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作戦始動

四式戦闘機の度重なる偵察と威嚇でクロアチア海岸付近、およびアルプス山塊の近辺に強力な敵部隊の存在は確認されず、石原はワニ母艦全艦に対しワニの出撃を命じた。

大型艦がつけられるような水深の深い大きな港が無いことで安心していたのかもしれない。

上陸はアドリア海に突き出たイストラ半島の北と南二カ所で行う。

北の部隊はまずスロベニアのリュブリャナに向かいこれを制圧後ザグレブへ、南の部隊は直接クロアチアの首都ザグレブへ進出する作戦である。

先鋒はコウノトリ隊四機である。一機だけは連絡用に赤城に置いてきた。

もっともこの四機もザグレブまでは着陸はしないで上空から威嚇するだけだ。

そして進撃予定路に敵の待ち伏せが無ければ、先にザグレブへ進出し、そこで下ろした戦車とヒバリで改めてザグレブの動きを封じてしまうのである。

ここでの主役はワニによって運ばれる戦車隊である。

母艦から次々と繰り出される小型艦が一斉に海岸に向かって進んでいくと、早くも戦意を喪失したような白旗が振られるのが見えた。

初めから戦意など無いのである。

石原自身もすぐに上陸部隊に続き、上陸した。

海岸近くまで山脈が迫っている地形のせいで、人が住める場所はもともと少ない。

街道沿いにまばらに住んでいるだけだ。

戦車部隊が隊列を組む姿をちょっと見せるだけで、住民側は抵抗の意思がないことを示した。

地図で見ると険しい山地のようにも見えたが、実際には、それほど高い山はなく日本の風景で言えば中国地方のようなそれほど高く無い山が連なる山地である。そこに細長い農地や牧場があって、それを縫うように細い道が曲がりくねったり上下を繰り返して通されているのである。

築城好きなら防衛陣地の適地にも見えるところだが、野戦一本槍のドイツ軍に、そういう発想は無いだろう。電撃戦での飛行機への過信が生み出した弊害と言ってもいい。

とにかく誰もこの場所を戦場とはしたくないのである。

縦列を作った戦車は沿道の住民に見送られる形でザグレブを目指して進む。

日本軍としても目的は彼等と戦うことではない。友好関係を結ぶためである。

安全を約束し、ドイツ側の軍の位置、官憲の所在を確認していく。

やはりアドリア海沿岸は最初から防衛作戦の対象となっていなかったようで、そういうものはほとんどいないということだった。

上空を赤城から発進した四式戦闘機が哨戒飛行をしている中、二つの部隊は、無事ザグレブに集結し、そこで改めて隊列を整えた。

リュブリャナもザグレブも全く抵抗せずすぐ白旗を掲げ、城門を開いた。

ドイツの内務省からザグレブに派遣されていた行政官的な人物はすでに拘束され、日本側に引き渡された。

後に分かった事だが、彼は秘密警察の責任者だったのである。

ザグレブを越えると、まだ多少は山塊があるものの、ほぼハンガリーの平原の中である。

ドイツからの救援軍も来やすい場所だ。

日本軍は、とりあえずザグレブ東北方面の山塊に防御陣地を張り、平原方向からの敵軍の出現にそなえつつ、その間に、アドリア海沿岸エリアのドイツ軍部隊の探索と殲滅、住民への慰撫を続けた。

一週間ほどかけて、アドリア海沿岸地域、すなわちスロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、アルバニア、モンテネグロ、コソボ、マケドニアは、落ち着いた。

元々この辺りを占領してどうこうしようという気はない。

単なる通過ポイントである。

ここまではこの作戦の準備段階のようなものである。

ここからが本番だった。

各軍は進路をブダペスト西方のドイツへと続く回廊に向けて一斉に北上した。

平原に乗り出せば見通しの利く地形である。三百両近い戦車の移動は砂埃や轟音を撒き散らす。いくら警備がずさんでも、気がつかないわけがない。

ドイツ側はアドリア海沿岸で異変を察知したら、東部戦線の後方から戦力を抽出しハンガリー方面に向かわせるしかない。

そして彼等の常識に従うのなら、その部隊は必ずこの回廊を通るのである。

日本軍の目的は必ず現れるであろうこの増援部隊の待ち伏せ殲滅にあった。

実際に現れたその部隊は、おそらく武力偵察のつもりだったのだろう。そして敵軍について、山岳を踏破してきた部隊ということで、強力な戦車はいないものと勝手に思い込んでいたらしい。

わずか数両の戦車と歩兵、砲兵からなる一個大隊規模の部隊が縦列で街道を南下しているのが、偵察機によって確認された。

日本軍は、街道の左と右に大きく分かれ、山岳を背にし森に潜みドイツ軍の到着を待った。

戦車を森に隠し奇襲をかけるのは、開戦劈頭、ドイツ軍がアルデンヌの森で実施済みの作戦である。それを今は日本軍がやっていた。しかも戦力差は圧倒的に日本軍の方が大きいのである。

真っ正面からぶつかっても勝てるような相手にわざわざ奇襲のような布陣を取らせたのは、日本軍の総戦力を敵にできるだけ長く隠しておきたかったからだ。

戦闘はあっけなかった。

先頭の戦車がまず横からの砲撃で沈黙させられると、部隊の前後それぞれを日本軍戦車が回りこみ、簡単にドイツ軍を包囲してしまったからである。

このドイツ軍部隊は、訓練途上の新兵を集めた部隊だったらしい。兵員のほとんどは、こどものように若かった。命令をこなすのが精一杯でとても実戦で結果を出すことが期待できそうな部隊には見えなかった。

ドイツの人的資源はいまや尽きかかっているのである。

独ソ戦で大消耗戦を行ったせいだ。

その様子から大した情報も持たされていないと判断した指揮官は、尋問などの面倒くさいことはせずに、彼等の武装解除を済ませると、部隊の一部をつけてハンガリーの首都ブダペストへ向かわせることにした。

小規模な日本軍がドイツ兵を捕虜にし、彼等を歩かせながらのんびりとブダペストに接近すると、ブダペストはすぐに城門を開き白旗を掲げた。

ここでもすでにザグレブの話は伝わっていたのか、ドイツの内務省から派遣されていた行政官が引き渡された。

とりあえずは、用も無いので、捕虜と一緒にブダペスト市側に身柄をしばらく預かるように依頼した。

今はドイツ人の扱いよりも優先的に片付けなければならないことが盛り沢山だったからだ。

一部を警戒守備に残しただけでさっさとブダペストを離れルーマニアとの国境へと急いだ。

その目的の一つは、ルーマニア政府に対する牽制である。

バルカン半島の中の国でルーマニアだけは他の国と少々事情が異なる。

ここは歴史的に周囲の強国による境界争いの場だったのだ。

国名から分かる通り、元々ルーマニアはローマ人が植民して作った国が起源だ。

ルーマニアを語る際、地勢としてドナウ川の存在を抜きに語ることは出来ない。

このヨーロッパで二番目の長さを誇る川(因みに一番長いのはボルガ川だ)は、ドイツの南、スイス国境に近いシュバルツバルトに源流があり、そこから東に向かってオーストリアの首都ウィーンを経て、スロバキアとハンガリーの国境に沿って流れた後、ハンガリーの首都ブダペストで方向を南に変え、ハンガリーを東西に分けた後、クロアチアとセルビアの国境を流れ、方向を再び東に変え、セルビアの首都ベオグラードを抜け、次にルーマニアとブルガリアの国境を流れ、ルーマニアの首都ブカレストの南を通過して黒海に流れ込む大河である。

直接ドナウ川が通過していなくても、スロバキアやボスニアヘルツェゴビナ、コソボ、マケドニアなどは皆ドナウ川の支流流域に含まれる。

大陸の川は重要な交通路であり、しかも川沿いにこれだけ多くの大きな町、それも各国の首都が連なった川など他には無い。

古代ローマ人がルーマニアまで出向いたのもこの川があったせい、と言ってもいいだろう。

西側から流れ込む人の流れとは別に、北からはスラブ人が、そして南からはトルコ人が流れ込んだ場所ルーマニアの歴史は、各勢力の抗争の歴史でもある。

多様な血が流れ込み、ルーマニア人という民族が生まれたが、それでも抗争自体は終わらなかった。

近代に入っても、ロシア、トルコ、オーストリア、ハンガリーと目まぐるしく境界が動かされた関係で、常に一部が分断され別の国になっていた。

第二次世界大戦に入る前の状況は、モルドバや黒海沿岸地域をソ連に割譲されたことが独ソ不可侵条約の秘密協定に含まれていたため、第二次世界大戦勃発とともに、ポーランドの東と同じように黒海沿岸地区はソ連となっていた。

これが原因でルーマニア王は追放され王政から共和政に変わっていた。

独ソ戦が開始されると、ルーマニアは枢軸国側に入り、対ソ戦に参戦する。

ルーマニア軍は戦意旺盛だった。

とにかく領土を取り返したいということである。

つまりソ連軍との前線に自らの意思で立っていたのだ。

だからスターリングラード市突入部隊に抜擢もされたのである。

結果的にはそれが悲惨な結末をもたらしたのだが。

ただ戦況は、独ソの前線は、ソ連軍は退却するドイツ軍を追うのが精一杯で、ルーマニアに構っている暇はなかった。そのおかげ手薄な軍事力ではあったが、黒海までの旧領を一応回復できていた。

こういう状況だったので、他のバルカン諸国はドイツに怯えて枢軸国に立っていたが、ルーマニアだけはソ連憎しで枢軸国側にあると見られ、同列には扱えないと判断していたのである。

石原としてはルーマニアを武装解除させるつもりはなく、ソ連がルーマニアに侵入しないようにしたいだけだ。が、これをルーマニア側に分からせるのは難題だった。

ルーマニア軍と交戦するのは愚の骨頂である。戦う理由が無かったし、戦えば事態をより悪化させるだけだった。

それでまずルーマニアに接するところに日の丸をずらっと並べることにしたのである。

ルーマニアが独力でソ連を排除するならそれでいい。が、もしソ連がルーマニアに侵攻するようだったら、日本軍がルーマニアを占領しているように見せかけたい。

そのためには、ルーマニアの背後は全部日本が押さえているという現実を、まずルーマニアに分からせる必要があったからだ。

前にソ連、後ろに日本となったら、ルーマニアはどういう反応を示すか。

その結果に賭けていたのである。

ソ連側から見るとルーマニアはバルカン半島への入り口である。

この入り口をいつでも閉じられるようにすることが重要だった。

これが石原の構想だった。

なので少数の敵の排除や、内政の把握などすべて後回しにしたのである。とにかく今は防御線の確定が最優先だった。

リスクとしては、ソ連軍ではなく、そのソ連軍と対峙しているはずの強力なドイツ軍主力が反転しここに殺到した場合は打つ手がない、ということだった。この点に関してはソ連軍の活躍を期待するしかなかった。

もっとも正面の敵をほっておいて、後方の敵を先に始末しろ、などという指揮官はまずいないはずなのだが。

日本軍はブタペストの東ではハンガリー国境を守るように、国境を越える街道に日の丸を立てていった。

理想的には国境の向こう側にドイツ軍ではなくソ連軍が現れれば作戦終了である。


最初のドイツ軍部隊が全員捕虜となったため、その事実をドイツ軍の統帥部が知るのにはかなり時間がかかったようだ。そして前よりは少しばかり大きくなったような部隊が、四日後に再び回廊へと現れた。が、よほど戦車の台数が足りていないのか、戦車の台数は十両程度で、しかも今となっては旧型に属する四号戦車とチェコ製の小型戦車だった。

山越えをした日本軍などまともな戦車を持っているわけはない、と指揮官が信じている様が目に浮かぶようだな、と報告を聞いた石原は感想を漏らした。

一部をルーマニア方面へ移動させたとはいえ、まだこの回廊部には百八十両ほどの戦力がいた。

そして前回の戦場となった場所を石原はきれいに掃き清めさせ、戦場であった痕跡をすべて隠していた。

その労苦が実り、第二次攻撃隊も第一次攻撃隊と全く同じ運命を辿った。

再び同じように武装解除したドイツ軍捕虜をブダペスト市へ連れて行くと、最初は驚かれ、次に呆れられ、最後に歓待された。

さて、もう一回来るかだな……。

石原が相手の指揮官の立場なら、攻撃隊を二回も派遣して、誰も戻ってこなかったらどうするか。強力な敵がそこにいると断定し、攻撃ではなく防衛線構築を考えるはずだ。

兵法として兵力の逐次投入は、厳に慎むべき、というのがある。

要するにちょろちょろと半端な戦力を垂れ流すのは百害あって一利無しなのである。

あの攻撃隊の規模は、決して小規模とは言えない。おそらくバルカン半島という戦場でみたら立派な戦闘単位であるはずだ。捕虜にした人数、将校の数から察するとおそらく歩兵一個師団の半分か三分の二程度を失った、というところだろう。

彼がこの未帰還を、「壊滅」と判断したのなら、我々日本軍の戦力を少なくともあの三倍以上、と計算するはずだった。ならば、新たに攻勢をかけるとすれば、その戦力はそのさらに三倍、つまり最初の部隊の九倍以上の戦力で攻勢をかけることになるはずなのである。

それだけドイツ軍の戦力に余裕があるかどうか次第だった。

ドイツは東部戦線、西部戦線と二つの戦線への部隊配置を最優先にしなければならない今、まさかのバルカン半島の南部戦線に出撃可能な戦力などないはず、というのが赤坂宮の読みであり、だからこそわざわざアルプスを越え苦労してここまで来たのである。

もしドイツがこの予測から外れていたら……。

もし、そんな攻勢をかけられたら、勝っても負けても、ほとんど残存戦闘力はなくなり、このバルカン作戦は失敗だろうな……。

石原は他人事であるかのように一人呟いた。

四日経ち五日経ってもドイツ軍は現れなかった。

偵察機が一回現れたが、たまたま赤城からやってきていた三機の四式戦闘機が哨戒していた時で、それを見るとすぐ引き返していった。

敵には航空戦力がある、とドイツ側が判断する材料を与えられたのは幸運だった。

航空機動部隊付きの機甲師団となれば、陸上部隊だけでどうにかなる相手ではないことはドイツ軍が一番良く知っているからだ。

手持ち戦力に不安を持つドイツ軍の司令部はオーストリア、今はドイツ本国領だ、の国境近くに強固な防衛戦を作る方を選択するしかないのである。

それから一週間ほどして、ブダペストの近郊に司令部を構えていた石原の元に空母赤城からの連絡機コウノトリがやってきた。ちょっとした空き地があればかなりの不整地であっても簡単に離着陸できるコウノトリは実に便利な機体だった。

遣外軍第二陣がアドリア海に到着したというのである。

わざわざ連絡機を使い無線でのやりとりにしなかったのは、ドイツ軍側に第二陣の存在を掴ませたくなかったからだ。

「さてどうするかな……。彼等にこっちを任せるべきか、それとも温存しておくべきか……。あっちはうまくいっていないのかな……」

一時間ほどかけて頭の中のありとあらゆる情報を精査し整理した石原は、結局第二陣のうち、ほんの一部、つまりコウノトリ部隊十機だけの出動、その他は洋上待機を継続と命令を発出した。

そして回廊部で罠を張っていた部隊に対しても現状を維持しつつ待機と命令した。

第二陣のコウノトリ部隊十機には、まだ制圧が完了していないブルガリア方面の威力侵攻任務が与えられた。

黒木によってもたらされたチャーチル情報で、ブルガリアには少数ながらドイツ軍がいることが確認されていたのである。

ブルガリアからイギリスの友邦ギリシャ王国に侵攻し、エーゲ海に面したエリアを一部占領していたのだ。

が、ドイツとの間のバルカン半島補給路を石原が閉ざした今は孤立部隊である。

もともと山岳地帯の半島先端部への攻略作戦だったので機甲部隊などはいない。

ドイツ軍の機甲部隊は言うまでもなく平原で戦うために作られた軍なのである。

ブルガリア国境を守るブルガリア軍も抵抗する構えを見せてはみたものの、自国の軍隊の主力も東部戦線に駆り出され、また戦意も乏しかった。

山裾に隠れて迎え撃つ形を作っていた。

そこにヒバリが群れを作って上空に現れるとほとんど戦闘らしい戦闘も行われずにカタはついた。山麓の下の方から攻めてくる予想しかしていなかったらしい。

ヒバリはヘリコプターほどの機動性能、たとえばホバリング能力、は無かったが、それでも地上の一点を攻撃するのには十分機動的に動かせた。

高台に設けられた陣地はヒバリにとっては射撃訓練の的でしかなかった。

守備兵が陣地を捨て山を下るとそこに待ち構えているのは五式戦車である。

下手に大軍を送るよりもコウノトリはずっとエコな戦いが出来るのである。

こうして大した戦闘も無くソフィアへと近づいた。

ブルガリアに派遣されているドイツ軍がいるとすればもっとも可能性の高い場所である。

ブルガリアの首都ソフィアはブダペストやブカレストとは違って平原ではなく、アルプス山系の谷間の中に築かれた町だ。防御が固いというよりも大軍で近づくのが難しい場所なのである。

少数の日本軍を殲滅するには都合のいい地形が揃っている、と戦さの常道で考えれば判断できる場所だった。。

日本軍はまず四式戦闘機での航空偵察を行いドイツ軍部隊の布陣を確認した。

伏兵まではもちろん分からないが、それでもそこそこの戦力がソフィア郊外で待ち構えているのが確認された。

戦車部隊こそいないが、歩兵とさらに対空砲を装備した砲兵が存在していたのである。

谷間なので対空砲からすると航空機への狙いをつけやすい。進入路が絞り込まれるからだ。

ギリシャ占領地から部隊を引き揚げ、ここに集結させたものと推察された。

兵の数で言えば日本軍よりもはるかに多い。日本軍は偵察制空用四式戦闘機を除けば、コウノトリが十機だけの戦力なのである。

指揮官は付近の地形と状況を写真でつぶさに観察した。

ソフィアに通じる街道の峠近くで日本軍を待ち伏せするつもりでいたドイツ軍は、自分たちがいつの間にか日本軍から見下ろされる状況になっていることに気がついた時に戦闘が開始されたのである。コウノトリというおかしな兵器システムの存在を知らなかったことが致命的だった。

さらにドイツ軍の運が悪く日本軍の運が良かった、という言い方もできた。

ソフィア郊外の山の上には乳牛を放牧する牧場があったのである。

もちろん山上なので平らになった部分は僅かしかない。

そんな危ない場所にコウノトリで着陸し戦車を下ろしたのだ。

もちろん普通に下から牧場に通じている登山道は戦車など通れるシロモノではなかった。

ドイツ軍は全く火点として予想もしていなかった山上から一方的な砲撃を受ける羽目に陥ったのだ。

邪魔な砲兵隊が戦車砲で壊滅したのを確認すると、延べ三十機ものヒバリが歩兵部隊に襲いかかる。

もともとが降水量の少ない乾燥地帯である。背の高い木はほとんど無く、灌木や草原が主体の場所だ。上から狙われたら歩兵はひとたまりもなかった。散開し、ソフィア市内に逃げこむのが精一杯だった。

その様子を見せつけられたソフィアが町の入り口に白旗を掲げるのにそう時間はかからなかった。

こうしてルーマニア以外のバルカン半島は完全に日本の勢力圏に収まることになった。

さすがに北、西に続いて南のブルガリアとの国境に日の丸を掲げるとルーマニアは動かざるを得なくなった。

ブダペスト郊外に陣を張る石原を訪ね、ルーマニアの代表が講和を申し込んできた。

賭けに勝ったのである。

石原は武力侵攻の意思は無いが、ソ連軍の南下は防ぎたいと説明し、ソ連との国境地帯へと部隊を進めることを認めて欲しいとルーマニア側に要求した。

ソ連の南下防止という話はルーマニアにとっても異存はない。そして日本がソ連の牽制勢力であることは、日露戦争以来ルーマニアでもよく知られていた。

話合いは無事合意に達し、これによって、バルカン半島作戦は目的を達したのである。

コウノトリ隊はブルガリアから戻るとすぐにルーマニアの北方国境へと向かった。

もちろん日の丸を立てるためである。


とりあえずバルカンの制圧はなったと言ってはみたものの、石原の頭には大きな懸念が二つあった。

もちろんドイツ軍の反攻と、ソ連軍に対し日の丸の旗がどれだけ効くかである。

後者については、赤坂宮が手を打つから心配するな、とは言っていたが、それを鵜呑みにはできなかったのである。



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