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独ソ戦


世界が独ソ戦の成り行きについて、そしてドイツ軍の圧倒的優位について疑いを感じるにはかなりの時間が必要だった。

祖国の危機を背負い、借りてきた猫でも頼りたいチャーチルですら、ソ連の抵抗はドイツ軍のイギリス本土侵攻計画を遅らせるための時間稼ぎにしかならないと見ていたのである。

戦争の状況というのは同時代に生きた者であっても全貌はつかめないものである。

第三者が判断できる唯一の手がかりは最前線の位置と占領地の広さであり、それから見ればドイツが圧倒的に優勢としか見えていなかったのである。

従って、独ソの当事者以外の全世界は、ソ連の運命は風前の灯火のように見えていたのだ。

赤坂宮はその貴重な例外だった。

近衛前首相は決して一人で舞い上がっていたわけではないのだ。

幕府スタッフの中にも赤坂宮のソ連への援助を疑問視する意見を持つ者がかなりいた。

ドイツがソ連を打倒した後、つまりソ連がドイツ領となり、日独が直接国境を接するという事態の心配までする者がいた。

しかし赤坂宮がそれらの意見に動かされることは無かった。

彼の論拠はおそろしく単純だった。

ドイツ軍の動員数、これはドイツ側が公式に発表していた三百万であり、これがそれまでの国境線からいきなり千キロも東に移動した、ということが、道理を無視している、ということにあった。

つまり仮に全く戦闘が無かったとしても、そんな大軍をそんな長距離を短時間で動かしたら、兵士に十分な食料を与えるだけでも兵站が大変なことになる、ということからだった。

要するにドイツ軍が強いとか、兵器がすごいとか、戦さがうまいとか、そういうこと以前の問題だ、というわけである。

何人かが、赤坂宮に、では殿下ならばドイツはどう戦うべきだったかと問うと、そもそもの戦さの目的が何かによる、と答えていた。

逆に言うと、赤坂宮はどういう目的であっても、三百万などという大軍を一度に投入する作戦などありえないと言ったのに等しい。

ドイツ軍の勝利条件が曖昧だとも付け加えていた。

首都奪取、スターリン殺害、資源地帯奪取、単なる領土の拡大、およそ思いつく独ソ戦におけるドイツ軍の目標をどれに置いても、確かに三百万も同時に動かす必要がないと言われればその通りだと幕府職員全員が納得したのだった。


昭和十六年(一九四一年)六月二十二日に始まった、ドイツの対ソ連侵攻作戦、バルバロッサ作戦は、作戦終了時点を十二月に規定していた。つまりソ連を「処理」するための時間は六ヶ月なのである。もっともこのことを知っているのはヒトラーほかのドイツ軍中枢だけだ。

現実には一ヶ月後にはドイツ軍はソ連領内に深く侵攻していたから、六ヶ月という作戦期間はあながち無謀なものにも見えなかった。

とにかくドイツ軍は、今までの作戦計画に比べれば破格と言っていいレベルで、入念な準備を行ったのである。というのも今までの戦いでは、対ポーランド、対北欧、対フランス、いずれの戦いも一ヶ月もかけずに終わらしていたからだ。

イギリスを空爆で屈服させる、いわゆるバトルオブブリテンについてもヒトラーが爆撃中止を発令したのは作戦開始からおよそ一ヶ月後だ。

つまりドイツ軍が通常体制で扱える軍需物資総量の時間的限界はせいぜい一ヶ月程度だったのである。

対してバルバロッサ作戦では、動員数も三百万と前代未聞空前絶後というレベルで破格だが、それ以上に作戦期間六ヶ月というのも破格だったのである。

が、これには大きな落とし穴があったことが後に判明する。

序盤でソ連軍は総崩れしたものの、四ヶ月目、つまり九月に入るとドイツ軍の攻勢にはブレーキがかかるようになっていた。

一つには兵站が限界を超えたということ、それに追い打ちをかけたのがソ連側の徹底した焦土作戦だった。占領地での物資調達は困難であり、補給無しでは戦闘が継続できなかったのだ。

そしてソ連側が軍の指導体制を見直し、ドイツの電撃作戦をよく知る者が指導部に入ったこと、新鋭戦車T34が前線に届き始め、ドイツの主力戦車四号では容易に突破できなくなったことがこの時点での主な理由である。

そして気候がドイツ軍にとって大きな負担となった。

この地域は夏場こそ太陽が顔を出す日が多いが、秋になればほとんど曇りがちの日ばかりとなり、時折り雨が降るという気候に変わる。舗装道路が一部に限られ、雨が降ってぬかるんだ道は前線部隊にとっての障害というだけでなく、後方から物資を運ぶ補給車両にとっても重い足枷になったのである。

さらにソ連中枢部へとドイツ軍が接近すると、歩調を合わせるように冬が訪れ、雨は雪へと変わり、今度はあらゆるものが凍り付くということになった。

欧州の冬は高緯度な分、日本の冬よりもはるかに厳しいが、ソ連の冬はドイツの冬とは比較にならないほど寒いのである。ドイツならいくら寒くても氷点下十度を下回ることなど滅多に無いが、ソ連では氷点下三十度以下まで下がるのである。この温度は不凍液やエンジンオイルも凍らせる温度だ。バッテリーも温度が低すぎてまともに電力を出せなくなる。

飛行機、戦車もエンジンを止めるとすぐに凍り付く。一度凍り付くと再始動するのはヒーターで外部から熱を加えないとどうしようもない。すぐ使えるようにするには、ずっとエンジンを止めずに回し続けるしかなかった。こうなると燃料消費は戦闘のある無しにかかわらず激増する。これもまた補給の負担になった。

当然戦闘すること自体も難しくなるので、ソ連軍がそれほど強い抵抗をしなくても、それを破って進軍することができないドイツ軍があちこちに現れるという局面へと変わっていったのである。

こうしてバルバロッサ作戦の当初の作戦の終了期日である十二月二十二日を迎えた。

ソ連軍はもちろん知らない話だが、十二月の終わりにヒトラーとドイツ軍首脳部が作戦を完遂できなかったと感じていた挫折感はかなり大きかったのである。

軍事作戦を策定するためには、弾薬や食料を始め物資の需要見通しを正確に立て、そこから動員可能な戦力を抽出するところから、作戦の中身へ入るのが常道だ。

動かせなければ戦力ではないのである。

作戦が作戦期間として規定していた時間を過ぎても目的を達せられなかったということは、目的に対し手段が十全では無かったということであり、そもそもの必要資源量を少なく見積もっていたということでもある。

もし、その見積もりが国家の資源総量から戦争に回せる最大値として設定されたものだったとしたらどうなるか。

国家の通常活動を犠牲にしない限り、作戦期間のさらなる延長はできないことになる。

実際には各ステージ毎に設けられた小目標の達成が難しくなるごとに、小手先の修正を加え計画の遅れを挽回しようとしたが、たいていの場合は資源を無駄に費消させるだけで挽回などまったくできずにいた。しかもそういう努力を台無しにする命令も頻発していたのである。

これはドイツ陸軍からすれば異常事態だった。計画に基づき、獲物を計画通りに処理する伝統を誇ったのがドイツ陸軍なのである。それが破綻したのだ。

ドイツ軍の指導部では、その大半の者は、このことを理解していた。

が、理解できない、あるいは理解しようとしなかったグループの中にヒトラーが含まれていた。

明確な原因があった。

バルバロッサ作戦は、そもそものヒトラー個人の目標が欲張りすぎていたのである。

ソ連軍を殲滅し、ソ連を崩壊させ、この土地を全てドイツの生存圏に組み入れる。

ヒトラーにとって、ソ連を倒すことは、ドイツが自分に課した使命だと理解しているのである。

自身の著書「わが闘争」の中でドイツとドイツ国民が生存していくためには広大な生存圏が必要であり、その生存圏は劣等なスラブ人に奪われた土地を取り戻すしかないと言っているのだ。

生存圏というのはヒトラーのオリジナルのアイデアではない。

ハウスホーファーというドイツの地政学者が提唱していたものだ。

ヒトラーはこれをダーウィンの進化論と同列に科学的真理と受け取っていた。

彼の人種というものに対する理解は進化論に基づいており、彼の主張は一応科学的知見に基づくという体裁にはなっていた。

が、DNAが遺伝子を作ること、種というものは遺伝子の数で決まること、現人類は人種が違ってもホモサピエンスという同一種であること、などの知見はこの時代にはまだ生まれていなかった。

このためヒトラーは人種の差は進化の差に由来しており、劣等種族は進化の過程でいずれ消えていく存在であると規定し、それに従ってユダヤ人やスラブ人を劣等種であり、遅かれ早かれ駆逐される運命にある存在と位置づけていたのである。

ヒトラーの頭の中のイメージで言えばゲルマン民族の大移動前の故地を奪還するために立ち上がったのがドイツと自分なのだ、というわけだ。

独ソ戦は近代兵器を使ってはいるが、ドイツ側の戦いの意義から見ればまるで古代民族同士の生き残りを賭けた種族戦争だったのである。

この点が今までの戦いとは違っていた。

イギリスもフランスも北欧も種族的にはドイツと同じアーリア人、ゲルマン系列になる。優等民族で、ドイツと共存可能な人種からなる国であり滅亡させる必要性は無かった。ソ連、いやスラブ人はユダヤ人と並び存在そのものが許されない相手だったのである。しかもイデオロギーではナチスとは支持層が重なる共産主義を標榜する国だ。不可侵条約を結んでいたことの方がよほどおかしかったのである。

これこそが、作戦目標が非現実的なほど大きくなり、また作戦部隊も作戦期間も破格になった理由だった。そして当然ながら両軍ともにその損耗率、死者数も他の戦争とは比較にならないほど大きくなっていったのだ。

バルバロッサ作戦の目的はヒトラーとドイツ陸軍参謀本部の間で食い違っていた。参謀本部は独ソ戦は大規模だが「普通の戦争」の企画としてしか捉えていなかった。

が、ヒトラーの頭の中ではこの戦争は敵に勝って終わりではなかった。

スラブ人の滅亡が目的だったのである。

陸軍参謀本部が計画段階において、このヒトラーの真意にどれくらい気がついていたかはよくわからないが、仮にそれらしき発言を聞いていたとしても、本気の発言とは受け取れなかったのだろう。

が、やがて、これは正真正銘の本気であることが誰の目にも明らかになる時が来た。

ソ連第二の都市、レニングラード(現ペテルスブルグ)攻防戦においてである。

レニングラードは独ソ戦開始から僅か三ヶ月後の一九四一年九月には早くもドイツ軍に包囲されることになった。

戦争に関する国際法を遵守する近代戦争の定めに従うならば、多数の市民のいる町側は無血開城することでドイツ軍の占領を受けいれるのが通例だ。

ところがドイツ軍はこの町に入ることなく包囲したまま進撃を止めたのである。

ヒトラーが命令したからである。

理由は、市民全員を餓死させろ、ということだったからだ。

陸軍参謀本部がヒトラーの真意を痛感した瞬間である。

この状況はすぐに世界に知れ渡る。ソ連側の住民の抵抗は激化することになる。降伏は認められないと分かったからだ。

レニングラードだけではなかった。

同じようなことは他の戦線でも起こり、当初の参謀本部の作戦計画は、ヒトラーの意向に全くそぐわないものであることが次々と露わになった。

独ソともに犠牲者はうなぎ登りに膨れ上がった。

ヒトラーのドイツ陸軍参謀本部に対する不信感は高まり、同時に、当初の作戦命令を覆す総統指令が頻発されることになったのである。

バルバロッサ作戦計画にて予測されていた損害もあっさりと上回り、予備兵力もすべて使い果たした。

バルバロッサ作戦は最終局面においてドイツ軍指導部内部の事情から自壊していったのである。

一方、ソ連軍の反撃体制は徐々にではあるが地道に強化されていった。

新型戦車T34はドイツ軍主力の四号戦車の主砲で装甲を貫くことは難しく、逆に四号戦車はT34の主砲弾にあっさり装甲を打ち抜かれていた。T34の台数が戦場に揃い始めるとドイツ軍は攻勢から守勢にまわる局面が増えていくことになる。

さらにドイツ軍内部での空軍と陸軍の不仲及び功名争いが原因で航空支援が十分行えなかったことがこれに拍車をかけた。


結果的に昭和一七年(一九四二年)以降の第二次世界大戦の様相は、ドイツがイギリス、ソ連双方から国力を削られる状態に移行していたのである。

しかし膠着状態ということは、最前線の位置はほとんど変わらないということである。

独ソ戦の行方を見つめる世界の大勢はドイツが優勢ということを信じ続けることになる。


そんな中で一つのニュースが幕府にもたらされた。

レニングラードのドイツ軍の行動である。

包囲した上で住民を餓死させる、という命令が出ているらしいというものだった。

赤坂宮は、そのニュースを知るとすぐに政府に命令した。このニュースを報道規制対象から外せと。

政府は直ちに報道規制対象からこのニュースを外し、報道各社が速報することになった。

ほとんどの日本人にとっては、このニュースに接しても何故?という疑問しか思い浮かばなかった。

何も知らなかったのだから仕方が無い。

その好奇心に応えるかのように、新聞がようやくヒトラーのナチス思想のことをまともに報じ始めた。

そこで初めて極端な人種隔離政策を取っていることが紹介され始めたのである。

三国同盟締結の頃からドイツ贔屓になっていた空気が変わるのにそう長い時間はかからなかった。ただ、遠い異国の話である。単に贔屓にしていた役者への熱が冷めたかのように、ドイツ、ドイツと言う風潮がきれいに収まっただけだった。

しかし日本側で何もしなくても一度開いたこのチャンネルの続報は延々と入ってくることになった。

何しろレニングラードは包囲され餓死を待つ運命に置かれたままなのである。何も終わってはいないのだ。

独ソ戦の最も生々しい現場として、レニングラード住人への支援活動のニュースには事欠かなかったのだ。

さらに、このレニングラード包囲によって、当時世界的に最も有名な作曲家であった、ドミトリー・ショスタコーヴィッチがレニングラード市内に閉じ込められた事が、ニュースバリューをさらに高めることになった。

彼はレニングラードがドイツ軍に包囲されると自身の交響曲第七番を書き始め、この曲が完成した暁には、ふるさとレニングラードに捧げると九月に行われたラジオ放送で予告したのである。

もちろんそれは世界中に知られることになった。

そして現実に十二月に曲は完成し、マイクロフィルムに収められた楽譜は密かにレニングラードの外へと持ち出され、ソ連では初演に向けて練習が始まった。

一九四二年三月にはソ連の臨時首都クイビシェフで初演が行われ、六月にはロンドン、七月にはニューヨークでも公演されることになった。

無論、日本もその波に飲み込まれ、その録音は広くラジオ放送で紹介された。

レニングラードの名はナチスの人種隔離政策の象徴として誰もが知る常識になった。

もう三国同盟を擁護する勢力が市井で人目につくことは全く無くなっていた。


その頃、ドイツ側でもある事実が軍の中枢を驚かせていた。

ドイツから見てソ連軍の装備はもともと研究対象などではなかったが、T34になると話が別だった。

大量の四号戦車を葬っていることは最前線の兵士は皆知っていた。

これから投入する新兵器は絶対にこれに負けるわけにはいかないのである。その防御能力、攻撃能力、運動性能を徹底的に探れという命令が参謀本部から出るまで、そう大した時間はかからなかった。とはいえ台数がそれほど多くなかった時には見つけるのも難しかったし、たくさんいたらいたで危なくて鹵獲どころではない。ということでこの課題はなかなか果たすことができない状態が暫く続いていた。ようやく燃料切れを起こしたものや、包囲から脱出できなかったものなど、程度のいいT34が数両手に入ったのは、一九四二年三月になってからだった。

性能試験などともに生産拠点探しも始まっていた。

ところがこの作業をやっていたところ、T34のエンジンにほとんど同じように見えるものの、実際には二種類のエンジンがあることが分かったのである。その片方がどこで造られているものかは、すでに掴んでいた。それはヴォルガ河畔の工業都市スターリングラード郊外にあったエンジン工場であり、すでに爆撃、砲撃で破壊している。

問題は良く似てはいるが、明らかにすべての部品が別物と見られるもう一つのエンジンがどこで作られているかだった。いくつかのエンジンをチェックしたところ、エンジン部品の一部に細い針金で粗末な荷札と思しき紙が付けられたものが見つかったのである。

そこに書かれていた文字はドイツやソ連の人間には全く馴染みの無いものだった。

早速外務省などに点検させたところ、それは日本の地名もしくは人名を漢字で記したものでないかという答えが出た。ただそれがもし地名だとしてもその特定は非常に困難だということだった。日本の地名は非常に多く、しかも同じ漢字で表記するところはいくらでもあるから、よほど有名な場所でないと特定は難しいということだった。また人名という可能性も考えられた。受領印のようにも見えたからだ。

「ソ連は日本から工業製品を輸入しているのか? そんな話は一度も聞いたことがない。両国の間はどうなっているのかね」

調査報告は陸軍参謀本部からドイツ外務省にも回されていた。

外務省はまさか陸軍参謀本部からの問い合わせが戦車のエンジンに関わっているなどとは夢にも思っていなかった。

但し、ドイツ外務省はこの時期、外務省としての機能を完全に果たせる状態にはなっていなかった。

というのもヒトラーが首相になって以来、外交政策の立案推進は外務省の手を離れ、ヒトラーの個人顧問のナチス党幹部として寄り添っていたリッベントロップ教授に握られていたからだ。

すでに彼は外務大臣に就任していたが、彼がヒトラーの近くを離れることはなく、ほとんどの時間をヒトラーの近辺で過ごしていた。それはリッベントロップに限らず、ナチスのエリートはヒトラーの側を離れることを極端に嫌がり、ヒトラーがどこに移動するにもその近くの場所を巡って側近同士が激しく競争しあうという場面がいくらでも見られたのである。

ヒトラーがクルマで移動すれば、側近たちの乗る車が並び順やヒトラーの車との距離の近さを巡ってかなり浅ましい醜態を晒すなどということも珍しく無かったのである。

ヒトラー自身もそういう側近達の姿を見るのを愉しんでいるようだった。

こんな有様なので、外交政策に官僚が口を出せるような状況はほとんどなく、外務省職員は国際儀礼と通常の大使館業務の管理ばかりに集中していたのである。

結果、外務省職員たちは、外交政策に関しては、首脳の本音や真意を知ることはなく、条約によって決められたことを理解するしかなかった。

「日独同盟条約があるが、日本はソ連と中立条約も結んでいる。領土も隣接しているから貿易があっても不思議ではない。しかし、総統や外相はソ連侵攻時に日本には何も通告しなかったのかな? 同盟条約には自動参戦条項があるのだからソ連に侵攻した時点で中立条約を破棄してソ連と戦争状態にするべきだが……」

「確かに日独同盟の条約締結時は、同盟の仮想敵、ソ連に対する備えということでしたからね。ひょっとしたらその後我々が独ソ不可侵条約を結んだ時に、日本は我々が認識を改めたものと解釈したのかもしれません。彼等もその後あわてて中立条約をソ連と結んだわけですから。まさか我が国がソ連を欺す、などとは考えなかったのかもしれません。日本人は嘘を極端に嫌がるそうです。総統も外相も、ソ連に攻め込むから協力しろ、とはさすがに言いにくかったのではありませんか? それに総統のあの態度からするとソ連を倒すのに日本の助力など不要と思っているように見えました。それに、日ソ中立条約が締結される前に、ソ連が日本の国境侵犯を非難する声明を出してましたよね。すぐ日本がそれを否定していましたけど。条約締結前にそういう火種があったのだとしたら、中立条約を尊重しても不思議ではないでしょう」

「今となっては、だいぶ怪しくなっているはずなんだけどな。その後の日ソ間が接触したなんていう情報はあったか?」

「いえ、全くありません」

「政府が枠組みを作らないで貿易が進むなんてあるか? 日ソが結んだ条約は中立条約だけなんだろ?」

「ひょっとしたら中立条約締結の時に、覚え書き程度の貿易協定でも結んでいたのかもしれませんね」

「そういうことか。確かにありうるな。さて、どうするか。ソ連戦車に日本製の部品らしきものが使われている……。放置していい問題でもない」

「このメモは外相や総統にも行くのでしょう?」

「ああ、当然だ。相当外相は絞られるんだろうな、総統に」

「じゃあ、とばっちりが来ますね、こっちにも」

「うん、何にしても事実関係をはっきりさせておくことは必要だな。今のうちに日本大使にいろいろ聞いておくか……。至急、日本の大島大使に来てもらおうか」

ベルリン駐在の大島大使は、外務省の求めに応じすぐに姿を現した。

が、用件については全く心当たりがない。

「我が国がソ連に工業製品を輸出しているか? はあ、全く心当たりがありませんが……」

親独派とみられていた大島大使に、幕府の秘密外交はもちろん知らされてはいない。

何を聞かれても大島には初耳の話ばかりだった。

結局、ドイツ側も折れ、日本政府からの回答を待つということで落ち着くしかなかった。

寝耳の水だった大島大使からの怒り鬱憤が行間にくっきり浮かんだ詰問電報はすぐに外務省から外相首相を経由して赤坂宮に届けられた。

数日後、首相外相が揃って赤坂宮を訪ねて来た。

大島大使にどのような返信を打つかという相談である。

「私の意見ですか? 首相と外相はどのようにお考えで?」

エンジンの一件がドイツ側にバレたことについて、赤坂宮は別に慌てた様子もなく落ち着いて質問を切り返してきた。

「はあ、先ほど外相とも話をしたばかりですが、私としては不用意にドイツを刺激しない方向で、適当にごまかせないかと……」

「外相も同意ですか?」

「いろいろドイツには思うところはありますが、やはり同盟条約を反故にしていることを認めるのはまずいのではないかと」

「私は納得できませんね。むしろ非常に良い機会が来たと思います」

「良い機会? では、」

「同盟条約の破棄通告が最適ではないかと」

「破棄、ですか。しかし、理由が……」

「幕府では我が国とドイツとの関係を総点検してみました。が、ドイツがいくらヨーロッパで占領地を拡げたと言っても、周辺の海の通行権はイギリスに抑えられ、ドイツの商船は航行できる状態にはありませんからな。同盟同盟といくら言ったところで、我が国が得られるメリットなど何もないじゃないですか」

「しかし軍事的に強力な国と連帯することは国際社会の中での発言力を増す政治的なメリットもあります」

「そういう場合がある、と言うだけです。しかし外交の面での政治的な評価を今語るとすれば、完全に否定的な評価しかありませんよ。レニングラードのドイツ軍の行動、あれはいけません。我が国の立場とは相容れない。認めてはいけない所業だ。この際、我が国は犯罪の仲間にはならないと知らせるべきでしょう。これは国際社会を納得させうる十分な理由になると思いますが」

東条首相と岡田外相は、赤坂宮がこの件に本気で怒りをたぎらせていることに初めて気がついた。

表面的にはまるで口実探しをしているかのように装っていたが、彼の表情は、最初からこれをきっかけに同盟破棄を決断させたと雄弁に物語っていた。とても説得できるようなものではなかった。

「……かしこまりました。では早速大島君に返電を……」

「いや、それは必要無いでしょう。明日の官報に日独協定の破棄を載せればいいだけです。これ以上大島大使にやってもらうことはありません。まあ、大使が全然知らされていなかったと言うのが人事上困るというのなら、簡単に返事をしておくのは構いませんがね。ただ公式発表以上余計なことは言わないように。どうせドイツ向けの電報などどんな暗号を組んでも諸外国は解読しているでしょうからな。もちろんドイツも」

「わ、わかりました」

慌ただしく席を立とうとした東条を珍しく赤坂宮が引き留める。

「東条首相、まだお話しがあります」

「は、はい……」

岡田が立ち去るのを待って赤坂宮が続けた。

「スターリンにこの件を至急知らせてください。ドイツは必ずシベリア鉄道を叩きに出るとね」

シベリア鉄道はエンジンを運ぶ生命線である。ドイツがそれに気がつかないはずがなかった。

東条はすぐに事態を悟った。

「至急新京に陸軍の連絡機を出します」

「ではよろしくお願いします」

日本の官報に日独同盟の破棄が載せられ、それが新聞の第一面を大々的に飾った日の夜、大島大使は日本からの暗号電報を受け取っていた。

同盟条約の破棄という回答は大島大使が回答としてありそうなことと予想していた想定回答には該当が無かった。

彼の頭の中は真っ白になり、ドイツ外務省に電話を入れ、面会の約束をとりつけるのが精一杯だった。

ヒトラー総統官邸、ドイツ外務省も大島大使が事態を知った時刻とほぼ同時刻に日本政府の発表を知ることになった。ただし大島大使の電報には理由は入っていなかったが、こちらの方は新聞社通信社のコメントによって理由まで入っていた。

そして世界の主要各国の新聞社、通信社もこのニュースを配信したために、衝撃は世界中に広まった。

ドイツ軍前線の参謀本部では、ヒトラーの作戦に対する批判が大きくなった。

つまりレニングラードでの命令のことである。

今まで総統命令ということで誰も表に出せなかった意見をよりにもよって日本に言われたという気分が蔓延したのである。

が、彼等はその総統命令を批判することはできても撤回を要求することはできない。その立場を放り出すこともできなかった。

ドイツ軍将兵は全員アドルフヒトラー個人に忠誠を誓わせられていたからである。

ドイツ人のまじめ、実直な性質が完全に仇となっていた。

彼等に比べればドイツ外務省の官僚たちはまだマシだった。慌ててやってきた大島大使は気の毒になるほどうなだれ、残念ですと繰り返すばかりだったからである。

ナチス党員で無ければさすがにレニングラードのことを持ち出されたのでは、条約破棄もやむを得ないかという空気まで共有できていた。

しかし、ナチス党幹部となると話は別である。

総統府ではヒトラーが怒り狂っていた。

「リッベントロップ君。これは日本が同盟を裏切ったということではないのかね」

「どうも民族浄化策がお気に召さなかったようです」

「日本は誇り高い民族だと聞いていたが、こんなことも理解できないほどおろかだったか。やはり東洋のサルは劣等民族だな。よく覚えておこう」

「は、心しておきます」

「で、問題はソ連の戦車だったな。それに日本製の部品が使われていると」

「さようです」

「日本からの物流、シベリア鉄道か。これを叩けるか?」

「すぐにゲーリングを呼びましょう」

ヒトラーがこの話をゲーリングに伝えている頃にはスターリンにも日本からの忠告が届いていた。

スターリンはすぐにシベリア鉄道へ沿線への侵入経路に迎撃戦闘機を配備させた。

その三日後、ドイツ空軍のハインケルHe177爆撃機 八機を主力とする攻撃隊がシベリア鉄道爆撃に向かった。

が、結果は独ソ双方ともに不満足に終わった。

迎撃はできなかったし、爆撃も成功しなかったからである。

理由は気象だった。地表近くは厚い雲、霧に覆われ肝心の線路が発見できなかったのである。

ソ連のレーダーはまだまだ遅れており、ドイツ機の接近をまともに探知できなかった。また配備基地と線路の距離がかなり離れていて、迎撃基地の場所取りにも問題があったのである。

迎撃に飛び立ったヤコブレフYAK3戦闘機が爆撃隊をまともに捕捉することは一度も無かった。

一方、ドイツ軍からすると時折り現れる雲の切れ間から、目印も無い広大な森林の中を縫うように走る線路を目視で発見するのは極めて難しかった。シベリア鉄道は広大な森を貫く形で作られた鉄道だったのである。町の近くなら発見は容易になるが、町の近くとなると迎撃機の餌食になる可能性が高いので避けたのだ。

結局、高空から侵入してくる爆撃機を低空から追跡するのは困難だったし、低空に降下中に発見できたとしても、すぐに雲の中に逃げられてしまったのである。目標が一点ならまだしも、線路が目標ではどの地点と特定することが難しいということもこれを助長した。

結局シベリア鉄道の運行は止まらず、ドイツはその後も幾度となく爆撃隊を出したものの、戦果なし被害無しで戻ってくるばかりだった。

そもそもドイツ空軍は戦略爆撃を行うには大きな欠陥を抱えていたのである。

「戦略」などという言葉を冠せられるほど爆弾の搭載量が大きな機体が無かったのだ。

普通の戦闘機よりも大きい飛行機で戦闘機よりもちょっと多めぐらいの爆弾を運べるという程度の爆撃機ばかりになっていたのである。

従って搭載爆弾量が小さいので、目標を視認することにこだわらざるを得なかったのだ。

そこらへんに適当にばらまいておけ、というやり方が取れないのである。

かつてはドイツ空軍にも本格的な長距離戦略爆撃機を造るという構想はあった。が、この構想自体が消滅させられたからである。

事の起こりは大戦劈頭のユンカースJu88スツーカ急降下爆撃機が、電撃作戦でめざましい戦果をあげ、その華々しい活躍談とともに「急降下爆撃万能説」がドイツ中に蔓延してしまったことにあった。

つまり当時の爆撃機が行う水平爆撃というのは爆弾を自由落下させるものだから、狙いというものが極めて甘かったのである。

目標にまともに爆弾が直撃することの方が珍しいぐらいだったのだ。

ということはその下で戦う陸軍の目線から言えば、誤爆によって味方の被害が出かねない水平爆撃しかできない爆撃機など存在して欲しくないということになる。そういう考えをする者の中に元陸軍伍長の現総統がいた。

一方、航空機自体が目標に向かって急降下をしながら、低空で爆弾を切り離す急降下爆撃はその爆撃精度が段違いに良かったのである。

急降下爆撃機信仰、あるいは神話ともいうべきものが空軍および陸軍内部で生まれた。

この結果、爆撃機と名の付くものはすべて急降下爆撃ができるようにしろ、という無茶苦茶な方針が打ち出されたのだ。

たくさんの爆弾を積んだ大型爆撃機が急降下を行ってそこから再び反転上昇するなどというのはもはや夢物語である。

かくてドイツ空軍にはまともな爆弾積載量のある戦略爆撃機が全く無いという状況に陥っていたのだ。

バトルオブブリテンがうまくいかなかった理由の一つでもあった。

従来の大型機の作り方では急降下を行えないことは分かっていたので、推力を極端に大きくするために普通ではない構造の機体開発ばかりが進められることになった。

結果、機甲師団を上空から支援する航空機なら多種多様な航空機が揃っていたが、遠い戦略目標に打撃を与えられる長距離爆撃に向いた機体は全く無かったのである。

今回駆り出されたハインケルは一応急降下もできる長距離爆撃機ということだが、二つのエンジンで一つのプロペラを回す四発機という珍しい設計だった。それがおそらく原因で火災事故が頻発し、とてもパイロットたちが喜んで使えるシロモノではなかったのである。

もちろんこれらの事情については空軍はよく知っていたが、総統命令に反駁などしようがなかったのである。

結局、通例通り約一ヶ月の間、作戦は継続されたが、戦果、損害とも皆無ということで、作戦は中止された。

この際、付帯意見として、今後最前線をより奥地へと移動させた段階で、再開を検討するという意見がつけられて報告され、承認されることになった。

ヒトラー自身がドイツ空軍のこの欠陥に気がつくのはもう少し先のことであった。

そしてその打開策はドイツらしく、これまた尋常ではなかった。

長距離爆撃機の開発ではなく、世界初のミサイルシステム、V1号、V2号となるのである。

ヒトラーには陸軍伍長時代の経験で培った航空攻撃の一種の理想のようなものがあり、誤爆の多い爆撃機に対する不信感は並大抵で無かったことが影響していたようだ。

とはいえヒトラーの極東の小国、日本に対する関心はそう長続きはせず、従ってシベリア鉄道爆撃作戦のことを忘れるのも早かった。

日本は同盟国ではなくなったものの、別に宣戦布告されたわけではなかった。従ってドイツと国交のある中立国ということになる。ちなみにこのグループにはアメリカも入っている。

というわけで大島大使も今まで通り大使館勤務を続けることになった。

が、ドイツ社会にあった親日的なムードというのは表面的には消え失せ、ナチス党シンパなどからの嫌がらせを受けることが多くなった。

しかしその一方で、レニングラード戦のことと、それを理由にしたことを知っている者たちの間では、よくぞ言ってくれたという好意的な評価も少ないながらも存在していた。特にプロイセン以来の名門貴族出身の軍人にはウケが良かった。元々ヒトラーとナチズムに否定的なグループである。このグループは後にヒトラー暗殺計画の中心となっていった。

三国同盟から日本が抜けた、というニュースは、スターリンやチャーチルには驚きではなかった。

もしかしたらやるかもしれないという、期待が元々あったからである。

しかし、ルーズベルトは、ある意味、ヒトラー以上の衝撃を受けていた。

彼の描いていた米国参戦シナリオが完全崩壊したことを意味していたからである。

むしろ排日カードを切り続けたことが、政権に対する米国世論の厳しい評価を産む原因になっていた。

スターリンは日本がドイツとの同盟を解消したことをもちろん歓迎し、またドイツ軍機の来襲を警告してくれたことで赤坂宮に謝意を表した。

が、彼には大きな不満があった。それはその情報を得て体制を整え待ち構えていたはずなのに、侵入してきたドイツ軍機をまともに叩けなかったことである。

ここに至り、スターリンもようやくレーダーや過給器を備えた高出力エンジンを備えた航空機の重要性を認識することになった。

が、とにかく今は目の前のドイツ軍をなんとかしないとそんな未来技術開発を進められない。

結局赤坂宮に対し販売可能なら是非売却して欲しいという要請を出すことになったのである。

赤坂宮は潜在顧客を獲得したのである。

スターリンからすると、本来ならチャーチルに出すべき要請だったのだが、一度日本のためにその依頼を使ってしまったため、正面切ってチャーチルには頼めなくなったのである。

商売上手という点では、赤坂宮の読み勝ちであった。




12/7 

誤りをご指摘頂きありがとうございます。

これまでの投稿の誤記を訂正いたしました。

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