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大国の矛盾


ここで時を昭和十六年(一九四一年)十二月まで遡る。

赤坂宮が、冷えきった日米関係という環境下をどう打開し、どう生き残り、かつ、どのようにアメリカからの侵攻を防ぐかなどと、さまざまな対策を講じていた頃、アメリカは平和を満喫していた。しかしルーズベルトの心中は大揺れであった。要するに自分の支持率が揺らいでいたのである。


クリスマスの休暇の終わりとともに年が変わり昭和一七年(一九四二年)がやってきた。

ルーズベルトは年頭教書演説草稿案の推敲を続けていた。

彼にとって、昭和十六年(一九四一年)は散々な年だった。

ヒトラーはヨーロッパで好き放題をやり、盟友イギリスは大陸から完全に排除されてしまった。唯一の救いは何故かヒトラー側についたはずのスペインのフランコがナチスの要請を拒み、ジブラルタルの英軍基地を維持してくれたおかげで、曲がりなりにも枢軸国側海軍を封じ込めていたことぐらいだ。

ドイツ軍のソ連への突然の進撃には相当驚かされたものの、あっと言う間にモスクワ近くまで侵攻してしまったドイツ軍の強さを疑う方が難しいぐらいだった。

このままでは本当にヒトラーが世界征服をしてしまうかもしれない……

ナチスの狂信的とも言える反ユダヤ思想は、ユダヤ系であるルーズベルトにとっては耐え難いものだった。

が、自由の盾であり世界からつまはじきされるユダヤ民族が安住を約束される国であり、彼らの庇護者であるはずのアメリカは、その肝心のアメリカ国民が選んだモンロー主義によって身動きが取れなくなっていた。

つまりは、ナチスから直接攻撃を受けたわけでもないのに戦争に首をつっこむなと、国民と議会から釘を刺されていたのである。

ルーズベルトにとっては苛立ち以外の何者でも無かったが、普通のアメリカ人にとっては国の存立や平和が脅かされる事態にはほど遠い状況だったので、この主張を抑え、国家を縛り付けている中立法という法律を葬ることが非常に難しかったのである。

しかも外国に目を向けようとしない国民の間では、内政問題への関心が高まらざるを得ない。

ルーズベルト政権は不況を克服した実績もあり、一九三三年に大統領就任を果たして以来、三期目に突入していた。これだけ長くなると、さすがに様々な点で綻びが出ていた。

特にルーズベルトが気にしていたのは民主党の支持基盤である黒人層の動向である。

民主党は元々人種問題に敏感な政党で、故に黒人に支持者も多い。しかしルーズベルトは白人、ユダヤ人ということにも敏感だった。つまり敏感は敏感でも方向性が真逆という場合もあり、それがいろいろなところで黒人層にも知られるようになってきていたのである。

まず社会の底辺層に多い黒人層の不満は大恐慌によってどん底だった状況が改善されるとともに高まっていった。つまり白人の浮浪者から減っていったのである。

景気拡大は格差拡大でもあった。

長期政権となっていたルーズベルトにすれば、内政の問題は自分の執政に対する否定的評価になる可能性が高いのである。その中でも黒人層の不満は常に政権の危機につながりかねないものだったのだ。

が、様々な調査を行うと、アメリカ社会には黒人にとって分かりやすい目の敵というものがあることが間もなく分かった。

南北戦争によって奴隷解放というものがなされた。

その解放という意味は、主として人間を財産とすることを一切認めない、動産価値を認めないというものだったのである。

これは個人所有されている奴隷の所有権をいったんすべて国有化する、という形を踏んで行われた。

要するに社会の見方として、黒人と白人を同等に扱う、などという視点はどこにも無かったのである。

そしてかえってそういう形で国有化、つまり国の財産と位置づけられたことは、黒人を差別するための有力な根拠となりえたのである。

結果、黒人が住む多くの州で、黒人を差別する法律が整備されることになった。

奴隷解放が黒人差別法の根拠となったのである。

黒人と白人が対等な存在として扱われるようになったわけではないのだ。

そもそも、その時の白人と黒人には教育、社会的地位で大きな格差があったわけで、資本主義のような弱肉強食的側面の強い社会システムの中では、黒人層が困窮するのは当然だったのである。

民主党政権はそれでも共和党政権よりはマシに見える、というのが黒人の民主党支持の理由だったのである。

だいたい学歴などで黒人は大きく白人に出遅れていたから、文字の読み書きや計算ができるものはほんの一部しかいなかったのである。投票権の行使自体、不可能という黒人も多かったのだ。

結局、社会でまともな事業に従事できるものはほんの少数で、大半は裕福な家での召使いや家政婦などの下働き、綿花栽培の農夫など、典型的な奴隷時代の仕事につくしかなかったのである。

ところがその最底辺の職を荒らす新参者が登場したのである。それが日系移民を中心に急速に増え出していたアジアからの移民である。

彼らは英語こそ満足に使える者は少なかったが、ほとんどは普通に教育を受けており、読み書きはできるし計算もできる上に、一般的な白人以上の勤勉さまで身につけていた。

当然雇用主の受けは良く、同じ雇うならこっちの方が役に立つとばかりに、瞬く間に黒人を職場から弾き飛ばす存在になっていたのである。

ルーズベルトはこれに目をつけた。

白人からすれば黒人だろうが日系人だろうが気にならないところだが、黒人からすれば日系人は大問題だった。彼らは黒人の敵だと煽れば簡単に火をつけることができたのである。

うまい具合に、その日本は中国大陸を舞台にナチスまがいの領土拡大策を堂々と行い、言わば同じ穴のムジナ状態だったアメリカ、フランス、イギリスなどとも利権を巡って頻繁にトラブルを起こし、さらに日中戦争をやっていた。

これだけでも十分、狂犬のイメージ作りには十分だったところに、アメリカでの日本に対する否定的な見方が広がるにつれ、それに反発するかのように日本の態度が硬化していくと、アメリカの予想を上回るほど都合の良い事態を日本自身が造ってくれたのである。

ヨーロッパで戦争を再び始め、欧州大陸全体を戦火にまみれさせた張本人であるヒトラーのナチスドイツと自分から同盟を結んだことだ。

こうなれば黒人だけでなくアメリカの白人に対しても日本は世界の敵だと納得させることは簡単である。

さらに同盟ということで、思わぬ利点が生まれた。

不可能だと思っていたアメリカの中立法を回避し、ナチスドイツにアメリカが直接宣戦布告する道が開けたのだ。

つまり日本に対する経済制裁によって、日本がアメリカに攻撃を仕掛けることにでもなれば、それは日本と同盟を結ぶドイツから攻撃を受けたと見なしうるということだった。

そもそも日本はその必要なエネルギー、鉄鋼、食料の多くをアメリカに依存している国であり、アメリカからすれば叩き潰すのはいつでも簡単にできる国だったのである。

黄禍論に加え、中国への侵略を続けるファシスト側国家だという主張に基づく排日キャンペーンを拡げ、経済制裁として鉄と原油を断ち、日本からの輸入を禁止すれば、日本は経済的に立ちゆかなくなって、アメリカを直接攻撃するか座して死を迎えるかを迫られる。

プライドの高そうな日本に座して死を迎える決断などできるわけはない。必ずアメリカに喧嘩を売ってくる……。

そうなれば、中立法の縛りを断ち切りアメリカはナチスドイツに宣戦布告できる……。

米英の生産力が揃えば、ドイツの生産力を上回ることは簡単だ。その後はまずドイツを叩き、その後日本を叩く。

これがルーズベルトの理想のシナリオだった。

アメリカ世論を日本を敵認定することでまとめあげ、盟友イギリスを救える起死回生の一手だった。

アメリカの対日経済制裁発動に対する、近衛首相の国際社会に対する声明は、それこそルーズベルトの思う壺だった。勝手に孤立を選ぶような、自己の正義のみを主張していたのである。

そして目立たない形で行われていた蒋介石に対するアメリカの軍事援助は効果的に中国大陸での日本軍の戦線を伸びきらせることに成功しており、経済制裁の効果をより一層高めることになっていた。

日米通商条約の破棄予告、くず鉄の対日輸出禁輸とアメリカへの依存度の極端に高い日本経済にとって致命傷になりそうな政策が次々と発表されてゆき、最後の最後、対日石油禁輸のカードで日本側が開戦を決意する段階に入るはずだった。

そしてこれもまた日本の三国同盟参加同様ルーズベルトには予想外だったが、ヒトラーはソ連にも牙を向けたのである。ドイツは周囲の強国全てに喧嘩を売ったのである。

密かに独ソ不可侵条約、日ソ中立条約はルーズベルトからするとかなり厄介な代物に見えていた。ところが事もあろうに、ヒトラーはそれを自ら反故にしたのである。

この時、日本はドイツ、ソ連双方の条約どちらを優先させるか選択する機会があった。

日本がソ連カードを引くのはまずい。

何がなんでもドイツとの同盟を優先させ、出来ればドイツに呼応して対ソ戦線まで開かせたいところだった。

しかし、ソ連側の日本へ送りこんでいたスパイ、ゾルゲのお陰で、その可能性は潰されていた。

そこで日本の反米感情に火を付ける作戦を選んだのである。

日本人は正義感が強く団結心が強い。外敵に対し結束を図るのが得意、という国民性に目を付けたのである。

こうして、「対日石油禁輸」「明治以後に獲得した海外領土からの完全撤収要求」と並んだ最後の切り札をいつ切るか、というシナリオは順調に動いていたのである。

ルーズベルトとハルの見通しから言えば、蒋介石相手に業を煮やした日本軍は、必ず、アメリカのやっている蒋介石を支援するルートを叩きに出るはずであり、フィリピンから蒋介石の本拠、重慶への物資輸送上の重要拠点フランス領インドシナにあるハノイを奪取するはずだった。

フランスは目下分裂状態である。ナチスについたフランスとイギリスに亡命した自由フランスに分かれ、植民地の多くは自由フランスについていた。アメリカはそれを利用してフランス領インドシナを物資供給拠点にしていたのである。

が、日本と戦争中でもないフランス領に日本が攻め入るには開戦の口実が必要である。

中立の立場である国の貿易を阻害していい理由はどこにもないからだ。

ならば、日本が掲げるスローガンとして、もっともありそうなものは、何か。

それがハルの目の付け所だった。

そう、欧米の植民地支配に反対することである。

日本は開国以来勢力範囲を順調に拡大してきたが、朝鮮半島、台湾、満州国の中で、いわゆる植民地という概念に該当するのは台湾だけだった。それも欧米諸国の植民地の扱いよりはかなり本国扱いに近く、あまり植民地らしくは扱っていない。

ハルの目線から言えば、それは明らかに日本政府が欧米の植民地という存在を肯定したくない、という信条を持っているからだと分析していた。

つまりアジアにたくさんある欧米各国の植民地の存在を日本は邪魔だと考えているということである。

ならば、フランス領インドシナに侵攻する際に使われる口実は、欧米の植民地政策への反対となるはず、と読んでいたのである。

それはつまりフランスのみならず、イギリス、オランダとアジアに沢山植民地を抱えている国すべてと喧嘩するという意味である。当然イギリス領フランス領オランダ領との貿易も途絶える。

蒋介石に対する勝利という目先の利益に目のくらんだ日本なら、日本包囲網を自ら完成させる最悪手でも構わず引くだろう。そうなればアメリカの経済制裁の威力はさらに上がり、日本はアメリカを攻撃せざるをえなくなる……。

日本がフランス領インドシナに侵攻すれば、それは必ず日本の対米攻撃へとつながり、ルーズベルトの計画は完成するはずだったのである。

ところが、この最後のピースのところで異変が生じた。

外的要因が全く無かったにもかかわらず、つまり日本の自発的行為によって、突然日本政府と日本軍の動きがルーズベルトの予想していたものと違ってきたのである。

ルーズベルトが日本を煽るために行った対日政策演説で中国での日本の侵略行為を再び非難すると、その直後まるでそれに従ったかのように一方的に軍の撤収を始めたのである。

それどころか、まるでルーズベルトの意図を読んだかのように、国際社会にアピールしていた事実の消し込みに動いたのだ。

驚くほど潔くさっさと中華民国領内占領地から撤収し、さらにはイギリスフランスの租界を守る駐留部隊といざこざの絶えなかった上海の日本租界も放棄し軍も居留民も撤収してしまったのである。陸軍だけでなく揚子江、黄河に展開していた海軍部隊もいなくなり、本来の遼東半島、満州国台湾の国境線まで日本軍は瞬く間に後退したのだった。

中国本土に残った他の勢力は、イギリスやフランス、アメリカだけということになってしまい、中国侵略は日本が全部悪いというシナリオが使えなくなったのである。

しかも蒋介石の率いる部隊は元々が統制の弱い軍であり、しばしば上層部の指令に反する行動を取っていた。日本軍がいなくなると抗日戦線を組んでいた毛沢東勢力や上海近郊にいた英仏駐留部隊へと勝手に攻撃を始めたのである。

こうなると蒋介石に軍事支援などとんでもないということになる。

いやアメリカだけではない。おそらく似たような状況に置かれたイギリスも親中的な態度は取らなくなった。

そしてこんな状況で身動きが取れなくなっていたら、急に盟邦イギリスが親日的になってきていた。

インドシナを植民地にしているフランス、マレー半島、ボルネオ、ニューギニア、ジャワ島などを植民地にしていたオランダ、どちらもロンドンの亡命政権が植民地を管理していたが、これもイギリスにならって日本との距離を詰めているようである。。

アメリカの対日経済制裁に同調する空気が欧州列強の間で消えてしまったのである。

アジアで日本軍が戦っている戦場は一つも無くなってしまったのだ。

ルーズベルトのシナリオは破綻していた。何もかもイギリスのせいである。

驚いたルーズベルトは駐英大使を通じチャーチルにその真意をたださせた。

すると予想もしなかった意外な答えが返ってきたのである。

「日本はヒトラーとは本気で付き合うつもりはないようだ。スターリンを支援してやってくれ、と頼んだらオーケーしてくれたよ。もともと極東の小さな島国だ。日独提携などと言っても大したことなどできるものでもあるまい」

と語ったと言うのである。

ルーズベルトは激怒し、ハル国務長官をすぐに呼び出した。

「ハル君、これはいったいどういうことなんだ。いつチャーチルは日本と接触したのかね。それから日本とスターリンが接触したという報告も全く聞いていない。日本人は分かりやすかったんじゃなかったのかね?」

「申し訳ありません、大統領閣下。まさかそのような接触があったとは全く気がつきませんでした。外交関係の通信傍受は完璧に働いていたはずなのですが……。今回は完全に出し抜かれたようです」

「もしや暗号を解読したことをつかまれたか……。いや今そんなことはどうでもいい。とにかく日本の戦略が見えん。いったい彼らは何を考えているんだ? そもそも何のためにドイツと提携したんだ?」

「それは日独提携の時でもあちこちで囁かれておりました。実利らしい実利が見えにくい。単なる精神的な満足みたいなものではありませんか。ヒトラーは日本人から見れば、世界各地に多くの植民地を持つイギリス、フランスに戦いを挑んだ挑戦者に見えているのでしょう。日本人はそういう強者にたてつく弱者を贔屓にしたがる、と聞いたことがあります。ですからあの時は日本中がそんな気分になっていたのではないかと。ところが、その後やたらと冷静に物事を見る人間が指導層の中に現れたのでしょう。それが三国同盟を軽く扱うようになった原因だと思います。そして同時に我が国との実利関係に目を向け、中国から軍隊を撤退させた……。私としては一応辻褄の合う説明だと思いますが」

「なるほどな。勝ちに乗っている国はあこがれの対象になりやすいか……。庶民にはありそうな話だ。君が分かりやすい国と言った根拠はこれだったのだな」

「まあ、そういうことです。日本の世論やマスコミはおそらく我が国よりもずっと誘導するのは容易でしょうからな」

「が、それに気がついた切れるやつが出てきたと……。これからどうする……。イギリスだけではヒトラーは倒せんだろ。スターリンもヒトラーを押し戻せるとは思えない。が、我が国の中立法の枠を壊せるアテは日本以外ないんだぞ」

「何にしてもキーはあの宮様でしょう。彼がショーグンになってから、それまでの勝利をたたえるばかりだった戦争報道がすっかり影を潜めたそうですから。それとあれだけうるさかった日本の軍指導部をおとなしくさせた、という意味でやはり特異な存在だと思います」

「どこの国でも軍人を抑えるのは難しいからな。なるほどもし彼の怒りをうまい具合に引き出せたら、太平洋に展開している我が軍への攻撃を引き出せる可能性があるということか……。いやいかにトップが優秀でも部下まで全部入れ替わったわけではあるまい。うちで言えばマッカーサー将軍のようなすぐ頭に血が上るやつだって多いはずだ。そういえばマッカーサーは今どこにいる?」

「フィリピンです。大統領閣下」

「皮肉なもんだな、あんな血の気の多いのを日本と一番近い前線に置いているとは」

「いえ、それこそロンドンには派遣できませんからな。勝手に戦争を始めかねません」

「日本軍の前線部隊がフィリピンに手を出す可能性は?」

「フィリピンは日本と距離が近いとは言っても歴史的交流は薄く、日系の居留民などほとんどいなかったようなのでそういう期待は薄いですな。何しろ上海の日本租界すらあっさり手放した相手ですから」

「領土では釣れない相手か。となるとどうしても手を出さざるを得ないような危険が迫るという状況でないとダメということだな……。なあ、例えば病院船や輸送船を巡洋艦っぽく艤装できないか? それをハワイから日本本土ギリギリのところまで接近させてフィリピンに向かわせる……。そうだな東京湾へと入る航路のすぐそば辺りを航行させたら何かしてくるんじゃないか? いや……皇室への攻撃の方が感情的な反応を引き出しやすいか……、頭のいかれたアメリカ人が皇室を狙撃するとか……」

「大統領閣下……、少々落ち着いてください。そんなことをして日本が攻撃してきてもアメリカ市民が反戦運動にまわるだけです。是が非でもドイツに宣戦布告したいという気持ちはよくわかりますが、日本を追い詰めるための策でムリをすることは中立法支持者の思う壺になりますよ。とにかく日本は本気であろうとなかろうとドイツと提携した国で、我々はそれに対して正当な対応をしたと言える行動はとったのです。チャーチル閣下が漏らしたことは世界の誰も知らないことです。ならば、知らなかったことにして今の立場を続けていけばいいだけではありませんか。それだけでも日本の中での反米気運を維持する材料ぐらいにはなります。それに独ソ戦のおかげでイギリスが簡単にナチスに屈する危険性は避けられたと思いますが……」

「あ、ああ、すまん。少々取り乱していたようだ。君の言うことはもっともだが、なお気がかりは残る。例の原子爆弾をもしドイツが先に完成させたら、何もかも手遅れになる危険性がある……。マンハッタン計画の進捗は?」

「特に何も報告はありません……。科学には時間がかかりますからな。それはドイツ人がやっても同じでしょう。焦っても仕方ありません。とりあえず出しそびれた形になっている対日石油禁輸の通告でも今のうちにしてはいかがですか? 事実上の対日宣戦布告ということになりますが、対日包囲網が完成できませんでしたから、日本にとっても深刻度はそれほど高くはないでしょう。それでも向こうを憤らせる程度の影響は与えられるでしょう」

「他の国が石油を日本に売るのか?」

「イギリスやソ連は石油を持っていますからな。しかしアメリカから買えないということがいろいろと日本側のアメリカ憎しという効果は生むとは思いますよ、もしかしたらマッカーサーのような性格の日本の将軍がどこかのアメリカ軍基地に無謀な戦を仕掛けるかもしれません」

「なるほど。やらないよりはマシか。わかった。君のプランで進めようじゃないか。とりあえず年頭教書にそれを入れておこう。これで日本とは完全に縁を切ると明言したも同然になるわけだからな。我が国がこういう行動を取ればチャーチルも日本への見方を変えるかも知れん」

一度は天皇宛に親書まで送り、再び交渉をしようじゃないかと呼びかけたものの、その舌も乾かぬうちに、対日石油禁輸の発表をすぐ決定したのは、とにかく内政問題から国民の目を離したいというルーズベルトの祈りにも似た、揺れ動く気持ちがあったのである。

なので、東条首相が感じたような、日本を罠にかけたいという強い意思があったわけではなかったのだ。

こうして当初の予定よりはかなり遅れたものの、昭和十七年(一九四二年)の年頭教書演説によって、対日石油禁輸策が発表されることになったのである。

しかしハル国務長官が予想した通りの事情があったからなのか、日本政府の動きは全くと言っていいほどなく、単に首相の東条がアメリカ政府の姿勢は理解しがたいとコメントしたとの報道が小さくなされただけで、日本側もルーズベルトが期待したような大騒ぎにはならなかった。

ルーズベルトは万策尽きた、という気持ちで欧州戦線の動向に気を配るしかなかった。


皮肉にもそこからレニングラード戦に関する報道が増えたのである。

ルーズベルトにすれば、ヒトラーならそれぐらいやりかねないと最初から思っていたわけだが、世界の反応は違っていた。

ドイツ軍はレニングラード市民を餓死させるつもりだ、という情報は人々のナチスというものに対する肯定的な態度を一掃することになった。

ショスタコーヴィチは、交響曲第五番で名作曲家としての評価がすでに定まりつつあったのである。

米英を中心に、高学歴、高収入のいわゆる上流階級にはクラッシック音楽の愛好家は多く、それはつまり政財界知識人への影響力が絶大だったことを意味する。

発表された交響曲第七番は、演奏時間が一時間半にも及ぶ大曲だった。

その第一楽章にはラベルのボレロを思わす同じフレーズの繰り返しがあったため、一部批評家からは手法を真似ていると批判を受けたものの、その繰り返しの手法がまさに平和な町が凄惨な戦場へと変化していく状態を表すための最適な手段として用いられていたため、かえって作品の完成度の高さを多くの人に印象づけることになった。

音楽としての完成度の高さがあるだけでなく、これほど事実の重みに彩られたクラッシック音楽作品などほかにはない。

この交響曲は爆撃と砲弾の中でこそ美しく響き渡る、というどこかの批評家のコメントに煽られ、ショスタコーヴィチの交響曲第七番は各地著名オーケストラの定期公演会の必須演奏品目になった。

本来の報道とは距離を置いたニュースの発信は社会の多様な層に深く浸透するものである。

今まで欧州の戦争に無関心を貫いていた層の関心を動かしたのである。

中立法の存在を批判的に語る論客があちらこちらで名を売り始めた。

ルーズベルトは歓喜した。

これなら日本が何かしてくれれば、いける、とルーズベルトが期待を一段高めた時、やってきたのは、日本がドイツとの同盟を解消した、という意味が分からない、いや分かりたくないニュースである。

しかも理由がよりにもよって、レニングラードでのドイツ軍の動きは容認できるものではない、ときたものだった。

ルーズベルトがここまで丹精込めて作り上げた複雑で精細なジグソーパズルは最後のピースのところで全部がバラバラになってしまったのである。

しかもその組み上げていたものは、今や自分への批判として跳ね返ってきたのである。

共和党支持者初め、ルーズベルトに批判的な勢力は、ルーズベルトの対日政策は間違っていると一斉に非難しはじめたのである。

国論は百家争鳴状態となり、中立法の廃止に向けた意見の統一などかえって難しくなってしまったのだ。要するに何もかも中途半端なのである。

しかし、ルーズベルトに立て直しを図る時間は与えられなかった。

赤坂宮の放った次の矢がその効果を現したのである。

「大統領、国務長官がお見えです」

朝、執務室に入った途端に、秘書からそう告げられた。

「ハル君が? 今朝はそんな予定は無かったはずだが……」

「なんでも緊急にお耳にいれたいお話があるそうです」

「わかった。はいってもらいなさい」

執務室に入ったハルは、困惑した表情で大統領に顔を向けていた。

「大統領閣下、日本がメキシコに接近したようです……。今朝メキシコ大使館から連絡がありました。日本から秘密裏に使節団が送られていたそうで、両国間での経済協力を行うそうです」

「メキシコと日本が経済協力? 貧乏国同士で何ができるんだね? あ、そうか日本の移民先にメキシコをするのか……」

「移民も入っているようですが……、その、話し合われる議題の中にメキシコの原油を日本が引き取るという話があるようです」

「なるほど。そう来たか。だが、メキシコの油田ってメキシコ湾のところだろ。パナマ運河を通らなければ輸送が大変だな。パナマ運河はアメリカが抑えているんだから。かなり割高の原油を日本は買うことになるわけか。せいぜい頑張ればいいさ」

「それが、日本はメキシコに製鉄所も造ると約束したとかで」

「製鉄所? そうかそっちも止めていたんだったな。しかし鉄鉱石はどうする? メキシコにそんな規模の鉄鉱石産出鉱山があったのかね?」

「それが、粗鋼を造る高炉の製鉄所ではなく、粗鋼から圧延鋼を造る製鉄所だそうです。そして粗鋼そのものは日本が用意するということになっているそうです」

「何? 日本はもともとまともな鉄鉱石産出鉱山などほとんど無いだろ。メキシコにやるぐらいなら自国で必要なはずではないのか? それとも満州に新しい鉱山でも見つけたのか?」

「どうも、我々が掴んでいない日本の動きがまだありそうです。もう少し情報を当たらせてみます」

ハル国務長官はその四日後に再び執務室に現れた。

「大統領閣下、ようやく日本の意図が掴めました。彼らはメキシコの太平洋側、カリフォルニア湾の入り口近くのシナロア地方の海岸近くに製鉄工場を設けるようです」

「カリフォルニア湾の入り口近く? そんなところに工場なんか建ててどうするんだ?」

「原油を送るパイプラインを敷設し、メキシコ湾原油を日本へ送るための太平洋に面した輸出拠点にするつもりなのでしょう」

「パイプラインって、あれは鉄のバケモノだぞ。だいたい我が合衆国だって油井やパイプラインに莫大な鉄が必要で石油開発には時間がかかったんだ。油井があっても鉄の供給が間に合わなくて開発できないところも多いのに、どうやってそんな量の鉄を? まさか満州なのか?」

「いえ、それが、どうもオーストラリア産の粗鋼のようです」

「オーストラリア? またチャーチルか。しかしオーストラリアだって自分のとこで鉄はいくらでもいるだろう。どうしてメキシコに?」

「それがオーストラリアの方は元々製鉄業を立ち上げる資本投下をするには人口が少なすぎたのです。鉄鉱石と石炭は非常に豊富なのですが、製品になった大量の鉄を使い切る需要が無かったらしいのです。頼みの英国は鉄など珍しくありませんからな。そのことに日本は目をつけたようです。要するに日本は鉄の供給元としてオーストラリアを確保し、そこで出来上がった粗鋼をメキシコに送り、その代わりにメキシコの原油を受け取ると……。もちろんオーストラリアとも分け合うようですが……」

「なるほど、チャーチルが反対しにくかったわけだ……、オーストラリアの利害もちゃんと織り込まれているのか……。で、そっちの方はどこまで進んでいたんだ?」

「オーストラリアの西の方、つまりほとんど人間がいなかったあたりで鉱山と製鉄所と港湾施設を造り、ぼちぼち生産が始まるぐらいのところまでは来ているようです。それとその事業には大量のロシア人が日本から送りこまれているとか……」

「ロシア人……。なるほど糸がつながったな。そうか、そんなことになっていたのか……。スターリンとチャーチルとしっかり日本は抱き込んでいると見た方が間違いはないということか……。ハル君、我々はどうすべきだろうか?」

「大統領閣下のご懸念はわかりますが、ここは現状維持を貫くしかないでしょう。彼等の事業がもし目論見通りソロバンに乗っているのであれば、ともかく、きっと何かアラがあるはずです。ソ連日本イギリスオーストラリアメキシコなどと連携してそれぞれが満足して終わるなどという計画がうまくいくとは思えません。必ずなにかトラブルが起こるはずです」

ハルの説明をルーズベルトは目を閉じ黙って聞いていた。

ハルの最後の言葉が終わってもルーズベルトは姿勢も表情も動かさなかった。

おそらくハルに説明を求めたのは、単なる時間稼ぎのようなものだったのかもしれない。

日本、イギリス、ソ連、メキシコと繋がった糸が何を意味するのか、それを考える時間が欲しかったのだ。

ハルはそう考え、ルーズベルトの発言を待った。

何かとすぐに自分の意見を言いたがる、せっかちなルーズベルトの割には異例なことである。

壁にかかった時計の秒針がその時間がもう三十秒を超そうとしたところでルーズベルトが目を開けた。考えがようやくまとまったらしい。

「確かにこれだけの国が絡めば利害調整はそうとう難しそうではある。もし、これが君が言うように関係者が一堂に会して決めたことならな。しかしな。これはみんなが集まって決めたことではない。誰かとんでもなく頭の切れる発案者がいて、関係者を巻き込んで動かした結果だ。そうでなければ、短期間にこれだけのことを同時に進められるわけがない。ハル君、ひょっとしたらまだ我々が掴んでいないこともたくさんあると考えた方がいいんじゃないかね? それとメキシコという場所が気に掛かる。我が国にいくらなんでも近すぎる。鉄の供給が豊富になれば軍の武装も基地も変わるぞ。カリフォルニア湾に近いということは、サンジエゴの海軍基地にも近いのだろう。カリフォルニア湾は海軍基地を置くにはいい場所だ。海では遠く離れていてもカリフォルニア湾の一番奥からサンジエゴまで飛行機なら一瞬だろ。そこに空母を含む大艦隊がいるとなったら、ハワイだフィリピンだと騒いでいる場合ではなくなるのではないのかね。……その日本が造ろうとしている製鉄所の規模は分かっているのか?」

「いえ、そこまでは……」

「以前ある産業界の支援者達との会合で聞かされたのだが、ある国が近代化するかどうかは、その国の製鉄能力が大きく関わっているそうだ。自前で鉄鉱石から粗鋼を大量に生産できない国は決して近代化しないし、大国にはなれないと。そもそも日本が急速に近代化に成功したのは世界の中でも非常に特殊なことなんだそうだ。日本は世界の中では珍しいことに鉄鉱石がほとんどとれない国だそうだ。ところが製鉄技術はあったらしい。鉄鉱石の代わりに川砂からせっせと砂鉄を集めて鉄製品を細々と作っていた。だから量の制限に阻まれて鉄製の道具が世の中全般には普及しなかった。ところが我々が開国させた後、日本の指導者は鉄の近代化に果たす重要な役割にすぐ気がついたらしい。鉄を大量に作れるようになるために砂鉄ではなく鉄鉱石から粗鋼を作る技術を学び、原料の鉄鉱石を輸入するようになった。その後国内の鉄鉱山も開発したそうだけどな。この結果だよ、日本が急激に欧州各国並みの実力を示し始めたのは。要するに自前で鉄を大量に造る能力を持ったからだ。しかし日本以外のたいていの途上国は、鉄鉱石など珍しく無く、どこの村でも製鉄をやる鍜冶屋が当たり前にいた。中途半端に鉄製品が普及していたことが逆に仇になって、大量の粗鋼を作るための大型の高炉を作る、というような動きが全然出なかったそうだ。ああいう大型の設備は政治が動かないとなかなか実現しないからな。メキシコはそっちの方の代表例だ。折角、鉄鉱石も油田もあるのに、いざ油井を掘るにしても送油管の打ち込みすら満足にできない。油井というのは大量の鉄を使うバケモノだからな。結局は我々かイギリスに頼むしか無かったのだ。が、昨年その油田が国有化されることになり、石油を牛耳る国際石油資本はメキシコ原油の引き取りを拒否した。日本はそれに目を付けたというわけだ。多少遅れた技術かも知れないが、製鉄をやる国がメキシコに技術援助をする……。これは我が合衆国の防衛体制で対メキシコという着眼点が必要になる、ということを意味するのではないのかね」

「は、確かに。米墨戦争以後、旧メキシコ領を合衆国に編入してからは、国防計画に対メキシコという想定は入れていません。入れる必要性は、全くありませんでした。しかしいくらなんでも……」

「杞憂と言いたいのかね。だが、昨年後半からの日本の変化は何もかも急すぎるとは思わないかね。もしこれらのことが一人の人間がすべて構想したもので、すべてはそれに従って動かされているのだとしたら、この短時間ですべてが動いたということのいい理由づけになると思うんだ。ならば、メキシコの国力強化というのも、対アメリカ戦略と考えればとてもしっくりくる、と私には思えてならんのだが……」

「世界各地の事情に通じたイギリス人ならともかく、日本人にそんなことができるとはとても信じられませんが……。もしいるとすればもはやバケモノと呼んでもいいほどの情報力、構想力ではないかと。……いえ、おっしゃる通りです。とにかく彼等の動きを追わせます」

「うん、そうしてくれるとありがたい……」

「極力一週間以内に何か報告できるように大至急で当たらせましょう」

「ああ、頼む」


しかし、ハル国務長官はこの問題で一週間の時間を与えられることは無く、翌日もまた呼び出されることになった。

「大統領閣下、突然のお呼びと伺いましたが何かありましたか?」

「ああ、ハル君か。我々は完全に出し抜かれたようだよ。サンジエゴの南、国境を挟んだメキシコ領側のティファナ上空に日の丸をつけた偵察機らしき飛行機が現れたそうだ。メキシコ領事経由で州政府が確認したら、日本からメキシコ訪問中の日本政府政府代表団に帯同して空母を含む日本艦隊がメキシコ訪問中なんだそうだ」

「それは……示威行動ということですか……」

「そういうことだろう。日本はここにもいるぞと我々に見せつけるために来たのに違いない。ハル君、国防計画の抜本的見直しも必要だが、外交政策も見直した方が良さそうだとは思わんかね?」

「安全保障委員会を招集しましょう……」


その翌日、緊急で招集された国防会議の冒頭、ティファナ上空に引き続き、パナマ運河近くでも日本機が偵察に現れたことが報告された。


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― 新着の感想 ―
[一言] ソ蓮にいいように操られて日本を陥れたルーズベルトが、ここでは逆にソ連を利用する日本に翻弄されているのが面白い
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