スターリングラード攻防戦
欧州ではいよいよ西部戦線を作る動きが本格化した。
チャーチルが上陸作戦にゴーを出したのである。
イギリス海軍は総力を挙げて、動かせる艦艇を大ブリテン島周辺に集結させつつあった。
当初からの予想通り、ドイツはイギリス海軍には損害らしい損害をほとんど与えられなかったのである。ビスマルクの砲撃、本拠地スカパフロー泊地に突入してきたUボート攻撃、まともな海軍同士の戦いで損害を受けたのはこれぐらいだ。
ドイツの海軍の基地は本国のキール軍港とフランスのブレスト港だったが、ここはどちらもイギリス空軍の作戦行動域に入っていたのである。無論空軍に守られてはいたが、それは完璧なものではなかっった。
結局大戦初期に陽動作戦として出撃したポケット戦艦や武装商船、そしてUボートを除けば、ドイツ空軍が援護できるエリアの外側にはほとんど出られなかったのである。
対するイギリス海軍の本拠地、スカパフロー泊地は大ブリテン島のさらに北、オークニー諸島の中の内海に設けられた海軍基地であり、ドイツ空軍の作戦行動範囲の外側になっていた。
第一次世界大戦で負けた時、ドイツ海軍の艦船は、このスカパフロー泊地に集められ、イギリス海軍に接収されることになった。この時、ドイツ軍はそれを屈辱として拒み、イギリス海軍の目を盗んで全艦自沈を図った事件があり、ドイツ国民には広く知られた癪に障る地名となっていたのだったが、結局ほとんど手を出せなかったのである。
因みにこのスカパフローに地勢が似ているということで、日本海軍はその本拠地を呉ー江田島に決めたらしい。要するに陸からも海からも攻撃が難しい内海にある良港ということだ。
従ってイギリス側はドイツ軍があれだけ空襲をかけたにも関わらず、艦艇をほとんど失っていなかった。ドイツ軍機の航続距離が短いことで助かったのである。
従ってチャーチルの西部戦線準備の中身というのは、大陸に上陸してから戦う陸軍を整えること、がほとんど全てであった。
ドイツ軍ももちろんイギリスの動きをよく掴んでいた。が、赤坂宮の予言通り西部戦線のドイツ軍はいまやスカスカであり、しかも広大となった占領地の長い海岸線に鉄壁の防壁を作ることなど不可能になっていた。
従って上陸地点の予測ができてもまともな防衛体制の構築は出来なかったのである。
ヒトラーは都合が悪い情報に接するとすべて現場の責任放棄だとわめき始めるようになった。
戦略が破綻していたことはもはや陸軍参謀本部以外の一般軍人の目にも明らかになってきた。
一方東部戦線では、前年の昭和一八年(一九四三年)後半にはソ連軍の優勢が顕著になっていた。そのターニングポイントになった戦闘と言えるのがスターリングラード攻防戦である。
これによってドイツ軍および枢軸国軍の八十五万、ソ連軍百二十万が戦死したと言われ、しかも最終的に降伏しソ連軍捕虜となったドイツ兵は十万人以上元々居たはずだったが、凍死と餓死によりドイツに無事帰国できた者はほとんどいない。さらに、元々のスターリングラード市民六十万人の中で最終的に生存が確認できたのは一万人を切るほど悲惨なものだった。
最初は三十万足らずのドイツ軍を二十万足らずのソ連軍が迎え撃つという形でスタートした戦いだったが、独ソ戦名物の大消耗戦が始まった結果、ソ連軍が反転攻勢をしかけた時点での交戦戦力は、ソ連軍が百七十万、ドイツ軍と枢軸国軍の合計が百十万まで増えていた。
ただでさえ逼迫していたドイツ側の戦争資源不足はこの戦いによって回復不能というレベルにまで落ち込んだと言ってもいい。そしてドイツ陸軍イコール電撃戦のイメージからすると大いに意外なのは、ドイツ軍がこのスターリングラード攻防戦で使った戦車は千五百両だけなのである。
これはスターリングラード攻防戦が始まる少し前、中部戦線でハリコフ攻防戦が行われ、後にクルスク大戦車戦と呼ばれる両軍の機甲部隊主力同士の直接対決があったことも大きく響いている。こちらに投入され、消費された戦車は、ソ連軍が五千両以上、ドイツ軍も四千両弱あったと言われ、機甲部隊は両軍ともそちらに奪われていたのだ。
何にしても南部のスターリングラード攻防戦でソ連軍を圧倒できるほどの戦車戦力を整える力はこの時点でドイツには失われていた。
大まかな流れを記す。
ウクライナをドイツ軍が突破し、カスピ海油田地帯に襲いかかるとした場合、その侵攻路の北の端に位置するところにボルガ川が流れている。そのボルガ川ははるか北方から流れ、モスクワ方面から東南方向に向かって流れてくるドン川と合流し、向きを九十度東に変えてカスピ海に流れ込んでいる。
このドン川との合流点でありかつ大きく曲がる場所に作られた町こそスターリングラード(現ボルゴグラード)である。
ボルガ川は昔からロシアの母なる大河とも言われるように、その川沿いにはロシアの古都が並んでいる。工業都市も多く、スターリングラードではソ連軍の戦車が生産されていた。また、スターリンのいる臨時首都クイビシェフもこのボルガ川を遡った場所にある。
もしソ連に絶対防衛圏という概念があったとすれば、このボルガ川沿いは間違い無くそういう呼び方をされて当然の場所だったのである。
それでソ連軍はドイツ軍に対し敗退を続けながらも、このボルガ川に沿うような形で戦力の集積を図っていったのだ。
一方、ヒトラーは油田地帯が近づくにつれ、各地から引き抜いた増援戦力を南部方面に集中させ、油田確保を急がせたのである。
攻勢をかける側と防衛する側で重視していた場所が違っていた。
これがこの戦さの勝敗を分けたのである。
攻めかかるドイツ南部方面軍には、ドイツ軍以外にヒトラーのお声掛かりで、ルーマニア軍、ハンガリー軍、イタリア軍、クロアチア軍などあわせて三十万も招集されていた。
ドイツ南部方面軍はウクライナを抜けスターリングラードに至るまではドン川と黒海に挟まれた回廊を進むように侵攻してきた。
ヒトラーはスターリンの名を冠したこの都市の占領に一定のこだわりがあったらしい。
スターリングラードの位置はL字に防衛線をひいたソ連軍の突出部に辺り、目立っていた、ということもあっただろう。
が、スターリングラードの突出部こそドイツ軍進撃路から見ると目障りだが、それ以外の防衛線は、カスピ海への進路からはむしろ遠ざかっていた。
こういう状況で、いわばスターリングラードだけを、防衛線から切り取るような攻撃を仕掛けることになったのである。
周囲まですべて占領する、あるいは防衛線そのものを完膚なきまでに破壊する、という意思がドイツ側になかったことがまず大きな失敗の元だった。しかも失敗はこれだけに留まらなかった。
スターリングラードはドイツ軍中でも特に精鋭揃いの第六軍によって攻撃された。
こういう場合の常套手段、攻撃を一点に集中させ、そこから突入しさらに突入路を拡げていく作戦はうまく機能し、第六軍は次々にスターリングラード市内へ中心へと進撃した。
そしてその後方側面をルーマニア軍が固めた。
このスターリングラード突入部隊の編成はおかしかった。先鋒となったドイツ軍の強さは折り紙つきだったが、後詰めは装備の劣るルーマニア軍だったからである。
もっとも敵からの攻撃の集中しやすい消耗の激しい最前線に最強を配置し、補給路の防備に最弱を配置させたのはヒトラーだった。
ソ連軍もしかし冷静にドイツ軍の動きを読み、まともに作戦を立てて防衛に回ったとも言いがたかった。このスターリングラード攻防戦については、最初から最後までドイツ側の独り相撲の結果、ソ連側に勝利が転がり込んだ、という表現の方が適切なのである。
ボルガ川岸制圧にドイツ軍が本格的に乗り出していたら、こんな展開にはならなかっただろうが、ドイツ軍はそれをやらなかったのである。
ドイツ軍は第六軍がスターリングラード突入を成功させたと見るやボルガ川北岸に防衛線を築いたソ連軍を放置したまま、他の部隊をボルガ川南岸地帯、つまり黒海とカスピ海の間ジョージア方面へ侵攻させていたのである。
ドイツ陸軍参謀本部からすればボルガ北岸にソ連軍を残したまま南進するのは危険だと判断していたが、一刻も早く油田を確保したいヒトラーは参謀本部の意見を聞く耳を持たなかったのだ。
ソ連側の目線からすると、スターリングラードにクサビをガッツリと打ち込まれたものの、そのクサビを打ち込んだハンマーは南の方に行っちまった、という状態になったのだ。当然、直角に曲がったボルガ川の北方向、東方向には、無傷のソ連軍がいたので、そのままとにかくスターリングラードのドイツ軍を叩けと命令したのである。
当然、その圧力は、第六軍ではなく、補給路の側面を守備していたルーマニア軍が受け止めることになる。
それほど戦力を集めた攻撃でも無かったはずなのに、北と東から挟撃される形となったルーマニア軍は簡単に防御を突破され蹂躙されてしまうのである。
結果、そういう意図が初めからあったかどうかは怪しいが、ソ連軍はドイツ第六軍を包囲してしまったのである。
包囲殲滅は東部戦線では珍しくもなんともなかったが、このスターリングラードの戦いはそれがれっきとした市街地で起こったことが他とは大きく違った点となった。
まだゲリラ戦という言葉も概念も生まれていなかったが、装備の劣るソ連軍がドイツ第六軍に仕掛けた戦いは文字通り都市ゲリラ戦だったのである。
つまりソ連側の攻撃はナイフや小銃に頼り、姿を隠し闇にまぎれて二十四時間休み無く攻撃をしかけるというものだったのである。
武装ではドイツ軍が優っていたが、この一種の人海戦術の効果は大きかった。
都市の夜の暗闇にまぎれた暗殺者が兵士を一人また一人と倒していくという、戦争らしからぬ戦争になり、ドイツ兵はまともに食事を取ることも寝ることもできなくなったからだ。
ヒトラーは第六軍への補給を空輸で行うようにゲーリングに命じる一方、第六軍に対しては死守せよ、と徹底抗戦を指示していた。
しかしスターリングラードへ向かう救援軍などは全く用意できる状況にはすでに無かったのである。
ドイツ南部方面軍がカスピ海西岸バクーを狙い広汎な土地に戦線を拡大しきった所で、はるか北方、スターリングラードの北のボロネジのボルガ川方向からドイツ軍の狭い進入路を南北に切断するようにソ連軍の反攻作戦が始まったのである。
広い範囲に分散してしまった南部方面軍ははるか後方で補給線を切られ、あっと言う間に掃討戦をしかけられて壊滅。後に残ったのはスターリングラード防衛に留まったドイツ第六軍だけ、ということになってしまったのだ。
はるか北方のレニングラードがドイツ軍に包囲された時、氷結した湖が補給路の役割を果たしたおかげでレニングラード市民は餓死を免れたのだが、スターリングラードに取り残された市民とドイツ軍にはそういうものは無かった。
昭和一八年(一九四三年)二月に、残存していたドイツ第六軍が降伏した時、もともと四十万人いたはずのその数は十万も満たなかった。
犠牲者の数がここまで悪化したのは前代未聞の規模の大軍をよりにもよって人が多い大都市に集めすぎたことが原因だった。戦闘の犠牲者以上に餓死者が多かったのである。
つまり大都市というのは通常食料生産をしていない。周囲から食料を日々集めることで都市の態をなしているのだ。それが断たれれば、たちまち食糧不足になるのである。
しかもスターリングラードの元の人口は六十万で、そこにさらにドイツ軍四十万が加わったのである。即座に食糧不足が発生したのである。
南部全体ではドイツ軍が百十万人、ソ連軍が百七十万人も軍を集めたのである。
土地そのものが元々持っていた食料資源を上回っていたことは間違い無い。
さらに両軍とも当たり前に焦土作戦で物資を焼き払っていた。
しかも冬の最中である。
ということは初めから食糧不足になることはわかりきっていたのだ。
この結果、スターリングラードでは人の屍すらも食料にされる事態に陥り、しかも降伏したドイツ兵にソ連軍が満足な食事を与えられるわけもなく、餓死、凍死者がさらに増えることになったのだ。
これが一年半に渡るこの一帯で起こった戦闘での犠牲者がこれほどケタ違いに大きくなった理由である。現在の広島県の人口がまるまる失われたと言ってもいい。
ソ連軍の被害も大きかった。ドイツ軍、枢軸国軍以上の被害である。
しかし戦いが終結した段階での残存戦力を見れば、ソ連軍百四十万だけが残ったというところが重要なのである。そしてスターリングラード市の新しい人口のデータは九千人に書き改められた。
工業生産力、外国の援助、人口、こういうものでソ連はドイツを既に凌駕していた。時間が経てば経つほどソ連側が有利になる構造にすでに変わっていたのである。




