幻覚少女
”私の言う驚異の仮説とは、あなたが無数の神経細胞の集まりと、それに関連する
分子の働き以上の何ものでもないという仮説である”ーーーーーフランシス・クリック
『間もなく新宿駅に到着します』
帰宅時間でわりかし混雑した列車の中でAIのアナウンスが流れる。
会社帰りのスーツを着たサラリーマン、学校帰りの高校生にいくばくかの老人や子供たち。いつもの見慣れた風景だった。
『散歩帰りのそこのあなたそのまま犬をケージに入れてませんか?』
ちょうどドアの上に設置されたコンパクトモニターにCMが流れている。
『まずはこの便利なサーキュト帰りに設置しておくだけでそのまま足裏に付着した金や泥を99%以上除去。使用後はそのままダストシュートに自動吸引させればOK』
そう言うとホログラム犬列車内の宙を走り反対側のモニターへと消えていく。
『やっぱり全然全菌』
と21世紀初頭に流行したアニメの主題歌をモチーフにした商品名をタレントが読み上げる。
会社帰りの泉和也もまたそんなCMをボケっと眺めている内の一人だった。
いつも通り細かいところで上司にガミガミ言われて疲れがたまっていた。窓に映った自分の姿を見る。
高校生の時に想像していた26歳の自分はこんな感じだったのだろうかとふと思う。
窓に映った自分がどんどんと年老いていく。気がつけば白髪になってシワが顔に刻み込まれたスーツ姿の自分がいる。
こうして人間は誰しも年老いていくのだろうか。
泉は思う。自分という人間は所詮その程度の人間に過ぎず何か大きなことを成し遂げることはないのか。
気がつくと窓に映った自分の姿が元に戻っていた。"zeus"と連動させたモバイルデバイスでチャットに勤しむ女子高生、自分と一緒で疲れ果てているのか座って口を開いて寝ている中年サラリーマン。そして会話をする者たち。
『新宿。左側のドアが開きます』
電車が駅のホームにつき雪崩れるように人が降りていく。
泉もハッとなりその流れに乗る。
列車から降りホームに降り立った。"zeus"と連動した電子マネー及び信用スコアで決済が可能な自動販売機に乗り換えのために急ぎばやに歩く人々。電子ホログラムの広告や電子灯が駅のホームを照らす。
泉も帰路につくため整備された地下通路へと向かう。乗り換え先の中央新線に向かう途中、歩く歩道で"zeus”を起動する。最新の音楽でも聞こうと某有名の動画サイトへ移動し、そこで”動画を再生する”よう思考を行う。
すると音楽と自分だけに見えるホログラムディスプレイが作動しMVが流れる。
中央新線のホームに着くまで何の気なしに動画を眺めていた。
「ねぇ」
その時音楽とは明らかに違うところで少女の声が聞こえた。
泉は辺りを見回す。しかしそこには誰もいなかった。自分の空耳だったのかと思い泉は再び動画を見ようとするも、
「ねぇ」
とまた少女の声が確かに聞こえた。
再び辺りをキョロキョロ見るが後ろの人にも怪訝そうな目で見られている気がしたため大人しくする。
「私はここ」
再び少女の声が聞こえた時に泉はやっと理解できた気がした。少女の声は"zeus"から聞こえていたのだ。
「なんだい」
思わずそう語りかけてしまう。
「これは広告か新しいサービスか何かかい? だとしたら悪いが身に覚えがないよ」
泉はそう”少女”に向かって言った。
「いいえ、どれも違うわ」
少女が話す。
「私は今あなたなの」
と、彼女は確かにそう語った。
「???」
泉は少女の言葉についていくことができなかった。
急に現れて「私は自分なんだ」と言われても到底理解することができない。対して機械に精通しているわけではないがこれは”zeus”のバグか何かかと思った。ネットのニュースなどで"zeus"に関するニュースは日々多く流れている。中には幻聴が聞こえた、幻覚が見えたなどというものも多いがその大方は音楽や映像の残滓によって説明のかたがついた。
"zeus"は現実世界に支障をきたさないように移動中などに音楽や動画流す際は移動に支障が来さない程度の音量や映像の縮尺に調節されるよう法律で決まっている。そんなわけだから動画を見ていてさらに突然このような確かな声が”zeus”から流れるはずはない泉はそう思った。
「それも違うのだけれどまぁバグというのが一番表現が近いのかもね」
と少女は言う。
「どういうことなんだよ。教えてくれ」
喋ったところで少女に思考が筒抜けになっている以上意味のない行為なのだがそれでもついつい口が動かずにはいられなかった。
「私はあなたから生まれたの」
少女は語る。
「正確に言えばあなたの思考と”zeus”の機能によって生まれた。偶産物とも言えるわね」
律儀に少女が説明をしてくれる。
「なんだそれは」
そんな話聞いたことがなかった。
脳内に電子チップ及びその他のマイクロマシンを搭載した"zeus"を埋め込むことで発生するバグ。AIと人工知能が発達した現在においても例えサービスやアプリ、動画でAIを使ったり見聞きすることはあっても生成されるはずはない。
自分の頭がこんがらがるようで少女に聞きたいことが山ほどあった。
「なぁ……」
「いけない」
泉の声を遮るように少女が言う。
「一旦今日はここまでもう時間だわ」
そう言う少女になんだそれは自分勝手なと泉は思いつつも「じゃあまた」と言って少女の声は雲散霧消した。
「おい」
周囲に気遣い泉はそう小声で脳内に語りかけるように言ったが彼女からの返事は聞こえなかった。
そうこうしている内に中央新線のホームに着き、呆然と立ちすくんでいたがそれ以上少女が現れることはなく泉は止むを得ず電車に乗って帰路につくことにした。