綿花
オーストラリアを離れた瀬島が向かった先はロンドンである。
ドイツのUボートに襲われる危険が全くないわけではないが、物流含め大西洋の海路は機能していた。
彼の新たな仕事は、ロンドンの中のシティと呼ばれる金融街で、投資運用を管理する、というものだった。実際に彼が証券の売買をやることはないが、そういうトレーダーを監督する仕事、だと説明されていた。もっとも本人も含めてそれは表向きの説明だと理解されていた。
シティは情報の宝庫なのである。
世界中に広がるイギリス連邦諸国から集まる各地の情報こそ、イギリスが世界に君臨する力の原泉でもあった。それは時には利益を生むし、損を避けることもあるし、あるいは戦争を引き起こしたり終わらせたりすることもあった。
つまりアメリカに入国しないで、アメリカの内情を探るのに最もふさわしい場所だ、ということでもある。
赤坂宮は語っていた。一度でもその国に入国したら、それなりに身元は調査されるだろうし、記録もしっかり残されるだろう。政府の職員や軍人なら絶対に見逃すことはない。だから、調査の最終段階まで入国はするな、と。
入国してゼロから情報を探して嗅ぎ回るなどということは絶対にやるな、と釘をさされていた。
ちなみに、この理屈で、元駐米公使だった黒木にはアメリカの件に関わらせなかったのである。身分を民間の商社員に変えていることなど、偽装どころか、怪しさをアピールしているようなものなのである。その点、瀬島にはアメリカへの渡航歴は皆無で、まだ基礎的な情報はアメリカ側にはほとんど無いはずだった。
瀬島は無事ロンドンに到着した。
港に出迎えにきた五井物産の駐在員からロンドンの近況を聞いた。
時折りドイツ空軍の空襲があるとはいえ、英空軍の防空体制がかなり有効に機能していて危険は少ないという説明を受けた。もっとも、バトルオブブリテンがあった、一九四〇年の八月九月はひどいものだったらしい。当時のイギリスの防空体制は穴だらけで、もしあの状態がもうあと一ヶ月続いていたら、さすがのチャーチルも降伏を決意していただろう、という説明もあった。
こうしてロンドンの近況の話を聞かされながら五井物産ロンドン支店に入ると、すぐに総支配人室に通された。
「君が瀬島君か、ようこそロンドンへ。しかしまさかオーストラリア経由とはね。真冬用真夏用全部の服を持ち歩かないといけないから大変だね。イギリスは初めてなんでしょう?」
「はい、どうぞよろしくお願いします」
一通りの自己紹介やら季節の挨拶などの当たり障りのないやりとりを終えると、瀬島を支店長室まで案内してきた男が部屋を出て行った。すると、それを待っていたかのように支店長は急に瀬島に歩み寄り小声で話し掛けてきたのである。
「君は幕府の中枢にいた俊英だと聞いています。我が社に来られたことも普通に商人をやるというのではないということも含めて。それでちょっと聞きたいのですが、君にもチャーチルへの面会指示は出ているのですか?」
「チャーチルですか? それは全く聞いていません」
「そうですか、では別口の話ですか……。いや、そう言えば瀬島君はいつ日本を発ちました?」
「えっと、かれこれ半年以上前になりますね」
「なるほど、君を巻き込みたくてもそうはいかなかったということになりますね。わかりました。チャーチルの件は忘れてください」
「は、はあ」
チャーチル? 今頃イギリス政府と接触?
瀬島はすぐに胸のうちでその答えに辿り着いていた。
赤坂宮のやりそうな事ならすぐ分かるのである。
今、日本ではチャーチルが喉から手が出るほど欲しいであろうものを秘密裏にではあるが絶賛生産中なのである。
戦車、飛行機、各種船舶などなど。
たぶんあれを売りつけるつもりだ。
アメリカが国内法のせいでイギリスに販売ができない武器の数々は、イギリスに売れない理由は日本には一つも無かった。
そして、これが赤坂宮の真の狙い、米英の間にくさびを打ち込むことであることは間違い無かった。
そして赤坂宮がやることなら、チャーチルに接触してイギリスに武器を売るだけで終わらせるつもりはないだろう。
やっぱり殿下は本気なんだ……。
こっちもぼやぼやしていられないな。
瀬島は総支配人室を辞去し、自分が任されることになった業務部の現地スタッフ達と面会しに行った。
オーストラリア、メキシコに続き、イギリスでも五井物産の電信網が、日本の国策を伝える重要なインフラとなるまでそうたいした時間はかからなかった。
日本公館を全く通さない通信は、さすがにルーズベルトにもヒトラーにもスターリンにも全く察知されることは無かったのである。
それからおよそ一ヶ月後、貨物を満載した貨物船が次々と名古屋港から出発していった。
もちろん目的地はメキシコとイギリスである。
五式戦車は、これまでの生産数およそ二千両のうちおよそ八十パーセントに当たる千六百両が外国軍向けとして作られたことになったのである。
瀬島はロンドンでの滞在を三ヶ月ほどで切り上げ、いよいよアメリカニューヨークに向かうことになった。
転勤は、ニューヨークでのトレーダーを束ねるマネージャーに就任するため、ということになっていた。しかし実のところニューヨークでの取引など五井物産にとっては全く重要では無かったのである。
というのも、通商協定が破棄されて以来、いつ在米日本資産凍結となるかわからない状況だったので、アメリカを取引の流れから外すのが当たり前になっていたからだ。
日本が必要な資源で、今まで中国、アメリカから調達していたもののほとんどはイギリスの勢力範囲からの調達へと切り替えていたのである。
五井物産から見たルーズベルト政権というのは日本を非難するだけ非難し、経済封鎖一歩寸前までやってのけた明確な反日政権である。
さらに、東条内閣が愛想をつかし、まともに反応しなくなったことで、その憂さ晴らしなのか、米国に進出した日本企業をことあるごとに目の敵にしている厄介な政権なのである。
もっともそこは転んでもタダでは起きない商社である。実利にすぐ結びつかなくても、嵐が通り去った後の商権を確保すべく、商売にはならなくても、あるいは日本の国益には直接結びつかなくても、さまざまな活動は継続させていたのである。
アメリカの産品を日本向けに輸出することは出来なくても、例えばイギリスやオーストラリアへ輸出するビジネスを日本の商社が手がけることまでも禁止されたわけではないのだ。そういう形でイギリスやオーストラリアへ輸出されたものが、たまたま別な日本の商社によって買い付けられ日本へ再輸出されることになってもそれは単なる偶然と言えるわけだ。
アメリカだけでやる経済封鎖など怖くないのである。
瀬島の見たアメリカは、不況でもなければ好況でも無かった。おそらく普通というのがもっとも適切な表現だったろう。
ただ、今までが大恐慌から脱出するためのニューディール政策の効果で良すぎたので、景気拡大が減速すると人々に不満が溜まりやすいということらしかった。
ヨーロッパでは派手な戦争が続いている。戦争は巨大な消費である。武器兵器は輸出出来なくても、衣料品や食料、医薬品、さまざまなものがイギリスに向けて輸出されていた。
イギリス以外のヨーロッパ市場もアメリカは中立国なので一応それなりに輸出はできた。
しかしアメリカ政府がそちら向けの方は様々な規制を設けていたのでビジネスそのものは奮ってはいなかった。
同様に日本向けのビジネスも全く不可解な理由でさまざまな妨害を受けていた。
そして最近何故か、メキシコ向けのビジネスが打ち切られることが多くなってきた。
アメリカの政府主導による輸出制限は、アメリカの企業にとってはすべて不満の要因になっていたのである。
市民の空気、あるいはマスコミは、もっぱら内政問題に関心を向けていた。つまり原因はともかく外国向けの注文が減ったことを内側から表現すれば、失業者数、失業率、雇用という言葉になるのである。
それらはルーズベルトがこの時もっとも気にしていた言葉でもある。
もっともそんなことは瀬島はアメリカに乗り込む前にロンドンでじゅうぶん把握していた。
シティでの勤務で集まったアメリカ関連の情報を整理しただけで、アメリカについて瀬島が知りたかったほとんどのことは調査が出来たのである。
さらに僥倖だったのは、別口で進められていた日英間の兵器売買契約の仲介に五井物産が噛んだことで、イギリス政府とのパイプが格段に太くなり、米英間にあった各種秘密協定の中身がかなり知れたことも大きかった。
つまりアメリカ側の技術開発がどういう分野でどれくらい進んでいるか、あるいはどの会社がどんな技術に深く関わっているか、などなどかなり詳細に分かるようになったのである。
ルーズベルト政権が中立法によって行動を制限されていて、イギリスへの武器援助ができない、という事情も明確になった。ルーズベルトの最大の敵はアメリカの世論だったというわけだ。
三国同盟が継続していたら危険だったわけか……、と瀬島は同盟破棄を命じた赤坂宮の英断を思い出し、ホッと胸をなで下ろしたものだった。
そこで瀬島の関心をことさら大きく引いた情報が二つあった。
一つは、ヒトラーが原子爆弾というものの研究開発を進めており、これに対抗するため、アメリカでも同じモノを作る研究が行われていること。
もう一つはルーズベルトの肝いりで、これまでに作られたどの飛行機よりも大きく、早く、高空を飛ぶ長距離爆撃機を目下アメリカは開発しており、それを二百五十機アメリカ軍が購入するという契約が既に結ばれているという情報だった。
どちらにもその計画の一部にイギリス企業が絡んでいたため、情報が漏れたのである。
これはという情報はとりあえず五井物産の電信網を通じ、幕府に届けるように手配はした。
しかしアメリカに乗り込むことを決意した瀬島の関心は、そういうこととは全く違うことに向いていたのである。
彼の現下の関心は綿花に向いていた。
もっとも、瀬島に綿花への関心を植え付けたのは元を糺せば赤坂宮であった。
赤坂宮は木綿が世界を動かしている、と語ったことがあったのである。
幕府で世界各地の資源調査をやり始めるよりもかなり前のことであり、元から赤坂宮には木綿について特別な思い入れがあるようだったので、このことが記憶に残ったのである。
日本の木綿は、長らく輸入に頼っていた。それが一般向けの普及品になるきっかけになったのは十六世紀から始まった栽培がきっかけだった。
つまり信長にとっては、木綿というのは市井の金を集める時代の波に乗った人気商品だったのである。
瀬島は、その後、商社員としてイギリスと深く関わり合いを持つことになり、イギリスの植民地経営の根幹に綿花があることを知った。
イギリスが産業革命を起こし、それが飛躍的にイギリスの国力を高めたことは知っていたが、世界中からどのように冨を集めるに至ったのか、その具体的な話はあまり知らなかったのである。
そもそもヨーロッパの人達は綿花を知らなかった。繊維と言えば羊毛だったのである。従って綿花製品が東方から伝えられた際も、長いことそれが動物由来のものだと信じていたほどだ。
それが大航海時代に入り、イギリスがインドで綿花の生産拠点を得るに至ったのである。
動物由来の羊毛と違って、綿は綿花の作付け面積を動かせば生産量を自在にコントロールできる。莫大な潜在需要を満たす大幅な増産も不可能ではないのである。この綿花の優位性は、後に石油から化学合成された合成繊維が登場するまで揺らぐことは無かった。
イギリスは、植民地インドで大規模な綿花栽培を行い、それを独占的に仕入れたのである。そして機械力を使った紡績業によって、多種多様、豊富な衣料品を生産し、それをヨーロッパ各地で売り捌いたのであった。
全世界、どこであっても人間にとって価値あるもの、と言えば第一はもちろん食料だが、それに続いて普遍的な価値を持つのは衣料品であり、その衣料品を作る材料として生産量を自由自在にコントロールできる綿花は、各国の経済に深く関わっていたのである。
イギリス植民地としてスタートしたアメリカも当然この流れの中で誕生している。
南部にコットンベルトの名で呼ばれるほど巨大な綿花農場が整備され、この農場を維持するためにアフリカから労働力として黒人を輸入することになったのである。
そして南北戦争では、南部連合は自分たちが綿花地帯であることを過信し、綿花の出荷を抑えればイギリスが必ず介入し南部連合を承認するだろうと読み、それをアテにしていたのだった。
実際には、綿製品生産国の二大勢力、英仏が揃って、アメリカの原料綿から生産が始まったばかりのエジプト綿に切り替え南部連合の目論見は破綻してしまう。
結果的に南部連合はイギリスの承認も得られず、経済的にも困窮し敗戦の一因となったのである。
つまり綿花という農産物は世界政治を動かすほど経済的に巨大なのである。
この時代、原油はその価値が世界全体では定まっていなかった。原油を必要とする国は先進国だけだったからだ。商品相場の代表は、穀物と綿花だったのである。
その多様な加工品の数々と潜在需要の大きさに目がくらんで、農場を急拡大させ、相場を崩してしまって身の破滅を招いたなどの話のネタは無数にあった。
こんなことがよく起こるのは、綿花というものは品質のバラツキが大きく、一方、それに応じた形で使い道も幅広い。それで、世間の流行によって意外なところの原料綿がある日突然急騰する、などの市況の乱高下が、それほど珍しくなかったからである。
従って綿花市場は世界の情報と金が交錯する場所なっていたのである。
毎年の主要生産地での天気予報から始まり、収穫量予測、その品質などの情報が飛び交い、それらが様々な思惑を呼び、現物価格、先物価格を形作っていくのである。
シカゴはこの現物、先物を扱う商品市場では世界最大級の大きさを誇っていた。
瀬島が選んだ戦場である。
アメリカを倒す。そのための作戦はもう瀬島の頭の中に描かれていたのである。
しかし、もしCIAやFBIが瀬島のこの意図に気がつき、彼の行動や通信を監視したとしても、彼をクロと決めつける証拠を押さえることはまず不可能だっただろう。
その後の瀬島の動きは、ニューヨーク、シカゴの市場や、南部諸州のコットンベルトと呼ばれる綿花農場を転々と移動し、連絡と言えば、綿花の市場価格と、作柄情報、それらをベースにした売買の指示ばかりだったからだ。
アメリカ軍の施設どころか、アメリカ連邦政府、あるいは各州の州政府関係の施設にすら近づいたことはないのである。
東京の五井物産本社より幕府にお知らせしたいことがあると緊急の面会申し入れがあったのは、その数日後だった。
赤坂離宮に現れたのは、あの副社長である。
応対したのは赤坂宮本人と瀬島に代わり新たに最近その側近役に収まった井上成美少将である。
普通の家にあるような狭い応接室で男三人だけの密談が始まった。
赤坂宮には民間人の来客など普通はいない。政府関係でも永田町や内幸町の住人が訪れることもない。せいぜい首相ほか数人の閣僚だけだ。
法律で出席が義務付けられた国事行為というのもほとんどなく、形は摂政だが、天皇の国事行為はご本人がやっている以上、摂政が代理を果たす機会は皆無だった。
肩書きとして作り上げた征夷大将軍については、成文としての規定はまだ出来ていなかった。目下幕府法という名で法案審議中ということになっていた。といってもその法案はたった二つの条文だけのものだったのである。
即ち、
第一条 幕府を設立し、外交方針を決定し陸海軍を統率する。
第二条 征夷大将軍が幕府を総攬する
というものだった。
立法自体に障害があったとすれば、それは既存組織の根拠法とどう整合を取るのか、という部分である。
しかし、片や官僚の作り上げた政府、軍の既存組織と、天皇の統帥大権を持つ皇族がトップの組織が、天皇主権の憲法下で権力闘争をしたところで結果は見えていた。
要するに法律で事前に調整などするよりも、幕府に好きにやらせた結果をそのまま法律の世界に落とし込む方が合理的なのである。
政府機関、軍、民間企業、すべてが幕府を腫れ物扱いしていたのはこういう背景があったのだ。
そういう意味では赤坂宮は天皇とそれほど変わらないほどの雲の上っぷりだったのである。
幕府にとにかく一報をいれるだけ、というつもりで幕府を訪ねた副社長にとって、赤坂宮の出現は想定外のことだった。
しかも彼にとって、この想定外は二度目なのである。
「ほ、本日は、突然のお目通りを賜り、きょ、恐悦至極に存じます」
「確かこうしてお目にかかるのは二度目でしたね。御社にはいろいろと幕府政務にご協力頂き大変助かっています。それで、本日は、火急の報せがあると聞き及びましたが、瀬島か黒木に何かありましたか?」
赤坂宮の口からいきなり瀬島と黒木の名前が出たことに副社長は驚いた。幕府側からお前のところで預かれと話を持ちかけられ、社内規則をいろいろと無視して無理矢理ねじ込んだ二人の名前をすぐに出したのは、あの二人が普通以上に赤坂宮の信頼を得ているという証拠でもあったからだ。
「は、それが、瀬島……から、連絡があって、アメリカ政府の動きについてご報告をしたいと思いまして」
副社長は、瀬島の名を出した後、ついそこに「様」をつけたしてしまいそうになったのを、なんとかこらえた。今は一応自社の社員で部下でもある。
「ほう、アメリカですか。それでどのようなお話ですか?」
「それが、二つあります。一つは今までの爆弾とは全く違う、原子爆弾と呼ばれる非常に強力な爆弾の開発をアメリカが続けているというものです」
「強力な爆弾、原子爆弾ですか。なんでそんなものを」
「なんでもドイツが同じものを開発中だとか。それで対抗するために用意するのだとか」
「それは本当に実現可能なものだという確証は得られているのですね?」
「アメリカ、イギリス、ドイツの科学者がその可能性を認めている、という情報は入っています」
「分かりました。早速我々の方でも情報を集めてみましょう。それでもう一つの情報と言うのは?」
「ルーズベルト大統領がこれまで作られたどの飛行機よりもはるかに巨大で、早くて高空を高速で遠くまで飛べる爆撃機を二百五十機買う契約に署名したという情報です」
「その爆撃機というのはまだ完成していないのですか?」
「完成した、という情報は確認されていません」
「研究中の原子爆弾に、開発中の爆撃機の購入契約ですか、強い計画性が感じられる話ですな。なるほど大変ありがたい情報です。本日はわざわざご足労頂きありがとうございます。申し訳ありませんが、すぐ手を付けなければならない仕事がいろいろと残っていますので私はこれで失礼いたします。井上、後をよろしく頼む」
赤坂宮はこう言い残すとそそくさと応接室を後にした。
ふだんはそんなことは言わない。井上と常に行動を共にしていた。
井上は当惑しながらも適当に副社長としばらくとりとめのない話をしてもてなし、三十分ほどして赤坂宮の執務室へと戻った。
自分の机に向かっていた赤坂宮が顔を上げ、入室してきたばかりの井上を見た。
その顔は、異様に興奮したような、まるで欲しいものをあてがったもらった少年のようなキラキラとした目をしていた。
「井上、原子爆弾は知っているか?」
「いえ、今日初めて聞いた言葉です。いったいどんな兵器なんですか?」
「以前、京都帝国大学でお世話になった時に、物理学の教授が話していたのをちょっと聞いただけだが、モノの重さというのは、熱に変わるものだそうだ。この原子爆弾というのは、それを利用したものだろう。火薬などよりもはるかに大きな熱が出ると言っていた。もし実現できれば、という但し書き付きだけどな。荒唐無稽、破天荒な話だと思っていたが、まさかドイツ、アメリカ、イギリスの科学者が揃って認めているものとは知らなかった。アメリカの研究がどこまで進んでいるかはともかく、日本でどの程度研究されているものなのか早急に調べて欲しい」
「は、かしこまりました。爆撃機の方は?」
「そっちは幕府の職員にしたら、ずっと前から課題に挙げていたものが現実化したというだけだからな。ルーズベルトが、その爆撃機をどこに出すつもりで用意させているかは知らんが、航空機とレーダーをおっかけている連中に今の話を流してやってくれればいいだろう。それからアメリカ政府が航空機を買う契約を結んだとして、それは実際に機体が配備されるどれくらい前になる話なんだろう。海軍省だったらどんな状態だった?」
「話の中身、開発の難易度にもよりますが、自分が担当していた頃は、大きな物件なら、予算期中に完了させたいという思いがありましたので、期初に契約、期末に納品支払いのような感じにすることが多かったと思います」
「ふ~ん、まあ国家予算は単年度予算だからそれは重要だな。アメリカも同じだ。とするといかにルーズベルトが勇み足だったにしても二年先ってことはないな。全量一括でとはいかないだろうが」
「一年後ということなら信憑性は高いはずです。契約したぞ、という事実を受けて本格的な量産準備が始まるはずですから。それぐらいの準備期間がないと辛いでしょう。まして、そんな今までになかったような新型機というのなら準備は重要です」
「では栗林に一年後が危ないと伝えておけ。レーダーと迎撃機の準備を怠らないようにともな。念のためだ」
「かしこまりました」
「それから五井物産にも」
「瀬島に何か?」
「いや、瀬島ではない。瀬島がどうやら本格的に活動を始めたようだし、ルーズベルトの隠し球がどんなものかが少し分かったからな。こちらも少しスピードアップを図りたいんだよ。メキシコの進捗は何か聞いているか?」
「カマチョ大統領から、陸軍の強化について大変感謝しているという言葉があったこととともに、メキシコはメキシコ湾、太平洋と海に挟まれた国であるにも関わらず、まともな海軍が無いので、何かとアメリカの干渉を強くははね付けられない、というような愚痴を聞かされたという報告がありました。もっともそれは援助への不満ということではなくて、殿下の手回しの良さに、メキシコ側がかなり慌てたようだ、と説明がついていましたが。とにかく代金代わりの原油輸出を早められるように、パイプライン完成前にタンクローリーで太平洋岸まで原油を運ばせると言ってきました。まあ、量は限られるでしょうけど。メキシコ側の誠意といったところでしょうか」
「そうか、海軍の強化か、確かに重要だな。井上、そういえば例の、なんて言ったかな。小さな雷撃艇を作れと言ったやつだ。あれは出来たのか?」
「ああ、それならみんなシャチと呼んでますね。この間第一次生産分が上がったと報告がありました」
「試験結果をまだ聞いていないが」
「搭載する魚雷の方の出来上がり待ちだったんです。佐世保沖で老朽艦を的にした実験をするはずです。確か来週ではなかったかと」
「そうか、ちょうどいい。井上、その試験に立ち会ってこい。そしてお前の目で見て、モノとして使えると判断できるなら、大至急最初の生産分をすべてメキシコに回してやれ。少なくとも太平洋とメキシコ湾に、それぞれに陸軍風に言えば一個大隊ぐらいあればそれなりの戦力と言えるのではないか? 通常の警備艇的なものなら連中だって持っているだろ。要するにアメリカの大型軍艦を簡単に葬れる性能のものをメキシコが持っている、という状態になればいいのだ。それと飛行機も必要だろう。偵察と迎撃に使えそうな小型のやつを三十機ぐらいくれてやれ。爆撃機は、まあ必要ないだろ。それはそれでいいとして、黒木は今メキシコか?」
「瀬島がイギリス入りした頃にはすでに」
「アメリカとの国境地帯で噂を流させろ。メキシコ産の原油が日本の技術で大量生産されているとな。まあ、嘘でもなんでもないわけだが、それをじわっとアメリカ側に悟らせたいんだ。そうだな、パイプラインの建設工事に使う人員の募集をその辺でやらせたらちょうどいいんじゃないか? 雇用を求めてアメリカ人が越境してくることもあるのだろう?」
「は、はあ。それだけでよろしいので?」
「まだ早いとは思うが、念のためだ。黒木にメキシコ政府から軍事関係の相談を持ち出されたら相談に乗ってやれ、と一言いれてくれ」
「瀬島ではなく黒木で大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だよ。元々外交官で相手を見る目は確かだ。それにオーストラリアでジューコフの指導を瀬島と一緒に見ている。あれが、そういうところを見逃しているはずはない。軍略は文字を知っていることが重要なのではない。事実をどう判断するかが一番重要だからな」
「……はあ、そういうものですか……」
「メキシコはそれぐらいでいいだろ。後はイギリスか……。イギリスのフランスへの再侵攻予定は何かつかめたのかな?」
「いえ、おそらく我々の送った第一陣の積み荷の中身を検証してから、ということではないかと」
「なるほど、当然だろうな。イギリスに第一陣が荷揚げされるのは?」
「洋上四十日かかると聞いていますから、あと三週間はかかるのではないかと」
「スエズは通れるんだろ?」
「そこは問題ないのですが、地中海がドイツ側に抑えられています。なので南アフリカ南端を回るそうです。地中海が通れれば十日以上短くできるそうですが。まさかイギリス行きを伏せて中立国の日本船だからというわけにもいきますまい。ナチスなら怪しいとみたらすぐ潰しにかかるでしょうし」
「ああ、チャーチルの準備が整う前にヒトラーに知られたくはないな。安全第一で進めてくれ。では今やれることはこれぐらいか。独ソ戦はまだ膠着状態かな?」
「ソ連もドイツもまともに情報を出す国ではありませんから、正確なところはわかりませんが、スイスの大使館からの報告ですと、東部戦線のどこの戦場でも、独ソどちらが勝っても負けても、犠牲者の数が異常に多いという話があります。そして単に軍人だけが被害者になっているのではないようで、どうも広範囲で住民の逃亡、混乱、反乱めいた動きが出ているようです」
「住民の反乱? するとレニングラードのような話か?」
「おそらく。それと焦土作戦を独ソ双方がやっているという話もありますし、両軍ともに、部隊に降伏を認めていないらしく、孤立した部隊が包囲され取り残され殲滅という状態が頻発しているようです」
「狂気の沙汰だな。軍人はともかく、住民は踏んだり蹴ったりというわけか……」
「ヒトラーは悪魔か英雄か、織田信長のような存在なのでしょう」
「何、織田信長? まさか。それは断じて違うぞ!」
「は、はあ。まあそれでもいいですけど。殿下は信長がお好きなんですね。しかし何故です? 私は結構似ているような気がしますが」
「いや、断じて違うぞ、絶対そんなことはない」
「領土拡大に貪欲ですよ、どちらも」
「確かに戦争で領土拡大を図るところは似ていると認めよう。だが信長はもともと一つの国がバラバラにされ、互いに争う状態になった中での話だ。初めから縁もゆかりもない国に攻め込むヒトラーとは違う」
「そうですか? しかし比叡山の焼き討ちで相手を皆殺しにしたとか、似ていませんか?」
「そうだな。比叡山以外にも伊勢長島とか似たようなものがある。だが、それらには皆殺しにしなければならない合理的な理由があった。比叡山は世の中への影響力が大きすぎた。あれが自分たち以外の権力を全く認めないという態度をなんとかしなければ、領土の経営など誰がやってもできないからな。しかしあの当時、比叡山は仏教の権威を利用し、自分たちを不滅の存在だと広言していた。多くの住民はそれに真に受けて怯えていたのだ。問題はそれが信長への不服従につながっていたことだった。住民に罪が無いとすれば、それを是正するには比叡山の言っていることが嘘であることをどうしても証明する必要があったのだ。伊勢長島も同じだ。こちらは独自に揃えた鉄砲への信仰が住民を縛っていた。反逆を明確にした者を罪人とする以上、その秩序確立を世の中に印象づけないとどうにもならないとかな。しかし、抵抗する意志もない住民を皆殺し、それも意図的に餓死させるなど、文字通りの皆殺しを狙った方法を取ったことなど一度も無いぞ。それにだいたい戦争のやり方も信長ほどはうまくない。むしろ下手だ。今までの戦争で勝ちが拾えたのも、部下が優秀なのと武器に助けられている面が大きい。ヒトラー自身は狂信者と言うべきだな。視野が狭すぎる。あれでは信者以外誰も救われない。それが証拠に、ドイツは占領地を増やしたと言っても、ヒトラーの下について戦っているのはドイツ人ばかりだろう。あれが信長だったら、元敵兵もたくさん自分の部下にしているところだ。要するに占領は出来ても統治はできていない」
「はあ、そういうものですか。認識を改めます」
「うむ。そうしてくれ。独ソ戦は……そうか、そんなことになっているのか。それなら、チャーチルは……、フランスへの再上陸は二年後ぐらいか……。井上、瀬島に連絡することができた」
「は?」
「だから、瀬島に二年後が英軍のフランス再上陸のタイミングになると連絡を入れろ」
「何故二年後と言えるのでしょうか?」
「井上がさっき言った理由と同じだよ。軍人だって役人なんだろ」
「あ、予算……」
「いいか、ヒトラーの頭の中では、このソ連侵攻計画は、もう終わっていなければならなかったはずのものだ。これまでのドイツの戦いはほとんど一ヶ月で作戦を終えている。が、今回は作戦開始からほぼ一年も経つというのに、今もまだ終わっていない。ということはソ連侵攻のために用意していた備蓄はすべて使い果たしている。今はドイツ本国の本来ソ連以外の敵に備えた戦備を消費してるんだよ、東部戦線で。しかも今の報告でいくと東部戦線では独ソ双方が凄まじい消耗戦をやっているのだろう? こんな戦いをしていたら、国土が広く石油ほか資源を持っているソ連が圧倒的に有利だ。膠着状態が続くということはドイツの立ち位置がどんどん敗北側に傾いているということだ。ヒトラーの頭ではドイツの方が工業生産力が上だ、という前提だろうが、それは間違っている。我々も生産しているからな。いかにドイツといえどもソ連と日本、イギリスの三カ国合計生産力との勝負には勝てない。ドイツ側の人口がいくら多くてもな。手に入れたばかりの土地が生産力を発揮しだすのには相当の時間がかかる。占領地の役割なぞ限定される」
「それは蒋介石相手に我々が陥りかけた状態と同じ、ということですか」
「ああ、そうだ。勝利にこだわる相手であればあるほど占領地をエサにした消耗戦は効く。ヒトラーは完全勝利の亡者のようだからな、ドイツ軍の崩壊はまず防げないだろう」
「生産力だけが勝敗を決めるものとは思えませんが」
「戦い方を工夫し、物資の消費と損害を抑えているのであれば、その通りだ。占領地をむやみに増やすよりはよほどいい。だが、ヒトラーにはそういう知恵はないらしい。モノは工場の生産で短い時間で回復できても人的被害は簡単には回復できないしな。勝利が重要なのではない。戦争終結時の残存戦力の大きさが重要なんだよ、国と国との戦いでは」
「なるほど。勝ちにこだわるとそれは確かに見失いがちになります」
「目先の敵に夢中になった時が危ないのだ。こんな消耗戦を続ければいずれドイツ軍はソ連軍の半分、いや十分の一以下というような状態に必ずなる。ドイツとドイツ占領地全体に広く分布していたありとあらゆる国力が今どんどん東部の最前線に集められているはずだ。が、そんなものがいつまでも続けられるわけはない。問題は、限界がいつ来るかなのだが、そのタイミングを見極める上で重要になるのは開戦からの経過時間だ。予算編成ってのは、今までに無かったことをやる時は、資源がゆるす限り、結構荒っぽい見積もりでも認められるものだろ。しかしだ、それが二期目になるとそうはいかなくなる。必ず前の期の実績で縛りが出る。そうだろ?」
「はい。あ、だから……」
「軍事作戦も基本的には全く同じだ。予め戦さに備えて様々な物資や食料を必要な量を予測計算して準備する。それが予算だ。だから軍事行動は予算が終わる前に終結させるのが基本だ。しかし、それが前代未聞の終わりが見えない消耗戦になっているとしたらどうなる? 新戦力、部隊増強、予備戦力、新規編成部隊、呼び名はいろいろと変わるが今まで想定していなかったという意味では同じ言葉だ。当然国全体の資源を圧迫することは避けられない。そして苦しくなった国は全体を必ず絞るんだよ。ヒトラーがどんなに強大な権力を持っていても国全体の資源は増やせない。だからヒトラーでもどうしようもない。そうしないと予算が紙の上でもまず成り立たなくなるからな。そんな破綻した紙を承認できるわけがない。一方、余裕のある国は次の期で予算を維持も増額もできる。つまり予算が節目を迎えると現実も変わっていくんだ。ちょうど賃貸契約の節目で家賃が払えなくて店を畳むみたいにな。ソ連侵攻作戦開始からちょうど二年経った時、つまり一年後だが、それが大きく流れを変えるタイミングになるという予想の根拠がこれだ。スターリンは抜け目のない男だ。間違い無くそのタイミングを狙って何か仕掛けるだろう。全体予算が絞られたドイツが攻勢に転じたソ連に応戦するためには、西部に貼り付けていた部隊をこれまで以上に東部へ送り続けるしか対応方法はない。すかすかの西側占領地を維持する経費はほとんどかからない。部隊がいないのだからな。さて、その次の予算期で、西部戦線はどうなると思う?」
「前年度の数字に縛られると、東部に増やした分以上を西部向けでは削減される……」
「まあ、そういうことだ。二年後がソ連反攻、三年後でイギリスの再上陸。これでドイツは詰む。これがこの先のシナリオになる」
「は、はあ、そういうことですか。わかりました。……では、私はこれで失礼いたします」
赤坂宮に仕え始めて日の浅い井上にとって、新たな主との接し方については、いろいろと模索中であった。「わかりました」という言葉を赤坂宮に対し何度も使った記憶があるが、本当に分かった気になれたことは少ない。いつも何か納得が追いつかない感じなのである。
海軍省で米内や山本の下で働いていた時、こんな思いはしなかった。意見の相違があっても、相手の説明を聞けば十分納得できたのである。が、赤坂宮に対しては、そういうふうにはなれなかった。
発想の根っこのところで何かが決定的に違う、そのことだけが最近分かってきた。
本日の収穫として、不用意に織田信長の名を出すと殿下を妙に興奮させることになるので今後控えること、という注意が新たに彼の備忘録に加えられることになった。