戦利品
赤坂宮がこのように次の手作りに専念していたこの期間、昭和十四年(一九三九年)の前半は中国が内戦を激化させていること以外は比較的平穏だった。日本政府はこの混乱の続く中国に対し、ずっと突き放した対応をしている。居留民を完全に引き上げ、陸海軍の全戦力を日本領および満州国まで撤退させた後は、無干渉を貫いていた。
兵を早く復員させ、国内経済を活性化させたいということを優先させたわけだが、少しだけ逆に戦力を増強させているところもあった。
満州国である。満州の対中国境では兵を減らしたが、ソ連とソ連の衛星国になっていたモンゴルと接する国境に対しては、機械化した部隊と陸軍の航空隊を増強していたのである。
これは赤坂宮からの指示で近衛前首相が政府内の情報管理を総点検したところ、情報が流れた先がソ連ではないかという疑惑が濃厚になったからである。
その報告を受け、赤坂宮が満州国のソ連モンゴル国境での警戒態勢強化を命じたのであった。無論ただ数を増やすというだけでなく、国境の向こう側の状況をつぶさに航空偵察し、戦力がどこに向かってどれぐらい集中しているかを定期的に観測し報告するようにとも命じていた。
このように情報戦によって得た戦果をフィードバックすることを実践していたが、実はこの時期、情報戦においては日本は非常に大きな失点をしていたのである。
日本の外務省は、新規に開発した暗号システムをこの時期新たに導入したばかりだったのだが、導入時に致命的なミスを犯してしまったのである。それは同じ文章をそれまでの古い暗号システムを使って送った国、新しい暗号システムを使って送った国と、両方が存在していたことが原因だった。
要するに新しい復号装置を全世界の日本大使館に一斉配備できなかったため、新たな装置が届いていたところには新暗号で、古い装置しかないところには古い暗号で送ったのだった。
かねてより日本の通信を傍受しその内容を探り、従来の暗号を解読していたアメリカ陸軍は、解読できない新暗号にすぐに気がついた。そして広汎なサンプルを集めようと情報を集めたところ、解読済みの旧暗号で他国の日本大使館に同じ文章が送られているらしいことにすぐ気がついたのである。そのままでは解読に数年はかかったであろう新暗号は、このエラーの発見によって復号キーがすぐに特定され、アメリカは僅か一ヶ月余りで解読を成し遂げてしまっていた。このシステムでもたらされる日本情報は以後、パープル情報と呼称され、アメリカの日本情報の切り札として重用されることになったのである。
さて、とにかく満州は情報戦の結果、国境警備を厳しくしたのだったが、まさにその心配の通りにソ連が動いていることが確認されたのである。
あまり注意を向けていなかったモンゴルとの国境沿いでかなり大規模に火力の集積が図られていることが航空偵察で明らかになった。
驚いた新京の関東軍司令部は、すぐさま独自の判断で土を盛って丘を作り、塹壕を配置する縦深防御陣地をモンゴル国境に沿って設営することにした。
本来の関東軍司令部ならそこまで反応することはなかったはずだった。実は元関東軍の板垣陸相と東条参謀総長が中国から総撤退の指揮を完了した後、新京に立ち寄っていた時に、東京からのソ連国境に警戒せよ、という指示に偶々接したことが大きかったのである。
新京の司令部の面々は最初、幕府からの指令というものを重要視していなかった。が、居合わせた板垣と東条がそれを聞いて顔色を変えたので、認識を改めたのである。
要するに御前にて赤坂宮に板垣、東条の陸軍トップが完膚なきまでにさんざん論破され、叱責されたという事実が何よりも効いていたのである。
ソ連モンゴル軍の戦力はいまなお継続的に増強が続いているものと見られ、既に何らかの侵攻計画が決定されているものと判断された。作戦開始予定日は、集積地点の設備状況などから判断し、遅くとも一月以内と見積もられた。そして予想される軍事行動の狙いは、国境線の移動、つまり満州国領土の一部奪取と断定された。
即座に東京に向けて偵察の結果を報告し、合わせて関東軍の対応状況を説明したところ、一週間ほどして幕府から次の指令が来た。
それは現地指揮官参謀にとっては奇妙な指示であった。
モンゴル満州国境は蛇行するハルハ川に設定されていたが、その蛇行によって満州国がモンゴルに突出している地点があった。これを南北から圧迫すれば容易にモンゴル領にできそうに見える状態である。
そのため、地形を考慮すると蛇行の始まる北岸付近が一番守備には向かないところであったので、その場所を仮想攻撃点とし、予想される敵の進行方向を塞ぐように防御陣地を設営したのだが、そこには武器も兵も置かずに空っぽにして、そのさらに先に、つまり防御陣を突破された先に地雷原とコンクリート壁を交互に配置した対戦車障壁を何重にも築けというのである。そして本来縦深防御陣に配置するつもりであった部隊をそこから五キロもハルハ川の上流へと移動させろとのことだった。
「これは包囲殲滅しろ、という意味なんでしょうな」
司令官の秦中将が東条参謀総長に戦場と想定される地図に各軍の配置を示す駒を置いた板を見ながら配置の意味を尋ねる。
「普通に考えればそうだが、これでは戦場とこの部隊の距離が遠すぎることになる。わしならせいぜいこの辺りにこの部隊は置くがな……。いや、違う……。おい、敵の兵站は予想できているのか? 直近の輜重点から前線部隊までどんな兵站線になるんだ」
航空偵察で輜重点と目された場所は、満州国側から見て、一山向こうの谷間に設けられていた。一人の参謀が地図上の輜重点に駒を置き、地形に沿う道路を赤いマジックで書き入れて前線部隊へとつなぐ。その曲がりくねった線は、まさに移動させた部隊の目と鼻の先のハルハ川対岸を通過していた。
「あ、なるほど、兵站線を分断するつもりか。もしうまくいけば敵の火力をもって敵の殲滅を図る、おまけに燃料も砲弾も頂く、そんな内容なんでしょうな」
「君はこの辺りに詳しかったよな、君が連中の司令官だったら、前線司令部はどこに置く?」
「この辺りは穏やかな丘陵地帯ですから、低いとはいえ、丘の上でしょうな。樹木も少なく戦場が一望できる場所、というならこの辺りなら申し分ないでしょう。樹木も確かほとんど無かったはずです」
指揮棒が示した場所はその赤い線のすぐ脇、丘の中腹の峠から満州国側に少し下ったあたりである。
「ハルハ川を無事に渡河さえできれば前線司令部も目と鼻の先ですか。渡河作戦の危険を冒しても釣り合いが取れるぐらいの捕り物も一緒に楽しめるという趣向じゃないですかね?」
「いや、ちょっとだけそれは違うようです。今解読が終わったばかりの指令です」
参謀が差し出した紙には次のような文字が記されていた。
スターリンニタイスルダイジナコウショウザイリョウニツキダイジニアツカウベシ
「すごいですな、赤坂宮殿下というお方は。敵をお客さん扱いしろというわけですか」
「少なくとも我々のようなガチガチの軍人にはできない采配だな」
こうして続く二週間の間で、ハルハ川の上流で川幅が狭まり両側に森が迫った地点を選び、架橋のための基礎杭を密かに川面に打ち込ませた。重量の軽い日本軍の戦車なら、粗末な木製の架橋でも十分渡れるのである。移動が命令されれば、この杭の上に天板を渡し橋とするのだ。
さらに新京始め満州各地からかき集めるだけ集めたコンクリートが運びこまれ、長大なコンクリート壁作りが始まった。モンゴル領側からは先に作った縦深防御陣の丘の陰になるため航空偵察で無ければまず見えないはずである。材料と作業部隊の出入りをソ連側に察知されぬように夜間早朝に集中させた。さらに昼間の航空偵察を欺くため、コンクリートは網で覆い草やむしろを敷き詰めた。
壁が出来上がるとその前に地雷原を敷設して完成である。
およそ三週間ほどで全ての作業が終わった。
そして敵の襲来を待ち続けると、五月の初旬、早朝ウラーという喊声とおびただしい戦車の轟音とともにソ連軍の侵攻が開始された。
戦車を先頭に歩兵部隊が続くアリの群れのような侵攻軍が、脇目もふらず防御陣の一番右側を目指し突進していった。
防御陣は次々にソ連軍に突破されていった。後続の部隊がそれを追いかけ、軍は文字通り集団となって山津波のように満州国へと侵入していく。
が、作戦開始から数時間ほどすると、最前線のソ連兵は大きなコンクリートの壁に行く手を遮られることになった。堤防のように長く続く壁にしばし戸惑う。だがその壁に銃眼らしきものは無く、その上に兵の姿もない。気を取り直して壁に近づくと、先頭集団を作っていた戦車が次々と爆発を引き起こした。
地雷原である。あわてて歩兵は後退し、戦車だけがその中を進んでいく。
日本軍の地雷ではこのソ連軍の新鋭戦車を完全に破壊するのは困難であるらしく、履帯を壊されて動けなくなったものは出たが、完全に行動不能になった車両は少なかった。またそれまでのソ連軍戦車にはよく見られた火災を出すものも少なかった。
前線部隊の中隊長は作戦に影響無しと判断し、続いて壁への榴弾による攻撃を命じる。戦車砲で壁を壊す策である。後続車両も到着すると同じように壁に榴弾の雨を降らせ始めた。
ソ連軍戦車の搭載していた大口径の戦車砲の威力は凄まじく、分厚いコンクリートの壁はみるみる小さな瓦礫へと破壊されていった。
このソ連軍を指揮していたジューコフ大将は後方の丘から全軍が右側面に殺到し、その防御陣をやすやすと突破する様子を双眼鏡で眺め、上機嫌になっていた。彼の頭の中には今頃さぞかし慌てふためいているであろう、日本軍指揮官の苦渋に満ちた顔が浮かんでいたのだ。
彼は包囲殲滅戦のエキスパートだが、その教科書通りの手をあえて使わなかったのである。
ジューコフはドイツの軍事顧問団に教育を受けた軍のエリートである。
ベルサイユ条約によって再軍備を厳しく制限されたドイツは、ドイツ軍の将来の幹部となる優秀な軍人を軍事顧問団として密かに外国に送りこんでいたのである。彼らはその国の軍を近代化する手伝いをしながら、ドイツが禁止されていた兵器を使った戦闘訓練をその土地で行い、戦術を磨いていたのだった。もちろんその課程で、その国の将校たちを指導するサービスも行うことがその見返りとなっていた。
ロシア以来の古くさい軍隊の伝統だけではなく、騎兵上がりながら近代化された軍をも知り尽くしていたのがジューコフだったのである。彼は赤軍の作戦指揮を大幅に改め、兵種装備を見直し、兵站を重視し本家ドイツにも迫る一大機甲軍団を作り上げていた。
ところがジューコフがあまりにも急速にソ連軍を強化してしまったことが裏目に出た。急速にソ連軍内部で地位を高めたことはスターリンに警戒されることになったのである。モスクワから離され遠く極東方面に放り出されたのはそのためである。
ジューコフは日本の指揮官もジューコフと同じようにドイツ陸軍の忠実な生徒であることもよく知っていた。しかし日本の陸軍がドイツの教育を受けていたのは大正の世界大戦の前の話だ。つまりジューコフの知る機甲軍団の戦いは知らないはずだった。
そこで常識的な包囲殲滅戦ではなく、近代化の進んだ機甲化部隊の特徴を最大限に活かした、かなりの奇手としての包囲殲滅戦を仕立て上げていたのだった。
普通は軍を遊撃隊と主力に分け、主力が敵正面に当たっている隙に横から回り込み、後ろをつくのが伝統的な包囲殲滅戦である。だが、ジューコフはこれをしなかった。あえて敵の正面に軍を向けるのではなく、敵前で戦場を横切るように全軍を右翼にぶつけたのである。縦深防御陣がいくつも並んだ日本軍の最右翼にソ連軍のほぼ全軍が集中したのはこのためである。
もし日本軍がこの縦深防御陣に布陣していたのであれば、右側面を突破した主力が戦車の速度にものを言わせて、簡単に日本軍主力の真後ろまで進出することで包囲殲滅が完成するという筋書きだった。
大して抵抗らしい抵抗にも合わず、あっさりと縦深防御陣を先頭部隊が突破したのを見て、こんなに大規模な兵力を集める必要は無かったか……、とジューコフは自分の作戦が大げさすぎたと反省し始めた。右翼の縦深防御陣は瞬く間にソ連軍の波に飲み込まれ、丘を順調に越えていく。
勝ったな、とジューコフは一人つぶやき双眼鏡を下ろし、椅子に腰を下ろした。
その頃、前線のソ連兵は当惑していた。壁が壊れた瞬間、喜びから悲しみに突き落とされたのである。壁が無くなったらその向こう側にまた同じ壁が現れたのだ。そこまでの平地にもおそらく地雷がある。そう考えた瞬間足は動かなくなった。先頭が停止したため、後続も停止するしかなくなる。
ジューコフには、丘の向こう側で何が起こっているかは見えない。ただ、分かったのは進行がほとんど止まってしまったことだけだった。。
「くそったれめ。何をやってるんだ。もたもたしていないでさっさと突っ込め!」
彼には、自慢の機甲部隊が、ただのコンクリートの壁と地雷原に阻まれているなどとは予想も付かなかったのである。
が、そうは言っても進行が完全に止まったというわけではない。渋滞した道路の車の群れのように後方のソ連軍の進撃そのものは牛歩のようにまだ続いていた。ジューコフの近くには部隊はほとんどいなくなり、突撃部隊の最後尾とは、いつの間にか結構な距離ができていた。
この作戦はそもそも日本軍の満州の戦力が手薄である、という情報に頼って立案された作戦である。その少数相手に万全の準備で臨んだのだ。この地でこれほどの規模で機甲部隊を運用したのは全く初めてのはずである。どう考えても負けるはずのない戦いだった。
第二のコンクリート壁を戦車砲がようやく破壊し終わると多くの戦車が砲弾を撃ち尽くしていた。そして瓦礫を乗り越えるとまさかの第三の壁である。戦車部隊は新たな砲弾が運ばれてくるまで壁の前で滞留することになった。
が、日本軍の戦力が少ないという情報は確からしく、散発的な歩兵の機銃の音以外には大規模な反撃はどこにも見あたらない。
先頭部隊の状況がようやくジューコフの元に届いた。
コンクリートの壁に進撃を阻まれていると知った時には、そんな馬鹿なことがあるか、と一瞬怒鳴りつけたくなる衝動が走ったが、それは何とか抑え、すぐに砲弾を前線に送るように指示を下したが、その直後、急速に不安がわき上がった。戦車をコンクリートの壁で阻止するのは世界大戦でわずかな成功例があっただけだ。ドイツでもようやくその有効性が認められた程度のものなのである。それが大規模にしかも複数用意されていることは、何を意味するのか……。
ジューコフの中でかなり不吉な予測が湧き上がっていた。
その時である。野戦電話が突然鳴り、すかさず一人の参謀がその受話器を取る。
ジューコフは悪い予感を抱えながら、その参謀の言葉を待った。
その参謀がジューコフに伝える。
「補給基地が日本軍に襲われているそうです」
「何、どこだ?」
「S七〇〇一基地です。ここの後方です」
補給基地はジューコフのいる場所からは尾根の向こう側となる谷間にある。直接目視することは不可能だった。
「日本軍の戦力は?」
「小型の対人用戦車がおよそ百両、谷の向こう側から突然現れたとのことです。さらに約十機の日本機が上空から支援に当たっているとのことです」
「まさか……」
数も質もソ連軍が圧倒していることは間違いない。が、その大軍のほとんどは前線で狭いところで動けなくされていた。そして手薄になっていた補給基地にやすやすと敵を近づけてしまった。
ジューコフの判断は速かった。
「撤退だ、撤退させろ。すぐ全軍に命令だ」
「閣下、あれを……」
「まさか、こんなところに伏兵など」
補給基地と前線戦車部隊に気を取られていた隙に前線司令部に歩兵部隊の接近を許したらしい。距離にして約五百メートル……。
すぐ銃弾が飛来し、空気を切り裂く音が響いた。
「日本兵だ」
「敵襲」
「応戦しろ、逃げるんじゃない」
「逃げろ」
日本兵はすぐ襲ってくるのではなく、前線司令部にあった車両を動けなくするようにタイヤや足回りに攻撃を集中している、とジューコフが気がついた時には、使える車両はほとんど残っていなかった。
見る間にジューコフたちが司令部としていたトラックも包囲され、退路を完全に絶たれた。
ジューコフは抵抗を諦め、投降の指示を出した。
司令部の異変はすぐに前線にも伝わり、慌てて戦車の向きを変え、救援に向かおうとしたものの、隊列が全く整わない上に、右往左往する自軍の歩兵が邪魔になり思うように動かせないのである。いつの間にか後方左右両側の縦深防御陣の上に日本兵が回り込み激しい銃撃を浴びせかけてきたのだ。
上の方、しかも三方向から撃ちかけてくる日本兵に対し、歩兵のライフルと戦車の狙える範囲が極端に狭い機銃だけでは話にならなかった。
後方の司令部との間に日本軍の日章旗が翻るのが見えると突入軍の戦闘士気は一気に瓦解した。後方に連なっていた戦車にはまだ砲弾がたくさんあったにも関わらず、乗員は戦車を放棄し日本軍に向かって投降し始めた。
ジューコフが日本軍の手に落ちるともはや軍としてソ連軍は機能しなくなったのである。
予備兵力として僅かに待機していた部隊も、戦場から脱出するタイミングを失い、ほぼその場で投降するという形で、ソ連軍の侵攻部隊のほぼすべてが関東軍の捕虜となった。
捕虜の多さにむしろ関東軍が慌てることになった。
もし当初の予定通りに部隊配置をしていたら、対歩兵用の銃火器しか装備していない薄い装甲の日本の軽戦車、中戦車が立ち向かえる相手では無かったのである。おそらく一方的に蹂躙され、大幅に戦線を後退させるしかなかった。地雷とコンクリート壁の方がよほど頼りになったのである。
結果的に関東軍にはコンクリート壁を壊された以外にはほとんど損害らしい損害はなく、ソ連モンゴル混成機甲一個旅団をまるまる捕虜にできたことになった。しかもこの旅団にはソ連自慢の最新鋭T32戦車が多数含まれていたのだ。鹵獲したT32は従来のソ連軍主力であったT26やBT戦車よりもはるかに防御がすぐれており、関東軍がそれまで得意としていた火炎瓶攻撃では全く炎上しないことが後に確かめられた。しかも搭載された砲の威力はあのコンクリート壁一つをまるまる吹っ飛ばせるぐらい強力なのである。関東軍の戦車砲にはできない芸当だった。
関東軍司令部が青ざめたことは言うまでもない。
が、とにかく結果は大勝利である。さぞや東京でも喜ぶだろうと意気揚々と戦勝報告をすると、おそろしく冷たい内容の返電が来た。
ホンセントウニツイテハゴクヒトシ、イッサイコウカイスルコトユルサズ
ホリョニツイテハ、タダチニホウテンニイソウスベシ
センリヒンノセンシャホカニツイテハギジュツチョウサチームニヒキワタスベシ
「これはどういうことでしょうね」
「殿下にとってはソ連という国を倒していない以上、勝ちじゃない、ってことなんだろ。ソ連もえらい相手を敵にしたもんだな、と同情したくなるね」
「そんなにですか? 捕虜や戦利品の扱いが丁寧すぎるような気がしますが」
「そうじゃないだろ。殿下は探してるんだよ。どうやったらソ連を完膚なきまでに倒せるかを。そのためだったら何でもするんじゃないか」
若い参謀同士のこの会話を戦勝パーティの部屋の片隅で聞くことになった東条は、改めて東京の御前会議で、見事に自分の作戦計画の欠陥を指摘した赤坂宮の姿を思い浮かべていた。
本件に関し、日本側は見事に沈黙を貫いた。スターリンもこれには相当当惑したのだろう。本件に関するソ連側の発表は戦闘終結後、一週間も経ってから行われた。ソ連の発表は次のようなものであった。
「五月初旬、モンゴル共和国に日本軍の部隊が侵入、国境を侵犯した。これに対し、我がソ連軍はモンゴル軍と共同でこれを排除、損害を出しながらも日本軍に多大な損害を与え、これを排除した。ソ連政府は日本政府に対し、ただちに抗議を行い、賠償と捕虜交換を申し込んだ」
これに対する日本政府の声明。
「ソ連の行った抗議内容について、現地部隊に調査を命じたが、そのような事実は一切確認されなかった。すべてソ連の捏造であると判断する。日本政府としては、ソ連政府が日本に対し、このような欺瞞に満ちた行動を取るということは何らかの国際的陰謀をめぐらしているものと判断せざるを得ず、今後の両国関係そのものを見直すしかないものと判断している」
さらに同じ日。このような報道も行われていた。
「共産主義の脅威に対抗するため日本はドイツとより積極的かつ綿密な連携活動とすることを提案」
この脅しがスターリンに効いたのか、以後ソ連はこの事件について一切コメントをしなくなった。そして将校を除く兵員について、捕虜の交換を行う合意が両国の間で極秘裏にとりまとめられた。
一方、幕府、最近では赤坂幕府と呼ばれ始めていた、の中の各チームは大忙しの状況だった。
赤坂宮からの指示は非常に単純だった。
鹵獲した機材を徹底的に調べ、我が軍の次世代装備に活かせ、というものだったのだ。
通常なら作戦指導や予備兵力の大きさなどを調べるのがこういう場合の常道だったが、そちらの方は現地司令部にやらせておけ、と言ったきりまるっきり興味を示さなかった。
従って、敵将ジューコフについても現地司令部管理下に置き奉天で軟禁状態に置くだけで特に尋問やら調査やらをしろとは言わなかった。が、幕府の課員には知らせていなかったが、首相から内務省、司法省というルートで別な可能性の調査が始まっていたのである。
とにかく科学技術や工業技術面でソ連は日本よりも進んだ国であり、その装備品は絶好の研究対象だった。赤坂宮からは、それぞれをネジ一本に至るまで分解し、構造がどうなっているかを日本側の技術者に実際に見せて検分させろと指示が出ていた。
もちろんソ連軍司令部にあった連絡用装備や書類も全て押収させていた。暗号解読器は当然破壊されていたが、その壊された残骸も部品を調べるために東京に送らせたのである。
瀬島は一人不満を抱えていた。実は今回の作戦命令書を起案させられたのは瀬島なのである。が、最初に出した案は、現地の迎撃策を上塗りするような内容で即座に赤坂宮に却下された。そしてその際に、こんなものを書く時は、敵がどんな武器を使うのかまず調べてこいと言われ、ソ連軍の使用兵器やその過去の戦績など洗いざらい調べさせられたのである。そして同時に極東にいるソ連軍のトップがどういう人物なのかを調べさせられた。当初陸軍関係しか知己が少ない瀬島はどこをどう探ればいいのか困りはてた。それを赤坂宮に言うとそういうことは一番頻繁に戦っている敵が知っているもんだ、と言い出したのである。ソ連がもっとも怖れる宿敵、間違いなくドイツである。ソ連とパイプを持つ人間はなかなかいなかったが、ドイツとのパイプがある人間ならばいくらでもいた。それで極東ソ連軍の最高司令官がジューコフという大将であり、ロシア以来の古参の軍人ではなく、ドイツの軍事顧問団に育てられた新世代だということが分かったのである。幸い、そのドイツ軍事顧問団の活動のことなら、あちこちから密かに再軍備を狙ってやっているのではという指摘があったことから相当な情報が既に集められていた。そこで語られていたのは自動車化された軍団だった。即ち戦車を中心とした高速で移動する強力な火砲を備えた機甲軍団という思想である。日本の歩兵を支援するための戦車という運用とは基本が違っていた。ジューコフが指揮官なら、この戦さは機甲軍団の戦さになるとその時ひらめいたのである。
そして戦車というものの特性を考え、どうやったらその火力を封じ、侵攻を止められるかを技術者の意見を聞いて回った結果の結論がコンクリート壁と地雷原に落ち着いたのであった。
結果は大成功だったわけだが、プロセスが瀬島としては面白くなかった。結局自分が陸軍士官学校、陸軍大学校で学んだほとんどのことは全く役に立っておらず、むしろ赤坂宮の一言二言の助言が結果を大きく変えたということを一番よく理解していたからである。
瀬島は陸大で信長を研究した時、稲葉山城攻略戦で敵の補給線を横からそれを断ち切り前線部隊を孤立させ殲滅させたことを発見したことを思い出した。また同時に長篠の戦いでの対武田の騎馬隊を馬防柵と長槍で攻撃を止め、そこに鉄砲隊で攻撃を行うという兵種の違う兵を巧妙に組み合わせ、敵の決定的な打撃力を無効化し、壊滅させたこともまた思い浮かべることになった。自分の描いていた赤坂宮に対する感想、まるで信長のよう、という思いは間違っていないと確信するようになった。
もっとも、幕府内部でこれを共有している人間はいない。作戦計画は赤坂宮が直接かつ単独で瀬島に命じ、作らせていたからである。従って、今回少なくとも幕府内で一番株を上げたのは、瀬島龍三だったのだ。
彼の功績とされたのは、その敵本隊ではなく、敵の補給線を叩くことを優先した思想と、同様に敵の攻撃力の物理特性を冷静に分析し、無効化するための準備を取らせた科学的作戦立案手法、そして最後は指揮官の出自を調べ得意とする作戦内容を読み切ったことの三つだった。
本人からすればすべて赤坂宮の指示で行ったことなのでそれが功績だとするならば、すべて赤坂宮の功績なのだが、本人は何も否定せず、瀬島、よくやった、などと皆の前でねぎらったものだから、こういう評価で落ち着くことになったのである。もっとも瀬島のもやもやはそれで取れることは無かった。
とにかく帝国陸軍としては敵の補給線を重視した作戦計画を作ることは極めて珍しく、たいていは敵主力に直接打撃を加える決戦思想が支配的だったので、その流れを変えたという意味でこの勝利は大きかったのだ。幕府全体で補給線というものに対する認識が大幅に高まったことは間違いない。
この戦さで鹵獲したソ連軍の兵器で一番の収穫はT32戦車だった。今年密かに就役が始まったばかりの世界でもその存在が全く知られていなかった文字通りの最新鋭戦車である。性能試験と分解調査が徹底的に行われた。この戦車に搭載されていた34リットルののV12型ディーゼルエンジンは日本軍が陸用小型船舶用両方で使っていた同じクラスのどのエンジンよりも高性能であった。それまで陸海軍バラバラに発注されていた各種ディーゼルエンジンをこのエンジンをお手本にした新開発エンジンで統一し大量生産するという方針が幕府内で早々に決定された。また装甲についても、鋲を一切使わず、溶接だけで作られた傾斜した装甲板を四面に張った構造は日本の戦車にはないものだったが、実際に試験体を作って比較被弾試験をやった結果、それらが戦車の搭乗員を守る効果が極めて高いことが確認され、以後の新型戦車の標準仕様と認識されることになった。
もっとも搭載されていた76ミリ砲身や三十二ミリ厚の装甲板については同じ寸法で作ると日本の未熟な製鉄技術では強度が全く足りず、使い物にならなかった。それで厚みを増やすと今度は重量が増えすぎて、戦車の運動性能が著しく低下するということが分かり、T32そのものを完全にコピーする計画は早々に放棄せざるを得なかった。
同じ事はV12ディーゼルエンジンでも起こっていた。完全にコピーしたつもりでも性能が同じにはならないのである。原因は機械加工において図面がないので部品各部の加工精度要求が分からないこととそれに付随する未知のノウハウがあることらしかった。こればかりは日本の技術者が経験を積み、技術の底上げが図られるのを待つしか解決策はなかった。
しかしエンジンそのものは、比較すればホンモノよりも劣るというだけで、比較しなければ実用性に問題はないということだったのでそのまま標準エンジンとしての量産化計画は維持されることになった。
が、ここで新たな問題が生じた。陸海軍の必要数見積もりが非常に大きくなり、従来の全国各地で分散手作り生産をしていたのでは時間が掛かりすぎて整備計画に間に合わないことがはっきりしたのである。
そのため、長野県諏訪市近郊に大規模なこのエンジン専用の工場を新設し、必要量すべてを一カ所で生産することになった。しかし、ここでも話はそう簡単に済まないことが分かった。アメリカやソ連がやっているスケールで工業製品を大量生産するノウハウが全く欠けていることがはっきりしたのである。要するに月産一万台などという数でエンジンを作る工場とはどれほどの広さが必要でどんなレイアウトでどんな作業場を用意すればいいのか見当がつかず、工場の図面が引けないのである。そのため、国内海外で、アメリカのフォードなどで働いた経験のある者や大学などで生産工程などを研究している研究者などを急遽徴用することになった。
このようにソ連の侵略を阻止し、ソ連の持つ情報を数多く手に入れた結果、ソ連とは正面切って戦さを挑むべきではないという認識と、日本はまだまだ途上国であるという認識が幕府全員に広がることになったのは皮肉としか言いようがなかった。
このように赤坂幕府の活動初期は、軍事や外交の問題を片付ける以前の、日本全体のアラ探しとその解決が主たる任務と言った方が適切な状態が続いた。
もっともこの事件は国内向けには全く報道されておらず、中国大陸での日本の戦線離脱以来、日本は平和だ、という世間の空気は全く変わなかった。あくまでもすべての変化は軍の内部に限定されるものだったのである。