清水彩香
時間が静止している世界で沙紀は一瞬で清水彩香の元に辿り着き、彼女を抱え空へ飛んだ。目指すのは人のいない場所。
沙紀は迷わず夜と出会った小山の頂上へ向かう。時間は空に紅色がさす頃。山頂の辺りは逆光で東側に夜が訪れている。沙紀はベンチに清水彩香を下ろす。女子高生を一人で置いていくのは気が引けたので、隠れて彼女を見守ることにし、草むらの茂みに隠れようとしたとき、それは唐突に襲ってきた。
沙紀の魂に大きな罅が入る。それは痛みを伴って沙紀に襲い掛かり、彼女の意識を奪った。
気を失い、再び動き出した世界で、清水彩香は自らの置かれた状況を理解できなかったが、きっと目の前で倒れている彼女が助けてくれたんだろうと思い、笑みをこぼした。
清水彩香は地面に倒れいている沙紀をベンチに寝かせ、膝枕をしてあげる。透き通る髪を手櫛ですかし、彼女の頬に触れる。
「この痣、教室で見た時よりはっきりとしてる。」
沙紀の手を見ながら、痣を指でなぞるように撫でる。
「なんか龍っぽいかも。」
それを確かめるように、執拗に指先で形をなぞっていると、急に声が聞こえる。
「ええい、気安く触るでない。」
「えっ、誰かいるの?」
周りを見渡すがこの場には私と沙紀しかいない。一体声の主はどこにいるのかと不思議がっていると、沙紀の身体から闇のオーラが出たかと思えば、なにやらよく分からない生物が飛び出してきた。
「まったく、面倒くさい。小娘、我のことは沙紀には言うでないぞ。いいな?」
「かわいい。」
夜の言葉を無視してじりじりと詰め寄る。そんな彼女に夜は後ずさるが、あっという間に抱きしめられてしまった。
「きゃーー!なにこれ!このキモ可愛い生物!あなた何者なの?」
「離せ!無礼だぞ!このっ、ほっ!」
うまく抜け出した夜は、沙紀を壁にして清水彩香と対峙する。
「我は龍であり、神だ。お前とは違い、高貴で高潔な身分なのだ。わかったら気安く触れるでないぞ。」
「へぇー、龍さんなんだ。そんなことより、龍さんと沙紀の関係ってなんなの?」
夜のことをジト目で見ながら、清水彩香は言葉を続けた。
「お主、信じてないな?」
「ごめんね。私、小さい頃に幽霊とかお化けとかが見えてたの。今はもう見えないんだけど、あなたみたいな存在をよく知ってる。もし沙紀に取り憑いているのなら、私はあなたを絶対に許さないわ。」
先程まで夜を可愛がっていた時とは表情が一変して、真剣な眼差しを向けながら夜に言う。
清水彩香は優しい人間なのだろう。得体の知れないものに立ち向かうのは、誰でもできることではない。一切の力を持たず、出会って数日の同級生のためにそこまでできる人間はいないといってもいいだろう。では、何が彼女にそこまでさせるのか、それは恐らく圧倒的自己犠牲に他ならない。電車に轢かれそうになっても悲痛な表情すら見せず、終始達観していた彼女は、きっと自らの価値を見出せず、今まで誰かに尽くすことでしか存在意義を見出すことができなかったのだろう。自己を鑑みず他人に命を捧げるような行いは、勇気でもなく、蛮勇でもない。それでも彼女はそうするしかなかったのだろう。自己犠牲による行いをやめてしまった瞬間、自らの存在理由がなくなってしまうのだから。
(こんな姿を沙紀が見たら、きっと激怒するだろうな。まったく、世話の焼ける。)
「安心しろ、我は...我は沙紀のなんだ? まーあれだ。あいつのペットみたいなもんだ。それに我は沙紀に害を与えるような存在ではない。 ...多分な。」
最後の言葉は聞き取れるかギリギリでいった夜だったが、恐らく聞こえていないだろう。
「そっか、よかった。でもまだあなたのことを完全に信じたわけじゃないから、沙紀が起きたら確認するからね。」
「うむ、分かったのである。あいつの様子を見るに、あと数分で起きるだろうから、そのとき確認なり勝手にやるがいい。」