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万里の長城


北米を舞台にメキシコとアメリカが第二次米墨戦争を戦った昭和十八年(一九四三年)が終わっても、中国での内戦は終わっていなかった。

大方の予想を裏切り、日本軍が引き上げても戦火は一向に収まる気配は無かったのである。

日本軍の撤収は、東条や板垣にとって想定外のことであり、予期していなかった事態だったが、それは蒋介石、毛沢東、汪兆銘、そしてルーズベルトにとっても想定外だったのである。

日中戦争に何らかのコミットをしていた者、それぞれが勝手に描いていたシナリオがすべてダメになったのである。その結果が泥沼化につながっていた。

一番大きな問題は、そもそもの戦争の目的がよく分からなくなったことだ。

日本という共通の敵を失ったことが一番大きかった。


日本という共通の敵があったうちは、国共合作と称し、辛うじて手を結んでいた蒋介石と毛沢東だったが、日本が中国本土から撤収してしまうと、とても提携関係を維持できなくなっていた。

それどころか、それぞれの傘下勢力をひとまとめにしておくことすら、難しくなっていたのである。

そもそも中国共産党を率いる毛沢東は、国共合作にあたり、日本とまじめに戦争をするつもりはまったくなかったのである。

つまり蒋介石に対し、恭順する態度を示すことで自勢力に対する攻撃をやめさせ、その武力をすべて日本軍にぶつけさせたいという狙いと、あわよくば、日本軍ともども蒋介石の優勢な軍事力が疲弊することを狙っていたのだった。

蒋介石は軍事的才能と、弁舌の才能で民心をある程度は掴んでいたが、内政の面では、どちらかと言えば無能、もしくはずさんだった。

つまり彼が学んだ日本陸軍の一般的将校と同じ欠点を持っていたのである。

蒋介石は緒戦でこそ敗退したが、その後の徹底した焦土作戦によって日本軍を泥沼の消耗戦に引き込む一方、アメリカ、ソ連両方からの援助も取り付け、日本軍を奥地に誘い込むことに成功していた。疲弊した日本軍を叩く寸前で、その獲物を取り逃したという思いで一杯だった。

つまり攻め込まれてはいたものの、負けているという意識は無かったのである。

だから日本軍がいなくなった事で自分の状況が変わるなどとは夢にも考えてはいなかった。

ところが事態は蒋介石本人が認識していたよりもずっと悪くなっていたのである。

それは蒋介石が取った焦土作戦の副作用だった。

住む場所を奪われ、焼かれ、家族を殺された中国人の中に反蒋介石派が生まれ、急速にその勢力を拡大したのである。

そこにもし日本軍がいたならば、そういう怨嗟の的は日本軍になるはずだった。

ところが焦土作戦を仕掛けた直後、肝心の日本軍は侵攻してくるどころか、回れ右をして帰ってしまったのである。焼かれ損、殺され損になった住民の怒りのはけ口は、今そこにいる国民党軍へと向かわざるをえなくなったのである。

元々が日本軍への補給を断つ狙いで始めた焦土作戦だったので、その作戦地域は広く、結果的に勢力範囲各所で一斉に反蒋介石派の旗揚げが起こったのだった。

しかも日本陸軍と違って彼の部下は海千山千の怪しい地方豪族出身が大半だった。もともとが統制に向かない人々にかつがれていたのである。蒋介石がどうにか彼等をまとめていられたのは、抗日という旗印があったからだった。

日本軍がいなくなれば、その結束が保てるわけはない。

日本軍の懐柔策で取り込まれていた汪兆銘だけでなく、各地で反蒋介石の豪族が名乗りを上げる状況となっていた。

毛沢東は当初の目的通りとはいかなかったものの、蒋介石の強力な軍事力が溶けていく状況は歓迎していた。が、毛沢東自身、動ける状態にないこともよく分かっていた。

中国人だけではない。

イギリス租界、フランス租界、アメリカ租界にいる各国人も同じだ。

日本が敵対勢力のメンバー表から消えてしまうと、今目の前にいる敵は誰なのだ、という根源的な問題に向き合わざるをえなくなったのだ。

結果的に、中国は戦国時代の様相を表し始めたのである。

毛沢東は、当初、とにかく自勢力の温存を図ることに専念することにした。中央から距離を置くため、紅軍主力をはるか西方へと移動させたのである。各勢力が潰し合い、疲れ果て疲弊したところで、最後の勝者として登場する。これが毛沢東のシナリオだった。

毛沢東の読み通り、中央平原での内戦は激化し、戦火を避け、毛沢東支配地域へと逃れてくる人間が徐々に増えていった。が、いいことばかりではなく、そんな住民に紛れるようにどこかの勢力に属する軍なのか、盗賊なのか区別のつかない危険な武装グループもやってくるようになった。

結局、いつの間にか毛沢東も得体の知れない相手との戦闘に明け暮れることになってしまったのである。

どこに逃げても中国には戦火がある。そう悟った住民の一部は、外国の支配地区へと逃れようとすることになった。陸続きなので不法難民の流れを完全に止めるのは難しかった。

当然その目的地とされた場所のリストの筆頭は、満州国と日本領遼東半島である。

赤坂宮は、中国本土から逃れてきた難民はすべて受け入れるように指示を出していた。

どっちにしても満州国の最大の問題は労働力不足なのである。

働ける者たちなら受け入れを拒む理由は無かった。

ただ、日本への移動はかなり厳しく制限していた。それは彼等を警戒した、というよりも、日本人自身があまりにも外国人馴れしていないことを赤坂宮自身がよく理解していたからである。

言葉も通じず、慣習も全く違う人間を簡単に受け入れられるほど、日本の社会は寛容ではないと知っていたのである。


かくて中国本土での内戦状態は混沌を極めることになった。

本来なら日本が手を引いた後、収まりをつけるのに一番いい場所にいたのは、アメリカでありイギリスであったはずなのだが、この両国とも今は全く中国に構っていられる状況ではなくなってしまったのである。

ブラックアメリカの誕生と米墨戦争でのメキシコの勝利は、中国の各勢力にそれなりの驚きを与えたものの、それはどちらかと言えば頼れそうな強国がいまや日本しかない、という現実を突きつけられた、ということに対する驚きだったのである。

逆に言えば、今日本に襲いかかられたらひとたまりもない、ということでもある。アメリカもソ連も蒋介石に援助など行える状態ではないのだから。

蒋介石はもちろんそれを警戒していたが、対策があるはずがない。

敵が多すぎてそれどころでは無かったのである。

が、撤兵していった日本には一向に動きがあるように見れない、ということもあり、意識して日本のことを考えないようにして心の平穏を保っていた。

実は一部の勢力は蒋介石を出し抜くべく、日本政府との接触を求め暗躍していたのである。

が、政府や議会とつながった人脈パイプはあっても、幕府へつながるパイプを持っていた勢力は一つも無く、結局何も出来なかったのである。

こうして各勢力とも、日本のことは考えても無駄と割り切るようになっていった。


そんな状態になっていた昭和十九年(一九四四年)四月二十二日、満州国が世界に向けて声明を発表した。

ウルムチを首都とするウィグル共和国、およびラサを首都とするチベット王国と平和条約並び相互援助条約を締結した、というのである。

世界は無音を保ったまま、これを受け流しただけだった。

平時であれば、蒋介石であろうと毛沢東であろうとスターリンであろうと、何かを言っていただろう。

しかし、今はそんな声明を出せる状態では無かった。下手をすると、ただでさえ目の前の敵で手一杯なのに、さらに敵を増やしかねなかったからだ。

結局、誰も何も言わず、世界は黙認したもの、と受け取られた。


もちろん、発表内容は事実ではあるものの、そこで描かれたイメージと現実の間にはかなり大きなギャップがあった。

より現実に即した言葉で表現するとすれば、これは日本の遣外軍の武力侵攻だったのである。

ただ、戦闘らしい戦闘は行っていない。あえて言えば示威行動で、相手の動きを止めさせ、混乱している間に、実力者と条約の話をまとめてしまった、というのが実態に近い。

そして満州国軍という名前と旗、マークの下に日本軍部隊を率いていたのは、海軍大将山本五十六だった。

遣外軍総司令となった石原莞爾にこの作戦を任されたのである。

なぜ海軍提督をこんな内陸の作戦に起用したのか、と言えば、赤坂宮の指示があったからである。

曰く、内陸の沙漠の集落は他の集落との距離も遠く、補給すらもままならない場所だから、海の中に浮かぶ島の攻略に近い。そういう島を拠点にしてその周囲の土地を平定するのは、海軍の言う制海権の確立と同じではないのか、と。

さらに、

陸軍の将軍に任せたら、必要も無い大部隊の派遣に固執するに決まっている。

大部隊を派遣したらそれだけで無駄な決戦を相手に仕向けさせることになる。

だからそんな無駄はやめろよ、

と釘を刺されていた。


石原からこの話を聞かされた山本は苦笑しつつ、全く未知の分野であると自覚しながらも、この内陸作戦を引き受けたのである。


使用する部隊は、あのオートジャイロを備えた武装パッケージであった。その後の制式採用により、輸送機にはコウノトリの名前が与えられ、オートジャイロには、ヒバリという呼称が与えられていた。

山本はこの装備を見てなるほどと思った。

要するにこのパッケージは陸の海に浮かんだミニチュア空母機動部隊なのである。

そして石原がA方面と呼んでいた戦場が、このウィグルだった。

司令官としての山本が気を配ることになったのは、制圧することよりもいかに民心を納得させて満州国傘下に入ることを選択させるかだった。

なので、部隊にはお土産になりそうな物資をできるだけ多く持たせた。

食料、衣料品、医薬品などである。

これらは国としての実力を何よりも実感させられるものだ。


作戦行動は至って簡単なものだった。

コウノトリで主だった町の上空を低く何度か旋回した後、町外れに降り立ち、今度は戦車を引っ張り出し、その後三機のヒバリで再び町の上空を行ったり来たりするのである。

そしておそるおそる現れた町の代表と会見し、町の防衛を肩代わりする代わりに、満州国への服従を約束させ、その後持参した手土産を渡してやったのだ。

武力誇示と貴重な物資の提供、この両者を活用した懐柔策の威力は大きかった。

さらには、依頼されれば、地元に巣くう盗賊団の討伐も派遣部隊に積極的に請け負わせた。

盗賊団の多くは中国本土から流れてきた中国人がほとんどだったのである。

こうして拠点となった都市が軒並み満州国傘下に入ると、沙漠地帯を放浪している遊牧民にも選択は無くなる。

各都市がすべて満州国傘下に入ったのを確認した後、それぞれの町の代表をウルムチに集め、彼等の代表を決めさせた。そして、それをウィグル共和国の大統領と認め、満州国との条約を結ばせたのである。もちろん各町の代表は、ウィグル共和国の議員という地位を与えたことは言うまでもない。要するに当事者が理解しないままに、いきなり共和国の着ぐるみを着せたのに等しかった。

ウルムチには満州国ウィグル駐留軍の司令部が置かれることが認められ、満州国新京との間で定期航空路を結ぶという取り決めももちろん結ばせた。

かくして作戦期間が四週間ほどで、広大なウィグル支配が確立したのだった。

チベットについては、しっかりとしたチベット王室が統治しているので、こちらの方は、正規の外交交渉に近かった。

多少なりとも強引な点が満州側にあったとすれば、外交交渉を行ったのが外交官ではなく軍人だったことと、コウノトリに乗って首都ラサにいきなり乗り付けたことぐらいだろう。

もっともラサに至るまでのチベット高原の標高の高さは、コウノトリの過給器付きエンジンだからこそなんとか克服できた、というのが実態だった。平均標高四千メートル以上と言われた場所は、飛行機ですらも容易には寄せ付けないのである。

突然ラサに現れたコウノトリ、戦車、ヒバリの三点セットにチベット側は当初はかなり慌てたようだった。

チベットはネパールやアフガニスタン、インドなどで著名な、精強なグルカ兵に守られた有名な軍事国家でもある。

グルカ兵というのは民族の名前ではなく、山岳部に暮らす部族の間で普及した武術を身につけた者という意味である。山地や傾斜地において特に有効な体術と剣術を身につけていた。

インドに進出したイギリス軍がネパールなどでこのグルカ兵と交戦し、その精強さに苦しめられたのである。そしてその存在が初めてヨーロッパに知らされていた。

その後、インド駐留イギリス軍もグルカ兵を採用するようになったのは言うまでもない。

この精強なグルカ兵の存在と、周囲を圧する標高の高い高原の上に築かれた国土のおかげで、チベットは長い間独立を保ってこられたのであった。

しかし、空から高速で接近することができる脅威に首都ラサが晒されたのは、今回が全く初めてだった。

賢明なチベット王いや法王は、その意味を正しく理解していた。

歩兵や騎馬兵の装備では戦車や空からの攻撃に対応できず、今までの独立を保った実績も、今後は役に立たなくなったと正しく悟ったのである。

従って、コウノトリを迎えたチベット国の役人は始終、満州国側を刺激しないように、控え目な態度を守ることになった。

そして、満州国側に外交交渉以外の目的が無いことが分かると、素直に交渉に応じた。

というか、一刻も早くこの場を立ち去ってくれるのであれば、何でもする、という態度に近かったのである。

戦車とヒバリが警戒する中、小さなテントで法王が派遣してきた大臣との交渉を行ったのだ。

満州国側の狙いが通商条約を結ぶことと、いざ中国から侵略を受けた場合には、協同でこれを排除する条約を結びたい、と説明すると、翌日には法王の許可が得られ、狙い通りに条約が締結できたのである。

そしてウィグル共和国のウルムチとラサの間に定期航空路を開設すること、ラサに満州国代表部およびウィグル共和国代表部を置くことが認められた。


こうして中国平野部を周囲から切り離す環状包囲は完成したのだった。

満州国よりも西方に広がったこの地域と、中国を分けたのは、言うまでもなく万里の長城である。つまり古代の漢の版図が中国の範囲と以後定義されることになったのである。



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