戦争と条約の裏側
翌十月、アメリカが日本向けのくず鉄の輸出の禁輸を発表した。
名分は欧州の民主主義国家を踏みにじる反民主主義勢力だから、というものである。
赤坂宮の言った通り、ルーズベルトが三国同盟を見逃すはずはなかったのである。
赤坂宮はただちにこれに反応し政府に対し次の指示を出せと言い出した。
即ち、三国同盟に基づき、大日本帝国はイギリスに対し宣戦を布告することである。
この話が伝わると幕府のスタッフの大半から一斉におやめ下さいという言葉が反射して出てきた。まるで彼らが赤坂宮の意図を予め読んでいたかのごとく、その反応は早かった。
「何故かね。三国同盟はこういう時のために結んだのではなかったのかね。ドイツが今戦っている敵ならば我々の敵でもあるのだろう?」
「それは、その通りなのですが、イギリス王室は我が皇室とも親密な間柄でもあり、また明治以来、日本の発展に協力をしてもらった経緯もあって」
「そうです、それに日露戦争の折には日英同盟という同盟関係があり、これが機能していたおかげで戦費の工面などで大変世話になり」
「ふ~ん、要するに恩人には剣を向けたくない、とこういうわけか。それなら何故三国同盟なんか結んだのかね。これはドイツに対する裏切りになるのではないか」
「いえ、ドイツに対しては少なくともすぐにイギリスと戦えないということは説明しています」
「ほう、どういうことかね?」
「今イギリスとの間には条約があります。不戦の約束ではありませんが、少なくとも通商友好条約は有効です。約束を反故されることは陛下のもっとも嫌うことであります。他国はともかく我が国は絶対に約束は破ってはならないと……」
「確かにそうだな。分かった。対英宣戦布告の件は今はやめておこう。まあ、慌てなくても向こうが日本を巻き込みたがる状況にすぐなりそうだしな。その代わり英領オーストラリアからの鉄、鉄鉱石の輸入を増やすよう交渉させようじゃないか。折角の条約を活かさない手はない。もし条約の趣旨を向こうが飲まなかったら、その時こそ宣戦布告ということなら、陛下のメンツを穢したことにはなるまいよ」
こうして対英宣戦布告は一度は沙汰止みとなった。
翌月、幕府から政府に対し、英国に対し、ただちに米国のくず鉄の対日禁輸策を補うため、オーストラリアからの鉄、鉄鉱石の輸入を図りたいという趣旨で交渉を申し込むようにと指示が出された。直ちに新たに就任したばかりの松岡外相が駐日英国大使クレイギーを呼び、会談が行われた。
この時期のイギリスは対日政策について二つに割れていた。元々は日英同盟を長らく結んでいたこともあり、また利害が対立する要素がほとんど無かったので日本は潜在的友好国として扱われていたのである。ところが中国上海のイギリス租界を巡り、日本租界との権益対立が起こり、さらに日中戦争が起こったことで、イギリス側の対日感情が一気に悪化したのである。この時にルーズベルトから日英同盟の破棄を勧められ、それに従ったのだった。
ところがその後、日本が中国から手を引き、上海から日本人の姿が消えた。
在中イギリス人にとっての問題はもっぱら中国人絡みの争いとなったのである。しかも日本の圧力が無くなると中国人のテロ対象にイギリス人が選ばれることが増えたのだ。日本がいなくなったことがいいことなのか悪いことなのかよく分からないことになったのである。
そして、ここにきて日独伊三国同盟の締結である。
イギリス側からすると、同盟によってイギリスに宣戦布告をするということはいつあってもおかしくないわけである。もちろんドイツに追い詰められている現在、敵を増やしたいなどとは思っていない。ところが予想外なことに鉄の供給契約の申し込みがもたらされた。平和な商売としての申し込みなら大歓迎である。逆に言えば、これを断れば、ならば対英宣戦布告をするという流れも十分予想がついた。
これがクレイギー大使の頭に浮かんでいたことだった。
アメリカが自国の中立法のせいで、どこの国とも同盟を結べない状況であり、ルーズベルトが個人的にイギリスを支援しようとしているが、米国世論があまりそれに乗り気ではないということもクレイギーは承知していた。
が、首相に就任したばかりのチャーチルがこれを知ったらどう反応するだろう。チャーチルの頭の中にあるのはドイツとヒトラーを倒すことだけである。そしてそのためにはアメリカを何としても参戦させたい。だから三国同盟でドイツと結んだ日本をアメリカにけしかけることなら何でもやる。そこまではいい。が、肝心の日本がアメリカではなく、イギリス領を狙ったらどうなる?
イギリス本土防衛に海軍はもちろん植民地の陸軍も集中させているのだ。オーストラリアに駐留軍などほとんどいない。東洋艦隊だって間引かれている。こんな状態で日本軍が殺到したらまず支えきれない……。
クレイギー大使は思案の末、イギリス本国にこの話をつなぐのではなく、オーストラリア総督(イギリス王室の名代としてオースラリア王をつとめる者))アレグザンダー・ホア=ラスヴェン経由でオーストラリアの自治を行う連邦政府に日本側の意向を自分の意見付きで送った。植民地の居留民の安全は結局自治政府が負うしかないのである。
案の定、総督からこの話を聞かされたオーストラリア連邦政府のライオンズ首相は、すぐに要請の受け入れを表明した。
返事は松岡大臣を経由して赤坂宮に届けられた。
オーストラリア側の感触を確認すると今度は次のような指令が幕府から政府に出された。
幕府としては西オーストラリア州にある鉄資源は今後の帝国の存立の安全を図る上では絶対必要なものと判断する。故に、長期の取引と大規模な投資を行って西オーストラリアの開発を共に行いたい、と先方に提案せよ、というのである。
そして具体的に、その投資計画の中身まで示したのである。
それは高炉二基を含み、転炉電気炉を備え、各種最終鋼製品材までを一貫集中生産できる一大製鉄コンビナートを設けるというものだった。さらにそこで作られた鉄を使って、西オーストラリアに鉄道路線を設け、露天堀りで鉄鉱石を生産する鉱山と製鉄所そして港を結ぶという計画になっていた。
天然資源は豊富だが人と金が無く、未開の荒野が未開のままになっているオーストラリアにとっては願ってもない開発計画に見えたはずである。
一瀉千里という言葉の通り、オーストラリア側はこれを知ると俄然浮き立ち、日本からの調査団をいつでも受け入れるという具体的な話にまですぐに進んだ。もちろん日豪両方の財界もこの計画を大いに歓迎した。
チャーチルはそれを後で聞かされることになったが、彼にとって、イギリス帝国を構成するオーストラリアの植民地が豊かになることはいいことなのである。特にコメントも出さず黙認となった。
彼は根っからの帝国主義者であり、世界に冠たる大英帝国の繁栄こそ大事であり、植民地が潤う話であれば基本は大歓迎なのである。もともとドイツやソ連のような国家の生存圏、縄張り意識は弱く、その点でヒトラーやスターリンの思想とは根本的に違っていた。
このことはイギリス植民地の自治を他の国の植民地よりもかなり進ませることになった。
植民地の内政では植民地住民の権限がイギリス以外の国よりもかなり大きかったのである。
武力絡みの話なら軍事問題となり宗主国政府が全面的に決定権を持つが、今回の話はそれに該当せず、自治政府側の判断に委ねられたのだ。
イギリスの植民地にはイギリス本国に対する関税特権があり、本国へ輸出することが自由にできたが、その代わりに宗主国に対する納税の義務を負うという関係だった。
植民地の生産品が世界中自由に売れるなどというケースは稀で、作っても宗主国以外売り先が見つからないのが普通である。農産物関係はまず先進国では自国農家保護のため輸入を認めていないから、独立国になるよりイギリス本国への商売が保証されたイギリス領植民地でいた方が経済的にはずっと有利ということも多かったのである。
従って自治政府であるオーストラリア連邦政府からすれば、日本の提案は非常に魅力的であったのだ。
それを知るチャーチルには日本を対ドイツ戦略でアメリカをドイツとの戦いに引き込むという発想は無かった。思いつかなかったと言っていい。ルーズベルトほどには日本の価値を高くは見ていなかったのである。
なので、この話を聞いてもっとも激怒したのはルーズベルトである。ルーズベルトは今回のことで赤坂宮という人物の意図が読めた気になっていた。
「こいつは、イギリスからオーストラリアを切り離そうとしている。チャーチルにはそれが分からんのか……。この赤坂宮という男、下手をすると我が国の友邦でも寝返らせるつもりでいるぞ。全く油断のならないやつだ。ハル長官、君の切り札の一枚は無駄になったようだな。こうなると石油の禁輸も同じ手で無効化される危険が高い。イギリスはあちこちに油田も持っている。植民地が本国と一体で動くと考えていた我々は甘かったな」
「我々も元々はイギリスの植民地から出発していましたな。すっかり忘れていましたよ。しかし外交的には非の打ち所がありません。大統領、日本をダシに使う計画は一旦白紙に戻すべきかと思います」
「ではどうするのだ。イギリスを見殺しにするつもりなのかね、君は」
「そんなつもりはございません、閣下。しかしチャーチルは有能です。どうやらヒトラーもイギリスへの侵攻は今回は諦めたようですし、まだまだ時間ならあるでしょう。逆に今回分かったことは、日本もまた三国同盟を大して重要視していないということです。ドイツの交戦相手を経済的に支援したようなものですからな」
「うん、確かにそうだ。で、それがどうした?」
「大統領は、ドイツと日本、いつまで利害が一致すると思いますか。両者の主張には決定的な差があるでしょう」
「なるほど、そういうことか……。ソ連と我が合衆国というものがあるから両者は手を結んだだけ。逆に言えばそれが無ければ衝突は避けられないか……」
「大統領閣下はイギリス救援の枠組みで日本を捉えすぎではないかと。対ドイツ戦略、あるいは対ソ連戦略というものを考えると日本というカードはそれなりに使い勝手がいいのではないかと存じます。それに独ソの間も決して今のままでは済みますまい」
「なるほど。ヒトラーならありだな。狂犬同士で決着をつけさせるのか」
「我々はアジアオセアニアで日本が暴れないように監視していればよろしいのではないかと。どうせ日本がオーストラリアに接近しても閣下のご心配になるようなイギリスとの分断などできるはずはありません。合衆国以上に白人の利権にこだわっているところですからな。原住民のアボリジニとの融和につながるような有色人種との妥協は、まずできっこありませんよ」
「ふん、確かにそうだな。人種隔離政策と言ったか」
「南アフリカでも同じようなことになっているようですから、単純に白人と現地人の人数の比率が問題なんでしょうが。先進文明を持ち込んだ少数派が、多数を占める未開原住民を制圧してきた歴史ですからな。どこかで徐々に妥協となるのでしょうが、かなり時間はかかります。我々のインディアンがもっとはるかに人数が多かったらということでしょう……。いや、今のは失言です。撤回します」
ハル国務長官はルーズベルトの視線に気がつき、自分の言葉が適切でないことを瞬時に悟り、訂正した。そう、それを認めるということはアメリカの人種差別問題の主な部分はそうでないことを認めたことを意味する。国際社会に対しひた隠しに隠そうとしている本質とは、奴隷制度の名残の人種差別だということだ。イギリス植民地のような原住民と移民の対立ではないのである。
奴隷制度あるいは農奴的なものなら古今東西いくらでもあった。が、明確に肌の色で奴隷を分けたのは世界史の中でもアメリカだけなのである。黒人奴隷というだけならローマ帝国以来さまざまなところにいたが、その時には奴隷仲間には白人もいたのである。つまり人種無関係の奴隷制度だった。この点がアメリカの奴隷制度が一際醜悪だったとされる理由である。ローマの奴隷なら自分を買い取り奴隷の身分から自分自身を解放するという道もあったが、アメリカの奴隷は肌の色だけで一生奴隷と決めつけられていたという差もあった。
しかしオーストラリアや南アフリカは人種差別はあっても奴隷制度は無かったのだ。ここにアメリカとの決定的な差があった。過酷な差別は奴隷制度と似てはいたが、同じではないのである。
アメリカでの奴隷制度は既に廃止されてはいたものの、黒人の地位という比較をした時、南アフリカやオーストラリアの原住民が最初からそこに居た人達であり、居場所がなくなることは無かったことに比べ、連れて来られて売られた黒人には居場所が保証などされていなかったのである。単に奴隷制度が廃止されただけでは過酷な差別が消えるわけがなかった。
だからイギリス植民地のものと自分たちの行っている人種差別は別物という意識が働いたのだが、公的なアメリカの立場では人種差別問題は米英共通ということにしておきたかったのである。
「しかし、だとするとそれを日本に利用される危険もあるんじゃないかね。例えば原住民政治勢力に結びつくとか」
「あり得なくはないでしょう。しかし今回はモノを買う話です。ということは日本人の住民は増えません。おそらくあの国のことですから白人以外の人間は徹底的に排除するつもりでいるはずですよ。白豪主義を広言していますからな」
「なるほど、それでは扇動は難しいだろうな」
しかし赤坂宮の次の一手は、ハル国務長官の読みを完全に上回っていた。
昭和十五年(一九四〇年)十一月、日本から西オーストラリア州パースに派遣された調査団の到着を知らせるニュースは、世界各地で相当な衝撃をもたらしたのである。
現地で撮影された写真が新聞に載るとその写真が間違いではないかという新聞社への問い合わせが殺到し、その説明を聞いてもう一度さらに驚かされる、ということになったのである。
日本の代表団の団長は、ゲオルギーCジューコフとあったのである。しかも彼だけではなく、総勢三十名にも及ぶ調査団のうち約十名は彼と同じコーカサシアン(白人)だったのだ。オーストラリアへの日本の接触をこころよく思っていなかったオーストラリア国内の勢力は完全に勢いをそがれ、急速に日本に対し好意的な意見に世論が傾いた。
またアメリカでも同様で、宿敵ロシア人を重用している日本の姿は日本は差別主義者だと決めつけていた勢力を完全に黙らせる証拠として取り上げられ、排日運動そのものの求心力を一気に阻害させることになった。
一方これを知ったソ連のスターリンは激高することになった。
そもそもジューコフ達は生きているか死んでいるのかも確認できていなかったのである。多くの人間が日本に銃殺でもされたのだろうと考えていたのだ。
スターリンは自分以上に強かな対応を見せる日本の中枢部に警戒心を高めざるを得なくなった。下手な手を打つとそれを利用して何をしてくるかわからない、と思うようになったのである。
同じ頃同様にそのニュースに接していたドイツのヒトラーは呆れていた。日本にではなく、オーストラリアについてである。
彼の論理では最上クラスのアーリア人にはロシア(スラブ人)は含まれていない。日本人も劣等人種である。ドイツ人と並ぶ最上クラス人種であるアーリア人と分類されるのはアングロサクソンだけで、よってイギリス系のオーストラリア人はこんなニュースで喜んだりするものではない、ということになっていたのだ。
ヒトラーはイギリスと戦いながらも、イギリスに対しては一目も二目も置いていた。つまりイギリスの誇る世界各地の植民地からなる大帝国というのも、アーリア人なのだから当然ということになっていたのだ。この点ではヒトラーもチャーチルも大して変わらなかった。両者の思想上での大きな差があるとすれば、ユダヤを認めるか認めないかぐらいだったのである。
ダンケルクからイギリス軍が撤退した直後、ドイツ空軍のミルヒ大将がすぐにイギリス本土空襲をと進言していたが、ヒトラーはこれを躊躇い、和平交渉を持ちかけたのだ。実際にはチャーチルがこれを即座に断り、四週間後バトルオブブリテンが始まったが、この四週間があったおかげで、イギリスは対空レーダーと迎撃戦闘機を配備することができ、被害を大幅に防げた。もしミルヒ大将の言う通りにドイツ空軍がイギリスに襲いかかっていたら、その時点で降伏していた可能性は高かったのである。
それぐらいヒトラーはイギリスに対しては慎重で常に和平の道を探っていたのである。
チャーチルはヒトラーと真逆でシオニストのユダヤ贔屓である。白人優位を肯定はしていたが、それは人種云々ではなく植民地の上に君臨することで繁栄するイギリス帝国の維持に白人優位主義は絶対必要という立場だった。植民地の経済力が上がりしかも現地の住民が納得しかつイギリスとの関係を脅かさないのであれば移民にも寛容だった。なのでオーストラリアの世論変化をそのまま受け入れていた。
一番その衝撃と無縁だったのは日本国内である。なにしろ報道すらまともにされなかったのである。西オーストラリア調査団のことを気にかけていたのは財界と政界のごく一部だけであり、ましてや軍略との関係が分かっているものは幕府の外部には全くいなかった。
またこの頃の日本人は一般的に外国がどのように日本を見ているかを考えるのが下手だった。
ジューコフを起用したことを知っていても、その意図は全く理解されず宮様の奇狂な振る舞い程度のこととしか受け取られなかったのである。
またジューコフなる人物がどういう人間なのかを知る者も幕府外にはいなかった。ノモンハンのことは一切伏せられていたからだ。
ジューコフについてはロシア系アメリカ人で製鉄業の技術者といういかにももっともらしい噂が流されていた。
要するに一般日本人だけがこの件に関しては完全に何も知らされないままにされていたのだ。
ジューコフとその配下はパースにずっと残り続け、ここで製鉄コンビナートの建設を推進することになる。生まれて初めて船に乗り、赤道を越え辿り着いた南半球にある未知の大陸は、ジューコフからすれば故郷よりもはるかに快適な楽園に思えた。赤坂宮の語った国という言葉の真意を悟り、ジューコフ一党は、結束を新たにし、任務に取り組んだのである。
が、大規模な製鉄所建設の工事の規模は現地の住民から調達できる労働力の限界をはるかに上回っていた。パースは農業とわずかな漁業、畜産、鉱山業からなる人口数万の小さな町だったのである。
労働力問題が深刻さを増すとジューコフは強硬に何とかしろと連邦政府に迫り、結局それに折れる形で日本人技術者技能者そして労働者にビザが発給されることになった。やがてその人数はパースの元々のオーストラリア人の人口を簡単に超えることになり、西オーストラリア全体が日本語の通じる場所に変わることになっていった。
しかもである。オーストラリアの東部から西に移り住むオーストラリア人も増えていたのである。
理由は金と仕事である。
人口が増大したため、モノの需要が高まり、金と商売を求めてそれまで全くの過疎地だった西オーストラリア州の人口増加が他のどこの州よりも大きくなったのだ。
ところが東から新たに西に移り住んだ者たちは白豪主義にどっぷりと染まった者たちである。多数派でいられた東側の州なら問題にならなかったことでも西オーストラリア州では問題になった。
一気に人種差別問題が政治問題化するのに大した時間は掛からなかった。
昭和十六年(一九四一年)二月ジューコフはこの機を逃さなかった。オーストラリア連邦から西オーストラリア州の脱退を目指すと宣言したのである。
表向きは日本政府は無関係である。あくまでも現地でのトラブルから発展したものだからで日本軍は関係していない。
イギリス本国は当惑した。西オーストラリアが独立国となった場合、なおもイギリスの植民地としての地位を維持するならばこの問題はオーストラリア連邦の内政の話であるからだ。一方、イギリス植民地からの地位から離れた独立国として振る舞うとなれば、イギリス帝国に対する反逆である。完全に武力鎮圧の対象となる。
しかし軍事行動があったわけではなく、平和的に現地人に支持された形での宣言なのだ。民主主義を自国の旗印に掲げているイギリスとしては非常に対処しにくかったのである。
またチャーチルは彼の気にする他の植民地への波及も心配する必要があった。
結局、事態の推移を注視するとだけ発表した以上の行動は取らなかった。
それに軍を動かして鎮圧しようとしても事実上は不可能だったのである。西オーストラリアのパースには居留民保護を名目とした小部隊の日本の遣外軍が出張っており、それをオーストラリア連邦軍が蹴散らせるわけはなかったし、また大陸を横断して陸軍を進撃させたところで大したことはできなかった。もはや人口でも東は西に対抗できなくなりつつあったのである。
オーストラリア大陸全体、広さで言えばアメリカと同じ日本の二十五倍の面積がある、だが、その総人口はわずか一千万人あまりしかない。そもそも人口密度などと呼べる密度ではないのである。しかもその九十五パーセントが東部諸州に居たのだ。北部西部南部を合わせても残り五パーセント、わずか五十万人である。それが日本の二十倍近い面積のところに居たのだ。探さなければお隣さんにもなかなか出会うことができない、という場所だらけなのである。
突如としてジューコフが引き起こしたパースでの人口爆発にこの薄く分散した人口で対応できるわけはなかったのである。それに彼らとて、もともとこうやって現地人から土地を奪って国を作ったわけで、原住民のアボリジニからすれば今更何を言っているんだ、という程度の話にしかならなかったのである。
このオーストラリアの異変でもっとも大きく揺さぶられることになったのは、イギリス、フランス他、ヨーロッパの国々のアジアアフリカにおける植民地である。
マレー半島、ビルマ、インド、イラン、マダガスカル、南アフリカ、各地でイギリスフランスの政庁は緊張した。
緊張はしたが、何もできなかった。チャーチルの懸念通りのことが起こっていたからである。日本人絡みの人種問題が引き金になったとは言え、その蜂起を扇動しているのは白人なのだから厄介だった。つまり見方を変えると、これは現地対中央という対立にも見えるし、植民地対宗主国という構図にも見えたのである。このため各地にいるイギリス軍はほとんど動けなかったのだ。下手に軍を動かしたら、それこそイギリス軍同士、内輪で内戦を始めかねない矛盾の種を孕んでいたのだ。
それに日本が武力侵攻したわけではなく、ほとんど死人も出ていないというのは大きかった。結局は西オーストラリアが豊かになる話であり、それを阻害する意味というのが見いだせなかったのだった。
日本とパースとの間を結ぶ輸送船は必ずマラッカ海峡を通過する。イギリス東洋艦隊の拠点シンガポールを通過するわけだが、そこを日本のあらゆる種類の船がゆうゆうと通過していくのをイギリス軍は黙って見逃すしか無かった。
パースが軍港化されたのはパース共和国が誕生するよりもずっと早い。鉄の積み出し港として港を整備するということはどっちにしても必要だったし、それはオーストラリア連邦政府も認めていたことだからだ。そして日本からの人と設備を乗せた輸送船を迎えいれるためにも。
そして居留民の保護名目で海軍の船もしばしば立ち寄る。
こうなるとパースが誰の目にも日本軍の拠点としか見えなくなる。
東側のシドニーを母港とするオーストラリア艦隊、あるいはシンガポールを母港とする東洋艦隊からするとイギリス本国ーインドと繋がる補給路にくさびを打ち込まれたのに等しかった。
一時的に関係が悪化した時期があったとは言え、積極的に日本を刺激をするとかえって大きな痛手を被りそうなのはイギリスということになりつつあった。
というわけでドイツ打倒第一のチャーチルは、日本を刺激せず、という方針を明確にするようになった。
また日本からしても西オーストラリアと日本との間はマラッカ海峡があり、ここをイギリス東洋艦隊が抑えている以上、積極的に事を構える必要も必然もなかった。平和であれば、両国に何の問題もないのである。
こうして三国同盟という同盟がありながら、日英の友好通商条約は打ち切られることなく延長されることが決まった。
何故かヒトラーもそのことで日本を非難はしなかったのである。彼にとってはイギリスは敵ではあっても絶対に倒さないといけない相手でもなかった。
そして、そうなることは赤坂宮には概ね予想がついていた。さすがにヒトラーがイギリス贔屓であるということまでは分からなかったが、ヒトラーの真の狙いがどこにあるかを見落とすようなことは無かったのである。
この間、ヒトラーはバルカン半島を制圧させ、そして北アフリカで同盟国イタリアを支援し、少数のイギリス軍との戦いをロンメル将軍に派手に演じさせたりしていたが、それは言わば世界の目を惹きつけるためのショーと言ってよかった。
もっともペルシア湾付近に大量の石油が眠っていると、もしヒトラーが知っていたらこんな茶番はやっていなかっただろう。この時はまだペルシア湾やリビアの油田は発見されていなかったのである。
ヒトラーの真の狙いは、ソ連が支配するコーカサスの油田地帯であった。
スターリンはヒトラーの意図に元々は気がついていた。
気がついた上で独ソ不可侵条約を結んだのである。
石油と安全の交換であり、そして東ヨーロッパの縄張り協定である。
そうは言っても油断を忘れたわけではなかった。だからソ連のまわりの国と中立条約の締結に励むことになった。独ソ不可侵条約など、ヒトラーがいつ反故にするかわからないと、スターリン自身わかっていたのである。こうして、中ソ中立条約が結ばれ、日ソ中立条約が結ばれた。ソ連を囲む主な国の中で不可侵条約、中立条約を結んでいないのはアメリカぐらいなものである。
が、その後魔が差した。
ドイツ軍の破竹の勢いは、スターリンの冷徹な計算をも狂わしたのである。原因は日ソ中立条約を結んだ日本の外相松岡にあった。
この新進気鋭なのか大言壮語癖があるのかよくわからない人物は、各地で日独伊三国同盟にソ連も加えたユーラシア同盟に格上げするなどと吹聴して回っていたのである。おそらくこれが原因で、ドイツの躍進とともに、ヒトラーが日独伊ソ四カ国同盟を望んでいる、などという根も葉もない噂が誰からとでも無く流れ、スターリンにヒトラーの共産党敵視姿勢を忘れさせたのだった。
もちろんこれは松岡外相のオリジナルであり、赤坂宮の意向を汲んだものではない。
赤坂宮にとって日ソ中立条約には価値があった。
ルーズベルトとアメリカ軍は健在であり、彼の日本敵視思想は簡単には消えないだろうと見ていたからだ。スターリンはヒトラーを警戒していたし、日本はルーズベルトに対する警戒を解かなかった。その結果が日ソ中立条約だった。
松岡のユーラシア四カ国同盟の構想を聞かされた時は、ヒトラーやスターリンがそんなものを本気で相手にするわけがないと腹の底で笑っていたのである。
他方、オーストラリアでの製鉄所建設が、結果的にアメリカ世論を日本に好意的にし、これがルーズベルトにとってかなり大きな政治的打撃を加えることになったことまではさすがに赤坂宮にも分からなかった。
この月、ルーズベルトがドイツ、日本に対する切り札と考えていた長距離超大型戦略爆撃機の発注の予算が議会で否決されたのである。B29と呼ばれる爆撃機を二百五十機購入するという計画が頓挫したことは、ルーズベルトを大きく落胆させることになった。
さらにイギリスの植民地がいかに政治的に脆いものかを見せつけられた。
イギリス植民地が日本に好意的ということになるとそもそも対日石油禁輸というカードには大した価値がないことになるのである。そうなったら日本はアングロイラニアンオイルから石油を買うだけなのだ。日本を世界から孤立させるはずだったのに、孤立しているのはアメリカということになったのである。
ラジオの炉辺談話という番組でルーズベルトは直接アメリカ国民に政策を訴えてきた。
暗にヒトラーと日本を批判し、民主主義を守ろうとやっていたのだが、目立ってその効果が落ちていることが各種調査で明らかになった。逆に民主主義とは人種差別を意味するのか、という合衆国の大きな矛盾を指摘する声が増大したほどである。
この変化をもたらしたきっかけがあの西オーストラリア事件だったのだ。
こうして中立法を骨抜きにし、形骸化させる計画は霧散してしまい、ハル国務長官の進言を受け、ヒトラーの拡張政策を非難するのではなく、改めてその人種優位主義を攻撃するというふうにカンバンを書き換え、それによってドイツ打倒の戦いにアメリカを導くというシナリオに戦略を書き改めることにせざるを得なくなったのである。
これはつまり大日本帝国の掲げた八紘一宇五族協和と中身においてほとんど同じことになり、政治外交戦での日本の完勝を意味していた。日本を牽制する意味しか無かった、在フィリッピンのアメリカ陸軍、在ハワイのアメリカ海軍は大幅に削減となり、大西洋のイギリスへの通商路の護衛が強化されることになった。