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舞台裏


日本の一般国民を除いた世界の大勢は、第二次世界大戦が終了した段階で、大国の序列が大きく変わったことにやがて気がつくことになる。

いまや、誰がどう見ても世界最強の国は日本なのである。

軍事拠点として見れば、東アジアに圧倒的な地盤を確保しているだけでなく、いまや、西オーストラリア州は英連邦の一画ではなく、日本連邦の一画のような存在となり、インド洋に対しパースがにらみを利かしていた。

さらにユーラシア大陸内部において、満州、ウィグル、チベットに橋頭堡を築いて中国、ソ連、カスピ海沿岸方面、アフガニスタン方面に対しにらみを利かしていた。

南北アメリカについては、ブラックアメリカ、メキシコの両合衆国を通し、メキシコ湾岸の油田地帯を完全に押さえている。

さらにはチリ、ペルー、コロンビアなどに対して、経済的軍事的支援を行うまるで保護国のような扱いをすることで優越的な立場を勝ち取っていた。

そしてヨーロッパである。

チャーチルが鼻で笑ったバルカン制覇は完璧だった。

先端のギリシャ、トルコこそ、イギリス側だったが、そこから先、ポーランドおよびウクライナ南端ルーマニア国境に至るまで、完全に日本の勢力下に置いていたのである。

そして、間接的ながらも敗戦国ドイツ、イタリアも事実上は日本の軍門に従ったと言ってもいい。


さすがにこういう事実を一つ一つ確認させられると、チャーチルも笑ってばかりはいられなかった。

頭のイカレた奇矯な宮様が、実はとんでもない英傑だと認めざるをえなくなったのである。

もう一つこれにダメを押した情報があった。

日本との武器購入交渉窓口ほか、重要な交渉はすべて日本大使館ではなく、民間の商社、五井物産を通していたことから、チャーチルは密かに五井物産の通信傍受と解析を、情報部に命じていたのである。

情報部の暗号解析チームには、のちにコンピューターの発展に大きな足跡を残すことになる、アランチューリングという数学者がいた。彼はドイツのエニグマ暗号を解読し、イギリスの危機を救った当代一の数学の天才と目されていた。

が、その彼が匙を投げてしまったのである。

遅れた日本、しかも五井物産などという民間の会社が使う暗号など、簡単なものだろうと多くの者が考えていただけにこのショックは大きかった。

チューリング本人の説明、いや言い訳も、なかなかにふるっていた。

通信という目的から考えた場合、五井物産のケースは、あまりに不完全なものすぎて、そもそもまともな通信文とは呼べないから、解読できない……、というものだったのである。

つまり読める、分かる時もあれば全然分からない時もある。あるいは読めたつもりにされているだけで実は全く違うのかもしれない……。

このチューリングの言葉を理解するには彼がそれまで手がけていたサイファ型暗号がどのように使われていたかを理解する必要がある。たとえばドイツのエニグマや日本のアメリカ軍の識別呼称パープルだ。

これらは、複雑な暗号機、復号機を介してのみ、通信の役に立つものになるが、短いメッセージでも冗長性を加えるためにものすごく長いものとなる。

いつもいつも暗号化していては手間がかかってやっていられない上に、またいつも同じサイファ型の暗号文を使うと復号キーを発見するための解析サンプルを増やすことになる。つまり暗号を破られる危険が大きくなるのである。

従ってふだんは平文を使い、時折り暗号文が混じるという形態だった。

この場合の平文は、基本的にはまともな文法と単語で書かれているからそれが理解できないものではなかった。

逆に言えば意味をなさない文字列が出てくれば、これは暗号だとすぐわかったのである。

チューリングからすれば、これが暗号です、とわざわざ紹介してもらっているのだから楽なものである。

一方、五井物産は民間の会社であり、通信についても厳しいコスト制約がついてまわる。

文字数を少しでも減らして通信コストを抑えたいという動機がある。

ふだんから暗号とは無関係の平文を使っていても、実はこの段階から、暗号らしき略号が混ざってくるのである。例えば、YOROSHIKUをYRSKとしてしまうようなものだ。英語でもASAP=as soon as possibleなどの例もあるが日本語の場合、この略号の頻度がケタ違いに多いのである。

しかも厄介なのは、ほとんどの場合、これらは予約語、つまり確定した辞書にまとめられたような言葉ではなく、担当者がその都度適当に作っているだけのものなのだ。

文を読んで文脈から勝手に推測しろ、というわけである。

これは元々日本語にそういう性質があることに由来している。読み手の理解にものすごく依存した言語が日本語なのだ。

なので同音異義語がたくさんあってもうまくいくし、またそれを逆手にとって落語という笑いを取る娯楽を作り出してしまったのもそういう性質がもともと日本語に備わっていたからだ。

落語のような芸は日本語以外にはまず存在できないはずである。

その日本語ベースの通信に、赤坂宮の暗号チームがやらせたのは、組織図を解読のための手順を示すテーブルにする、というものだった。

五井物産の本社には鉄鋼、重機、輸送機、木材、小麦、大豆、繊維、兵器などなど数々の営業部がある。ロンドン支店には、それぞれの部門からの窓口となる担当者が置かれている。

例えば、鉄鋼と重機は山田、輸送機は小林、小麦と大豆は佐藤、繊維は鈴木、兵器は田中という担当者だったとしよう。

そして幕府から五井物産に渡される指示はそれほど複雑では無いが簡単なコード型暗号で重要な単語は置き換えてある。もちろんこのコードを解読するための辞書は幕府の関係者しか持っていないものだ。

この通信文は、いくつかのパートに切り分けられ、五井物産本社内の異なる複数の部門へと渡されるのである。

そしてそれぞれの部門からロンドン支店に向けて発信されるのである。

それぞれの部門ではそれを支店長にも転送のこと、という申し送りをそれぞれの通信文につけている。この「支店長にも転送」の表現の仕方が同じ場合もあるが、大抵の場合、部門によって違ってくる。

ある部門ではTFGMだが、他の部門ではCPMN、別の部門ではTHDだったりする。

本社の各部門担当者とロンドン支店の各部門担当者がそれで理解しあえるのなら全く問題は無いのだ。

各部門を横断して理解させる必要は全くないのだから。

ここでさらに重要な事は、幕府指令が無くても、「支店長にも転送」という指示が使われるメッセージは一定数存在しているということだ。

わざわざ冗長性を増すためのダミーメッセージを作る必要がないのである。

一方、本社の副社長からロンドン支店長には、「黒木への指示(もちろんこの部分もコードで置き換えられている)は、山田、佐藤、鈴木、田中」という表示にされた情報ルートマップが送られるのである。これを見れば初めてどれが幕府指示なのかが分かるというわけである。

つまりロンドン支店の組織人事情報を知っていることが解読するためには必須なのだ。

これを知らない限り、原文をさぐり当てることは困難なのである。

まともに通信文全体を見ることのできる人間は支店長だけ、ということになる。

守秘義務を厳しくしなければならない人間を支店長一人に絞り込めるという効果は大きい。

そしてさらに重要なことは、商社の通信量は大使館の行う通信とは比較にならないほど膨大だということだ。

その膨大な通信量の中に紛れ込ませたわずかな極秘指令というのがこのシステムのミソなのである。

イギリス情報部は、まずこの二十四時間停止すること無く流れる情報量の多さに面食らったのだ。そしていざ中身を見てみれば、彼等を悩ませたのは、やたらと出てくる日本語の同音異義語である。意味をイメージとして交換することに慣れた日本人にとっては別に特別なことでは無かったが、それを英語に翻訳しようとするイギリス人にとっては意味不明のルールとしか見えない。

しかもそれぞれの部門の、その部門専門のスタッフにとっては当たり前の常識があれば文脈から意味を特定するのは難しくなくても、すべての部門の通信を見てしまった情報部の人間にそんな連想などできるわけはないのである。

結局、黒木がチャーチルに説明した話に関連した通信は全く発見することは出来ず、暗号チームはこの仕事は予算人員を百倍ぐらいに増やしてもらわないとできない、と匙を投げたのであった。


もちろんイギリス情報部は、暗号解読チームとチューリングの頭脳にのみ頼っていたわけではない。

五井物産のロンドン支店にはイギリスの化学工業大手の貴族出身の若手重役という触れ込みで日本進出業務提携話をエサにした年若いスパイを接近させていた。

このジェームズボンドという男は若いが多芸多才の話術も巧みな切れ者で、背は高くきれいな金髪と碧眼を持つ、たいていのイギリス人女性なら簡単に口説けそうなルックスを持っていた。

実際にこれらを武器にこの業界ではそれなりの実績を積み上げていた将来有望な新人だったのである。

だが期待に反し、全く結果を出せなかったのだ。

五井物産はいかにもこの時代の日本の会社らしく従業員として働いている日本人には女性スタッフが一人もいなかった。これがまずボンドにとってケチの付け始めだった。

さらにボンドを失望させたのは、管理職には秘書としてイギリス人女性がつけられていたのだが、管理職は二十人以上もいたのに上役と秘書以上の関係を結んでいた者が一人もいなかったのである。

この調査自体にかなりの手間と時間がかかったのに全く成果が上がらなかったことにボンドは深く失望していた。

どの秘書も若く秘書自体の女性としての魅力はボンドの目から見ても申し分なかった、にもかかわらずである。

イギリス、いやヨーロッパの一般常識に照らせば絶対にありえないことだった。

ボンドは仕方ないので、次の手として黒木本人への接近を試みた。

ボンドは前述の如く多芸多才で、たいていの趣味、スポーツには通暁していて、趣味スポーツで一致したところがあれば、それを手がかりに親交を深めることは得意だったのである。

が、この黒木という男はほとほと仕事以外趣味を持たないタイプの男だったのである。

いや本当は一つだけあった。

それは競技カルタ、百人一首である。

黒木の高い言語能力は、競技カルタによって鍛えられた鋭い記憶力、聞き取り能力にかなり依存していたのである。

もちろんロンドンではそんなものを披露することは一度も無かったし、ボンドの知るところにはなっていなかった。

もしボンドがそれを知って勝負を挑んでいたとしたら、それはそれでちょっと見てみたかったという気もするのだが。

それはともかく、黒木については、さらに酒にも女にも興味がない、とボンドは判断していた。

この女の部分は完全にボンドの誤解だったが。

あまりに手詰まりがひどくなり、なかばやけくそ気味になったボンドは、チャーチルとの話によく出てきそうな話題を会話の中で振るというようなこともやってみた。

しかし結果は、その後はボンドの姿を見かけるだけで、あからさまにまるで怯えたチワワのように警戒されるようになっただけだった。

だいたい、端で観察していても、友達らしき存在が少ないか、いないかのどっちかとしか思えなかったのだ。黒木は元々一人で引きこもるのが大好きだったのである。

黒木との交流に活路を見いだすのは結局諦めた。

それでもチューリングの言うコード型暗号の辞書を探して黒木のオフィスに夜中に忍び込んで探索してみたのだが、どこを当たってもそれらしいものがない。支配人室に忍びこんでも見つからないのである。

また実際に日本本社への連絡文をしたためている管理職の様子を探っていても、一向に英和/和英辞典以外の辞書らしいものを見ているようには見えなかったのだ。

日本人商社マンの窘みとして、常日頃から小さな手帳、イギリス人の手の大きさからすれば小さすぎて使い物にならない程度の大きさだ、を肌身離さず持つ習慣があり、コード関係の記述はほぼ全員、その手帳に認めていることをボンドは知らなかったのだ。

結局日本人管理職が無類の堅物もしくは相当変質的趣味嗜好の者もしくは性的不能者のいずれかであったことが、作戦失敗の最大の原因、とボンドは報告書の中で結論づけることになった。

仕事場で同僚との間で浮いた噂が流れることがどれだけ日本の会社ではマイナス査定されるのかを理解していなかったボンドには仕方なかったのだろう。

ボンドはイギリス人であり、イギリスのスタンダードは世界のスタンダードであると信じていたのだ。

ボンドの諜報能力はその相当部分を女をたらし込む能力に依存していたのである。

何故色仕掛けがことごとくうまくいかなかったのか。

これを理解するためには食生活の差を知る必要があった。

イギリスと言えば牛肉と牛乳、チーズその他乳製品、砂糖の消費量において世界有数のトップグループに入る国だ。

摂取カロリーは一日五千キロカロリーを軽く超え、身体を大きくする効果の高いホエイ(乳清)プロテインの割合が高い食事が小さい頃から当たり前なのである。

日本は身体をこじんまりとまとめる効果の高い大豆プロテインと塩分の割合の多い食事で、糖分はごく僅か、この時代、摂取カロリーも一日二千キロカロリーに達していたかどうかも怪しかった。

このため男でも身長が百七十あればじゅうぶん大男と見られていたのである。

これが両国の間に悲劇的な体格差を作った。

片や、女性でも百九十越えが珍しく無いイギリス女性では、小柄な日本人からすればこれに性的魅力を感じる方が、むしろ変質的だと言えるぐらいだったのである。

ボンドにはとても想像ができなかったのだが、イギリス人女性というものは、いかにルックスが良く美人であっても大きな顔、手、腕、それに自分が履いている靴よりも二回りは大きな靴を履く足、窒息を心配しなければならないほどデカイ胸などが障害となり、お気に召さなかったのである。

まあ食生活の差を考えただけで両国の男女がまともな夫婦生活を営めるとはとても思えないのだが。

ボンドもまさか身体の大きさの差がスパイ活動の障害になるとは予想できなかったのだ。

ましてや日本人の中でさえも童顔小男と見られる黒木にはなおさらだった。

ボンドはこの後、スパイ時代の経験を友達の劇作家に語り、スパイ映画として大ヒットする素材を生み出すことになるのだが、もちろんその中には、黒木のような存在や五井物産のような会社、つまり日本に関係する人物はボンドの協力者としてはよく登場するが、敵としてはほとんど登場せず、すべてボンドの思い通りに事が運んだことになっていることは言うまでもない。


とにもかくにも、イギリス最高の頭脳、人材をもってしても歯が立たなかった、これがチャーチルに与えた衝撃はかなり大きかったのである。

なんだ、かんだと言いながら、科学技術に対する知見に関し、イギリスを上回る国は地球上に存在しないと信じていたからだ。

それをひっくり返された、ということがチャーチルの日本の再評価につながっていた。



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