カノッサの屈辱
瀬島はイタリア、ローマがどうしてファシスト党を生み出したのか、その原因をイタリア政府の統治機構から読み取ろうとしていた。
いろいろな批判はすぐ見つかったが、それらの一つ一つの現象に対し、何故という質問をぶつけていくと、やはり一つの問題にいきつくことが分かった。
それは権力の二重構造である。
つまりかつてのローマの支配者が宗教の守護者として存在し、特定の組織、教会だけとはいえ、財政的にも行政的にもイタリア政府と競合する存在となってしまっていることである。
歴史が複雑すぎた。
ローマ帝国が解体となった時、この半島には統一国家が生まれなかったのである。
フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ジェノバなどという小さな都市共和国群、そして教皇領というモザイク国家になってしまった。当時はそれでも欧州最先端の文化を誇っていて、それなりにうまくいっていたのだ。
が、それもやがてフランスやオーストリーハンガリー、スペイン、イギリスなどの他のヨーロッパ諸国とはバランスが取れなくなってくる。
紆余曲折の果てにようやく統一がなりイタリア王国が誕生したのはいいものの、それは教皇領の上に立つ存在というわけにはいかなかった。これがすんなり教皇がイタリア王国に属していたら歴史も相当変わっただろうと思う。メンツが絡む問題はいつでも非合理なものなのである。
それでもナポレオン率いるフランス軍に接収されたり、その後イタリア王国に編入されたりして、さすがに教皇直轄領というのはかなり小さくはなっていた。が、直轄領は無くても傘下にある教会からの上前をはねる権利は結構しっかりと押さえていたらしい。
こういう火種を残していたのでイタリア王国との仲はいろいろと難しかった。
で、その一つの妥協策としてバチカン市国が独立したのである。
これなら脱税とののしられる心配は全く無い名案というわけだった。
一見名案に見えたとしても国のあり方としてはやはりいびつなところは多い。
結局は行政立法が二重構造化したことは間違いないのである。
この弊害で、相互に相手を牽制しあうために、どうしてもどちらの権力も及ばない空白域が増えてしまった。
つまり下が上を天秤にかけられるので、強く出られないのである。
こうなるとどちらのトップの権威、威勢も大したものではなくなる。
要するに王以外に有力な貴族やら王族は多いし、教皇側には枢機卿以下教会に連なる有力な聖職者がたくさんぶら下がるということになるのである。
国政において首相ごときが自由にできる裁量の幅は相対的に小さくなった。
有力者の所領は国の財政から切り離されていて、税収に結びつかない。
それなのにかつての大国だけあって、国の出費のスケールが大きい。
あらゆる分野でそんな話があり、その結果、経済が破綻し、全てを国家に委ねるべきだと主張するファシストにつけ込まれたのだ。
こういう事情なのでファシストを排除してもこの構造を改めない限りまた同じ問題を繰り返すのは明白だった。
さて、どうするかな、と考えていたところで、飛び込んできたのが、ドイツからのヒトラー暗殺失敗のニュースである。
ヒトラー側近が何人かが死亡、重症者も沢山いたが、ヒトラー本人は軽傷で済み、国政に一切影響は無い、とゲッベルスは高らかに告げていた。
そしてその健在ぶりをアピールするべく、ラジオからあの独特なダミ声の勝ち誇ったヒトラーの声がそれに続いて響いた。
そしてイタリア人にとっては今となっては忘れたい存在にもなっていたムッソリーニがドイツを訪問していて、そのヒトラーとの友好を温めているというニュースが続き、イタリア市民の不安感を煽っていた。
チャーチルは、がっかりしたイギリス国民をなだめるかのように、ヒトラーを倒すのは我々の役割だ、勝手にお終いにされちゃ困るんだよ、とラジオでうそぶいてこれに対抗していた。
瀬島はナチス発表の声明全文の翻訳をもらい、目を通した。
ゲッベルスの主張は、我々の総統ヒトラーは神に特別愛され、神によって選ばれた、神を越える存在だ、というものだった。故にこの卑劣な暗殺を奇跡によって回避できたのだと言うのである。
瀬島はそれがニーチェの超人思想を意識していることにすぐ気がついた。
プロイセン出身のニーチェの大ヒット著作「ツァラトゥストラはこう言った」は、ゾロアスター教の開祖を語り部として使った、ショッキングな表現を多用した時代風刺エッセイである。
なのでゾロアスター教とは全く何の関係も無い。
そしてその中で閉塞感溢れた現代プロイセン、ドイツ連邦を打破するものとして輪廻思想と超人思想を語っていたのである。
この物語は社会風刺でありパロディだから受けたのである。
輪廻はともかく超人思想は、なにしろ「神は死んだ」世界で救済を行う者というのだから、キリスト教信仰の厚いドイツで、まともに受け取られるようなものではない。
が、それでもウケ狙いというのなら悪いアイデアとは言えなかった。
実際ヒトラー自身元々、その超人イメージを意識した演説をしていたフシもあった。
ラテン系とは明らかに異なる、ギリシャ悲劇大好き哲学大好きワーグナー大好きのドイツ人には確かにアピールするだろう……。
ヒトラーへの傾倒を深めるにはもってこいのキャッチフレーズだ。
さすがは宣伝の天才ゲッベルス、と言いたいところだったが……、生臭い暗殺事件を奇跡で掻い潜ったヒトラーはホンモノの超人なのだ、というこの論法……。
これは少々行き過ぎだろう……。いや、待てよ。これは使える……。
ヒトラーが本当に超人だと言うのなら、死んだはずの神をかつぐ存在はまやかしの存在ということになる。
つまり、ゲッベルスの「超人」宣伝工作は不十分なのである。
そんなことを言うつもりだったら、ムッソリーニなどほっておいて、教皇を拉致すべきだったのだ。
もしくはそのキリスト教の権威を完全に葬り去っておくべきだったのだ。
しかし今、その権威の象徴はヨーロッパ全域にそれなりの影響力を厳然と持ったまま健在であり、しかも瀬島に身柄を押さえられていたのである。
瀬島は赤坂宮に意見具申することにした。
複雑な事情背景説明など一切行わず、単にやりたいことだけを箇条書きに記しただけの簡単な電報を発信した。
返事はすぐに来た。
「許可する。反対する理由はどこにもない」というのがその回答だった。
実は赤坂宮の心中は、この返電ほど単純ではなかった。
赤坂宮はもともとイタリアの内政に邪魔な教皇庁潰し目的のつもりで瀬島を送りこんだのである。が、それとは真逆の使い方を瀬島は提案してきたのである。
どうやって潰すかと思っていたら、逆に誰も考えなかったナチス潰しに教皇庁を利用する提案をしてきたのだ。
もし事態が瀬島の思い描いたように動くなら、教皇庁にはそれだけの価値がある、という証明になる。イタリア国内にとっては無用の長物でもまだ使い道があるということだ。
それなら、教皇庁にはかなりしっかりとした手綱をつけた状態にしなければならないと、少なくとも教皇庁潰しは諦める気にはなった。
瀬島は教皇庁の延命の道を示したことになったのだ。
但しすべては策がうまくいけばの話である。
瀬島は教皇ピウス十二世に面会を申し込んだ、というよりも執務室に押しかけた。
教皇は一人だけで在室していた。
枢機卿などの側近はそれぞれ自室に籠もってひっそりとしているらしい。
よってサンピエトロ寺院の中で自由に動き回っているのはブラックアメリカ軍兵士だけだった。彼等の多くは、暇を持てあまして内部の美術品、装飾品を珍しそうに眺めていた。
バチカンはドイツ側から見てもいろいろと利用価値が大きいはずである。なのでローマ占拠以上にバチカンの占拠は重要だった。
それで瀬島がくっついていた部隊には、サンピエトロ寺院そのものを占領させたのである。そしてそのままそこに居座り、自分たちの拠点にしていたのだ。
幸い、兵員の宿泊場所には困らなかった。
各国から訪れる修道僧などを受け入れる施設があったからである。
サンピエトロ寺院を押さえたことで、誰であろうと瀬島の部隊との交戦覚悟でなければ教皇への面会は難しいということになる。
イタリア政府のことは後回しだった。
瀬島にはもともと宗教への関心は薄かった。
瀬島家の菩提寺が浄土真宗だったかどうかもちゃんと覚えていない。
マーチンルーサーキングシニアと接触するためにいろいろと自分のことも含めて宗教のことを急遽付け刃で勉強したのである。
なのでキリスト教の権威の頂点教皇と言っても、風変わりな衣装をまとった小さなおじいちゃんという印象しか持てなかった。
異教徒の自分がこんな話を持ってくるのが皮肉なのか、あるいは異教徒だからできる話なのか、そんなことを瀬島は考えていた。
同席しているのは武装した護衛のブラックアメリカ軍兵士四名と通訳だけである。
当初からバチカン側は武装兵がサンピエトロ寺院に入るのを拒否しようとしたが、中央広場まで戦車で乗り入れてきた瀬島を説得できるわけがなかった。
とにかくおろおろして、銃を向けられないようにするのが精一杯だったのである。
瀬島は前置きをおかず、単刀直入に切り出した。
「教皇台下には今後私の命令に従って頂きます」
通訳がやや驚いた表情を浮かべながら、イタリア語にしてそれを教皇に伝える。予想はしていたのだろう。教皇は全く表情を変えなかった。そして何も言葉を発しなかった。
瀬島は相手の反応に構わず続けた。
「で、早速ですが、早急にローマ教皇の名前で次の声明を発表して頂きたい。第一に、ヒトラーが神に選ばれた存在であると表明したことを悪魔の所業であると非難すること。第二に、ヒトラーをキリスト教徒とは認めない、と破門宣言すること、第三にヒトラーに向けて立てられた誓いの類いは神の名の下にすべて無効とし、今後もヒトラーに忠誠を尽くそうとするものもヒトラー同様破門の対象とする、以上です」
瀬島の言葉を通訳が伝え終わると教皇はほんの少しだけ表情を動かした。
「わしが従えない……ともし言ったらどうなる?」
「従って頂ける新しい教皇を用意するだけです。ああ、それと私は最初からキリスト教徒ではありませんので念のため。私にはあなたを亡き者にすることに対し躊躇う必要はまったくありません。敵国の首領の一人を射殺しただけだ、と言えばいいだけですから。他の枢機卿についても同じです。いくらコンクラーベで議論をしても死人に教皇の座を与えることはできないでしょう」
瀬島はそう言い捨てて立ち上がり、教皇の執務室を出た。通訳が瀬島の言葉をすべて伝えると遅れて退室してきた。
ドイツはカソリックの支配から脱し、ルターの宗教革命でプロテスタント国となっている。だから今更教皇が何を言ったところで、実質的な効力も何もあったものではないはずなのだが、それが果たしてそう能書き通りになっているかというと、元々が信心という個人に属するものだけに怪しかった。
ルターの宗教改革は、カソリックの教義を脅かした、という説明は間違ってはいないが、実態を考えると少々大げさすぎる説明なのである。
カソリック教会は、聖書を日本の神社のご神体のように考えていた。
それで聖書はラテン語、つまりかつてのローマ帝国の公用語で書かれたものに限られ、しかも筆写されたもの以外認めないという立場だった。
ラテン語限定には知識の独占という意味と教会の権威維持の両方の狙いがある。
そうでなくても文盲が多かった時代だ。
教会のあらゆる知識の独占という戦略に、一定の効果はあったのである。
これに対し、ルターは、自分のところの信者が読めるようにとドイツ語に翻訳した聖書を作り、しかもそれをグーテンベルグが開発した技術を使い、印刷して大量に配布したのである。
これによってカソリックの組織に属さないキリスト教徒という意味で抵抗勢力=プロテスタントが生まれたわけだ。こういう状態なのでプロテスタントには教皇を頂点とするような官僚組織はない。
神父というのはカソリックの官僚組織の役職名であるのに対し、プロテスタントでいう牧師には、組織内役職としての意味はない。牧師は信仰を深める手助けをする者程度の意味になる。
つまりカソリックにおいては神父を誰にするかという叙任権によって、教皇が現世組織を実質支配していたのである。
ルターはこの構造を、おそらく本人も意図しないうちに壊してしまったのだ。
ちなみに、このルター聖書に書かれた言葉が現代ドイツ語の誕生とされているので、ルターは「ドイツ語」という言語自体も作ったことになる。
この程度の争いだったからドイツの一般信者からすれば、キリスト教の教えそのものに疑いを持った覚えなど無かっただろうし、そもそもそんな宗教組織の楽屋裏の争いには全く関心は無かっただろうと考えられるのだ。だから決してカソリックを疑ったり無視したりしたものではないのである。
カソリックのトップであるローマ教皇の言動は、ドイツのプロテスタント教徒にも重要な関心事だった。
ピウス十二世がどのような心情だったのかは瀬島は知らない。
知る必要の無い情報だった。
翌日、バチカンはピウス十二世の声明を発表した。
まさに瀬島が指示した通りの内容だった。
もともとキリスト教徒でもないし、何かの宗教に特に熱心だったこともない瀬島にとっては全く想像ができない話なのだが、キリスト教徒にとってキリスト教と絶縁される、「破門」というものは大変恐ろしいものらしい。なにしろ多神教容認の日本とは違い、神は一人いや一柱だけなのだ。キリスト教徒を破門されるということはそのまま神との絶縁を意味するのである。
もっともよくよく考えれば、ユダヤ教徒を破門にされたキリストが作った宗教がそれを言うのか、というところはあるのだが。
とにかく破門の恐ろしさについては「カノッサの屈辱」という歴史的な事件でヨーロッパ世界では広く世に伝えられていた。勉強家の瀬島はそれで知っていたのである。
聖職者の叙任権をめぐって教皇に反抗した神聖ローマ帝国皇帝が、教皇によって破門されたという中世の事件である。
破門された皇帝は、教皇の滞在していたカノッサの城門の前で三日三晩裸になって断食をして祈り、破門の撤回を願ったという。これを「カノッサの屈辱」と呼んでいるのだ。
余談だがこれよりずっと後の世、この「カノッサの屈辱」というタイトルを冠した深夜番組が東洋のとある国で作られる。
しかし番組内容とタイトルのつながりは歴史という要素以外確認されていない。
どのような経緯でこのタイトルに決まったのかについて、研究者の間では当時その国に蔓延していた「うっそー、いみわかんないけど、ヤダあ、なんかヤヴァくない?」症候群に監督が感染していたと考える者が多い。
さて、瀬島あるいは赤坂宮にしても、教皇の宣言に具体的な期待はかけていない。
やらないよりはいいだろうし、これでドイツが多少なりとも混乱すれば儲けもの、というのが本心に近かった。
何しろ単なる思いつきで始めたことだ。
バチカン教皇庁の発表による、教皇のヒトラーに対する悪魔認定&破門宣言のニュースはすぐにヨーロッパ全域へ、いや全世界へと報道された。
瀬島が考えていたよりも威力があった、ということはすぐに分かった。
ベルリンからの放送で、ゲッベルス、ヒトラーそれぞれが、怒りを撒き散らしたかのようなローマ教皇非難演説を行ったからである。
もはや演説というより、喧嘩に負けた子が、ひたすら泣きわめいているような罵詈雑言の羅列だった。
ヒトラーを悪魔と断定し、破門したことがよほとお気に召さなかったらしい。
ただカノッサの屈辱のように教皇に許しを乞おうとは思わなかったようだ。
ナチスの発展を語る時、アドルフヒトラーの名前とともにヨーゼフゲッベルスの名前も忘れることはできない。
演説によって聴衆を魅了する天才アドルフヒトラーの持つ価値が最大限発揮できたのも、そのタレント性を最大限に引き出す宣伝、プロパガンダ、演出の天才ヨーゼフゲッベルスがいたからである。
その結果が総選挙でナチス党に空前絶後の大勝利をもたらした。
そして教皇の演説がナチスに与えた衝撃の大きさを正しく理解するためには、特にゲッベルスが何をしてきたのかを考える必要があった。
彼は帝政であろうと王政であろうと民主政であろうと関係無く、常に大衆、国民の支持は政治に絶対必要であり、その信頼を勝ちとる上で、政権の外見を整えることは何よりも重要だ、と喝破していたのだ。
ゲッベルスほど科学的体系的とは言えなかったが、この考えは日本でも古くからあった。
徳川政権で、葵の紋と徳川という名前を将軍家の専用とし、それを権威を高めるシンボルとして徹底活用したこともそうだし、豊臣政権が築城させた城が黒基調の天守閣だったのに対し、徳川政権が整備させた天守閣は常に白基調の天守閣にしたのもそうだ。
明治に入り、その葵の紋の代わりに菊の紋を利用したのも同じである。
もっとも菊の紋を皇室のシンボルとして何故使ったのかはよく分からない。
天皇家は元々数多くの家紋を所持する家だった。多数の家紋のうち最上位とされていたのは伊勢神宮の神紋にもなっている日月紋である。
秀吉が豊臣の姓とともに天皇家から賜った桐紋も元々は皇室の紋だったのだ。
従って、江戸時代の人間には菊の紋を見ても皇室を思い浮かべることは無かったのである。
明治神宮や靖国神社あるいは戦艦など、皇室の存在をことさら強調させた菊の紋を大々的に押し出したデザインになったものは、いずれも明治以後の政府が作ったものばかりだ。
ただ、錦旗が天皇が率いた軍の軍旗、ということは江戸時代にも知られていた。
錦旗というのは特定の紋を指すのではなく、その紋が描かれた布が錦、つまり絹で作られた豪華な布であった旗を指す。となると官軍としての初戦闘となった鳥羽伏見の戦いで、たまたま長州軍が掲げた錦旗に付けられていた紋が菊だったので、以後菊を皇室のシンボルにしてしまったのでないかと考えられる。ベースと紋の意味を入れ替えたのである。
ゲッベルスは、ナチスとヒトラーのシンボルに鈎十字を使った。
何故鈎十字かと言えば、ゲッベルスがお手本にしたのがキリスト教の十字架だったからだ。
そしてシンボルだけに留まらず、それが使用される場面に登場する場所、建築デザイン、内装デザイン、制服、機械、音響効果、照明、音楽とありとあらゆるものに、キリスト教のモチーフを現代的に洗練、発展させた、統一的なカラーリングやデザインを持ち込んだのである。
宗教というものは純粋な情報現象で、洋の東西を問わず、人々の信仰を呼び起こす心理効果を高めるための様々な技術や工夫が駆使された集大成となっている。そしてキリスト教のそれは最先端を行っていた。
ゲッベルスはそれをよく知っていた。
ゲッベルスが演出を手がけたナチス党の催す式典、イベントは、集まった聴衆、観衆に見ただけで感動を与えるような絵面を作り出したのである。演劇以上の演劇と言ってもいいだろう。こういう舞台装置の中でヒトラーが得意の演説を行うのである。
聴衆が政党としてのナチスの教義、国家社会主義やらヒトラーの本を理解しているとかとは全く関係無く、視覚的音楽的演出によって感情を激しく揺さぶられたこどもや若い女性を中心にナチスシンパが次々と生まれていったのだ。
そう、彼等は日頃から毎週教会に通っていた敬虔なクリスチャンであり、そういう神聖さ、荘厳さに心惹かれる素養が教会で培われていたのである。
そして、キリストを処刑したのはユダヤの王とユダヤ教の司祭ということもよく理解している。
ユダヤこそ悪というヒトラーの話は、彼等にはとても聞き入れやすい主張だった。
要するにゲッベルスがナチス党に与えた外見というのは、キリスト教の生み出した精神世界に寄生したものだったのである。
独ソ戦開戦の際には、ヒトラーは演説でドイツ軍を十字軍となぞらえた時もある。
言葉を変えれば、ナチス党はバリバリの敬虔なキリスト教徒によって支えられていたのだ。
その言わば寄生元からの破門絶縁宣言は、打撃などという言葉で表現するには軽すぎた。
もちろん瀬島にはそんな理解はない。
ただ思いついたからやってみた、という程度だった。
教皇の宣言とナチス幹部の演説、そのどちらがドイツ国内でより多くの人の受け入れられるのか、それが問題だった。
が、ナチス幹部の演説を聞く限り、勝負はすでについていた。
内容以上に彼等の狼狽ぶりが目立つものだったからだ。あれを見て、信頼できると感じる者はいないだろう。むしろ本性を曝かれた悪魔の醜態と言った方が適切なぐらいだった。
チャーチルは早速ラジオでこの状況を揶揄し煽った。
「神もヒトラーの仲間にされるのはゴメンだってことだろ。キリスト教の歴史に残る、誰でも愛せよ、の記念すべき最初で最後の貴重な例外だな」
そしてスターリンもチャーチルも同じ事を考えたようだ。
ドイツ軍と対峙する前線部隊に対し、教皇の宣言内容を放送しろ、ビラをまけ、という指示が出された。
ドイツ当局は前線の兵士に伝えられる教皇の宣言を隠滅または改編を画策するはずだからである。
戦闘機が最前線の上空でドイツ語のビラを撒き散らし始めた。いまや爆弾以上の威力があると判定されたのである。
各国の行動がローマ教皇のもとへと知らされた。
当然瀬島もその内容を知ることになる。
これならいける……。
瀬島はアドリア海に待機している赤城に機は熟した、という意味の符丁「お月見の餅は四角」というメッセージを送った。
石原自身もバチカン宣言もナチスの演説も掴み、その状況を把握していたし、ブダペストの住民の反応も見ていた。
ヒトラーとナチスの権威は各所でズタズタになっていた。
そこに赤城によって中継された瀬島のメッセージが届いた。
なるほど。確かに今しかないな……。
石原は納得し、瀬島への返電としてロンドンの黒木に対し作戦発動を意味する符丁「拍子木は二十五本」発出を依頼し、同時にアドリア海で待機を続けている残りの第二陣に直ちに出撃準備に入るように命令した。
その三日後、さらにヒトラーは大きなダメージを被ることになった。
北アフリカからの移動中に行方不明になり、死亡したとみられていたエルヴィン・ロンメル元帥が、ドイツ国民とドイツ軍将兵に告ぐと銘打った演説をロンドンで発表したのである。
内容はもちろん悪魔ヒトラーとナチスへの決別とその打倒を訴えるものであり、第三帝国に代わりドイツ共和国の樹立を宣言したのである。そして可及的速やかに連邦軍との休戦、講和を実現するとしていた。
当時のドイツ国民にとって、ロンメルはあらゆる意味でスターであり、文字通り希望の星だった。
それが行方不明とされたのはドイツ人全員にとって大きな悲報だった。
そのため、乗船した船が行方不明になったと判明した時点で、ヒトラーはロンメルの国葬を発表し、階級も国家元帥に昇進させていたのである。
その死んだはずのスターが突然現れ、ローマ教皇の宣言を支持しヒトラーとナチスに対する反旗を掲げたのである。
これ以上劇的という表現がピッタリくる演出はそうそう無い。
もちろんベルリンからの放送はヒステリックに裏切り者を糾弾する放送一色になっていた。
しかし、その動揺を隠せるものではなかった。
本来ならベルリンで行われた放送内容はドイツ各地からのローカル放送によってリフレインされていくものなのに、ベルリン以外の局がそれを繰り返さなくなっていったのである。
明らかにドイツ国内の統制が揺らいでいた。
そしてドイツ各地のローカル放送がぽつりぽつりと止まっていった。
いや放送だけではなく、ありとあらゆる電波が止まっていったのである。
ドイツ軍の前線部隊にも中央の指令が届かなくなっていた。
いやそもそも連絡がどことも取れないのだ。
組織から切り離された軍は軍としての行動が維持できなくなる。
ドイツ側の情報は入らなくなったが、その代わりに前線部隊の動きがそれぞれに対峙していた連邦軍の方から入るようになった。
東部戦線ではポーランドで、西部戦線ではフランスで、白旗を掲げ投降するドイツ軍の部隊が現れ始めた。
そしてドイツ寄りだったヴィシー政権フランス国が降伏を宣言した。フランスはドゴールが率いる自由フランスに一本化されたのである。
連邦軍はパリ奪還を目指して進軍中だったが、その包囲が完成する前に、パリを守備していたドイツ軍の指揮官がロンメル元帥の指揮下に入る旨を宣言し、パリ防衛を放棄した。
初めてのドイツ共和国軍の誕生である。
ポーランド領内に入り、その中央を南北に流れるビッスワ川を目指していたソ連軍の前でも同じようなことが起こった。
ドイツ軍の一部がドイツ共和国軍と名乗り、それまでの軍旗の鈎十字の部分に大きな×印を描いた旗を掲げたのである。第三帝国の否定とドイツ(ワイマール)共和国への回帰を表していた。そしてその流れは他のドイツ軍にも瞬く間に広がっていったのだ。
そして大勢がロンメルに呼応したドイツ共和国軍に変化するのにそう大した時間はかからなかった。一部では各部隊につけられていた狂信的なナチス党の政治将校が指揮官自らの手により逮捕処刑されていた。
ドイツ軍の軍人を縛り付けていたヒトラーへの忠誠宣誓が教皇によって無効にされたのが大きかったのである。
ソ連軍はビッスワ川をさらに越えて一気にドイツとの国境であるオーデル川まで進出する計画を準備中だったが、これを中止し、占領地の確保を優先することにした。
ソ連軍の前線指揮官にとっても戦争はすぐにでもやめたいというのが本音だったのである。
ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ベルギーも似たような状況になった。
駐屯していたドイツ軍がドイツ共和国軍を名乗ったのである。
ベルリンの総統大本営も陸軍参謀本部もまともに前線部隊と連絡すら取れなくなっていった。
V1号飛行爆弾の発射も止まった。発射部隊が共和国軍になったのである。
先のヒトラー暗殺事件で、多くの貴族出身の将校に簡略な人民裁判によって即刻死刑を言い渡し、あたかも肉屋の肉のように鈎に吊した状態の、階級章を剥奪した軍服姿の死体を公開したことが、プロイセン出身将校の反ナチス機運を大きく助長していたのである。
石原のバルカン半島でも枢軸国組合(仮)の政府が激しく動揺していた。
今までは、日本に武力をつきつけられていたのでしょうがなかったんです、というドイツに対する言い訳が通用する程度の服従だったのが、はっきりとドイツとの離縁を発表し始めたのである。
ハンガリーが先触れとなり、続いてルーマニア、ブルガリア、セルビアがナチスドイツとの決別をそれぞれの国民に発表した。
残りの国もこうなると時間の問題とみてよかった。




