胎動
その頃、愛媛県今治市では、あまり船らしくない船の進水式が行われていた。軍からの注文で作っているのだが、全くの新設計で海軍工廠が設計したものを海軍工廠ではない、民間の会社に建造を任せているという意味でも変わっていた。
武装は何もなく、内部は空っぽで、三段の棚板があるだけの船なのである。
構造から見れば輸送船以外には思い当たらないのだが、輸送船にしては大きさが違った。
普通の輸送船よりもはるかに小さく、低いのである。そして機関も変わっていて、コンパクトだがやたらと高出力のディーゼルエンジンを二つに分かれた船尾に片側四基、全部で八基も搭載しているのである。
そして一部の者にしか見せないようにカムフラージュされていたが、実は、スクリュー配列も変わっていて、片側にある四つのスクリューは縦になった緩やかな円周上に並んでいた。しかも一番上のスクリューの位置は、どう見ても船体の中央よりも上側にあるのである。
そもそも普通の船の通常航行程度に走らせるだけなら二基でも十分だ。それはつまり八基すべてを動かしたらとんでもない速度が出せるということを意味していた。無論燃料消費は大きくなるからとても長距離航行はできない。が、もし途中の基地やタンカーから燃料の補給が受けられるのであれば、相当な時間短縮が可能になるはずだった。
船体構造そのものも変わっていた。
船尾中央にはまるで水面から垂直に立ち上がったかのように見える大きな防水壁があるのだが、これが真後ろに向かって大きく倒れるのである。そしてその部分に届くように棚板の格段もかなりの急勾配にはなるが可動しスロープを造ることができるのだ。
そう、これは陸上用の自走兵器をスムーズに運ぶための専用輸送船なのである。
また普通の船は船底から甲板に向かうに従って面積が大きくなるものだが、この船は中央付近が一番大きく、甲板近くでは船底のようにまた絞られた構造にされていた。断面が丸いのである。
船体が異様に低く抑えられているのは、海上の風の抵抗を避けるという目的と敵に発見され難くするという二重の意味があった。
さらにこの船は船首が完全にとんがっているのである。頭のシルエットは魚類そのものだった。そして船首の下側も普通の船のようにえぐれた形状ではなく、むしろ丸く大きく張り出していた。どちらかと言えば、潜水艦の船首に近い形状をしていたのである。
これはこの船が満載時、その吃水線がかなり高い位置になることを想定していたのだ。
エンジンへの吸気と排気を担う吸気管と排気管は、船体中央から真上に向けて高く伸び、その口は真後ろに向かって大きく開いていた。その場所は艦橋よりもさらに高い場所で見た目には先端が曲がった太いマストのようにも見えていたのである。
この船が変な形と言われる由縁であった。
波の荒い外洋を高速で走らせる場合、半潜水状態にした方が船体が安定すると考えた結果なのだ。
そもそも普通の船というのは波に乗り上げ落下を繰り返すものである。これでは積み荷がまともな状態で無くなるのも道理である。実際、船便での貨物のダメージの多くはこの激しい上下動によるものだった。
そのため内部で動かないようにいろいろと固定をしておかないとまずい。これが車両を船で運ぶ時の最大の障害だった。もともと動くことを目的に作られたものは、固定しにくいのである。
そこで簡易な固定具でも十分その役目を果たせる程度に、船体の揺れを抑える必要が生じたのである。その結果が半潜水状態で進む船だったというわけである。
もちろん同じ効果を生むということなら、とにかく船自体を大きくしていけば、たいていの大波にも翻弄されない船になるのだが、それでは高速にする、ということが実現できない。ただでさえ大きな水の抵抗に加え、水面上に聳えた巨大な船体は風の影響を免れないからだ。そしてそんな巨船は全く隠密行動が取れない。
それでこういうことになったのである。
半潜水状態で船首を沈めることで波の影響で暴れやすい船首の動きを水圧で抑え込み、水面に艦橋だけを突き出して進む、これがこの船の正しい姿だったのである。
このため、船首側の上部甲板は、まるで潜水艦のように耐水甲板で完全に覆い、艦橋の最前部は波を両側に掻き分けるように飛行機の垂直尾翼を思わせる翼面構造になっていたのだ。船体断面も普通の船よりもかなり丸く、潜水艦に近い状態にされていたのも、水中での船体の姿勢を安定させるためだったのである。
要するに港で積み荷の積み込みと揚陸をする時だけ側面にあるバルーンに空気を入れて船体を水上に大きく露出するが、航行時はずっと半潜水状態なのだ。
そしてこれも重要なことだが、半潜水状態では、水面上での大きさが全長において三分の一以下まで小さくなるのである。
水面に顔を出した氷山が実際にはその十倍も大きいというほどではないにしても、実際の大きさを隠せるという意味は大きかった。殿下の気にする隠密性に貢献できるのである。
もっともこの船腹構造を実現するのは意外に厄介だった。
内部空間が大きなものを水中に沈めるのは、浮力を思い切り小さくしなければならない。そのため、通常の船とは逆に重くする必要があった。大きな燃料タンクも乗組員や搭乗者の居住スペースも浮力を大きくしてしまうし、貨物船ということで内部空間が潜水艦よりも元々ずっと大きく、入れられる支柱の数も大幅に削られる。まわりから加わる水圧に耐えさせるための外殻構造は潜水艦以上にしっかりとしたものにする必要があったのである。
試行錯誤を繰り返しながら、やっと出来上がったものは、分厚い鋼鉄でつくられたフロートである。無論そんなものを一体で加工することはできないので、薄い鋼板を溶接しそれを重ねていくのである。
仕様要求には戦艦並みの装甲などとは一言も書かれていなかったのだが、結果的にそれに近い装甲で覆われることになったのである。
積み荷の積み込みと揚陸をするということは、この鋼鉄フロートを蓋で開け閉めさせるということになる。もしわずかでも内部に水が入ったらたちまち浮力が重量に負けてしまい、沈没するはずである。
なので当初は水密構造にかなり気を使った。ところが実験を繰り返していると意外なことが分かった。ハッチの面積が余りにも大きかったので、接続部分の構造がそれほど精密でなくとも、強大な水圧によってハッチは船体に強く押しつけられ、水の侵入する隙間がつぶされるのである。
逆に言えば、半潜水状態で水につかった状態では、何をやってもこの巨大ハッチを開けることは不可能だったのだ。
小さい割には重くなったことで、エンジンを八基も用意することになったのである。
ただ、強大な浮力を持ちながら、それに抗う重さも同時に持たせる、という大きなもの同士を無理矢理バランスさせたせいで、この船の浮力は非常に安定していた。積載時でも空荷でも吃水線はあまり変わらないのである。
もっとも、そんなことを言わなくても元々船体は小さい。積み荷となる車両を満載しても一度に運べるのはわずか十両程度と見積もられていた。輸送船と名乗るのもおこがましいほど小さいのである。
この積載量にどんな意味があるのかは造船所の人間は知る由も無かった。
実はこの船は単純に車両を運ぶということではなく、一隻で一個戦車小隊をまるまる運ぶという意味の船として設計されていたのである。
つまりこの船は最強の陸上戦力である機甲軍団に高速で海を越えさせるためという目的だけに絞った輸送船なのである。
この船の公式の名称は、正式要求仕様図番号が「ハー二一」なのでそのままハ二一と呼んでいた。
設計部の誰かが勝手に名付けた「ワニ」というあだ名もそれなりに使われていた。
もちろん、ワニの任務はすでに決められていた。
どこかですでに操艦練習を済ませていた海軍の乗組員には改めて船の説明は不要なようで、引き渡しが終わるとすぐに神戸港へと向かって見事に発進していった。
この程度の大きさの船ならば、大型漁船を作れる程度のドックがあればどこでも生産可能である。
しかも搭載するエンジンは国が必要数をきっちり納品してくれるのである。そして全国のめぼしい造船所には、これと同じではないが、似たような大きさの奇妙な形の船がかなりの数で発注されていたのだった。おかげで資材の買い付け競争が激しくなっていた。
もっとも鋼材の市況は活況を呈していて、しかもアメリカからくず鉄の輸入が止まって供給量は減っているはずなのに価格がちっとも上昇しなかった、のはミステリーではあった。
しかし誰も困ることではないのでその事実は無視されていた。結果一部の相場師が率いているような商社がかなり損を出すことになったらしい。
何はともあれ、造船所は好景気に沸いていたのである。もっとも一部の造船所では、大型船用のドックへの仕事がなかなか来ないせいで、生産能力を百パーセント出し切っていない状態だったが、それに対する不満はほとんど聞こえなかった。
というのもこのエンジンを使った小型船のシリーズの注文数は、破格に多く、嘆いている暇が無いほど大量だったためだ。
従来の軍艦のコンセプトは基本的にマルチパーパスだった。一応、大きな括りとしては空母、戦艦、巡洋艦などとあるわけだが、これは機能別の分類ではなく、大きさや主な用途での括りなのである。
機能として見れば、例えば航空機を離発着させるという機能なら、一応戦艦でも巡洋艦でもカタパルトがあったりと、どの船も何でもできるように考えられていたのである。
このことが乗員の数が増える原因となり、なお一層巨船化を進ませた。
ところが今回の幕府から発注された船は、基本がモノパーパス、つまりたった一つの目的に特化した船を多種大量に配備するという考え方になっていたのである。
先に紹介したような戦車軍用車両輸送船のほか、兵員輸送船、魚雷艇、機雷敷設艇などである。
共通するのは少人数で動かせて、速度を落とせばある程度の遠洋航行が可能で、戦闘時には相当な高速機動を行える、通常時は半潜水状態で視認、レーダー探知がともに難しいというところだった。
こんな変な船を作れと言ったのはもちろん赤坂宮である。
大型艦は海戦においてそもそも有利なのか? というのが赤坂宮の抱えていた大きな疑問だったのである。
歴史の中の海戦を振り返れば、壇ノ浦では平家の方が源氏よりも大型船を用意していたし、そして大坂湾の海戦では織田方の九鬼水軍が毛利方の村上水軍を大きさで上回っていた。勝敗には船の大きさは関与していないのである。
巨船は海戦では大きな目標にしかならない足手まといなのではないか。
数多くの、的になりにくい小さな船が、高速機動を行いながら決定的な兵器で攻撃する方が、よほど勝利しやすいのではないか、と考えていたのだ。
なので海軍内の、戦艦か空母か論争にはどちらにも興味を示せなかったのだ。
ただ潜水艦だけは例外だった。
水中に潜み打撃を与えられるという隠密性に優位性を感じたのである。なので隠密性を一層高めることを重視し、潜水艦には小型化要求や、高速化要求は出さなかった。敵の探知能力が届かない深海で、長時間潜み、意表を覆す攻撃を与えられる存在として、潜水艦を位置づけていた。もっとも赤坂宮の要求は技術的には最高度の難易度のものと受け取られていたので、一番後回しとなり、この時点では実用化の目途は全くたっていなかった。
造船所側にとってありがたかったのは、エンジンの搭載数の増減はあるものの、エンジンそのものは一種類であり、しかも船体構造も浮力ユニットと動力ユニットは共通というモジュール設計が行われていたのである。用途に応じて異なる部分が出るのは仕方がないが、輸送用途、武装用途という部分だけの変更なら、船台から組み上げる工程管理も大幅に管理しやすくなる。
これが全体の工数削減につながり、一隻を仕上げるスピードが非常に速くなったのである。
同じような規模の多くの造船所で同じような効果が生まれるのだから、全体の時間当たり増産効果は凄まじかった。
生産数の増大は、浮力ユニット、動力ユニットの生産コストを劇的に下げた。
軍用派生としては異例なことに、この後、民需仕様船をこれから作った方が、普通の船よりも安いという現象まで生み出すことになった。
つまり漁船や貨客船もこのユニットから作られることになったのである。
全国の造船所から神戸に集まったこの特別な輸送船は、そこで荷を満載すると、慌ただしく再び出港していった。
今度の目的地はオーストラリアのパースとされていた。
実はここに最大の嘘が隠れていた。この船と積み荷は発注は海軍省から行われていたものの、日本の軍籍には入っていなかったのである。
諏訪に造られたエンジンの量産工場では毎月のように拡張工事が新規に入り、最初は日産数台というレベルでの生産だったものが、加速度的に生産量を増やしていた。
どこで調達してきたのか、新しい工作機械が次々と新設された工場建屋に運び込まれ、気がついたらそっちても何か作り始める、という光景が数ヶ月の間続いていたのである。
作業員が見ている限りは、工場開設以来、作っているのはずっと同じエンジンばかりのように見えていた。
だが、実際には、当初の戦車用ディーゼルエンジンから始まって、船舶用のディーゼルエンジン、航空機用のガソリンエンジン、さらには高高度航空機用の過給器付き航空機エンジンとバリエーションを増やしていたのである。V型十二気筒の液冷エンジン、というのが共通のスペックである。
種類の作り分けは、部品としては主にシリンダーヘッドまわり、カムシャフト、燃料供給装置、その他の冷却ユニットなどの補機の付け替えで行っていたのである。
排気量については、最初は一種類だけだったが、工作機械が増えた後に、ストロークとボアを順次拡大した排気量を拡大したものの試験製作も加えられた。
何にしてもそれらの外見上の差はそれほど大きく無かったので、作業員でもその差が分かる人間はわずかしかいなかったのだ。
ただ最初はなかなか出荷というものが行われなかった。毎日かなりの数が生産されていたのに一基も工場の外に運び出されないのである。
そのほとんどはベンチと呼ばれる台に乗せられ、着火運転試験を行っていたのだ。
狙い通りの出力が出ているのか、何時間壊れないで回り続けるか、そういう基礎的なデータを集めていたのだ。
一日の生産量が五十基を越えた辺りで、ようやく出荷指示が出るようになり、そこからどんどんその数が増やされていったのである。もちろん出荷が始まってもベンチでは何十基ものエンジンが常に回り続け、データ収拾が行われていた。量産品を作りながら試作品も時折り作り、試験を続けていたのである。
テスト台であるベンチ自体にも中途で様々な仕様変更が加えられることになった。
航空機用エンジン開発のため、宙返り中のエンジンの挙動をチェックするため、エンジンベンチそのものを回転させ上下逆さまにしたり、急降下などでプロペラからエンジンへの入力が大きくなりすぎ、過回転が起こった時の状況、あるいは高空で空気が薄くなり低温になった時の状況なども再現できるように変更したのである。
それまでの飛行機の開発は、とにかく実際に飛ばしてみなければ何もわからない、手探り状態でのエンジン開発だったのである。
エンジン側がある程度こういう性能保証データを持つことは、飛行機の機体試作での試験時間短縮に繋がるのだ。
戦車船舶用のディーゼルエンジンでは燃料供給は燃料噴射装置だが、航空機用にガソリンエンジンとする際、それを無意識にキャブレター仕様に変更していた。ところが、いざそれを航空機用エンジンベンチに乗せるとキャブレターではまずいことがすぐに分かった。逆さまになるとキャブレター内部のフロートバルブが閉じてエンジンが停止するのである。
なのでガソリンエンジン用の燃料噴射装置を新たに開発することになった。
当初は全数が戦車用エンジンだったが、このようにして次には船舶用ディーゼルエンジンが加えられ、その後航空機用ガソリンエンジンも量産に加えられたのである。何をどれだけ生産するかは、常に変動していた。ある週は、ソ連向けの航空機エンジンに特化し、次の週は国内向け船舶エンジンにと、切り替えながら集中生産していたのである。
どこかの殿下がはりきってくれたおかげで、このエンジンの納品先は毎月増えていたのだから仕方が無い。
生産管理の人間は、増え続ける生産要求にどうやって対応するか日夜頭を抱える事態になっていた。
彼に言わせれば、とにかく諏訪は不便だったのである。諏訪盆地は山深く、必要な部品は遠く神戸や名古屋近郊から運ばれて来る。輸送方法のメインはもちろん鉄道なのだが、その輸送量はなかなか思うようには増やせなかったのである。
普通工場を建てるなら海に隣接した場所に作るのが常識だった。大量の貨物輸送には船が一番だからである。それを何も知らないおエラさんがバカな命令を出しておかしくした、と彼は確信していた。
結局、彼に出来る対策は、部品の受け入れ時間を極力長くし、工場を一刻も止めないように、昼夜連続操業体制で昼勤夜勤の連続操業にさらに残業を付け足し乗り切るしか無かった。彼はもちろんいやだったのだが。
諏訪盆地を選んだのはもちろん赤坂宮だ。彼の選択理由は明快だった。
こんな重要施設は戦時になればかならず敵の攻撃対象になるのである。従って空母が近づく海岸線からできるだけ離れた場所で、しかもまわりが航空機の飛行を妨害する気流の乱れを生じやすい高山に囲まれていること、さらに鉄道によって原料と製品の搬入搬出がスムーズにできる場所、という意味で諏訪が選択されていたのである。
工場に関わった多くの人間が怨嗟の声を上げていたが、とにかく生産量は順調に増え続け、月間生産能力は、すでに五万基に達していた。
これは陸軍海軍を束ね、生産体制を集約統合してみせた幕府の面目躍如たる成果と言えた。
もちろん全ての情報は一応極秘扱いである。
が、さすがに地元の諏訪市民には秘密にはできなかった。
そもそも工員募集が常時行われているのである。人手はいくらあっても足りなかった。
そしてエンジンを作る工場は、鉄を高温にして溶かし鋳型に入れたり叩いたり、あるいは重量のある製品を運んだりする、今で言うところのキツイ、キタナイ、キケンと三つが見事に揃った3K職場である。
採用されてもすぐ音を上げてやめていく者も多いのだ。
しかし長時間残業と危険手当の上乗せで懐具合の極端に良くなった従業員たちは夜ごと諏訪の町を潤すのである。それに気がつかない諏訪市民などいるわけが無かった。しかし例えば東京辺りで諏訪のエンジン工場を知る者は皆無だった。
そしてこの工場が作り出したものはエンジンだけでは無かった。
その生産と設計改良という現場でなければできない環境で鍛えられた、重工業化に絶対に欠かすことのできない、モノを見る目の確かさと冶金工学の技能と経験を積み上げた優秀な技術者と製図工を多数輩出することになったのである。
彼等の一部は、大阪、名古屋近郊で生産される他の兵器の品質を上げるのに大きな貢献をすることになる。
しかし課題はまだまだたくさんあった。工作機械はほぼすべてアメリカ製かイギリス製だったのである。純粋に国産と言える工作機械は非常に少なかった。つまり最大の課題は、外国の工作機械を使わないとまともに部品を製造できないということにあった。
その代表が歯車の切削機だった。
小さくて簡単な歯車はともかく、トランスミッションほか、大きな力を伝達するところに使われる大きくて高精度な歯車を作る工作機械は国産品が皆無という状況にあったのである。
こんな基本中の基本の部品でさえも、難易度が高すぎて国内の製造者には欧米並みのものが作れなかったのだ。いくら機構や構造を欧米の一流工作機械と同じにしたつもりでも、それを使って実際に製造した製品の品質が全く実用に適さないのである。
ガタが出る、異音がする、程度なら克服できそうなレベルと言えなくも無かったが、そういうレベルでは無かった。
高速運転に耐えられずすぐ歯が欠ける、軸が折れる、焼き付くなど、初めから問題外と判定せざるを得なかったのである。
結局幕府と関係企業の連絡会議では、一流の工作機械をいきなり作るという目標は放棄することになった。全くゼロから、実用に耐える歯車とは何か、それはどうしたら作れるのかを研究しなおし、工作機械に必要な条件を洗い直すことをまず優先するということに落ち着いたのだった。
有り体に言えば歯車については基礎から学び直せ、ということである。幸い、欧米製の工作機械が予想以上に確保できたので、三年から五年ぐらいは、国産機開発が遅れてもどうにかなるだろうという見通しが立っていた。