駅前の傘幽霊
数年前までは通学に、今は通勤に使っている駅。幼い頃から慣れ親しんだ小さな駅には幽霊が出る。
自殺者? 違う。ただの噂? 違う。強いて言うなら妖怪に近い。
『……傘、持ってますか?』
その幽霊は条件を満たしていればハッキリ見える。
条件はこの地で生まれ育ったこと、雨の日であることの二つだ。
『……傘、持ってますか?』
その幽霊のことを俺は傘幽霊と呼んでいる。傘幽霊は少なくとも駅ができた頃にはいたらしい。祖母は兵隊さんだと言い、母はサラリーマンだと言う。俺にはパーカーを着た青年に見える。
姿は見る人によって違うけれど、聞くセリフは同じ。
『……傘、持ってますか?』
雨の日にだけ現れる傘幽霊は駅の出口で傘をさして生者に尋ねる。傘幽霊に話しかけたら必ず返事をするのが決まりだ。
「はい、持っています。ご心配痛み入ります」
『…………そうですか』
傘幽霊は無表情のまま俺から離れ、また別の人に話しかける。
俺は傘をさして家に帰った。
翌日も雨だった。俺は傘をさして駅に向かった。傘幽霊が駅前に立っているので会釈をする、傘幽霊は必ず会釈を返してくれる。
『……傘、持ってますか?』
俺と入れ違いで駅を出た派手な服装の女に尋ねた。
「持ってるよー、ありがとー!」
女は鞄から折りたたみ傘を出した。
『…………そうですか』
改札を通り、仕事場へ行く。今日も上司に理不尽な叱責を受け、物を投げつけられて肩を痛めた。早く転職したいな。
『……傘、持ってますか?』
終電を降りて駅を出る時、やはり傘幽霊が尋ねてきた。
「はい、持っています。ご心配痛み入ります」
『…………そうですか』
高校生の頃、両親が他界し、今は一人暮らし。恋人ができる気配もなく、友人と語らう暇もない。俺は寂しかったのだろう。気付けば傘幽霊に話しかけていた。
「傘を持っていなかったら何かしてくれるんですか?」
『………………傘に、入れます』
「その傘に?」
傘幽霊は返事をせず会釈をして別の人の方へ行ってしまった。
そういえば傘幽霊に話しかけられた時、傘を持っていないとどうなるのかハッキリとは聞かされていない。必ず傘を持ち丁寧に返事をしろと大人達に言われて育ってきただけだ。
こういう昔ながらの決まりごとを破る奴は必ず現れるはずなのに、そういう話は聞かない。不思議だな。
今日も雨だ。傘を持たずに傘幽霊に話しかけられるとどうなるのか気になるけれど、試す勇気はない。幼い頃から慣れ親しんでいるとはいえ、アレは正体不明の幽霊なのだから。
「口答えするな! 俺が正しいと言ったら正しいんだ!」
会社でまた上司に怒鳴られる。
「しかし、実際にデータは……」
「データデータデータデータうるさいんだよ! お前の入力ミスだ。お前の入力ミスだ! 分かったか! 全部一からやり直せ!」
「痛っ……はい、すぐにやり直します」
置き時計を投げつけられた。後でトイレに行って見てみたけれど、肩のアザは大きく酷くなっていた。日に何度もぶつけられていれば当然だ。
「あ……そうだ、アイツで試そう」
いつも心を押し殺して生きている。けれど、久方ぶりの好奇心は憎悪を目覚めさせた。
「あの……駅の近くに美味しい店を見つけたんです、今度一緒に行きませんか?」
「あぁ? 店?」
「はい、本当に美味しいんですよ。お酒もいいもの揃ってます」
「ふぅーん……ま、いいだろ」
上司を誘うのには成功した。後は当日に雨が降ることを祈ろう。
傘幽霊はこの地域で生まれ育った者以外には見えないが、別の地域の友人を呼ぶ時には傘を持たせろという決まりはあるので、きっと別の地域の者も傘を持っていなければいけないのだろう。
この実験は上手くいく。
実験当日、俺の祈りは天に通じて雨が降った。このところ雨ばかりだと不機嫌な上司をなだめ、梅雨を知らないのかと心の中で嘲りつつ、傘幽霊のいる駅で降りる。
「本当にこんな寂れた町に美味い店があるのか?」
「はい、すぐそこです」
「ふーん……あれ? 傘……傘がない、おかしいな、折りたたみ……入れてたはずなのに」
上司は駅の出口近くで鞄を漁っているが、彼の折りたたみ傘は俺の鞄の中にあるので見つかりっこない。俺は更に苛立つ上司を置いて駅から出る寸前まで進んだ。
『……傘、持ってますか?』
狙い通り傘幽霊に話しかけられる。
「おい、お前の傘を寄越せ!」
上司が近付いてきた。
「はい、持っています。ですがこちらの方は持っていないようですよ」
「……お前何と話してるんだ?」
上司に傘幽霊は見えていないようだが、傘幽霊の視線は上司に向いた。物心ついた時からずっと無表情しか見てこなかった傘幽霊がにっこりと微笑んだ。
『そうですか……!』
心なしか単調だった声にも喜びが滲んでいる。
傘幽霊は上司の隣へ行くと持っている傘を傾け、上司と相合傘をした。何が起こるのかと胸を高鳴らせていると上司が俺の腕を掴んだ。
「おい、ボーッと突っ立っ──……
今、誰かに腕を引っ張られたような気がした。傘幽霊は目の前にいるし、周りに人はいない。気のせいだろう。
「……今日は聞かないんですか? 傘、持ってますから別に構いませんけど」
何故か話しかけてこない傘幽霊の隣を抜け、自宅へ帰った。帰宅後一番に風呂へ向かう。服を脱いで脱衣所の鏡をじっと見つめる。怪我をした覚えはないので当然だが、俺の身体に特に目立った傷はない。
「んー……?」
なんの痛みもない肩をなんとなく摩り、風呂に入った。風呂を出て寝間着に着替え、縁側に立つ。じめっとした空気とザーというノイズ音にも似た雨の音を楽しむ。
雨音が母の胎内で聞いていた音と似ているというのは本当だろうか。母の胎内の音なんて覚えてはいないけれど、雨音を聞くと落ち着くのにはちゃんと理由があるのかもしれないな。
翌日は快晴だった。ぬかるんだ地面やアスファルトの水たまりを越え、数日ぶりに傘幽霊がいない駅に入る。なんとなく寂しく思いつつ電車に乗り、会社へ。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう。久しぶりの晴れだねぇ」
「はい、ようやく洗濯物を外に干せます」
仕事は大変だけれど、上司は人格者だ。ずっと彼の下で働きたいと思っている。転職や辞職なんて考えたこともない、私生活は寂しいけれど俺は幸せだ。
今朝は晴れていたのに帰る時間になって雨が降ってきた。傘を持ってくるのを忘れていたので駅の売店で傘を買う。
「兄ちゃん傘忘れたのか、危なかったな」
「はい……あ、そういえば傘を持っていないとどうなるんでしょうね」
「そういえば知らないな。傘持たずに話した奴はいないからな……兄ちゃん第一号になってみるかい?」
「嫌ですよ……早く傘ください」
気さくな店員から傘を受け取る。
「不思議ですよね、ハッキリ見えて話しかけられるとはいえ……決まりを守らない奴くらいいそうなものなのに」
「な、不思議だよな……もしかして決まりを破ってる奴はいるのかもな。でもいなかったことにされて……!」
「怖い話はやめてくださいよ。親の次に慣れた顔なんですから……そういう変な怖さ足さないでください」
買ったばかりの傘を持って出口へ向かう。傘幽霊が俺の方へ寄ってくる。
『……傘、持ってますか?』
「はい、持っています。ご心配痛み入ります……あの、もし傘を持っていないとどうなるんでしょうか」
『…………傘に、入れます』
「その傘に……ですか? 親切ですね」
家まで送ってくれるのだろうか、それくらいなら体験した話を聞くはずだ。送ってもらった記憶が消えてしまうとか、いや、それなら送られていく人を見ることくらいあるだろう。見た方の記憶も消えるなら説明がつくが、そもそもどうして記憶が消えるのか分からない。傘幽霊に不都合なことでもあるのだろうか。
梅雨はまだ続く。
『傘、持ってますか?』
「はい、持っています。ご心配痛み入ります」
次の日も。
『傘、持ってますか?』
「はい、持っています。ご心配痛み入ります」
その次の日も。
『傘、持ってますか?』
「はい、持っています。ご心配痛み入ります」
雨は降り続けた。
そして、不意に止んだ。梅雨が明けたのだ。
今日も傘幽霊は駅前にいない。次の日も、その次の日もいなかった。けれどその次の日には現れた。
『傘、持ってますか?』
「はい、持っています。ご心配痛み入ります」
台風が近付いていると天気予報があった。梅雨が明けたと思えば台風の時期、もうしばらくは傘幽霊と話せそうだ。
「台風直撃だってねぇ。電車が止まるといけないから早めに帰りなさい」
優しい上司の提言で俺含め社員は早めに仕事を切り上げた。しかし台風の進行は予報以上に早く、俺が駅に降りた頃には目を開けるのも辛い強風が吹いていた。
『……傘、持ってますか?』
「こんな日でもいつも通りか……持っていますよ、ご心配痛み入ります」
傘幽霊の隣を抜けようとしたその時、ボキッと嫌な音が響いた。次の瞬間傘の曲線が反対になる。傘が壊れてしまった。
『……傘、持ってますか?』
傘幽霊がこんなにも短い間隔で再び話しかけてくることなんて今までなかった。
「い、今すぐに買ってきます!」
言いようのない恐怖を覚えた俺は慌てて売店に走り、傘をくれと伝えた。
「あー、悪いね兄ちゃん。兄ちゃんみたいに壊した人が大勢いて売り切れなんだ」
「売り切れ? そんな……台風が来るのは分かっていたんだから、入荷を増やすべきだろう」
「後から言われてもどうにもならない。過去に戻れるのなら自分に忠告してやるけどな」
傘立てにも置き忘れはない。傘が手に入らない。このままでは傘を持っていないまま傘幽霊に話しかけられなければならない。
「傘をささなかったらどうなるのか、後で教えてくれよ」
売店を後にして出口の少し前で止まる。雨が止むまで待とうかとも思ったが、翌日になっても止むか分からないものは待てない。
『……傘、持ってますか?』
「は、はい……持っています。ご心配痛み入ります」
見逃してくれるよう祈り、壊れた傘をさして傘幽霊の隣を抜ける。しかし傘幽霊は俺の前に回り込んできた。
『……傘、持ってますか?』
「これじゃやっぱりダメなんですね……傘、持っていません。入れてくれますか?」
「そうですか……!」
傘幽霊はにっこりと笑って俺の隣に並び、傘を傾けた。傘幽霊に礼を言ってから一歩進んだ瞬間、強風が消えた。
「あれ……?」
雨も小粒へ変わり、ザーと綺麗な雨音が響き始める。
傘幽霊は歩幅を合わせ、俺の横にピッタリとくっついてきた。
「あの、傘幽霊さん。そこの空き地にはコンビニがありませんでしたか?」
コンビニが建っていたはずの場所は空き地になっていた。その空き地の様子は中学生の頃に友達と集まっていた頃と全く同じだ。
「そこの建物も……違う。向こうも、あの店は今はもうハンバーガーショップで……この町並み、まさか昔の?」
傘幽霊は声を出さず頷いて返事をした。
まさか傘幽霊の傘に入ると過去が見られるなんて思い付きもしなかった、売店の店員に話したら信じてくれるだろうか。
「あ……お、俺の家、俺の家だ」
傘幽霊の隣で昔の自宅を覗いているとちょうど母が玄関から出てきた。母の腹は大きい、俺を妊娠しているのだろう。
ずっと前に亡くなった母に会えたのが嬉しくて、駆け寄ろうと一歩進んだ瞬間、母の腹が少し縮んだ。いつの間にか服装も変わっている。
「まさか、歩く度に時間が戻るのか?」
大股で母に近付き、俺と傘幽霊が見えていない様子の母を間近で観察する。
「この腹の中に俺が……今は四ヶ月もないくらいかな」
不意に傘幽霊が母に近付き、母の腹を撫でた。なんだか頭がこそばゆくなったその時、母は苦しそうに腹を押さえて座り込んだ。
「な、何をしたんだ……?」
『…………君を消した』
俺を流産させたというのか。いや、それなら今ここにいる俺は何だ。
『これで君も私のもの』
「え……? いや、あの……何を言っているのか分からない。もう少しちゃんと説明してくれないか」
『おいで』
傘幽霊に手を掴まれる。触れられることなんて初めてで、恐怖混じりの驚愕に身体が動かず、振り解けないまま景色が変わった。
「ここ、は……神社?」
一歩足りとも動かなかった。なのに俺と傘幽霊は山奥の神社に立っていた。何も分からないが、異常事態ということだけは嫌でも理解した。
「この神社……知ってるぞ、でも、俺が知ってるのはもっとボロボロで……」
俺はこの神社を知っている。小学生の頃に探検をして見つけた、近所の山奥の神社だ。
「確か、ここに祀られてるのは──」
『この地域には昔から雨が降らなかった』
傘幽霊が俺の言葉を遮る。
『人間達は私に助けを求めた』
傘幽霊が傘を落とす。地面に落ちた傘の内側に雨水が溜まっていく。
『私には生贄が必要だった。けれど、それでは人間が可哀想だ。愛らしく、愚かしく、いじらしく、何よりも可愛い人間……人間が心を痛める姿は見たくない』
傘幽霊は俺の手を引いて本殿へ向かう。雨に濡れたくなくて、話の続きが聞きたくて、何故か危険は感じなくて、俺は抵抗せず本殿に入った。
『せめて、できるだけ悪い子を選ぶ。言いつけを守らない子を……』
本殿に入るとスーツを脱がされた。不思議と嫌な気はせず、渡された手拭いで雨粒を拭った後は裸のまま立ち尽くした。
『家族が悲しまないように、産まれる前に戻って潰す。魂を捕まえた後、身体を潰すだけなら……魂は成熟したままだ』
傘幽霊も服を脱いだ。その背には鱗のようなものがある。
『生贄が怖がらないように、苦しまないように、記憶を全て消す。本能に刻まれた恐怖は特に念入りに……可愛い人間が泣く姿は見たくない』
足をピッタリと閉じ、腕を体側に沿わせ、傘幽霊はぐんぐんと伸びる。みるみるうちに人の姿ではなくなり、巨大な蛇がこちらを向いた。
『……おいで。私のややこ。君の還るべき母の胎はない。代わりに私の腹でお眠り、もう冷たい雨に打たれる必要はない』
俺の目の前で大口を開ける蛇。その牙にも、下にも、黒い洞穴の喉にも、恐怖は感じない。
「………………ただいま」
牙を避けて足を進める。舌を踏み、滑らないよう気を付けながら奥へと進んでいく。真っ暗でぬめった洞穴に出口はない。
『…………おかえり』
蛇が体勢を変えたのか、洞穴に角度がついて俺はぬるぬると滑り落ちていく。温かい液体に満たされた場所まで落ち、俺はそこでうずくまって目を閉じた。
何の不満も不安もない、俺は胎内回帰を果たしたのだ。