イタリアとバチカン
ベルリン駐在の大島大使は、いろいろな意味で落胆していた。
宣戦布告によりドイツとは敵味方となった。
早晩在ベルリン日本大使館は閉鎖となる。もう暗号解読が必要な電文も送られてこない。
機材、書類などドイツ当局に押さえられそうなものは焼却廃却処分を急がせていた。
が、何故かドイツ当局の動きは鈍く、一向にその姿を現さなかった。
一応、簡単な大使館接収のスケジュールは示されてはいたのだが、こういうことは、東京のドイツ大使館の接収と時期をリンクさせるのが外交上の慣例であり、しかもそれぞれの国にいる「敵国人の民間人」に対する適切な処置を大使館よりも先に進める必要があったので、公館の閉鎖は順番的にはかなり遅くなるのである。
東部戦線、西部戦線とは対称的に、ベルリンはむしろ静かだったぐらいだ。
が、この年はドイツ本国内でも実は戦闘は相当増えていた。
東部戦線で陸軍が数でソ連に圧倒されるようになっていたのと同様、ドイツの上空にまでイギリス空軍が進出するようになっていたためだ。単純に数で押されていたのである。
だからその数を補うためにジェット戦闘機の導入を急いだわけだが、東部戦線で数の劣勢を質では補えないとなったのと同様に、ドイツへの空爆は止められなくなっていた。
ドイツ空軍は常に陸軍の戦略の中で起用される戦術空軍で、陸軍抜きで戦略空軍らしく戦うと成果らしい成果を全く挙げられなかったのである。
一対一の決闘は熱心に研究するが、どうやって敵部隊を殲滅するかという研究は全くできていなかった。
戦闘機の戦いもいつまで立っても格闘戦が主流という状態から抜けきれなかったのである。
つまり個人の技量を誇るような、織田信長以外の戦国大名の戦さのやり方と同じだ。
複数の武装を組み合わせて最大限の打撃を作り出すものを作戦として立案しなければならないのに、いつの間にか敵味方が同じ兵器を使う場しか戦場とみなくなってしまっていたのである。
兵器自体を評価するために、敵味方の兵器の比較ばかりやっていれば意識としてこうなるのは当たり前だが、作戦としては下策中の下策なのである。
なので、飛行機の性能が敵に対し飛躍的に上がっても、それを上手に活かした戦いにはならなかった。
結局は数のバランスが取れていない作戦になり、まともな防衛結果は出せないのである。
が、そういう作戦の意識だけが問題では無かった。
というよりもこの意識が変わらなかったのは、その背後にもっと大きな問題があったからなのである。
それは戦略というものをどのように扱うかということだった。
イギリスには急降下爆撃信仰などもちろんなく、ごく当たり前に爆弾の搭載量がずばぬけて大きい優秀な大型の戦略爆撃機ランカスターがあった。名機ロールスロイスマーリンエンジンを四機使っただけあって、速度も十分速く、防御は固く、武装も強力で、しかも作戦に必要な十分な数を揃えていた。こんなものをイギリスが持っているのは偶然ではない。
戦車開発と戦闘機開発を遅らせ、爆撃機開発と生産に資源を集中させた結果でもある。
数だけでは無く、イギリスはこの爆撃機の運用においてもこれを最大限に活用する手段を入念に探っていた。
ドイツに対し優っていたレーダー技術を活かし爆撃目標地点への誘導を精密な電波位置測定式航法制御だけで可能にしていた。
これを利用し迎撃されやすい昼間の作戦は避け、夜間爆撃だけに集中したのである。
地上からの迎撃レーダーで爆撃機の捕捉はできても迎撃戦闘機そのものにはまだレーダーが装備されていない時代だ。
結局は戦闘機のパイロットの視覚が頼りの攻撃なので、パイロットが目視できなければ迎撃などできないのである。
ドイツはイギリスの夜間爆撃を阻止できなかった。
このようにイギリスはまず勝つための戦略を策定し、それに必要な技術、武装に資源を集中し、戦略に必要な数をちゃんと揃えていたのである。各行動の狙いや目的が明確だった。
戦略の根幹に絡まない足りなかった部分、すなわち戦車と戦闘機は日本他の国に頼ったわけだ。
一方、ドイツのジェット戦闘機ME262はチャーチルも警戒するほどの性能を持つものだったが、運用構想がはっきりしないまま開発されていた。
そのため、いよいよ実戦投入となった段階になって、ME262の作戦における位置づけと装備内容が合っていないことをヒトラーに指摘され、当時の状況では迎撃戦闘機が一番必要とされていたにもかかわらず、爆撃機への転用を命じられることになったのである。その結果生産量はいよいよ少なくなり、何をやろうとしても数が足りないという問題から逃れられなくなったのである。
つまりドイツ空軍ではあれもこれもと幅広く開発してはいたが、どうやって戦争に勝つかという戦略研究自体は全く杜撰だったのである。
このためドイツの生産設備は夜ごと爆撃で確実に破壊されるということになったのである。
連邦軍がノルマンディ上陸を果たし西部戦線を作ると、ドイツ本国への夜間爆撃は中止された。
連邦軍航空戦力は上陸部隊の支援を中心に動くことになったからである。ベルリンが平穏になったのはこれが理由だった。
大島たちは、まるで無視されたかのように放置されていた。
が、そういう事情とは違う事情も実はあった。
全く外部には公表されていなかったが、ナチス幹部、軍首脳、政府高官は大揺れに揺れていたのである。
七月二十日、東プロイセンにある総統大本営「狼の巣」でヒトラーが暗殺されかかったのだ。
作戦室の会議中、机の真下でカバン型爆弾が爆発したのである。
側近数名が死亡し、重症者も出た。ヒトラー自身も軽傷を負った。
それは机の真下に仕掛けられた爆弾が破裂した際、天板の上に拡げられた地図の遠い部分を見るため、ヒトラー自身が身体をほとんど天板の上に載せていたために爆風の直撃を受けなかったことによる。
奇跡と言ってもいい偶然である。
このため、事件直後でもヒトラーの意識はあり、指揮系統は混乱はしたが、途切れなかったのである。
この時、イタリアのムッソリーニがヒトラーを訪問中だった。
ヒトラーは暗殺事件の現場にムッソリーニを自ら案内し、自分の運の強さを誇った。
この暗殺事件は単独で企画されたものではなく、プロイセン貴族の士官グループのクーデター計画と和平工作に連動したものだった。
そして初動の段階で活動家グループは致命的なミスを犯した。
ヒトラーの生死を完全に確認しないまま、その計画を発動してしまったのである。
この結果貴族士官を中心に七千人以上が逮捕され、数百人以上が自決または人民裁判によって処刑されることになったのである。
そしてそのリストの中にはあのロンメルも含まれていた。
ロンメル自身はまったくこの計画とは無関係の存在だった。が、クーデター計画の中でヒトラー亡き後、国家元首としてかつがれる計画になっていたことが秘密警察ゲシュタポに掴まれていたからである。
イギリスに拉致されていなければ、ロンメルは確実に自決を強要されていたのだ。
このような状態だったので東西両戦線では、いつも通りの戦争をやっていたが、ベルリンほかドイツ国内各地で、大規模な反ヒトラー派狩りが行われている真っ最中だったのである。
もちろん実行犯だった、クラウスフォンシュタウフェンベルク大佐は、うまく現場からは逃亡していたが、犯行の翌日にはあの世に旅立つことになっていた。
結果日本大使館のことにかまっていられなかったのである。
連邦軍各軍および前線で戦うドイツ軍兵士がこの事態を知るのはかなり時間が経ってからである。
その頃、連邦軍側は全く別のことに驚かされていた。
ドイツがV一号と呼ぶ、飛行爆弾を実戦投入してきたのである。
ドイツ語のフェアゲルトゥングスヴァッフェVergeltungswaffe 報復兵器という言葉の頭字のVとしてゲッベルスがV一号と紹介したので以後この名前が定着した。正式名称はフィーゼラーFi一〇三飛行爆弾というものだった。
何の報復かと言えば、イギリス空軍の「戦略爆撃」に対する報復である。これがまともな戦略爆撃機を持たないドイツの答えというわけだった。
世界初の巡航ミサイルとも言える。
従って目の前の上陸した連邦軍部隊だけでなく、遠くロンドンまでも射程に入っていた。
パルスジェットという低速の推進機関で動いていた。
これはジェットエンジンという名はついているが、ジェットエンジンと言うよりもレシプロエンジンの動作原理に近い。つまりずっと燃焼し続けるのではなく、着火と消火を繰り返し、往復運動をするピストンを無くして、ピストンを押す力をそのまま推進力に変えたようなシステムだからである。
吸入部の開閉バルブと燃焼室を直線上にレイアウトできるし、またバルブの駆動は燃焼の衝撃波に頼っているのでレシプロエンジンよりもむしろ構造ははるかに単純で部品も少ない。
さらに着火ー消火を繰り返すために温度上昇も少ないので長時間動かしてもトラブルが発生しにくいなどの利点があった。要するに作るのは簡単だし、コストも安く、燃費も良く、射程も長距離にできると、大量配備にはもってこいだったのである。
欠点は、発射時にカタパルトから射出しないとエンジンが作動しないという特性があるためカタパルトを備えた発射設備が必要なこと、そして間欠噴射となるので、ジェットエンジンという名の割には速度が出ず、プロペラ機並みの速度しか出せなかったことである。
イギリスからすると、レーダーで捉え、戦闘機で迎撃するのは難しくなかった。が、数が多いのですべてを落とすのは困難だったし、海上で落とすか空中で爆発させられないと結局は地上で爆発するのだから厄介だったのである。
GPSなどという技術が無かった時代である。
照準は発射時に行うエンジン噴射時間の調整と発射方向だけに頼る、あってないような極めて大雑把なものだった。
従ってドイツ軍が絶対いない所にだけ発射可能な無差別攻撃専用兵器だった。
因みに市民と軍人軍属を区別しない無差別爆撃が始まったのは第二次世界大戦であることは間違い無いが、英独どちらが先に行ったのかという点については誤爆だったものとの識別がつかず断定はできない。とにかく無差別爆撃は一九四四年の時点では当たり前になっていたのである。
ノルマンディ上陸を果たしたイギリス、フランス、ブラックアメリカ軍は当面、パリ解放を目指していた。
ドイツ軍は海岸防備を早々に断念し、パリ防衛に戦力を集中させ、この都市の攻防戦を決戦にする構えを取った。
イタリアのシチリア島に上陸したブラックアメリカとメキシコの連合軍は大規模な抵抗にはほとんど合わず、順調にイタリア半島を北上しローマを目指していた。
ヒトラーはイタリアとはさすがに対等の同盟という関係を結んだだけあって、ドイツ軍にイタリア防衛任務を与えて駐留などさせていない。連邦軍の上陸が近いとなってから、いろいろな理由をかこつけてイタリア領内に部隊を進駐させたりもしたが、その数は少なく、ほとんど障害にはならなかった。
しかもイタリア政府にはもはや戦意は無かった。
イタリアはムッソリーニが政権を取り、ヒトラーよりも早く独裁体制を作ったと言っても、ヒトラーのように政権奪取後華々しい内政や外交面での実績を上げたというわけではない。
そもそも景気が悪く社会不安が続いていたからファシスト党が政権奪取できたのだが、経済を活性化できる特別な打開策があったわけではなかったのだ。単に不満票が集中していただけなのである。
なので当初のファシスト党への熱狂的な支持が雲散霧消するのも早かった。
結局、ムッソリーニは政権を手放さざるを得ず、これまた行政手腕に乏しいパドリオ元帥が首相となったのだが、そんな状態で第二次世界大戦に突入したものだから、経済は疲弊する一方だったのである。
そしてヒトラーに同盟国としての義務を果たせと迫られ、遠くスターリングラードに大軍を派遣してみれば誰も戻ってこないという状態になっていた。
それで国民の不満に対する生贄としてムッソリーニは逮捕幽閉された。
が、そんな状態になってもなおヒトラーはムッソリーニに利用価値を認めていた。
密かに幽閉されていたムッソリーニの身柄を押さえ、後に北イタリアに共和国を作らせることになるのである。
そんなところで、連邦軍がシチリア島に上陸したのである。
まともに応戦などできる状況ではないというのは誰にでも分かる。
パドリオはあっさりと降伏する。
ムッソリーニはドイツに操られる人形として北イタリアへと移り、なお抗戦を続けていたがそんなものに乗るイタリア人はいなかった。
イタリアは、ヨーロッパの中で、いい意味でも悪い意味でも現代的であり都会的なのである。
ヨーロッパ全体を支配したローマ帝国を支えたローマ市民の末裔である。
またその高度に複雑化した政体を形作ったことでも分かる通り、もともとは政治を理念とか理想ではなく、現実世界を統べる技術と理解する国民だ。
しかも世界中の冨が長い間集積され続けてきた場所である。豊かさ、富というものをどこの国民よりも詳しく知っていた。
カプトゥムンディ、世界の首都、それがローマである。
今でも欧州域に住む人間にとっては、歴史の原点と言っていい場所だ。このため欧州域に住む人間にとって必ず一度は訪れなければならない観光地でもある。
ローマは人種に寛容な場所でもある。ローマがギリシャと違って都市国家に留まらず、世界帝国へと発展したのもこれが理由だ。ローマに好意的な辺境の部族長や貴族には積極的にローマ市民権をあたえたからだ。北アフリカの黒人部族の王国とも二千年前にすでにつきあいがあり、そのためローマには黒人の貴族もいたのだ。
そういう意味でもローマ人は本来はコスモポリタンだったのである。
その後、帝政に変わったローマが一神教、つまり他の神の存在を一切認めないという恐ろしく狭量なキリスト教を国教としたところから、いろいろと怪しくなり、ローマ帝国はついに崩壊へと向かうことになる。
そんな場所なので、ありとあらゆるものが洗練されている反面、人間の技を尊ぶ個性尊重指向が強すぎて集団的な作業にはあまり向かない国民性でもあった。大規模な大量生産を行う、人間を機械のように働かせる工場など、イタリア人気質には全く馴染まない。
国家社会主義と肌が合うハズが無かった。
剣闘士のような英雄は大好きだが、軍人などという組織への忠誠心を売り物にする商売への関心は薄い。
賞金稼ぎの豚の方が軍人よりもマシとのたまった輩もいたらしい。
ムッソリーニのファシスト党が台頭できたのも、その時は、大恐慌という非常事態の中の状況がムッソリーニの主張にうまいこと嵌まっていたから、という面が大きかっただけだったのである。
そもそもイタリア人は、大言壮語と響くようなキャッチフレーズやイデオロギーでは動かない。
実利から目を離さないのである。
この場合の実利というのは、必ずしも金というわけではない。
人間は何をするために生きているのか、という質問に対する答えに相当する利益である。
端的に言ってしまえば衣食住につながっているかどうかだ。
おいしいもの、美しいもの、快適にしてくれるもの、そういうものに目がないのだ。
女を口説き落とすのがうまいのはイタリア人、女に手を出すのが一番早いのはイタリア人、など女を扱う技術の高さにまつわる欧州の常識の起源もおそらくこの辺に理由がある。
この点、ローマ帝国の辺境の植民地として開拓された都市から発展したドイツ、イギリス、フランスなどとは大きく事情が異なる。
特にゲルマン気質を強く残した田舎者のドイツ人は、実利よりも理念、大義名分に踊らされやすい。
もともと都会のローマのような冨とは無縁だったから、多くを望まないという面もある。質実剛健というわけだ。
この両国の国民の気質の差が、ファシスト党とナチス党の命運を分けた。
ファシスト党は政権担当した途端没落し、ナチス党は与党として政権を担った後も、得票率の新記録を更新してゆき最終的には独裁者を登場させたのである。
イタリアはこのような状況だったので連邦軍のローマ奪取後は、どちらかと言えば、侵攻というよりも残党狩り、もしくは掃討作戦という色彩が強くなった。つまりムッソリーニと戦うのはメキシコ軍やブラックアメリカ軍では無く、実質的にはイタリア軍だったのである。住民に見放された政権の末路、そのものだった。
このためイタリアは大きな破壊を被ることなく、作戦開始後僅か一ヶ月で連邦軍に下ったのである。
ただ、それでメデタシメデタシとなるとはとても期待はできなかった。ムッソリーニ憎しで固まっただけで降伏したイタリア政府に今後の国作りに向けたリーダーシップの存在などどこにも無かったからである。放置すれば第二、第三のムッソリーニの台頭を許しかねなかった。
こういう状況を最初から見越していた男が一人いた。それも日本に。
瀬島はイタリア侵攻に加わったブラックアメリカ軍にこっそり参加していた。
と言っても全軍の指揮には全く関与していない。作戦立案段階ではブラックアメリカ軍指揮官にいろいろとアドバイスをしたが、それ以上のことはしていなかった。彼の立場はここでもやはり五井物産社員でブラックアメリカ政府に委託された軍事顧問ということになっていた。
しかし本当は彼こそイタリア方面軍の司令官であった。もっともこのことはブラックアメリカ軍のほとんどの兵士が知らない。
ブラックアメリカ軍の志気は高かった。もともと人種問題に敏感な者が集まった国となったため、兵士一人一人がナチスを自分たちの敵認定していたからである。
瀬島がやったことは、ドイツ、ナチスとイタリアを一緒にしてやりすぎるなよ、とアドバイスする程度に過ぎなかった。
瀬島が自ら戦場となるイタリアにやってきた真の目的は、戦闘に勝つためではない。イタリアとバチカンを支配するためである。
ナチスに擁立されたムッソリーニの北イタリア共和国への対応は、部下のブラックアメリカ軍の将軍、元メキシコ軍の将軍に元アメリカ軍の参謀をつけた、に任せることにした。
瀬島は自ら指揮するブラックアメリカ軍一個師団だけを率いて、ローマ市全域を占領した。
そしてそのまま部隊にローマの治安維持任務を与えた。
ローマに住んでいる者にとって、今ローマで一番権力を持った存在と認識される地位に瀬島はついたことになる。
なぜ、瀬島にわざわざこんな面倒事が多そうな仕事が回ったのか。
赤坂宮の指示だった。
が、瀬島はその理由を知らない。
赤坂宮はローマを日本における京都に該当する都市と認定していたのである。
イタリア自体の国力や政治力は脅威とは考えていなかったが、世界全体に広く信者を抱えるキリスト教の本拠地であるという意味は大きいと見ていたのだ。そしてそれがあるローマは、ヨーロッパ全体の原点とも言える場所である。
ブラックアメリカ軍とメキシコ軍がイタリア侵攻を担うことが決まったわけだが、不都合なことが一つあった。
それはカソリックであるかどうかはともかく、両軍の兵員はキリスト教徒が多いということである。そしてイタリアにはキリスト教徒にとっての権威の象徴、バチカンがあった。カソリックだらけのメキシコ軍は論外、ブラックアメリカ軍の指揮官でも教皇を動かすのはうまくいかないだろうと、判断したのである。
昭和四年(一九二九年)にローマ市の一角にあるバチカンはイタリアから独立した独立国家となった。
独立と言えば聞こえはいいが、要するにイタリアの主権が及ばない、治外法権地域になった、と言った方が実態に近い。
赤坂宮のイメージで言えば、バチカンのサンピエトロ寺院は、天皇の権威すらも受け付けなかった比叡山延暦寺の姿とだぶっていた。
ローマ、イタリア、そしてヨーロッパ全域を完全に押さえるためには、バチカンを完全に押さえたことを世界に示すことが絶対に必要と判断していた。
真っ先に思い描いたその完成形は、教皇の頭蓋骨をうるしと金箔で飾った特製どくろ杯を世界に公表することで教皇の権威そのものを全否定するというものである。
しかしバチカンの処理は比叡山よりもはるかに難しかった。
カソリックではないとはいえ、イギリスもキリスト教国であることには違いない。
一方、日本はキリスト教国ではない。
その事実に世界の目を向けさせることは得策では無い。
民衆に嫌われイギリスまで敵に回しかねないようなら、この策は逆効果だと考え直したのである。
敵将のどくろを使って作るどくろ杯で、相手の権威を踏みにじるのは効果としては素晴らしいとは分かっていたが、日本人がキリスト教徒でないのはまずかった。
異教徒からのキリスト教への迫害に見えてしまうからである。
三百五十年前、新年を祝う宴の際、配下たちに朝倉義景と浅井長政のどくろ杯で祝杯を挙げさせたのである。
部下たちは皆、当惑はしていたが、結局は信長の命令通りに従った。
彼等はその意図が分からなかったが、信長からすれば、これは絶対に必要だった。
こんなことをした理由は、死後の世界やら、仏の説く説法など信長には通用しないと分からせるためである。
主、信長の意向が宗教の言い分を越えすべてに優先される、これぞ天下布武の中身である。
なので安土城の中央に聳えたやぐらは天守閣ではなく天主閣なのである。
どくろの杯による祝杯は、これを配下に叩き込むためだった。
比叡山の唱える仏敵を滅せよ、に対抗するには、仏敵を決めるのはお前らではない、ということを実力で示す必要があった。
そこで、まず必ずしも仏教を排する考えを信長が持っているわけでは無いことを示すため、信長への服従を誓う寺社を厚く保護した。
そしてその上で、逆らう寺社には容赦なく武力を振るうことを天下に見せつける必要があったのである。
そのためには何よりも配下武将の心中にある、死後世界への恐れを滅しておく必要があった。比叡山ほかの勢力はここにつけ込んでくるのが常套手段だったからだ。
つまりこの後予定されていた比叡山焼き討ちを成功させるには配下たちにその免疫をつけさせておく必要があったのである。
それがどくろ杯での祝宴を催す理由だった。
ちなみに敵将の頭蓋骨でどくろを作る発想は古来から世界中にあり、信長が創始者であるとは言えない。
似たようなことを考えるのははるか古代から普通に世界中にいたのである。
現代から見れば奇異に映っても、時代を遡ればそれほどおかしくない発想だった。
とにかく目立たない形での教皇の排除が必要となった。
そういう目的に照らした場合、どっちにしてもブラックアメリカ軍の将軍は信用できなかった。
これは比叡山延暦寺を焼き討ちした直後、軍を引き連れ京都に乗り込んだ信長としての経験から出た思考である。
この比叡山焼き討ちの威力は絶大であった。
京都界隈で勢力争いを繰り返していた僧兵を持つ無数の寺社勢力は信長が京都に接近しただけで逃げるか服従を誓うことになったのである。
結果信長の畿内平定を邪魔している宗教勢力は石山本願寺だけに集約された。
比叡山延暦寺のような存在が首都の中にある国、それがイタリアだったのである。
教皇を敵視し、ローマとイタリアの統治に赤坂宮がこれだけ注意を払ったのには理由があった。
確か光秀だったと思うが、京都の治安を上手に回復させられるかどうかで織田の将来が決まる、というようなことを言っていたのを思い出したからだ。
京都の治安維持の最大の障害は、僧兵とそれをバックにした寺社勢力の収奪である。
寺社勢力は数が多く、一つ一つを個別に潰していくのは手間が掛かった。
だから総元締めを叩くことにしたのである。
もっとも光秀の発言が結果的に比叡山焼き討ちに繋がったことは、光秀本人には最後まで理解できていなかったようだったが。
とにかくこの発言を思い出したことでローマ、いやイタリアはあの時の京都と同じなのではないかと考えたのである。
実際僧兵がいたわけではないが、バチカンによるイタリアでの収奪ははるかに大規模にあった。
だからその隠れ蓑対策が必要となり、独立国となったのである。
イタリアで国家社会主義が生まれたのも、遠因をさぐればそこに辿り着く。
それがなくても、日本全土平定を目指す時、京都での治政にケチが付いてはならなかったように、欧州全域平定にとって、バチカンが好き勝手に振る舞うような事態になるのはまずいのである。
キリスト教がどれだけ世界に影響を持っているのか、という点についてはよく分かっていた。
なにしろ三百五十年前に遠く離れた日本にまでルイスフロイスを送ってきたぐらいだ。
そのルイスフロイスが仕えた組織はスポンサーこそスペイン王だったがトップは教皇、とルイスフロイス本人が説明していたのである。
ということは三百五十年前から教皇は各国の王をあごでこき使っていたことになる。
さらにルイスフロイスからは、教皇の命によって欧州各国から集められた十字軍という名の大軍が遠い敵地にまで何度も送りこまれ故地回復を図ったのだが、そのほとんどが無事に戻らなかった事件のことも聞かされていた。
帰還者がほとんど残らない戦争などというものは信長の記憶には無かっただけにフロイスの話は深く鮮明に記憶に残ったのである。
そんな事件を引き起こせる存在は、もちろん非キリスト教国である日本から見れば危険極まりない存在ということになる。
放置していいわけがない、というのが赤坂宮の判断だった。
それで瀬島をこの目的のためだけにローマに派遣することにしたのだ。
日本の存在を公には表に出さぬまま、イタリア国民の大勢の意を汲み取りつつ、暴走もさせず、日本にとって都合のいい国家へと改造する。
こんな仕事を任せられそうなのは現状瀬島ぐらいしか思いつかなかったからである。
イタリアは占領するよりも治めることが難しい場所だったのだ。




