それぞれの仕掛けと行動
五井物産経由での赤坂宮からの連絡を瀬島はアメリカ南部ジョージア州アトランタで受け取っていた。
「フランス再上陸は二年後……、また神がかり的なことを……、まったく」
瀬島は駐在員が届けてくれた封筒の中に収まっていた一行だけ書かれたメモを見て、苦笑しながらつぶやいた。
説明は一切ないが、こんなことを連絡してくるのは赤坂宮以外考えられなかった。そして根拠にはまったく思い当たらなかったものの、その予測が絶対に無視できない程度の信頼性を持っている、ということには疑いを抱いていなかった。
そしてこれを自分に連絡してきた意味を考える。
軍略の専門家としての知識知見を総動員する。
この情勢でイギリスがフランス再上陸を果たすというのはどういうことを意味するのか。
それは即ち、ドイツが東部戦線を維持できなくなり敗走していることを意味し、かつ西側の防備も破綻している状態だ。
おそらくベルリンにソ連なりイギリスなりの旗が翻るまでそれほど時間はかからないだろう。おそらく半年か、それよりちょっと長いくらいで欧州の戦争は終わる。ドイツの敗戦という形で。
要するにそれまでに、アメリカを処理しろ、という意味だ、と瀬島は解釈した。
配達された朝刊に目を通す。
主要記事のタイトルにざっくりと目を通した後は、商品市況欄のチェックが欠かせない。
綿花相場はじりじりと下がっていた。
アメリカにとっての重要な輸出商品である綿花の大口需要先であるヨーロッパが戦火に包まれている影響が一番、それに次いで、日本向け中国向けも様々な事情で減少していることが影響しているようだった。
記事によれば綿花の生産農家は収穫期を前に、豊作貧乏になる懸念を憂いていると報じていた。
「これはやはり実際に自分の目で確かめておくか……」
そうひとりごとを呟きながら、瀬島は立ち上がった。
秘書に外を見回るから、と伝え車を用意させた。
正直なところ、瀬島は外出をしたくはなかった。
外出をすると不愉快な思いをする。アトランタはそういう場所だったのである。
この時期、アメリカ合衆国の人口はおおよそ一億八千万人程度と見積もられている。
そのうち黒人は千三百万人程度だった。十パーセントにも満たない少数派である。
しかしその人口分布が問題だった。
白人の多くは北東部に住むが、南部に住む白人というのは、大規模農場主、つまりもともと黒人奴隷を買い入れた者や石油産業、造船業に携わる実業家だったのである。当然数は少ない。
一方、黒人がどこにいるかと言えば、そもそもアフリカから奴隷として売り捌かれた目的の施設がある場所、すなわち大規模農場だらけの場所である南部となるのである。つまり南部では黒人が多数派になる場所が多い。
これが南北戦争が起きる一つの大きな要因だった。
つまり北東部諸州の白人からすると奴隷と言っても南部の奴隷とは異なり、絶対数は少ない上に、家庭内で働く家政婦や執事のような奴隷しか思い浮かばなかった。なので奴隷解放ということを素直に考えられたのである。が、南部の奴隷は、欧州で言うところの農奴のようなものだ。数的には白人にとって脅威となるほどの勢力があり、一方その生活の質の差は、白人と生活空間を共有することなどあり得ないと考えるしかないほど大きかったのである。
白人と黒人を隔てる、この距離感の差が、南北戦争の引き金をひくことになったのである。
南北戦争で北軍が勝利した結果、南部の黒人奴隷は奴隷ではなくなったが、貧困層であることには変わりなかった。当初リンカーンは黒人の生活水準を引き上げるための、救済策まで考えてはいたのだが、これには大きな障害があったのである。
つまり北軍、合衆国政府側に残った州の中に、黒人を差別する法制度を作っていた州が複数含まれていたのである。奴隷制度の存続には反対だが、黒人との格差があることについては容認するという勢力である。北部州の南部と接触する各州には実際にそういう人種差別立法がされていたのだ。
その結果、リンカーンの目論見は行き詰まり、黒人への救済策のほとんどは見送られることになってしまったのである。
しかもこの差別立法は、敗北した南部諸州に瞬く間に採用されることになったのである。
奴隷制は無くなったが、その代わりに肌の色でありとあらゆるものの使用が制限される法律の世界に作りかえられたのである。
瀬島にとってこれが不愉快のネタだったのである。
曰く町中至るところで、white only、colored onlyというサインにぶつかるのだ。もちろん日本人はcoloredである。
公職採用規定から、公共交通機関、トイレや学校に至るまで白人と非白人を区別することが法的に義務付けられていたのだ。もちろん白人用のものの方が上物になっているのは仕様である。
一部の黒人は東北部の裕福な大都市、ワシントンやニューヨークを目指して移住をしていったが、そもそもそんな移住ができる層はごく僅かだった。大半は、ここに留まり、昔ながらの仕事につくしかなかったのである。
瀬島は嫌が応にも目に入ってくる様々な看板の文字に不愉快さを覚えながらクルマに乗り込んだ。
運転手は白人である。黒人にはクルマの運転ができるものはまだ少なかった。
「旦那、今日はどちらへ?」
アトランタの五井物産事務所が瀬島のために今回用意してくれた運転手は、いかにもアメリカ人らしい三十ぐらいの大男で、話し言葉は粗野であまり人付き合いには向いていないタイプだった。
駐在員の説明では、思想的、あるいは政治的には無色で、仕事に使う分には全く問題無いということだった。
「綿花畑が見たい。あと出来れば、そこで働いている連中の様子も見たいんだが……」
「イエッサー」
小柄な日本人の瀬島を一応自分のボスと認識しているような返事に、瀬島は少し警戒を解いた。
が、郊外の田園地帯に向かうと思っていたクルマは市内の中心部へと向かっていた。
「君、方向が変じゃないか?」
「いや、畑の方なんかに行っても、何かある時でないとそこで働いている連中と出くわすことなんて滅多にあることじゃないんで、先に連中が集まる場所を見せた方が手っ取り早いかなと思いましたんで」
「そうか……。なら任せる」
クルマは大通りと大通りが交差する大きな交差点のかなり手前に駐車した。
「あそこでさ、旦那。ほら、黒いのがいっぱい群がってるところが見えるでしょう」
運転手が指し示した方向には、そこそこ立派なギリシャ神殿を模したかのような建物があり、その正面玄関あたりにかなりの数の黒人がたむろしていた。
「あれは?」
「職業紹介所でさ。今年はなんても綿花があんまり金になりそうにねえ、ってんで、初めから収穫を諦めた畑が多いんでさ。それで農場主が連中をあんまり雇わなかったからこういうことになっちまって」
「あっちのグループは?」
その建物から少し離れた場所に大型のテントのようなものが貼られ、そこにも黒人が群がっていた。
「あっちは教会の連中でさ。寄付を募って食べ物を連中に施しているんでさ」
「教会? 白人なのか?」
「まさか。黒人ですよ。牧師もね。教会も完全に白人と黒人で分かれてまさ。もっともここの教会ほど、力がある教会は他には無いとか言っていたかな。黒人の割には優等生なんだとか、そんな話を聞いたことがありまさぁ。マーチン・ルーサー・キングって牧師がえらく慕われているとかで」
時間が経つにつれ、黒人の数は膨れ上がっていった。文字通りの黒山の人だかりの完成だ。
「こんなんで大丈夫なのか?」
「全く皮肉なもんでさ、もし奴隷解放なんて無かったら、失業者になんかならずに済んだものを。リンカーンも全く罪作りなことをしたもんでさ。さてそろそろ農場に行きましょう。帰りが遅くなっちまう」
強く明るい陽光を浴びた失業者の黒人たちの群れは、まるで奴隷の群れのように見えていた。
瀬島は、ジョージア州を皮切りに、コットンベルトの主な産地の綿花畑を丹念に見て回った。
いずれも作柄は良く、ハリケーンなどの被害が出なければ、大豊作になると確信を深めた。
瀬島がそんな活動をやっていた頃、カリフォルニア州の、メキシコ国境からそれほど遠くも無いインディオの地で、かなり風変わりな一人の老人が、どうにか正気を取り戻し、社会復帰に成功していた。
祖父の代より軍人という軍人一家で育ち、こどもの頃から戦争ごっこには目がないという戦争大好き少年だった。ローマ軍団にあこがれ、ハンニバルにあこがれ、ナポレオンと戦いたがった。
もちろん、軍人を志望し、成人してからは軍人としてキャリアを重ねた。彼の人生は軍歴で埋め尽くされていた。
骨の髄から軍人という意味では、瀬島の同類である。
メキシコ国境を巡って起こったいざこざでは敵将を殺害するなどの武功を揚げ名を挙げた。
そして騎兵となり第一次世界大戦にも参戦し数々の武功を立てた。
軍人として順調に昇進をして将軍まであと一歩というところまで行ったのだが、第一次世界大戦はそこで終わってしまった。
アメリカに帰国後、ドイツ軍と戦った経験を元に、機械化した軍団が塹壕戦を変えるという主旨の論文を書きあげると、それが中央部に認められ、アメリカ初の機甲部隊の編成を任されたりした。ここまでは良かった。
が戦争が無くなると軍縮の時代に入った。
戦時中ということで特別に認められていた臨時昇格が取り消されため、大佐から少佐へと戻されることになった。
これが彼には耐えられなかったらしい。
彼にとっては世の中から戦争が無くなる平和の訪れは夢の喪失そのものであったのだ。
そして希望を失った彼は、娘の友達との不倫騒ぎを起こすなど、次第に奇行が目立つようになったのである。
最終的には家族全員が社会的に葬られる一歩手前のところまで追い詰められることになった。
そんな窮地に陥った一家を救ったのがヒトラーである。
ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、彼はたちまち正気と元気を取り戻した。
そして自分が戦場に再び立つ日が近いと信じ、ここカリフォルニアで部隊の訓練に勤しんでいたのである。
「所長、ちょっとお耳にいれたいことが……」
「何か町であったのかね?」
「町というか、メキシコの様子がおかしいらしいのです」
「ほう、どういうことだ? また国境侵犯でもやらかすつもりなのか」
国全体の人口はともかく、隣接した地域同士では、メキシコの方が人口密度は高かった。
常に圧力を受けるのはアメリカ側だった。故に、越境してくるメキシコ人に対して常に警戒はしていた。しかし米墨国境は長く、しかも天然の要害を利用した国境ではなく、場所によってはその意思がなくても簡単に越境できる状態だったのである。
もっとも元々移民が建国したアメリカという国では移民を受け入れないということはありえない。正当な手続きを経て移民してくるなら何の問題もないのである。しかし、麻薬の密輸などの非合法活動に身を染めた越境者も相当数いて、これがアメリカ側の悩みの種だったのである。
そして彼の率いる部隊は、数少ないまさにそのメキシコに備えた部隊でもあった。
彼は上官が軽く興奮していることに気がつき、気を落ち着かせるように言葉を落とした。
「いえ、そうではありません。メキシコ人が来るというのではなくて、アメリカ人がメキシコに出て行ってるのです」
「何だ、その話は、意味が分からん」
「えっと、要するにですね、国境沿いの町がかなり減ってしまって、急に店じまいとか、町が寂れ始めているのです」
「住民がメキシコに行ったから、というのかね。まさか、ありえん」
「そのまさからしいのです。何でも金になるいい仕事が沢山あるとかで。その金に釣られてメキシコ領に向かう人間が引きもきらないのだとか」
「信じられん。だが、まあそういうことならわしの仕事ではないな。州政府は何かやってるんだろ?」
「いえ、なんでも大統領選挙関係でそれどころじゃないとか」
「そっか、政府関係は役に立たないか。それなら、……。いいだろう、わしの昔なじみのやつが連邦政府にいるから、そっちに今の話を知らせておこう。あいつならうまくやるだろ。今の話をまとめたレポートを用意してくれるか?」
「アイアイサー」
こうしてジョージパットン少佐の報告書が幕僚部のアイゼンハワー将軍に届けられることになった。すると数日の時を置いて、パットンの元に返事が届いた。
命令書という体裁ではなく、あくまでも私信の体裁になっていた。
それによると今年になってからメキシコからの情報が非常に入らなくなっているということが簡単に紹介され、政府首脳がパットンの送った手紙の内容に大変感謝している旨が告げられていた。
そしてより詳しいメキシコ側の情報が入ったら、何でもいいので引き続き知らせて欲しいというアイゼンハワーからパットンに対しての個人的依頼が書かれていた。
アイゼンハワーはかつて戦友として戦場を共にした仲だったのである。
パットンはこの返信の意味を考えた。
要するに軍をただちに動かせるという状況はまったくなっていないのである。例の中立法のおかげで無闇に外国領に向かって部隊を動かすことなどできないのだ。
予算も出せないし命令も出せないが、メキシコで何が行われているか、公式の外交ルートでは全く事態がつかめず、首脳が苛立っている……。それがパットンの解釈だった。
パットンは急遽、取り損ねていた休暇を取ることにした。
行き先はメキシコである。一週間ほどメキシコの各地を見てくることにしたのである。
スペイン語の話せる現地ガイドを旅の友とし、アメリカと国境を接するティファナに陸路で入り、そこからバハカリフォルニアを横断、カリフォルニア湾に沿う形で南下、その後どこかでメキシコ湾側に出るという大雑把な予定を立てた。
何も無ければ単なる年寄りの気楽な一人旅になるはずである。
実際、第二次世界大戦は始まっているものの、パットンにお呼びはかからず、いささかイライラしているところだったので気分転換は必要だったのである。
確かにティファナの町には活気があった。少なくともアメリカ側のサンジエゴよりも活気に溢れていた。無論、町の設備や発展の度合いはサンジエゴの方が進んでいるのだが、今の活気という意味ではサンジエゴはどこか寂れた感じになっていた。
特に見たいという場所はない。
休暇の気ままな旅といってもそういったアテが無いので、結局軍事的判断からルートをアメリカとの国境に沿うように移動しようということにした。
短いように見えても米墨国境はかなり長いのである。クルマでちんたらと走っていたら、一週間などあっという間に過ぎるはずだった。
メキシコ合衆国という国は、スペイン系の王朝だったメキシコ王国が倒されて建国されたメキシコ共和国が母体で、その後の政変でメキシコ合衆国となった。
メキシコ王国はスペイン人が建国した国だが、その征服前には、アステカ王国という原住民の作った国があった。それを乗っ取ったので首都メキシコシティは、アステカの古都テノチティトランそのものだ。
メキシコシティは、南北アメリカで最大の町だった期間がかなり長いのである。
それでメキシコという国は首都への人口集中がかなり進んでいたのだ。
このことが辺境部の発展の阻害要因になっていたのである。
観光客がメキシコを訪れた場合も、メキシコシティ周辺を見て回れば主だったところは見た感じになるので、わざわざ辺境を見て回る人間は稀であった。
このことは人種問題でもアメリカとは好対照を作っていた。
スペイン人が入ってきても、スペイン人は多数派にはなれなかったのである。現地のインディオの人口が圧倒的に多く、結果としてスペイン人との混血が進んだ。
元々は征服者として君臨していたはずのスペイン人の血はインディオに飲み込まれてしまったのである。
パットンのメキシコ旅行はそういう意味ではかなり変わったものだった。
つまりメキシコ旅行の見所はメキシコシティ近辺に集中しているのである。
今、メキシコの観光と言えばアステカ王国やマヤ遺跡である。
しかし、この時代マヤ遺跡のことはまだほとんど知られてはいなかった。一度遺跡が発見されてはいたものの、忘れ去られてジャングルの海に隠されてしまったのである。
一方アステカ文明のことはなにしろ首都メキシコシティがそのままアステカ王国の首都だった場所に建設されているから、メキシコシティが広く知られた場所そのものなのである。もっとも遺跡を好んで巡るような観光旅行というものが広く普及するにはまだもう少し時間が必要だった。
なんにせよパットンのようにわざわざ米墨国境地域を巡る旅人は十分珍しいのである。
メキシコ領内に入った翌日には、早くもパットンは自分の選択を後悔し始めていた。
アメリカとさほど変わらない風景、アメリカよりも整備されていない道路、宿、そんなものに飽きてしまっていた。
カリフォルニア湾の海が見え、それでほんの少し気分転換はできたが、わざわざメキシコにやってきた、という感動を呼び起こすところまではいかなかった。
田舎過ぎるのか、大勢の人が集まる町というのも見あたらず、首都メキシコシティ中心部に先に向かうべきだったかと後悔していたのである。
その日の夜、パットンはカリフォルニア湾に面した小さな漁村に見つけた旅館に投宿することにした。もう海は見飽きたので、明日からは方向を東に変え、メキシコ湾を目指そうかと考えていた。
それにしても見るものが少ない……。
「おい、宿の主人にこの辺りで面白そうなものはないか、ちょっと聞いて来い」
ビールを煽りながら、ガイドに命じた。
するとガイドが意外な話を持ってきた。
ここから南にさらに三時間ほど走ったところにある港町に行けば、大砲のついた大きなクルマが沢山見られるという話だった。
大砲のついた大きなクルマ? なんだそれは、野戦砲のことか? そんなものが珍しいのか。まあそれでも数がどれくらいあるのかはちょっと気になるな。クルマで三時間。結構時間がかかるが、他に見たい場所の当てがあるわけでもなし、ちょっと見に行ってみるか……。
翌日、クルマを南へと走らせた。途中には何の障害もなく、目的の町についた。
漁村というよりは大きな町ではあったが、それでも人口はせいぜい一万人いるかいないか程度の町だった。
いったい、どこに行けばその野戦砲の群れに会えるのだ……。
パットンは再びガイドを聞き込みに走らせた。
小一時間ほどしてパットンの元に戻ってきたガイドは、そいつらなら、いつも通りなら、後一時間ぐらいしたら南にある谷間の奥に集まっているはず、というような話を聞き込んできた。
パットンは首を捻った。
野戦砲がそんなに移動するものなのか? いや野戦砲というのは間違いで、トラックの荷台に重機関銃でも載っけたものを大砲と呼んでいるのか?
自分がひどくくだらないものを追っかけているのではないか、という疑念が湧き、パットンはいやいや、せっかくここまで来たんだから確かめないでどうする、と自らを励まし、再びクルマを指定された場所へと向かわせた。
途中で見つけた食堂で腹ごしらえも済ませ、ようやく目当ての場所が見渡せる小高い丘の上の峠にクルマを停めた。
ちょっと変わった地形の場所だった。平らな土地がまわりよりも一段低いところに広がっているのである。パットンがクルマを停めさせた場所へは、かなり急峻な崖になっていて、平地まではゆうに五十メートルほどの高低差があり、クルマで下ることは不可能だったが、反対側に見える三方は大きな段差が何段かあるものの、傾斜自体はそれほどきつくはなく、走破性の高いジープなら、かなり無理をすれば外と内側の平地への出入りができそうな感じだった。
この場所、大昔は湖でもあったのだろうか……。
まるで地面が全体に陥没していることを除けば、そこには一本の川もなく、一面赤褐色の沙漠でところどころにサボテンが顔を出す、アメリカ西部でもお馴染みの光景なのである。
そんな事を考えているとまわりに人の気配を感じた。
地元の人間なのか、どこからか見にきた旅行者なのかわからないが、何人もパットンのクルマの近所に集まって、パットンが見ているのと同じ方向を眺めていたのである。
現地人にとっても珍しい見物があるということらしい。
すると地鳴りが聞こえた。
初めはかすかに、そして段々と大きくなっていた。それがたくさんの車両のエンジン音と、金属が打ち鳴らされる、無限軌道独特の音だと気がつくまで、そう長くはかからなかった。
来た!
窪地の反対側、一番高くなったところに長い棒がまず姿を現し、すぐにその本体が登場した。砲塔からは半身を出した指揮官がまっすぐ進行方向を見ている。一瞬、パットンの方を見たような気がした。そしてそのまま速度を落とさず、窪地に向かって斜面を駆け下りて行く。
まさかの、戦車である。
先頭車が姿を現すと、次には二両が顔を出す。それも同じように窪地へと下りる。次は、四両が並んで現れた。陣形はよくわからないが隊列を作って移動中だったらしい。
先頭車は窪地の起伏の無い開けた場所に止まった。崖を下って下りてくる後続車もそれに従い、まるで予め停車する位置が決められていたかのように、きれいに隊列を作って次々と停車していく。
一、二、三、四、五、六、七、八、九……、これで終わりか……。
パットンはふと思い出して、クルマの中からコダックを持ち出した。だが、遠い。しかし目の前は崖である。望遠レンズのような気の利いたものは持っていない。やむなくファインダーの中で米粒のようになった戦車に向かってシャッターを切った。
どうやら、アメリカ風に言えば戦車一個小隊の隊列走行訓練中のようだった。
三両が一組になり、予め決めたコースを隊列を壊さないように走行する訓練を行っているようだった。練度はそれほど高くないらしく、時折り戦車が変な方向に向いたり、急に止まったり、止まるべき場所を行きすぎていたりした。
まだまだ訓練を始めたばかりらしい。
が、パットンはそれを穏やかに笑って見ていられたわけではない。パットンは同じような光景をアメリカで見たのは、ほんの数ヶ月前なのである。
自分が書いた論文がきっかけとなって、歩兵の援護を行う戦車ではなく、戦車ばかりで部隊を編成することになり、初めてそういう戦車による行軍訓練を行ったのである。
わずか数ヶ月の時の差だけでメキシコが同じような訓練をやっている……、パットンにとっては衝撃以外の何者でも無かった。
そしてパットンの衝撃はそれだけに留まっては居なかった。
アメリカ軍でも英独仏が持っているような陸軍の主力として使える戦車を持つべきだ、ということで戦車開発が始まったのはいいものの、航空機とのエンジン共用の必要性で、星形空冷九気筒というかなり戦車には向いていないタイプのエンジンを選択せざるをえなくなったのである。ヨーロッパのものはほとんどがV型十二気筒液冷エンジンで、両者の差はエンジン全体の高さがV型の方が低くなること、さらに出力軸の位置が星形ではかなり高い位置になってしまうということにあった。
結果、星形エンジンを搭載するために、エンジンマウントをかなり異様な形状にしないとトランスミッションが収まらず、その結果、シャーシはかなり腰高なものになってしまったのだ。
これは陸上用兵器として、的になりやすいという致命的な欠点を抱えることになったことを意味する。
残念な点はこれだけではなかった。戦車に必須の大きな回転砲塔が作れないという技術課題が浮かび上がったのである。その解決に時間がかかるので、その代わりに回転砲塔を持たず、大きな固定砲と小口径の可動砲を両方持たせた、見た目も残念なM3戦車というのがアメリカ軍の戦車ということになったのである。
戦争を美学と捉えていたパットンにはほとほと許しがたい見た目だった。
次期戦車M4までの我慢と言われ辛うじて不満を抑えてはいたのだが……、
今、目の前で訓練中の戦車は、パットンの目には完璧なものに見えていた。戦車の理想型だと思ったのである。
低い側面、なだらかな斜面を作った前面装甲、太い主砲、素早い機動性……、いったいどこであんな戦車を手に入れたんだ?
パットンが知っている戦車ではない、全く未知の戦車だった。
本日の訓練は走行訓練だけに絞っていたようで、砲塔が火を噴くシーンを見ることはできなかった。三両づつ鶴翼の陣形を一度作ると、今度は来た時と同じ方向へと順番に窪地を出て行ったのである。
戦車を見送った後、パットンはすぐ近くの町でホテルをみつけて投宿した。そして辺りの地図を見せてもらい、あの戦車がどのあたりからやってきたのか見当をつけることにした。
ところが地図を見ても何もなさすぎて、見当をつけようがない。
結局例によってガイドに聞き込みに行かせた。
沢山戦車が置いてあるところを知らないか? と。
パットンからすれば戦車を大量配備している基地は機密扱いだろうと思っていたが、どうもそういう扱いではないらしく、置いている場所は基地でも何でもない空き地なのだ、という答えを持ってガイドは戻ってきた。
パットンは翌日早朝からその場所へと出かけた。目的は二つあった。
全体でどれくらいの数を持っているのか、ということと、できるだけ近くで戦車の写真を撮ることだった。
目的の場所は港から少し内陸に入った道路に面した場所だった。
緊急に整備したものらしく、空き地に鉄条網で囲っただけの敷地の中に、デザートイエローとでも表現すればいいような色に塗られた戦車がまとめておいてあった。数は三十両ほどだろうか。その中には戦車ではない無限軌道車もいた。おそらく補給物資を運ぶものだろうと推測した。まだアメリカ軍では配備されていない。今開発中なのである。
メキシコにかなり出し抜かれていることを実感した。
一応、鉄条網にそって数人の兵士がいた。あんまり近づくと元も子も無くす危険があるので、通りの反対側にあったガススタンドに車を留め、そこから一旦観察することにした。
見れば見るほど、見覚えの全くない戦車だった。砲身の長さ、口径から見てM3はもちろん、M4の主砲をも上回ったものと見て間違い無い。とにかくあの戦車がどんなものなのか知ることが重要だ、とすぐに思い至った。
とにかく写真である。写真を送ればワシントンにいる連中ならあの戦車のことを何か掴んでいるだろう。
運転手に鉄条網に沿ってゆっくり走れと命令した。
ロクにファインダーも覗かず、目まぐるしくフィルムを巻き上げ、シャッターを切り続けた。
フィルムはすぐに無くなった。
もう、十分だろ。用は済んだ。
パットンは旅行を切り上げ、すぐにアメリカへの帰路についた。
数日後、アイゼンハワーはパットンからの軍用行嚢を受け取った。それは見た目に反し軽く、札にはメキシコ土産とだけ書かれていた。不審に思いつつ、開けてみると中身はブローニーフィルムのパトローネである。そっちで現像しろ、という意味らしい。おそらく現像焼き付けの段階で他人に見られる危険を排除したかったのだろう。
実にパットンらしい、と思いつつ、アイゼンハワーは副官にすぐ現像に回せと命じた。
その数日後、今度はパットンがワシントンへの出頭命令を受け取ることになった。
こうしてアメリカはメキシコが急速に軍隊を近代化していることを知ったが、肝心の戦車については何の情報も無かった。政府の一部高官は、それがもしかしたら日本がもたらしたものではないかという疑いを持っていたものがいたのだが、それは発言としては記録されなかったのである。
というのも五式戦車が世界で初めて配備されたのはメキシコ軍だったからだ。日本軍の偵察に当たっている情報網には全く引っかからなかったし、五式戦車の工場は全く新設のものだったので、それまでの生産工場をいくら見張っていてもそちらで見つけられることも無かったのである。
というわけで戦車の履歴はメキシコ側から入手ルートを探るということで収まったが、パットン個人は全く別のことに関心が向いていた。
それは一つの確信である。
メキシコがアメリカに報復戦を企て、準備を進めている、というストーリーであった。
メキシコ側の動機ならいくらでもあった。アメリカはそれだけのことを過去してきたのである。そしてパットンはその当事者そのものだった。国境でのいざこざがあった際に、パットンは敵将を討ち取っている。メキシコ軍の敵は自分だ。故にそれを打ち払うのも自分の責任であり役割であると、勝手に思い込むことになった。
それから間もなくして、パットンは任地替えを申し出た。理由はメキシコ軍の侵攻に備えるため、である。
カリフォルニア州側は、ロッキーから続く山地が多く、機甲部隊が活躍しにくい。またサンジエゴには強力な海軍部隊がいる。海軍機からの航空攻撃を考えたら、海に近い場所は選択しないはずだ。となると、テキサスへの道、ここが一番危ないことになる……、というのがパットンの読みだった。
そこで侵攻路にあるテキサス州で機甲部隊を編成し、迎撃態勢を準備したいと願ったのである。
アイゼンハワーの配慮でパットンのこの願いは叶えられ、パットンは勇躍テキサスへと乗り込んだ。
もちろんアイゼンハワーはパットンの思い込みをそのまま受け入れたわけではなかった。
が、どっちにしても大統領もメキシコのことは気にしている以上、何らかの手を打たねば格好がつかないという事情はあったのである。
統合参謀本部はメキシコ軍がアメリカ領内に侵攻を企てているという想定そのものを行っていなかった。少なくともメキシコが近代軍の建設などを行っているという前提はどこにも無かったのである。なので、写真という動かぬ証拠がある以上、パットンの言い分を否定する理由もまたどこにも見つからなかった。
というわけでパットンの個人の意思はいつの間にかアメリカの意思になってしまったのである。
こうして事実上、パットンは対メキシコ迎撃作戦の参謀長のような立場になっていた。現在の部隊配置や編成を見直し、メキシコ軍がドイツ軍ばりの電撃作戦を仕掛けてくるという想定で防衛体制を見直すこととなった。
ワシントンではハル国務長官が頭を抱えていた。
もちろんメキシコ案件である。
本来ならメキシコ側の本意を掴むことなど簡単にできたはずだった。
メキシコ産業界はアメリカ企業に牛耳られていたのである。
ところが今のカマチョ大統領が石油産業の国有化策を出してからいろいろとおかしくなった。
メキシコ側から売られた喧嘩に敏感に反応したのはアメリカ政府ではなく、アメリカの産軍共同体ともいうべき産業界だった。言葉を変えればルーズベルト政権を支えるスポンサーである。
資本主義のアメリカなら当然のことだが、物資を握る強大な企業体が政権に密接なつながりを持ち、アメリカの国益と自分たちの利益をリンクさせる関係を作っていたのである。
なので穀物でも鉱物資源でも、鉄でも石油でも政府の振る旗通りに企業は動くし、またそういう企業が苦境にならないように政策は決定されていたのだ。
従って、それに逆らったメキシコにはアメリカ産業界からの鉄槌が下されたのである。ほぼすべての分野でアメリカ側の協力が縮小または撤退ということになった。
普通なら政情不安になり、政権の危機になるはずのシナリオである。
カマチョ政権はその通りの危機に向かっていたのだ。
ところがここで日本というカードが割りこんできた。もともとは日本もメキシコ同様アメリカに依存する国である。日本とメキシコがいくら連携したところでアメリカの脅威になどならないはずであった。
ところが何故か、日本はその圧力を受け流し、メキシコに莫大な援助を行っているらしい。
そんなことが日本にできるとすれば、その裏にイギリスとソ連がいる状態しか考えられない、というのがハルの結論である。
とにかくメキシコに対し、平和的なチャンネルで実利を上げることが非常に難しくなってしまったのが今の状態ということになったのである。
スポンサーが何の見返りもなく振り上げたこぶしを下ろすとは考えられず、メキシコ政府側も、いまさら日本との関係を清算して、などという話に見向きすることなどありえなかった。
結局、外交を預かるハルとしては、メキシコ政府がアメリカに対し軟化した態度を見せるのを待つしかないという結論になったのである。
そんなハルとは対称的に待ち焦がれていた戦争が目の前に用意されたパットンは、水を得た魚そのもののように活力一杯である。
半ば脅迫まがいに各地の部隊と交渉し、メキシコとの国境地帯へと戦車を集めさせたのである。
ただ戦車兵については養成が間に合わず、歩兵や騎兵に戦車の扱いを教えていくしかなかった。
まあ、メキシコ軍も似たようなものであることは確認済みなのでそれが決定的な問題にはならないだろうと見通してはいたのだが。
パットンにとっての最大の不安要因はあの戦車そのものだった。
もっともこの場合の不安というのは一般的な意味で使われる不安という言葉と同じではない。
マニアがその分野のネタとして愉しんでいるもの、という意味合いが強かった。つまりパットンからすれば、強敵こそ自分にとっての価値あるものであり、それとの出会いが愉しみで仕方ない、という不安だった。
自軍のM3戦車の弱点を知り尽くしているだけに気になっていたのである。
従って生産されたばかりの新鋭M4をかき集めることを最優先に置いていた。が、いかんせん生産数がなかなか増えない。軍専用の小さな工場だけで作るという前提が変わっていないのである。
従ってM4の配備は遅々として進まず、主力はM3という状態がしばらく続く見通しだった。
だからと言って、自分が負けるなどとは夢にも考えていない。どんな強敵であろうと、最後に勝つのは自分だという信念は固かった。
肝心のメキシコ軍が持っている戦車については、その後ワシントンからわずかな報告があっただけで、生産場所や性能は相変わらず謎のままだった。
パットンの撮影した写真の分析から、主砲口径は八〇ミリもの大口径であると判定されていた。
ドイツの四号戦車の搭載砲を上回っていることにパットンは驚きを隠せなかった。ドイツの四号はイギリス、フランスの戦車を撃破していた。そしてM3とM4の装甲の実力はこの英仏の戦車並みに設計されていたからである。
M3やM4の装甲ではもたないかもしれないのである。
実はT32/T34を研究して生まれた五式戦車だったが、主砲性能に関してはTシリーズの主砲と同じ性能を持たせることはできなかったのである。同じ口径では金属の耐久性、精度が同じにならず、結果的に砲弾初速が低く、打撃力で劣っていたのである。さらに砲身を長くすると重量増で回転砲塔のバランスが崩れる上に、運動性能が大幅に低下することが分かったのだ。
それでオリジナルの76ミリよりも砲身を大口径化する一方砲身は短くし、砲弾重量で打撃力をカバーすることにしたのだった。
砲身を伸ばすことを断念した結果、砲弾初速はさらに低下することになり、折角大口径化したのにそのメリットはほとんどなく、初速の遅さは、命中精度の悪化も招き、五式戦車の要改良の欠点であり、今後の課題と認識されていたのである。なのでパットンの心配は大きく外れてはいないものの、かいかぶりすぎという領域にも踏み入っていたのである。
しかし五式戦車は、Tシリーズに全て劣るダメ戦車ということでもなかった。
遠距離での打ち合いではTシリーズに劣るが、近接戦でのなぐり合いなら分は決して悪くなかった。
砲弾装填を半自動化し、Tシリーズよりも大幅に装填時間を短縮することに成功していた。さらに砲塔回転に艦船砲塔用の強力なモーターを使ったことで、砲塔回転を伴う照準固定時間を大幅に短縮していた。つまり一発撃って次弾を撃つまでの時間は他のどの戦車よりも速かったのである。
もちろんこんなこだわりのスペックになったのもとある殿下の意向である。
火縄銃を使った長篠の戦いで射撃間隔を短くすることがどれだけ威力を発揮するかよく分かっていたからだ。
そうでなくとも戦車同士の戦いは、先に命中弾を発射した方が勝ちになることが多いのである。
要するに同じ時間内で何発撃てるかが大きな意味を持つのである。
赤坂宮の時間へのこだわりがなさせた技術革新である。
このように五式戦車にもいろいろと事情はあった。
パットンもメキシコ軍ももちろんそんな事は知らない。
パットンもメキシコ軍も五式戦車に相当な期待と価値を見いだしていたことは間違い無かった。
メキシコ軍が戦車一個師団編成の搭乗員訓練を一通り終え、現役戦力として配備するのと、パットンが南部一帯で機甲軍編成を終えたのは奇しくもほぼ同時期だった。
不安定だった状態が安定化したという意味では両者はよく似ていたが、その心中にはかなり大きな温度差があった。
メキシコのカマチョ大統領は現状に満足していた。アメリカが取り上げたものを日本が補ってくれたのである。メキシコに不満はない。パイプラインももうすぐ完成し、日本との関係も相当な期間良好な状態を維持できそうだという見通しもほぼ立っていた。
従って、機甲師団がいますぐとこかで実戦投入されるようなこと、つまりメキシコ側から開戦する意識は全く無かった。
そのためメキシコ軍の戦車師団は揚陸地からさほど遠くないところで固まって駐屯していた。
これには日本側からもさらにいろいろと支給したいものがあるので、当面は分散させずに一カ所に集めておいて欲しいと要望が出されていたのだ。カマチョがそれを受け入れないわけはない。
その一方で五井物産メキシコ支店では、首都メキシコシティ近辺に大量のセメントを備蓄しておくように指示を受けていた。
つまりメキシコ政府は戦争が近いなどとは全く思っていないのは事実だが、少なくとも日本はすぐ戦争が始まる未来を想定していたのだった。
もちろんパットンも日本と同じである。
戦争大好きのミリタリーマニアがそのまま戦車軍団を動かす指揮官になっているのである。
しかも性格的に全く防衛戦には向かなかった。彼の戦争は常に攻め込む戦争なのである。防衛戦は考えれば考えるほど、無駄な作業だらけになるのだ。戦力の分散配置は必ずや戦力の弱体化を招くし、敵に損害を与える効率をどんどん悪くするばかりなのである。つまり安上がりに勝利を得るなら、攻め込む方がよほど簡単なはずなのだ、という十人のうち九人が陥るであろう結論にパットンも当然辿り着いていた。
従って、パットンは防衛の言葉を曲解することにしていた。防衛には先制攻撃も含まれるのである。
パットンにとって、防衛体制構築完了というのは、いよいよ敵陣に攻め入ることができるという意味であった。
わざわざ自分の領土で戦争をするのは馬鹿げているのである。敵地にある危険物を事前に処理するのが何故悪い、というのが彼の論理だった。
従ってパットンにとって、メキシコ領内にある強力な戦車師団を抹殺することは、当然の防衛行動であり、立派な自衛行動である、ということになっていた。
もっともだからと言ってあからさまに戦車師団に国境を越えさせ、敵戦車師団の殲滅に向かわせるほど無謀でもなかった。
モノゴトすべて、建前は重要なのである。
パットンは米墨国境全域で偵察行動を強化させた。
航空機での偵察と陸上部隊の秘密偵察である。
一番の目的は例の戦車部隊の配置を知るためである。
しかしこれは見事に空振りに終わった。
中隊、あるいは小隊単位で複数の基地に分散配備されていたら、その後の展開は大きく変わっていただろう。とにかくメキシコ軍は昔通りのわずかな騎兵や歩兵だけを国境地帯に配備しているだけだったのである。
メキシコ軍はアメリカ侵攻を企てているに違いないと信じていたパットンにとってこれは予想外だった。米墨国境近くに集結しているはずだと読んでいたのである。
が、その偵察結果をパットンは素直に受け取らなかった。メキシコ軍は巧妙に戦力を隠していると判断したのである。
その根拠の一つは航空偵察が予想外にうまくいかなかったことである。
リオグランデ川を越え、偵察機が越境すると即座に迎撃にメキシコ軍機が上がってくるというのだ。
しかもパイロットの報告によれば、その機の上昇力はかなり強く、速度もカーチスライト偵察機を上回っているということだったのだ。すぐに後ろにつかれ、追い立てられるようにリオグランデ川の北への戻されてしまうのである。
そのメキシコ軍機の機体はすぐ写真に撮られていた。一見するとイギリス軍のスピットファイアのようにも見えたが、キャノピーや主翼、尾翼の形状は明らかにそれとは異なっていた。
未知の飛行機をメキシコ軍は持っている、ということは、いまや驚きでも何でもなかった。戦車を持っているのなら飛行機を持っていてもおかしくないのである。
パットンはその飛行機が小型の戦闘機であり、いつも一機で飛んでいたということで、それを重視しなかった。爆撃機で無ければ機甲師団にとってはそれほど脅威ではないからである。
が、航空偵察や地上爆撃は難しくなった、という理解はした。
パットンはドイツのように最初から急降下爆撃で敵軍を叩いてから侵攻などとは考えていなかった。彼のイメージは第一次世界大戦で止まっていたのである。
従って、メキシコ軍機の存在はワシントンに報告されることもなく、メキシコに対する航空攻撃の研究を行うこともなく、そのまま放置されることとなった。
彼の理想の戦争は地上の戦争なのである。
次にパットンは敵に揺さぶりをかけ、戦車部隊を引っ張り出すことを計画する。通常言うところの、威力偵察である。が、これはすでに戦争中の国同士の間で行われるものであった。宣戦布告も無しに行えば、それこそ国際法違反である。もっともそれを事実と証明するのは非常に難しいのだが。
パットンが米墨国境に沿って、部隊編成やら視察やらに没頭していた頃、瀬島もその場所からそう遠くは離れていない場所でいろいろと動いていた。
第一は綿花の作柄調査である。そしてその生育はほとんどの地域で順調と判断されていた。
中国や欧州では戦火が依然として続いていたため、綿花の世界的な取引相場では、それまでのロンドンに変わり、コットンベルトに近いシカゴ商品取引所が支配的な立場につきつつあった。
世界での綿花の値段はシカゴの取引相場で決まる、のである。
世界全体では綿花の潜在需要は伸びているはずである。しかし戦乱のせいで、市場にアクセスできる人間は減っている。生産と需要の間を結ぶパイプは狭くなっていた。
そのおかげで綿花市場は長期低落状態だったのである。
瀬島は綿花の先物市場に手を出していた。五井物産支配下の仲買商を数社使って、買い注文と売り注文をそれぞれ出させて、価格誘導をやっていたのである。
これも瀬島にとっては、戦争の一つのステップである。軍を直接動かすことだけが戦争ではない、と各方面から学習した結果であった。
赤坂宮と出会っていなければ、瀬島はパットンのような軍人になっていた可能性が高かったのだ。
終値近辺になると大量の売りと買いを出し、値段を予定のところに納めていく。
五井物産の出す取引量など市場全体から見れば一パーセントにも満たない微々たるものだが、それでも相場を動かすことぐらいはできるのである。
瀬島は先物をほんの少しだけ市場予想よりも終値が安くなるように市場介入を続けていた。
先物が上がらないと、現物の値段にも影響が出る。長く原綿を持っていたら損をするという心理が働き、売り急ぐからだ。
やがて綿花が豊作になるという予想があちらこちらから伝えられてきた。
瀬島が企画した相場よりも現実が安くなるのにそう時間はかからなかった。
コットンベルト全域で悲鳴が上がり始めた。
農家で経営が難しくなるということが起き始めたのである。
瀬島の作戦の第二弾が発動された。
今度は農地の買収もしくは農場主への運転資金の貸し付けである。
一見、農場主への救済のように見えるが、現金を失った農場主は借金の返済が滞ることが多く、結果農場そのものが手に入るという仕掛けである。
こういう工作を指示しつつ、瀬島は慈善団体の名を借りて黒人の信徒が多いキリスト教の幹部に接近していた。
五井物産で手に入れた農地の一部を教会の管理に委ねたのである。
住む場所働く場所が得られるという噂は黒人の間ですぐ広がり、その教会の信徒数は急激に増加していくことになった。
綿花相場全体で一種の狼狽売りとでもいうように値段が急速に下落したところで、瀬島は一斉に現物先物市場で買い注文を出した。
現物も先物も市場はなおも下落を続けていた。五井物産関係以外は売り一色である。
むしろ五井物産が価格を支えている、と言えるような状況になった。
しかし五井物産はその勢いに怯まず、手持ちの資金をすべて現物に変える勢いで買い支え続けていた。五井物産は契約している倉庫という倉庫全てに原綿在庫を抱え込むことになった。
こうして相場が低迷している中で、収穫期を迎えたのである。
多くの人間が、その豊作情報で価格がもう一段安になると期待している状況だった。
が、市場は当惑することになった。多くの農場が現物相場を見て、収穫期に入ってさらに安くなる前にと、先物で収穫期分を売ってしまっていたため、収穫期になったというのに現物原綿の売り数が揃わないのである。現物価格が反騰し、先物もすぐ値が上がり始めた。
一日で、それまで一週間ほど続いていた値下がり分を戻してしまった。
そんな時、南部全体を揺るがす事件が起こった。
パットンの指示を受けた部隊が派手に動いたのである。
アメリカの機甲部隊がメキシコ国境でメキシコ軍と交戦した、というニュースが全米に流れたのだ。
これぞ、瀬島が待っていた動きである。
コットンベルトの真ん中で軍事行動勃発のニュースは綿花市況を直撃した。
五井物産が先物で買いあさった残り僅かな現物を求めて買いが殺到し、原綿の価格チャートは、天を貫く龍の勢いで上昇を続けることになった。
瀬島は、三日間だけ売買を止めた後、価格上昇が鈍りはじめるタイミングで、現物と先物ともに一斉に売り指示を出した。
五井物産と農地を持った教会は莫大な金を手にすることになった。
瀬島は知らなかったが、その金は五井物産の全資産を倍増させたのである。五井物産の北米統括マネージャーから報せを聞いた五井物産本社の経営陣は、改めて元幕府陸軍参謀というものの価値を再確認させられたのだった。それはつまり、赤坂宮は五井物産の社主同然の権威を持つ存在になったことを意味していた。
その一方で、教会の黒人社会全体に対する影響力の方も倍増することになった。
教会はこれ以後南部州各地で黒人をまとめる唯一の政治勢力として台頭することになった。
もちろん、教会の代表の牧師マーチンルーサーキングシニアの名が南部一帯で知られるようになるにはそれほど時間はかからなかった。
この国境での衝突については、アメリカ軍側の発表では、リオグランデ川岸のメキシコとの国境近くで演習中、メキシコ領内から銃撃を受けたので応戦し、逃走した部隊を追ってやむなくメキシコ領内に侵入した、ということになっていた。
場所はアメリカの最南部と言える、テキサス州のマッカラン市郊外である。
この場所はアメリカメキシコの両国にとって因縁深い場所だった。
米墨戦争、いやそれ以前からのいざこざの発火点だったのである。
テキサス州はもともと人口が多かった。
それも先住民が多かったのである。
そしてアメリカが支配する前は、メキシコ共和国に属していた。
しかしメキシコのこの原住民に対する掌握力は弱く、それを見越した白人が北部からどんどん入植していったのである。。
さらにメキシコ政府の内部の問題でメキシコ中央の行政が停滞し、テキサスはそれに反抗する状況に陥ったのである。かくしてテキサス州はメキシコからの独立を宣言し、テキサス共和国が誕生したのである。
アメリカ合衆国はもちろん、欧州の主要国もすぐにこのテキサス共和国を承認した。まるで事前に打ち合わせがされていたかのように。
怒り心頭になったメキシコ共和国だったが、テキサス共和国に対し鎮圧という行動は取らなかった。いや、とれなかったのである。内政問題が山積し、身動きが取れなかったのだ。
そしてその後すぐに今度はアメリカ合衆国がテキサス共和国を併合すると発表したのである。
メキシコからすると勝手に独立宣言して出て行ったものが今更どこにくっつこうが関係無い、というところだったが、テキサス共和国との国境が曖昧だったことが仇となる。
アメリカ合衆国側はリオグランデ川を国境にすると勝手に宣言した。これはメキシコ側がテキサスとの境界と認識していたヌエサス川よりもずっと南だったのである。つまり本来のテキサスよりも南までアメリカは自国領だと宣言したのである。
この結果、リオグランデ川近辺に砦を築き、防衛を固めたアメリカ軍をメキシコ軍が急襲したことで、米墨戦争が始まったのである。
日本が黒船来航で大騒ぎになる十年ほど前のことだ。
江戸末期に当たる、およそ百年前に起こったこの米墨戦争ではメキシコ側には屈辱の結果しか残っていない。
軍を壊滅させられ、首都メキシコシティを占領され、賠償金を取られ、領土を三分の一割譲させられたのである。この敗戦の結果、メキシコ共和国は倒れ新たにメキシコ合衆国が誕生することになったのである。
その負の歴史を色濃く思い出させるという意味で、これほどメキシコ人を恫喝または挑発できる場所はほかにない、というのがパットンの考えだった。
メキシコが驚いて恭順の意思を示すというのなら、それでよし、もし抗うというのなら、真正面から叩き潰せばいい、と計算していたのである。
これはパットン個人の考えで生まれたものだったが、ワシントンの首脳の間では決して荒唐無稽な考え方では無かった。
メキシコ軍が新鋭戦車などを揃え始めた今こそ、もう一度叩いておくべきだ、という考えの方が、新メキシコ軍を脅威に感じビクビクして過ごすよりもマシだという考え方が強かったのである。
軍の発表に続いて、それを追認し、メキシコ政府に謝罪を求めるアメリカ政府からの発表が行われた。
報告を聞き、アメリカ政府の発表を耳にしたメキシコ合衆国大統領カマチョは、激怒せざるをえなかった。が、同時に、そこにアメリカ側の陰謀、さらに言えばそれを画策した日本の陰謀の臭いがあることも敏感に嗅ぎ取っていた。
もしアメリカに謝罪などしたら、それがどんな形であれ、メキシコ国民が納得しないことだけは確かだった。だからと言ってアメリカ軍とやりあって勝てるとも思えなかったのである。
しかし、日本が一緒に戦うのだとしたら……、どうなる?
日本とメキシコの間にある関係は、今のところ公にされているのは、通商協定と技術開発援助協定だけである。軍事関係にからむものは極秘扱いなのか、日本政府、日本公館は表に出てきていない。すべて五井物産が取り仕切っていた。
カマチョは五井物産メキシコ支店にすぐに大統領府に来いと連絡を入れさせた。
カマチョからすれば五井物産は、日本政府の上層部の一角、それも普通の人間には接触も難しい一画と強い結びつきを持っていることにいささかの疑いも持っていなかったのである。
愚痴話で弱小海軍の話をすれば、強力な艦船と航空機をすぐ送ってくる、代金などの話は一切なし、おそらくこういう事態が起こりうることを最初から見通していたに違いなかった。
五井物産から大統領府に現れたのは、いつもの支店長と見慣れない若い男だった。
実は、とカマチョが話をするよりも早く、支店長の方からこんな言葉が出た。
「アメリカとのことでしたら、私どもにて対応いたしましょう。ただし、日本政府は公式には関与しません。あくまでも手を貸すのは五井物産ということになります」
「御社は国家と組んで戦争までもビジネスにするというわけですか……。まったくとんでもない会社ですな。いいでしょう。実際今のメキシコ軍もあなた方が作ったようなものだ。それにどうやら我々よりも戦争に詳しいようですし。あなた方を頼ることにしましょう」
「その信頼にお応えできるよう全力を尽くす所存です。まずは閣下には是非半年時間を稼いでください。多少、メキシコ領側にアメリカ軍がいる状態になっても目をつぶってもらって」
「半年後にどうなるのです」
「実はこの戦争は途中までは米墨戦争ですが、途中からアメリカの内戦になります。それでメキシコ軍は途中でその反乱軍に合流してもらう、という手はずを整えております。ですが、最終的には、ちゃんとメキシコの領土が増えることになりますし、アメリカとも良好な関係を復活させられるものと確信しております」
「あなたはアメリカ軍に勝つつもりなんですか?」
「少なくとも負けることはありません」
「いや、しかし、……」
「ご心配には及びません。軍関係のご指示は、こちらに控えております黒木をお頼り頂ければ間違いはありません。この男を閣下の部下である将軍の皆さんにご紹介頂けますと助かります」
「なるほど、あなた方も準備をいろいろ進めておられるというわけですか……。将軍たちに紹介するのは構いませんが、あなたをどう紹介すべきですか? 商社員が軍隊を動かすことになるのをうちの将軍たちが承服するとも思えませんが」
「では元日本軍の特務参謀という扱いではいかがです? 少しは話を聞く気になってもらえそうでしょう。実は彼はオーストラリアで戦車大隊の訓練に立ち会っていたのです。だからオーストラリア派遣部隊の将兵の方には顔見知りもいるだろうと思いますが」
「そういうことなら問題ないでしょう。それで、これから半年の間はどうしろと?」
ここで初めて黒木が口を開いた。
「アメリカ側の侵攻を許しつつ、このメキシコシティ正面に防塁を築きます。その場所、材料、ほかの準備も私どもにて準備しております」
「アメリカ軍がここまで攻め込んでくると?」
「いや、正確にはアメリカ軍にここまで来てもらうのです。そうですね、負けたフリをして敗走を繰り返すというイメージです。そしてできるだけ早く、ここまでアメリカ軍に来てもらうのですよ。この防塁は少なくともそれを乗り越えて前進することはかなり難しい代物に仕立て上げます。本当の戦争が始まるのはここからです。ここまでやってくる前線部隊にはできるだけ活躍してもらいます。現状、こちらで把握しているアメリカ軍の規模は戦闘車両が百両程度で歩兵ほかが二千人程度です。が、この防塁を抜くことはその十倍の戦力でもまだ難しいでしょう。だから彼等の前進はここで終わりです。ここでずっと戦闘ごっこを愉しんでもらいます」
「というと、この部隊をいつまでも排除はしないと?」
「まあ、そういうことです。折角ここまで来てくれたので、戦闘の相手ぐらいはしますが、部隊を壊滅させたりはしません。できるだけ長く戦闘を続けさせたい。こちらとしては応戦するフリ程度の攻撃に終始します。我々が本当に標的にするのは、この部隊に向かってアメリカ中から運ばれてくる莫大な人員と補給物資です。そうですね、一ヶ月もしたらアメリカ南部の戦力のほとんどをここに運び込ませることになるでしょう。そのためにも、この長くなった彼等の補給線は大事にしないといけないのですよ。そしてこの状態で数ヶ月もすれば、アメリカ南部は軍事的にはスカスカになります。そこから温存していた部隊を西から順次アメリカ領内に侵攻させていきます」
「前の戦争の時は、カリフォルニア側、メキシコ湾側、それぞれから海上戦力をぶつけられて我が軍は壊滅しましたが、そちらの備えは?」
「先日届いた部隊がうまく処理してくれるでしょう」
「数はともかくあんな小さな船にそんな能力があるのですか?」
「戦闘訓練を見た日本の現役海軍少将が絶賛したそうですから、まず大丈夫でしょう。それと一応日本にはまだバックアップするためのオプションがいくつか用意されているとのことです。最初はいろいろと苦しいお立場になるかと思いますが、必ずや閣下にとって良い結果になりますから、どうかご安心を……」
「わかりました、あなたと日本を信用することにしましょう。どうかメキシコのことをよろしくお願いします」
「では、早速ですが、このアメリカ軍の侵攻路となるメキシコ湾沿い土地の住民に避難命令を。できるだけ海岸から離れて山岳方向に逃げるように誘導してください。それからメキシコ軍の動員、アメリカに対する非難声明と宣戦布告、さしあたり、この辺りを順次実施して頂けますか。私も日本他、関係先に必要な準備をさせて頂き、その上で閣下の将軍の皆様と今後の対応について具体的な話をさせていきたいと思いますので」
翌日、カマチョによって、お前の方こそ謝罪しろ、的なアメリカに対する非難声明が出され、一週間と定められた回答期限を待った上で、メキシコはアメリカに宣戦布告した。
黒木はメキシコ軍の大統領直下となる参謀総長と面会した。大統領から、直々に日本から派遣された軍事顧問という形で紹介されたのである。
すぐに若手の参謀、さらに戦車軍団としてオーストラリア訓練に参加した将校を集め、全体の作戦計画の説明を行った。
さらに翌日からは、彼等を連れ、首都メキシコシティの周辺調査を徹底的に行い、対戦車陣地の場所の選定と、その仕組み、さらにどの部隊がどの地区を担当し、いつまでに防塁を築くのかなどの指示を行わせた。
メキシコ軍は組織的に未熟であり、組織として部隊を動かすこと自体に馴れていなかった。この結果、事実上、黒木が参謀総長の役割を代行しているようなことになっていった。
ただアメリカ軍がメキシコ領を侵犯したというのに、そっちの方は、避難指示だけで全く応戦するための軍を派遣しないことに対しては、かなり裏では批判が出ていた。
察したカマチョが、裏で不満を持っている将軍一人一人を呼び出しては囁いていた。
「黒木の言う通りにさせておけ。失敗したらしたで日本から何某かの補償はわしが必ず分捕るから。それでもいやだ、というならお前が全責任を取れ。そういうことなら話を聞くが……」
メキシコ軍の指揮系統が安定するのは早かった。




