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家康に倣う


その赤坂宮もヨーロッパユダヤ人絶滅計画が現実に行われていたことに驚いていた。

レニングラードで、ありえないほどおろかな戦い方をドイツ軍がした大きな理由が判明した、というのが彼にとってのこの問題での一番大きな理解の仕方だった。つまりドイツは負けるべくして負けた、ということになる。

どんなに弱い敵でも死に物狂いになられたら、戦争の計算などいくらでもひっくり返るのである。

普通はそんな危ないことはしない。

勝つ確率を徹底的に上げるのが戦さの常道というものだ。

要するに狂信者にはまともな戦争はできないのである。


その上で、気になったのはユダヤ人のことだ。

バチカン問題で教皇とナチスの関係に目を向けていた後だけに、これは大きく映った。

教皇の影響力がヒトラーを排除してしまうほど強いヨーロッパという場所に、ユダヤ人にとっての安住の場所などというものは存在するのか、という問題だ。

これには二つの側面がある、ということに彼は既に気がついていた。

一つはキリスト教とユダヤ教のそれぞれの教義の問題。

もう一つは領土という物理的条件の問題。


別にユダヤ人に同情したわけではない。

ただ領民こそが国の力と考える赤坂宮からすると、とにかくもったいない話なのである。

改めて壁に貼った大きな世界地図のヨーロッパを見る。

ローマを見つめ、そしてバルカン半島を見た。その後見たのはモスクワだった。


この問題はキリスト教国ではまともな解決策は出せまい……

赤坂宮はそう呟くと、すぐさま井上に幕府の内部会議を招集するように指示した。


その頃、ロンドンでは黒木が無聊を託っていた。

本当ならいろいろと懸案をチャーチルと詰めなければならないのだが、議会は解散、総選挙に入ってしまったのである。

しかもイギリス国民の大勢は、戦争が終わったらチャーチルにはもう用は無い、ということになっていたのだ。チャーチルが毎日のようにラジオで戦意を煽る談話を流していたのが、よほど耳に残ったのか、いい加減うんざりだという意見が強かったのである。

滅多なことでは他人に感謝することなどない、欧米の個人尊重文化からすれば当然の帰結だ。

そして選挙における公約も、彼等にとっては契約条件なのである。

つまり今までの業績の評価よりも、これから何をしてくれるかが、大事なのである。

確かにチャーチルは頭のてっぺんからつま先に至るまで、打倒ドイツ、打倒ヒトラーで塗りつぶされている。ドイツに勝つ、それがすべてだった。

そしてその公約が実現してしまったら、魅力ある契約条件は何も無かったのである。

チャーチルは挙国一致内閣を作っていたために、ライバル労働党党首のアトリーを副首相として内閣に入れていたことも選挙ではマイナスに響いていた。

そしてアトリーは、この選挙で「ゆりかごから墓場まで」というフレーズで有名になる高福祉政策を公約に掲げたのである。

戦争に疲れた国民にこれは響いた。

保守党は労働党に大敗し、アトリー政権に変わることになった。

黒木にとって、幸いだったのは、チャーチルの挙国一致内閣のおかげでアトリー政権に変わったからと言って、すべて一から説明し直さなければならないということにならなかったことである。

そしてもう一つ、日本にとっては幸いだったのは、アトリーはイギリスの植民地経営についてはそれほど深い関心を持っていなかったことだ。

というよりもイギリス本国の経済にとって植民地から流れ込んでくる安い物資は、労働党政権の支持基盤からは、邪魔者だったのである。

宗主国として振る舞うということはそれらをより多く受け入れないといけない。これは困る。

結局、植民地を単なる外国と扱う方が都合がいい、ということになる。

だから西オーストラリアが事実上、日本傘下のジューコフ共和国になりかけていたとしても、イギリスにとってはどうでもいい、という方向に振れていったのである。

この考え方は、アジアやアフリカに植民地を多数抱えていたフランスやオランダにも広がっていった。民族の自立を促すと言えば聞こえはいいが、どちらかというと植民地を維持するのは国内経済にとって都合が悪い、むしろ国内の産業復興を急ぐべき、という政策なのである。

なにしろ植民地は全く戦火の被害を受けていないのに宗主国の方はメチャメチャになっているのだ。悠長に植民地の政策を語る時では無かったのである。

植民地にとっては自立、独立のチャンスという言い方もあったが、その字面が本当に良かったのかどうかは明暗が分かれた。

植民地が経済的に自立できる目途の立ったところはそれでも良かったが、そういう国は少ない、いや限られていたのである。

宗主国経済から切り離され、中途半端な立場におかれた宗主国からやってきた住民と原住民の間の対立が深まり、多くの地域が政治的に不安定化していくことになる。


赤坂宮は日本の都合で巻き込んだ場所や国に関しては、共通の利益追求を徹底的に行ったが、たとえ盟邦イギリス関係であっても、日本と無関係の場所については不干渉を貫いた。

国益に繋がらないトラブルに首を突っ込むつもりはない、ということを徹底していた。

ルーズベルトのような相手がいつまた現れるかもしれない、という警戒心もあった。

しかし皮肉なものである。

結局戦争によって、それまでの強国が疲弊した結果、世界中に戦火の種はむしろ撒き散らされたのだから。

いまや赤坂宮の関心事は、旧英領、旧仏領などのことではなく、今現在日本の保護下にある国々が、この先火種にならないようにすることの方へと向いていたのである。

世界中に散らばっていたイギリス植民地がいいお手本を示していた。

しっかりした自治政府があり、経済的にも宗主国頼りにならない国は結局植民地であろうとそうでなかろうと、大した混乱もせずに発展できるが、現状を無視したような植民地政府だったり、あるいは経済的な基盤らしいものが何もない国は、結局混沌の海に戻るだけなのである。

ならば、日本の保護国になった国の育成方針はどうあるべきかの答えを見つけ出すのは容易い。

資源的に恵まれていなかった日本をここまで持って来れたのも、家康の影響があったことはまず間違いが無いのなら、その家康のやり方を見習うのが正しい手だ、と素直に考えたのである。

まず教育の普及と充実、そして適宜産業育成を手助けし、経済的自立を促すこと。

そのための日本語教育の普及である。

そして人材育成。

この部分はおそらく赤坂宮の言葉は他の人間とはズレていた。

しかし中身において、他の人間の考えた内容と大きくは違っていないはずである。

彼の言葉は、当然ながら幕府にかなりの衝撃を与えた。

赤坂宮はこう言ったのである。

「バルカン諸国、ウィグル共和国、チベット王国の政治家、王族から人質を取る」

一度言い出したら滅多なことでは主張を曲げない赤坂宮のことを熟知していたスタッフたちは頭を抱えた。


植民地問題はイギリスのアトリーにとっては、オーストラリアどころの話では無くなりつつあった。

インドや、中東、アフリカ、そして中国などで植民地から様々な現地住民との衝突が急速に増えたからである。

結局、難を避ける形で、そのほとんどの独立もしくは英連邦からの脱退を認めることになる。

一方、この状況を密かに喜んでいたのはスターリンである。

階級闘争が世界に広がったようなものだからだ。

ソ連に倣った共産主義国家を作るチャンス到来と見ていたのである。


このように戦争で疲弊したヨーロッパの国々をどう立て直すかを話し合う前に、世界全体で大きな構造変革がすでに始まっていたのである。



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