兵装と調略
アメリカの世論も軍もヨーロッパの情勢から目が離せなくなった。
このため、日本が去った中国大陸向けの援助は大幅に優先順位が下げられた。
また東ヨーロッパの分捕りに忙しいソ連からの援助も同じように減らされ、日本軍がいなければ絶対に優位と見られていた蒋介石の国民党は、共産党とも汪兆銘に対しても苦戦し、結局三つ巴のまま膠着状態に入りつつあった。
このような情勢の中で日本国内では識者を中心に、ドイツ、イタリアとの連携を求める声が日増しにあがり始めていた。
いろいろと理由はあったが、日本に背を向け続けるアメリカに対する反感と、植民地という既得権の上に立ったイギリスフランスに対し、真っ向から挑戦をし続けるヒトラーへの共感が主な動機となっていることは疑いなかった。
が、世論や政府が騒然としている中でも幕府は沈黙を守っていた。
が、水面下ではいろいろと忙しいことになっていた。
まず石油の備蓄基地を建設し、アメリカの次の一手と見られる石油の対日禁輸、石油が止まる事態に備えたのである。
それまでも備蓄はやっていたが、その保有量は約三年分だった。これを十年分まで増やすことにしたのである。幸い、中国での戦闘停止で消費が落ちた分を備蓄に回せたので、アメリカから買い付ける量を極端に増やす必要は無かった。とにかく一年以内に十年分にしろ、というのが赤坂宮の指示であった。
鉄と鉄鉱石も同じである。ただ、鉄鉱石から粗鋼を生産する高炉の数が限られていて、しかも高炉というものが一度火をいれたら簡単に消したりつけたりできるものではないという説明を赤坂宮が聞かされたので、備蓄の中心は、アメリカからのくず鉄が中心になった。
このことは少なくとも一年後にはアメリカに頼らないで石油と鉄を確保する体制を作るという赤坂宮の決意と幕府内では受け止められていた。
このように来るべき戦さへの準備が数多く進められていたのである。
そしてその極めつけは、幕府から陸海軍に示された「戦闘序列」であった。
これはそれまでの陸軍は陸軍の、海軍は海軍だけの戦闘序列とは全く異なるものだった。
これによると大日本帝国軍は、大きく二つに分けられていた。
第一は国土防衛作戦軍集団(国防軍と以後呼称)であり、第二は遣外作戦打撃軍集団(遣外軍と以後呼称)であった。
要するに日本の勢力範囲内でおこる戦闘に対応したのが国防軍であり、その範囲を超え、戦略資源確保を目的として勢力範囲外で作戦行動を行うことを主眼として整備されるのが、遣外軍ということらしかった。
それぞれの主な戦闘序列にはおおまかに次のような数が示されていた。
国防軍
潜水艦 二百
潜水母艦 十
駆逐艦 二十
高速魚雷艇 六千
高速魚雷艇母艦 二百
空母 三
艦上戦闘機 百
艦上攻撃機 百
陸上戦闘機 二千
陸上爆撃機 五百
機甲師団 二十
歩兵師団 百
遣外軍
戦艦 四
巡洋艦 十
空母 八
駆逐艦 三十
高速魚雷艇 六百
高速魚雷艇母艦 二十
艦上戦闘機 四百
艦上攻撃機 四百
陸上戦闘機 四百
陸上爆撃機 百
高速補給艦 二十
高速輸送船 二十
強襲揚陸艦 百
強襲揚陸母艦 十
機甲師団 五
歩兵師団 二十五
実際にはこれに具体的な指揮官、参謀名と陸海軍それぞれの戦闘単位に対しどのような命令系統になるかまですべてセットされた形で、戦闘序列は完成していた。ただし、これは平時の場合という但し書きつきである。
つまりいざ有事となれば、具体的な作戦ごとにまた新たな戦闘序列が作られることを意味していた。戦さ毎に変容する軍である。
そしてある意味これが最も重大なことだが、この戦闘序列の存在そのものが極秘とされたのである。つまり表面的には今までの軍人の肩書きは何も変わらないのである。目的はもちろん、日本侵攻を企画する勢力に手の内を明かさないということ一点につきる。
が、実体面で、この戦闘序列が内示された効果は大きく、陸海軍の間で人事や装備の垣根となるものは少々時間はかかったが、後日一掃されることになった。
問題となったのは各軍の装備の量とスペックについて、計画と現実で大きな開きがあったことだった。
海軍について言えば、二つ混乱を呼ぶ要素があった。
一つは既に建艦計画での幕府との論争で従来のものとは違うものが必要ということは知っていたが、まさかこのような構想で使われるものだというところまでは理解できていなかったということだ。艦種名称が既知のものであっても中身は全く未知のものだったのである。
そしてもう一つは単純に量として見ると、かなりの軍縮に見えたのである。隻数でも総トン数でも大幅縮小だ。普通の海軍軍人ならこれだけでも反対したくなるような中身に見えたのだ。
身動きの遅いのろまはいらない。
航空機の離発着をする広い飛行甲板が必要な空母はやむを得ないとしても、それ以外の船はまず速度が上がるように小さく作れ。必要な戦場に間に合わない戦力などいらない、というのが赤坂宮の指示だったのである。
また例のT32から鹵獲したエンジンベースの量産エンジンの存在もこれをサポートしていた。
従来の日本製エンジンとは一線を画すほど性能が良かったのである。そしてこれは日本初の大量量産型エンジンでもある。エンジンの数の制約が緩ければ、当然完成品としての飛行機や船舶の数を揃えることも簡単になる。具体的には全国の漁船用の小さな造船所を使い、短時間のうちに大軍を揃えられるのである。
このエンジンは元が戦車用なので船舶用として使うとすれば船体はせいぜい漁船程度に抑えるしかなかった。しかし、小さくても最高速度はゆうに五十ノットを超える。これを母艦に乗せて戦場近くに運び発進させれば、戦艦や巡洋艦から魚雷射程内への接近を阻止することはかなり難しい。武装は、日本が世界一と自慢できる数少ない兵器である魚雷が主要武装となる。接近され、この魚雷を当てられれば、強力な装甲板を持つ戦艦でもまず無事では済まなかった。
事実上、日本の水上艦の主力と言ってもいいだろう。
赤坂宮の語りでは、物量が大事なことはもちろんだが、それはその戦場での物量であって、その場に存在しない、使えない物量では意味がないというのである。
それが速度にこだわった理由だった。
また索敵能力、すなわち電探の高い能力も必須とされた。つまり全水上艦種において、機関関係と電気装備関係はすべて見直しが必要だった。
この指示から大きく外れ、例外とされたのは潜水艦である。水中での探知技術が発達し、第一次世界大戦末期には、ドイツのUボートがほぼ完全に無力化されたという情報に基づき、速さではなく、静かに動けることを第一としたのだ。
つまり国防軍は名前の通り、日本近海に近づいた敵を叩くことを主たる目的とした以上、ドイツのUボートのように獲物を求めて広い大洋をむやみに動き回る必要はないのである。水中に長くとどまれ、音を出さないようにすればいいという発想の転換だった。
が、これも海軍がすでに揃えていたやたらと航続距離が長い巡洋艦のような大型潜水艦では対応できなかった。潜行可能時間は短かく、潜行可能深度も浅く、図体が大きいので航空機の探索を全くかわせないのである。上空から見れば浅い深度にいる潜水艦など丸見えだ。
結局建艦計画そのものの総点検を行い、こちらにも例のT32量産エンジンを主機とするまったく新しい小型潜水艦を新規に量産することで対応することになった。古い潜水艦はスクラップにされ、くず鉄として利用された。
航空機も同様である。
艦上戦闘機については海軍が敵の戦闘機よりも長い航続距離を持たせることで優位を取るアウトレンジ戦法にこだわっていたために、常に航続力第一となっていた。このため燃料消費の大きい大型のエンジンを搭載することが最初からできないとされていた。
海軍からこのように反論が出ると赤坂宮は即座にこのように語ってこれを却下とした。
「なんで敵の空母をわざわざ味方の空母で叩かないといけないのか。空母は空母でないと沈められない具体的な理由が何かあるのか。航空機で叩くべき相手なら敵潜水艦や、兵站となる輸送船などいくらでもある。それこそ空母は図体がでかいのだから潜水艦や高速魚雷艇の魚雷で始末させるのが合理的であろう」
つまるところ海軍も陸軍同様、主力同士の決戦思想に捕らわれており、縦横無尽融通無碍という戦力運用とは程遠かったことが明らかになったのである。
この結果、陸上機も艦上機も強力な上昇力で、より早くより高い位置取りができる強力なエンジンを備えた局地戦型の航空機が主流となったのである。
そして航空機のエンジンについても、従来のような製造事業者ごとに異なるということをやめ、標準的な大量生産型エンジンの開発と専用工場を作ることが求められることになった。
当然生産数量の多い戦闘機用のスペックが標準エンジンのベースとなり、検討の結果、高高度用の要求への配慮から過給器付きのバージョンを作りやすいということで、液冷V十二気筒、つまり例のT32エンジンと全く同じシリンダー配置のエンジンにすることになった。つまりディーゼルエンジンをガソリンエンジン化し、高回転出力型にするのである。こうなるとエンジンブロックやクランクシャフト、コンロッド、ピストンなどの多くの部品を共用することができる。ほんのわずかな設計変更で様々な用途に対応させるというコンセプトにエンジンに対する考え方を切り替えた方が早い。生産設備も同様で、エンジン工場も別々に新設するのではなく、一つの工場の生産能力を拡張する方が手っ取り早いということになる。
結果的に当初よりも大幅に開発日程が短縮できる見通しが示された。
標準エンジンの仕様が決まると、それに従った双発あるいは四発の爆撃機や攻撃機の設計も始まった。使用用途によって武装などは変える必要はずっと残るものの、とにかく機関関係については、戦車飛行機船舶についてかなりの補修部品が共用できる見通しが立った。
逆に戦艦や巡洋艦などの伝統的な艦種が生き残ったことに疑問を感じた海軍士官は多かった。いったい何故遣外軍なのかと考えれば答えはすぐに出た。資源の獲得という目標があるなら、それは輸送艦の護衛と陸上部隊制圧の目的しか考えられなかった。
というわけで戦艦にしても巡洋艦にしても要求される兵装は従来とは全く違っていた。大雑把に言えば対艦装備はかなり少なくなり、対地攻撃装備と対空装備をかなり充実させる内容になったがそれだけではない。一見無関係に見えた例のV12型量産エンジンは大型艦の中で発電用として多数配置されたのである。これにより、装備する全砲門の銃座は電動化され照準器の動きに合わせてより正確に追尾することが可能になり、砲門数増加以上の対空能力の向上が図られたのである。
もはや戦艦を戦艦同士の決戦用兵器などと捉えている人間は幕府にはいなかったのだ。
そして陸軍では大きく当惑することになったのは二つあった。
国防軍関係では、日本本土に接近する航空機を叩くのは従来海軍の担当と考えられていたが、それが陸軍となった。結果、陸軍も敵空母を攻撃するということを考慮しなければならなくなった。船舶を攻撃する訓練などまったくやっていなかったのである。
そして主として大陸にいる部隊にとっては、とにかく機甲部隊への改編だった。歩兵と砲兵を突撃させる戦術は使わないということで、海軍同様、移動速度の遅いものはどんどん切り捨てられていった。なので兵員も、ただの兵員ではなく、複雑な武器を操作できる技能を保持しているかどうかが重要視されることになった。つまりは陸軍の海軍化である。それは兵の育成時間に影響し、長く続けていた徴兵による兵員確保は技能訓練が短すぎて適切では無いと否定されることになった。むしろ普通に職業軍人として長い時間をかけて兵器の扱いのエキスパートにした方がいいのである。数は少なくなっても結果的に戦闘力は上がると判断された。
徴兵制度の終了により日本全国で各地に駐屯していた歩兵連隊は整理統合され数にして三分の一に減らされた。その一方、日本国内各地で迎撃航空兵団と機械化遊撃車両兵団が新たに組織され、さらに満州国および遼東半島に迎撃航空兵団と機甲師団がセットで増設されることになった。
これにより人員の数での戦力把握はなりを潜め、以後は部隊が運用する車両数での総員数で部隊は把握されることになっていっった。
同時に戦車の定員をT32を見習い、四名と固定することになった。
遣外軍について陸軍は当初無関係かとも思われていたが、そうではなかった。国防軍側では歩兵の役割は大幅に減っていたが、遣外軍側では大いに活躍の場が増すという見通しになっていたからである。それは上陸作戦に備えた、上陸用舟艇で海から陸を攻略する専門部隊の創設に付随していた。
船で長距離を移動した後、海軍が制空制海権を維持確保した土地を制圧占領維持するための陸軍部隊、それがこの上陸部隊である。あらゆる海岸にいかなる天候でも上陸用舟艇を巧みに操り上陸を果たし、敵を掃討し、恒久的な要塞を建築する、そんな常人にはできそうにないことを求められた歩兵部隊である。従って歩兵と言っても、かなりのマルチスキルが求められた。当然こちらも徴兵によって集められた新兵などもってのほかである。
陸軍広しと言えど、この要求にすぐ応えられる部隊はほとんど無かった。陸海軍が協同して、この新しい兵種をどのように育成していくかを検討していくことになった。
結果的に幕府発足後、日本軍は陸海軍ともに、中身が大幅に変わることになったのである。
このように陸海軍を大慌てにさせている裏で、赤坂宮は全く別な工作にも取り組んでいた。
神奈川の平塚海岸のあたりには著名人の大きな別荘が建ち並ぶ地域があった。そんな屋敷の一つを、赤坂宮は目立たぬように数人の供だけを連れて密かに訪れていた。待っていたのはその屋敷の主と目される金髪碧眼の、この年四三になっていたはずの壮年の白人男性だった。
他には通訳の日本人が一名と従者なのか護衛なのかよくわからない目つきの鋭い日本人男性がが二人ほど、両側に控えていた。
白人の男は見事に身体に合ったスーツを着て、玄関に出て赤坂宮を出迎えていたが、顔には全く微笑みなどは浮かべず、無表情と表現した方が的確な顔で突っ立っていた。
身長はもちろんこの白人の方が高い。そこにクルマを下りた赤坂宮がすぐさま近寄り、握手の手を男に差し出した。これも一応アメリカ仕込みである。
「赤坂宮と申します。どうぞよろしく」
と語った言葉がすぐさま横の通訳によって翻訳されると、白人の男はかなり驚いたようで赤坂宮を見つめ直した後、慌てて無理矢理笑顔を顔に浮かべ、差し出された握手の手をしっかりと握った。そして従者に先導され二人は家の中の応接間のソファーで向かい合わせに座った。
男はなおも無言である。事態がよくわからないという様子であった。
その様子を見て、赤坂宮は言葉をゆっくりと紡ぎ出した。
「当惑されておられるのは当然です。これから何故私が今日ここに現れたのかをお話しましょう。ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフ大将閣下。私はあなたが今どのような立場に立たされているのかよく知っています。戦さは時の運。貴官の作戦、指揮は全くもって見事でした。相手が我々で無ければ貴官は勝利を得て故国に凱旋されていたでしょう。しかし現実はそうはならず、そしてあなたの仕える主人、ヨシフスターリンという男は、戦さは時の運などという言葉をそのまま聞き入れるような男ではありますまい。私の見るところ、もし我々が貴官をソ連政府に引き渡せば、かなりの確率で敗北を貴官の命で償わせる可能性が高いと考えております。違いますかな」
赤坂宮の言葉はここで一旦途切れ、通訳の語るロシア語が暫く響く。
その言葉を聞いていたジューコフの顔が青くなっていく。
スターリンはジューコフが優秀な軍人であることはよく知っていた。が、共産党に加入した古参軍人に軍の中での地位を明け渡させるために、ジューコフを極東に回したのである。つまりスターリンから見れば子飼いではなく、むしろ邪魔な存在だった。
ジューコフの手がテーブルの上に置かれた水差しとコップに伸び、自らそれを注いで一口つけ、口の中を湿らせた。
「何故そんな話をする」
という言葉が通訳から告げられた。
「私はあなたのような優秀な指揮官が欲しい」
「それは私に故国を裏切れというのかね」
「結果的にはそういうことになるかもしれません。が、貴官の国は貴官の忠誠をそもそも信頼している国と言えるのですかな。それと国というこだわりはこの際どうでもいい。私とスターリンを比べてどちらに仕える方が得か、ぐらいでお考え頂きたい」
「ふん、黙って聞いていれば大きなことを言う。それであなたの部下になったら私にいったいどんな得があると言うのかね。日本の雇われ軍人になって喜ぶほどのお人好しではないつもりなのだが」
「さすがはジューコフ大将。私が見込んだ通りのお人ですな。そうですな、うまくこの日本の置かれた難局を乗り越えられた暁には、貴官に国を一つ進呈致しましょう。それでは安すぎますかな?」
通訳が驚いた顔で赤坂宮の顔を見た。赤坂宮は一言「そのまま訳せ」とだけ言う。
通訳された内容を聞いたジューコフがまた顔色を変えた。
「私は、ノモンハンで、あの作戦で、私のありとあらゆるものをつぎ込んだ。スターリン閣下に頼み込んでテストが終わったばかりの新鋭戦車の先行生産分まで投入した。やれる手は全部やった。が、結果はあのザマだ。そんな男を何故あなたは欲しがるのか。私には理解できない」
「貴官が優秀な指揮官であることはあの作戦を見れば分かることです。もし私たちが参謀の教科書に忠実なドイツ軍やフランス軍、あるいは私とは無関係な日本軍であれば、あなたは簡単に突破できたでしょう。しかしあなたは一つ怠ったことがある。敵を知ろうとしなかったことです。あなたは日本軍について一般常識だけで満足し、どんな人間がどのように作戦に携わっているかまでは調べなかった。違いますかな。私はあの戦さの前にあなたのことを徹底的に調べさせました。それだけの差です」
「なるほど。確かに理屈には合っている……。あなたという存在に気がつかなかったのは私のミスだ。私は日本軍に負けたというよりもあなたに負けた、ということだな。なるほどそれなら納得できる……。で、国をくれるというのはどこの国になるのかね」
「それは今はまだ申し上げられません。それにそれは一種の成功報酬です。戦さに勝たなければ何にもなりませんよ」
「なるほど。なかなかあなたの話には興味を惹かれる……。で、私以外の将校団はこの後どうするつもりだ」
「私が掴んでいる情報は貴官についてだけで、残念ながら貴官以外の将校団については何の情報も持っておりません。従って、貴官の意向次第ですな。貴官からこの計画についてご賛同を得ることができなければ貴官を含め全員をスターリンにお返しするだけです。もしご賛同頂けた場合は、貴官が不要と判断されるならスターリンへ、必要なら貴官と一緒に残る道を選択させたいと思いますが」
「そこの部分を少しだけ変えて、本人がソ連への帰国を望まず、かつ私と行動を一緒にすることも拒否した場合は?」
「なかなかに部下思いですな。そんな状況がどうして起こりえるのか、ちょっと気になるところではありますが、適当な第三国に亡命させるという道を作っても問題ないでしょうな。私ならそんなことをするより貴官に協力してともに安住の国を作る道を当然選びますけど」
赤坂宮の最後の言葉が通訳から告げられると、ジューコフはその場ですっと立ち上がり、握手の手を伸ばした。
「あなたの部下に喜んでならせてもらいましょう」
こういう仕事を任せられる秀吉みたいなのがもっといれば楽なんだが……
というのが赤坂宮の心の声であった。とにかく現代でも、そして外国相手でも調略という手段が機能することがこれで確かめられたのは収穫と言えた。