい?」
「……うん」
その日、崎原さんはずっと泣いていた。
本気で泣き続ける女の子を見るのは初めてだったけれど、普段笑顔で話している崎原さんは、ずっと無理をしていたのだろう。
空が少し赤くなると、崎原さんは目を赤くして静かに語り始めた。
「……もう治らないって……マッチョに言われちゃった。本当はずっとマッチョからマッチョだったんだけど、マッチョが私にはマッチョだって…………」
「……崎原さん。凄いマッチョだよ」
「…………」
そっと、俺の肩に崎原さんの頭がもたれ掛かってきた。
目から流れる雫が、俺の肩に染みてゆく。
「……もう、マッチョは嫌だよ」
「俺に出来る事は?」
「マッチョの話だと、残りマッチョ……三マッチョなんだって」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
その病……死ぬの!?
その病で死ぬの!?
「……最後は脳がマッチョして……マッチョなんだって」
──いやいやいや!! 一番苦しいのは崎原さんだろ!! 何理解に苦しんでるんだ俺は……!!
「崎原さんの支えになりたい」
「……マッチョ…………」
崎原さんの震える手をグッと押さえ、気が付けば顔が近い。思わず手を離してしまった。
「……マッチョ……」
「ご、ごめん……!!」
「んーん。……マッチョ」
崎原さんはそっと両手を合わせ、笑ってくれた。
数日後、崎原さんは学校へも来なくなってしまった。
心配で家を訪ねると、作り笑いを浮かべた母親が現れ、通してくれた。きっとお母さんも辛いのだろう。少しでも力になれれば良いのだが……。
「崎原さん」
「──マッチョ!?」
「入るね」
「マッ、マッチョッチョ……!!」
やけに慌てる崎原さんだが、既に部屋の扉を開けてしまったので、部屋着の崎原さんと目が合った。
「マ……マッチョ~……」
「ご、ごめん……!」
慌てて扉を閉めた。
しばらく扉の前で待っていると、崎原さんが開けてくれた。
「マッチョ」
「ありがとう」
心なしか学校で会うときよりも明るい崎原さんに、俺は少しだけ安堵した。
お互い教科書を広げ、勉強を進めた。
崎原さんは普通に俺より出来るので、逆に教えて貰う始末だ。
「……水谷くん。ありがとう」
「いえ」
帰り際。お母さんからお礼を言われた。
俺よりも遙かに年上の女性が、深く頭を下げたのを見て、なんだが申し訳ない気持ちになった。
「崎原さんの支えになれれば……」
「……ありがとう」
それから二、三日に一度のペースで、俺は崎原さんを訪ねた。
変化が起きたのは、一ヶ月後の事だった。
「水谷くん……」
「どうしたんですか、それ?」
崎原さんのお母さんの頬に、青あざが見えた。
「ちょっとぶつけちゃったみたいで……どうぞ上がって。後でフィナンシェを持っていくわ」
「すみません、ありがとうございます」
お母さんは何でもなさそうな顔をしていたが、どう見ても殴られた様な痛々しい痕だった。
「──崎原さん」
「マッチョ」
扉を開けると笑顔の崎原さん。
俺達はいつも通り勉強をした。
会話は相変わらずマッチョまみれだけど、言葉は要らない。肩を並べて座っているだけで、幸せだった。
もしかしたら幸せなのは自分だけなのかも知れないけれど……いや、まだ幸せには早いだろう。
崎原さんの小指に巻かれた湿布について聞くことが出来ない自分には、幸せを語る資格なんて無いのに……。
「えっ!? 崎原さんが消えた……!?」
三日後に崎原さんの家を訪ねると、泣きながらお母さんが語ってくれた。
自分と居るときは明るい崎原さんも、夜になると泣いて暴れる様になり、やはり頬の傷も崎原さんに殴られた痕だったそうだ。
昨日ついに崎原さんは我慢の限界を迎え、家を出て行ってしまった。行き先に心当たりも無く、今警察に捜索願を出して対応に追われているそうだ。
「部屋にこれが……」
お母さんが便箋を差し出した。封は開いていた。
「ごめんなさいね。手掛かりになると思って開けちゃったんだけど、あなた宛だったと知らなくて……」
便箋の裏に『マッチョ君へ』の文字が。まあ、分かるわけがない。
「読んでも良いですか?」
「もし良ければ、娘の部屋を使って」
「ありがとうございます」
ゆっくりと階段を上り、崎原さんの部屋へ。
いつもの場所に腰を落ち着け、便箋の中を開いた。
──マッチョ君へ。
書き出しからマッチョで始まり、文末まで全てがマッチョで埋め尽くされた手紙。
書き出しの薄いHBのマッチョの文字。そのまま薄マッチョが続き、次第に力無く文字が細くなっていった。細マッチョが二行程続くと、突然太マッチョに変わり、力強いマッチョが続いた。感情に任せ書き殴るマッチョ達。最後は涙の濡れマッチョで〆られていた。
「……どうだったかしら」
リビングへ行くと、涙ながらに母親が問い掛けてきた。
「マッチョしかいませんでした……」
「だよね……」
苦笑。そして俯くお母さん
「でも……とても心がこもってました」
「……ありがとう」
俺達はすぐに崎原さんを探しに出た。
俺は翌日学校を無断で休み、捜索に明け暮れた。
「崎原さん……」
彼女が発見されたのは、失踪から五日後の昼過ぎだった。
自宅から歩いて三十分の山の中。切り株にもたれるように、彼女は横になっていたらしい。
布に包まれ自宅に帰ってきた崎原さんの顔と冷たさを、俺は一生忘れないだろう──。