エピローグ1 世界最強の魔法使いがこんなに弱くていいのだろうか。
私の手には、何もない。
手の平の上にも、手の平の中にも、何も。
ただ、ずっと手を見ていると、うっすらと中心から血の色が広がり、やがて手を覆いつくす。
呼吸が乱れ、息が苦しくなる。冷汗が全身を覆い、いやな悪寒がこみ上げる。
吐きそう。
水道の蛇口を勢いよくひねり、顔面から水を浴びた。
少しは楽になったな。
心の奥深くに鎮座する、湖が波打つ感覚。
人としての、人である為に必要なもの。
私には、この気持ちを、忘れてはいけない義務がある。
「このあと食事でもどう?」
私は初めてあった人とキスし、ただ今食事に誘われていた。
何を食べたいか聞かれたが、バイトで疲れ腹が減っていたのでとりあえず何でもいいと答えた。
「じゃー焼肉にしましょ。今まで飲食店に一人で行く勇気がなくてあまりいけなかったの。」
「仕事の同僚と行けばよかったんじゃないですか?」
私が興味本位で聞くと、彼女は渋顔をし。
「職場に同年代の女性がいないのよ。前に同僚の人と一緒に行ったら、下心丸出しで酒を飲ませるもんだから、途中で帰っちゃったわ(笑)」
なるほど、確かにそれは行きたくなくなる。まぁ私がその立場だったら、うまくかわしてただ飯を食らうんだねどね。この人はそんな薄情な人じゃないし、そんなことできないだろうけど。
なんせこんな私を雨が降ってるからって車に乗せるんだから。
「それは災難でしたね。焼き肉屋に行く前に、家に荷物置きに行ってきますね。」
「宮沢秋、それが私の名前よ。」
「私は橘沙紀です。よろしくお願いします。秋さん。」
「見た目に対して可愛らしい名前なのね。沙紀ちゃん。」
秋さんがおどけるように言った。
「本当は女の子ですから、私。」
ない胸を精一杯張って、少しおどけてみせた。
私は焼肉屋のあと、秋さんの家に来ていた。
秋さんは焼肉屋で酔いつぶれるほど酒を飲み、車の運転ができなくなるほど酔いつぶれた。
代行を呼ぼうとしたが、秋さんの家が近かったのでこっそりと車にのせ、私が運転して帰ってきた。
「秋さん、つきましたよ。ほら、あとは階段を上るだけですから頑張ってください。」
「うぅーー」
私は秋さんが暮らしているマンションの外階段を、足を踏み外さないように気を付けながら上がっていた。
そして私が一歩足を動かすたびに、背中にある幸せなものが押し付けられる。
私はこっそりと歩く振動を大きくしながら階段を登り切った。
「秋さん、部屋の鍵どこですか?」
「胸ポケット」
秋さんが気怠そうにぼそっとそんなことをつぶやいた。
世界がいくら私の敵になろうとも、不可抗力の神様は私の味方だ。
これは部屋に入るために仕方がないことなのだから。仕方ないのだ。
私は覚悟を決めた。こんなことでくじけていたら、この先やることやっていけない。
秋さんを玄関の扉にもたれさせ、上着の革ジャンを脱がせ、白シャツの胸ポケットに手を伸ばす。
そして私は普通に鍵を取り出した。
なんでこの世にはブラジャーなんてあるんだろう。
鍵をとるときわざと胸に手を当てたのに、この壁のせいで柔らかさを堪能することができなかった。
「ふふ、触りたかったら言えばいいのに。むっつりさん。」
「ちがっ、そんなこと思ってないです。ただちょっと残念だったというか....少し物足りなかったといいますか.....。」
「違くないじゃない。」
秋さんがジト目で私を見てくるが、私は目線を鍵にずらし抗議を無視する。
「開けますよ。へー、秋さんにしてはまともな部屋ですね。てっきりゴミ屋敷かと。」
「失礼だなー、私だって掃除するよ。一人暮らしを舐めないでほしいね。それと君、年上には敬う気持ちで接するものだよ。まったく。」
「はいはい。わかってますよ。」
私は自分の靴を脱ぎ、玄関に腰を下ろした。
「脱がして。」
壁に手をつきながらそっと立ったまま足を突き出してくる。
その仕草が非常に艶かしく、どこかのモデルかと思った
私はヒールの紐を解き、右足の靴を脱がす。
どうしても目線が太ももの付け根に行ってしまうが、なんとかガン見せずにすんだ。
視線を太ももから足元に移動させるとき、黒のストッキングから薄っすらと大きな傷跡が見えた。
「この傷、どうしたんですか?」
私は言いながら秋さんの顔を見上げるが、口を強く結んだまま答えようとしない。
「言いたくないの?」
私は諭すようにやさしく問いかけ、指をストッキングの隙間に入れ、全部脱がした。
パンツも一緒に脱がしそうだったが、秋さんが抵抗してパンツは抑えていたので、ストッキングだけ脱がすことができた。
途中で私の手を抑えて抵抗してきたが、秋さんの手をゆっくりと握り返すと、腕の力を抜いた。
「きれいな脚。」
「嘘、この傷がある限り、ただの醜い脚よ。」
秋さんが冷たく言い放った。
「いいや、きれいだよ、傷があってもなくても、私にとっては。」
私は直接脚の傷に指を滑れしながら言った。
「やめて、私はこの傷が嫌いなの。これをつけた人を、今でも恨んでる。」
表情も冷たく、冷淡に言い放った。きっと思い出したくもない記憶なのだろう。
けれど、そんなのは不可能に近い。秋さんの心を蝕む辛い記憶は、今もなを、脚に残っている。
癒してあげたい、秋さんの傷も、心も。けれどそんなことすると、私の力のことがばれてしまう。
今の私には、リスクを冒してまで秋さんの傷跡を治すことはできない。
「秋さんを傷つけた人って?」
私はこの傷をつけた犯人を聞いた。傷をすぐ癒せない今、まずは心のケアだ。
「母よ。義理の母だけどね。父の子連れだった私に、以前の母の面影を感じていたみたい。迷惑な話しよね。私はなにもしていないのに。再婚した当初は、仲良かったのよ。でもね、やっぱりダメだったみたい。いくら母親と行っても血が繋がってない、結局は他人に過ぎなかったのよ。私は、父さんの笑顔が見たくて、どんなにまずいご飯でも笑顔で食べたんだけどね。」
作り笑いを見せながら、どこか虚ろな目で語った。不思議と、涙は流れていない。私には、同情出来なかった。