H情報
その頃、石原はベルリンのほぼ真北、バルト海に面したペーネミュンデという場所に来ていた。
現在の石原は、暫定ながら、連邦軍ドイツ占領部長を兼任しており、ロンメルが率いたドイツ政府を監督する立場だった。
実務から言えば、今のドイツが連邦軍に反抗する事態は想定しにくかった。
教皇の宣言以来、ドイツの民衆はすっかり反ナチスになっていたのである。
暫定大統領と見なされていたロンメル元帥には軍の再編などを手がける時間は全く無く、秩序回復と食料や生活必需品の確保、兵の占領地からの帰還事業などに追われていたからだ。
石原の方は、雑務を全部ロンメルに任せ、自分たちはヒトラーの使っていた総統官邸を徹底的に調査していたのである。ロンメルは陸軍参謀本部を事実上の暫定大統領官邸として使うことになった。
ことの起こりは、そのヒトラー本人が使っていた執務室にあった小さなファイルキャビネットを見つけたことだった。
おそらくヒトラー本人専用のものだったのだろう。
驚くべき情報が満載されていたのだ。
いずれ、どこかで公表しなければならないのだろうが、それの内容をまず握ることが、優先順位の第一位だと、石原は見ていたのである。
ペーネミュンデに来たのは、そのファイルにあった、A4という名で呼ばれた実戦投入寸前だった新兵器を見るためである。
もしドイツ政府が瓦解していなければ、その記念すべき第一次攻撃が行われる予定の日だった。
ゲッベルスは、先に登場したV1号に続く報復兵器だと位置づけ、このA4をV2号と呼ぶことにしていたらしい。
その実態は、本格的なターボポンプを備え、液体の酸化剤を使用する液体ロケットエンジンによる、世界初の弾道ミサイルだった。
排気ガスの流速は、それまでのありとあらゆる燃焼爆発物のそれとの最大速度とは比較にならないほど速く、従って、このエンジンによって飛ばされる物体は、砲弾の初速度をも上回るとあった。
石原は自分の力だけで勝手に長距離を飛ぶ砲弾と聞いて、どんなものなのかと実際に見ることにしたのである。
ペーネミュンデは、そのA4の開発が進められていた場所だったのだ。
イギリス軍は、すでにV1号の発射基地を押さえ、その内容を詳しく分析している最中だったので、こちらは日本軍が行うことにしたのである。
ブラックアメリカでP51の轟エンジン換装型開発に当たったエンジニアなどを急遽ドイツに派遣させるなどとした結果、ペーネミュンデに集まった日本人は五十人近くに膨れ上がっていた。
無論、大島大使もここに来ていた。
ドイツに長いこといながら、ヒトラーが何をしていたのか、いかに知らされていなかったのかを痛感しているところだった。
一行が見守る中、技術部長のヴェルナーフォンブラウン男爵の指導の下、白と黒のチェッカー模様に塗られたA4は轟音とともにオレンジ色に輝く炎を尾部に長く伸ばし、はるか高空へとあっという間に上昇し見えなくなった。
石原は、口をあんぐりと開け、呆然とするしかなかった。
翌日、赤坂宮に彼はA4とその開発チームは日本の管理下に置くべきだとする意見具申を行った。
これはフォンブラウン本人の希望でもあった。
宇宙旅行の夢にとりつかれていた彼は、ゲシュタポに反ナチスで国家反逆罪の嫌疑をかけられ逮捕されたのである。が、彼がいなければA4は完成しない、と陸軍兵器研究所長からヒトラーに直訴があり、ヒトラー本人がヒムラーを説得してどうにか釈放されたという経緯があったのである。
よほどゲシュタポにひどい扱いをされたらしい。
ナチスどころかドイツという祖国自体に愛想をつかしていたのだった。
赤坂宮の対応は早かった。
彼もまた新兵器という言葉に弱い男だった。
生産中、および完成品のA4を全量引き取り、さらにペーネミュンデの施設、職員、その家族の一切合切をすべて引き受けるとした、返信がすぐに届いた。
彼等に示された行き先は、西オーストラリアのジューコフの元である。
つまりそれだけ広大なスペースがあってしかも人目につかないところはアジアには無いと判断したのである。またフォンブラウンからも施設を作るなら極力、赤道に近いところにして欲しいという要望があった。地球の強力な引力を脱するには地球の自転を利用して速度を上げた方が有利で、そのためには赤道上から打ち上げるのが一番有利だから、というものだった。
そう、フォンブラウンは宇宙旅行の夢に取り憑かれた宇宙旅行オタクであり、これが故にヒムラーに反ナチス認定されていたのである。
いまや西オーストラリア州は、便宜上イギリス領、実質日本領、というような状態にあった。オーストラリア連邦も西オーストラリアには口出しをしなくなったと言ってもいい。
そして西オーストラリアの北辺は、熱帯に分類されるほど赤道に極めて近い場所だったのである。
もし情報が漏れても、オーストラリアならチャーチルが文句を言わないだろうという読みもあった。
が、何よりもスターリンの目に触れにくい場所というのが大きかった。
満州やウィグルでは情報がダダ漏れになるのは避けがたいのである。
何にせよ、ヒトラーの執務室に隠された情報の重要性をA4の実在は強く印象づけることになった。
A4の処理を進める間も、残りの情報を徹底的に探り、裏付けを得ていく作業を行うことになった。
そしてこれに関連して、赤坂宮から原子爆弾の情報を探れという指示も届いていた。
ルーズベルトが怖れた情報の真偽確認である。
万一、開発に成功していたとすれば、それこそ何が何でも「適切な処置」を講じておく必要があった。
ファイルそのものは比較的簡単に見つかった。
確かにドイツは原子爆弾の研究をしていたのである。
が、結果から言えば何も作ってはいなかった。
その詳細は議事録に残されていた。
開発の責任者の名は、ヴェルナーハイゼンベルグ。言わずと知れた「不確定原理」によって量子物理学を打ち立てた人物で、アインシュタインと激論を戦わせたことでも有名な大天才である。
ちなみにアインシュタインは、「神は決してギャンブルはしない」と言ってハイゼンベルグとシュレーディンガーの唱えた「不確定原理」を批判していた。
彼の率いるチームは原子爆弾の実現可能性を示し、それを現実に作り上げるための、実行計画をヒトラーに提示していた。ここまでは確かにルーズベルトが心配した通りだった。
ところが、ヒトラー本人が、その研究の結論をヨタ話と決めつけ頭から信じなかったのである。
このため、研究用の小さな原子炉も作れない予算しか分け与えてもらえず、原子爆弾製造につながる一切の行動は全く取られていなかったのだ。
これがドイツの原子爆弾計画の全てだった。
石原は記載されたレポートの真偽を確かめるため、ハイゼンベルグのいる南部ミュンヘン郊外まで調査チームを派遣させた。そしてハイゼンベルグとそのチームが狭い実験室に押し込められて研究している姿を確認し、彼等の身柄を確保したのである。
彼等の身柄もまた、ジューコフの元へと移されることになった。
この総統官邸から発掘された秘密ファイル情報は後にH情報と呼ばれることになる。
大別するとH情報には三つの種類があった。
第一のものはA4などのような最先端技術兵器類の開発情報である。
第二のものは、人種浄化策関係だった。大半はヨーロッパユダヤ人の絶滅計画なのだが、それがすべてというわけではなかった。
国家社会主義の理念というのものが現実の政策になると、こうなるのか、と初めて石原は理解することができた。
要するに国家に貢献できなければ処分しろ、というのがナチスなのである。
従って、不治の病、難病罹患者、障害者、さらには子孫によくない影響を及ぼしそうな遺伝性の難病の感染者などもユダヤ人に次いで絶滅させ、未来のドイツ人の完成度を高める、と目的が謳われ、それに基づいた具体的な措置が計画されていたのである。
これによれば、近いうちにドイツにはただ一人の障害者もいなくなるということになっていた。
第三のものは、ナチズムの理想の追求とも言うべき壮大な国家計画で、どのように世界全体を統治し、純粋なアーリア人のための理想国家を建設するかが、語られたものだった。
ヒトラーの自筆の書「わが闘争」を聖典として収めた、一種の寺院のようなものを世界各地に建設する、などという計画がまことしやかに検討されていたのだから、呆れたものである。
計画をまとめさせたのが独裁者で無ければ、文字通り妄想で片付けられていたような内容である。
世界全部がヒトラーとナチズムにひれ伏す姿が彼等の最終ゴールだったのである。
石原は、どうして教皇がヒトラーを悪魔と認定することになったのか、詳しい経緯は聞いていなかったが、満更間違っていなかったようだな、という感想を持つことになった。
そして日本がこの男との同盟を破棄できて本当によかったと心の底から思うことになった。
ただユダヤ人関係のものは同情する対象ではあったが、一応戦争とは無関係である。
これは基本的にドイツの内政問題なのだ。
従って、この問題の解明と処理の主責任はロンメルの率いるドイツ共和国政府にあることになる。
ただでさえ、敗戦国をまとめるのは大変なのに、さらにこの問題か……。元帥とは因果なものだな……
ファイルをロンメルに引き渡した石原はロンメルの立場に同情することになった。
たださすがに国民の間で人気の高いだけあって、ロンメルは優秀だった。
機能停止になっていた政府の役所で非ナチスの上級官僚を集め、また軍についても将校を集め、組織体として、わずか数日の間に、なんとか体裁を整えていたからである。
しかし、そのロンメルにとってもファイルの内容は相当に衝撃的なものだった。
とにかくドイツや占領地に設けられたユダヤ人収容所を調査し、これをただちに閉鎖、ユダヤ人を解放する命令を発出することになった。
それとともに、ナチス関係者を殺人の疑いで訴追する組織を政府部内に設けた。
これにより、ナチス政権当時の幹部に対する法律に基づく捜査体制がようやく整うことになる。
ゲシュタポ本部ほかヒムラーなどの私邸公邸など秘密警察の関係者の徹底的な捜査が行われることになった。
おかしな事に戦争終結の時、今までだったら真っ先に問題になるはずの国境線、特にヨーロッパ域内の国境線の確定はなかなか話題に上がらなかった。
とりあえずはドイツは、ヒトラー登場以前のドイツ、つまりワイマール共和国時代に戻る、というのがロンメルの政策として発表されていたが、どこからもそれで文句は出なかったのである。
具体的には旧ポーランド領、旧チェコ領、旧オーストリアについてドイツは領有権を主張しないという意味だ。
なぜみんな大人しかったのか。
それは第一次第二次と二つの世界大戦は、つまるところ国境の争いから起こったということが大きかった。
さすがにこれだけ甚大な被害を二度も被る結果を体験した以上、誰かが不満を大きく抱えるような国境の決め方をすれば第三次を引き起こしかねないことは誰にでも予想がついたからである。
そもそもフランスがラインランドをフランス領とし、住民がそれに反発したのにヒトラーが乗っかったのが全ての始まりなのである。住民が納得しない領土の線引きは無益だった。
ヒトラーが「ベルサイユ条約打破」を旗印にして選挙で空前絶後の得票で圧勝した記憶は各国政府の首脳の頭に強く残っていたのである。
今は国境線の話はしたくない……、というのが一番素直な感情だった。
幸い、どの国の国民も一人一人が自分の生活環境を整えることが最優先だったのである。
一ヶ月後、H情報に基づくユダヤ人大量殺人についての調査結果の概要が明らかになり、ロンメルは直ちにそれを公表した。
ドイツ、いや全ヨーロッパはその内容に衝撃を受けた。
ユダヤ人を収容する施設ゲットーはドイツおよび占領地に幅広く設けられ、その数は少なくとも六十以上あった。ドイツ本国よりもむしろドイツ軍に占領された地域の方が数はむしろ多いぐらいなのである。そしてユダヤ人のヨーロッパにおける分布が東寄りに偏っていることに連動し、ポーランド、バルト三国、ソ連特にウクライナ、バルカン半島にその多くがあった。
そしてさらにその中に強制収容所、絶滅収容所と名付けられた特別な施設がおよそ十カ所もあったのである。そこには毎日何人のユダヤ人の処理ができる、という能力まで具体的な数字として記されていた。
この全体計画は内務大臣兼国家保安部長官ハインリヒヒムラーが監督していた。つまり内務省の仕事なのである。
ロンメルは密かに軍が直接関与していなかったことにホッとしていた。
この計画の、予想をはるかに上回るほどの大規模ぶりは、ナチスだけ、あるいはドイツだけがユダヤを目の敵にしていたわけではないことを如実に示していた。
そう、キリストを磔に処したユダヤは、キリスト教徒にとって共通の敵だったのである。
つまりナチスはその元々あった反ユダヤに乗っかったという言い方の方がより事実に近い。
なのでユダヤ人捕縛にはそれぞれの地域住民がかなり積極的にナチスに協力していたのである。
しかしあえて彼等を弁護するなら、彼等もまさか収容所送りにされたユダヤ人たちがガス室でまとめて殺されているなどとは夢にも思ってはいなかったということだ。
その数はもっとも少ない方の推計でも五百万人である。
つまり独ソ戦の戦闘によって亡くなった独ソ両軍の戦死者と同等かもしくはそれ以上が戦闘以外で殺されていたということになる。
その一方で、かつてのナチス幹部の行方はなかなかつかめなかった。
戦争で敵から逃げる、という場合なら、身を隠せそうな知人などを頼れるなどいろいろと逃げる手段もあろうが、今回の場合は、悪魔の子分認定が発端である。もう最初から今までの人生も名前も捨てるしか無かった。
従って、辛うじて発見逮捕されたのはゲーリングぐらいで、なぜ彼が捕まったのかと言えば、背が高くしかも太っていて、顔も特徴的で、何もしなくても目立つ人物だったので変装がうまくいかなかったからである。
他の幹部は髪型や服装、眼鏡などを変えればいくらでも別人になりすましが効きそうな外見だったので捕まらなかったのだ。
が、ヒトラーのこともヒムラーのこともゲッベルスのこともリッベントロップのことも、ドイツ人の本音で言えばもう名前も顔も見たくないという気持ちの方がはるかに強かったのである。
だから捜査がうまくいかなかったのだ。
従って、彼等を初めとしたナチスの残党が逮捕されるのは、戦争からの復興が一段落し、人々がいろいろなことを冷静に考えられるようになってからのことになるのだった。




