5話:迷子の迷子の 後編
――どさっ。八階から落ちてしまったらしい。
二つ、思い残しがあるのなら……東雲さんにもう会えないことと、不幸だらけの人生だったな、ということ。
ああ……最後に東雲さんと仲良くなれて良かっ……た。
「倖、大丈夫なのですかー?」
これは、幻聴……だろうか。
「聞いているのですー?」
うん、僕は八階から落ちた。生きているわけが……。
それを確認するためにも、恐る恐る目を開いた。
「にゃ、にゃにゃッ――」
あろうことか僕は立っている。猫を抱えたまま。痛みも何も感じない。不思議なこともあるもんだ。
足下を見ても怪我一つなく、ぴょんぴょんと飛んだり跳ねたりしても平気だ。
何個か、気になるところと言えば……。
「……にゃ、にゃんでこんにゃことにーッ!?」
僕の意思に合わせて揺れる猫のような尻尾、アンテナのようにぴくぴくと動き、遠くの音を聞き取ることのできる大きな猫耳。
爪を出し入れできる便利な猫の手。あ、肉球が気持ちいい。
……そんなことより。僕の体から猫の耳や尻尾が生えていた。
よし、どういうことなのか説明してもらおう。
「エール! これはにゃんだ!」
「似合ってますですー!」
だめだ、話にならない!
「僕はどうしてこんにゃ姿ににゃっているにょか、問い詰めているにゃ!」
猫口調で喋る僕を前に、ぷっと吹き出しながら笑う神様。
エールがこんな姿にしたっていうのに……なんてひどい神様なのだろうか!
「ぷっ……ははは。ごめんなさいですー。倖が落ちそうだったので、神能人離でバステトさんを憑依させたのですよー」
バス、テト?
えっと、バステトって確か……。
「古代エジプト、猫の神様なのです。バステトさんには、その超絶なる身体能力を借りさせていただきましたー」
「で、にゃんでこんな姿に」
「まあまあ、十分も経てば収まりますですよー」
「くっ……」
助けてもらって言うのもあれだけど、この際だから叫びたい。
エールの能力は『ほどほど』というものがないのかよッ!
東雲さんの告白、エロースの時もそうだけど!
彼女のお兄さんとは知らず手を上げてしまった時のシヴァもそうだけど!
エロースは弓を張り詰めて打たなければならないというワンアクションを要するし、シヴァは想像以上に乱暴で暴力的だったし!
「あとあと、言い忘れてましたけど」
ん? 何を、だ?
途端、耳がぴくりと動いた。
西方から聞こえる謎の声。
『うあああ! 泥棒だああ!』
やがて東方より悲痛な叫び。
『だっ誰かー! 助けてー!』
誰かの悲痛な叫びに、僕の耳とその四肢はピンと反応を示す。
罪の意識を狩らなければ。そう僕の心に語り掛ける神の御霊。
「バステトさんを憑依すると、身体能力を上げるだけでなく、遠くの声を聞き分けて罪を摘みたくなるような衝動に駆られますー。気をつけてくださいねー」
「お、遅いよ!? ……ふーッ、シャアア!」
神の跳躍力で家々の屋根へと渡り、宙を舞う猫もどきの僕。普通の猫とは違い、風を切り裂くようなスピードで闇の中を駆け回る。
そんな中、普通ならば聞こえないほど遠くの位置で、エールの声が聞こえた。
「やれやれです」
この羽虫め……。
帰ったら覚えていろよ!
「すごいですー! 十分以内に帰ってくるとは思わなかったのです、途中で倖が迷子になると思いましたが、バステトさんのお陰で無事に帰ってきましたね!」
「ぜえ、ぜえ、疲労が、一気に……」
あの後、バステトとなった僕は人の罪を狩るために西方の万引き犯を、そこから休むことなく宙を駆け東方の悪いやつを、感謝される間もなく取っ捕まえた。
どうやら憑依中に、必要以上の激しい動きをすると、その分の疲れがどっとくるシステムらしい。
十分以内という制限の中、何十キロも駆け回ったので当然か……。常人の僕ではとても、この疲労感に勝つことはできない。
「も、もう動けない」
「何を言っているのですか。迷い猫ちゃんの飼い主さんを見つけるのですよー」
「はぁ!? い、今から……? 明日じゃダメなの? 近所迷惑だし、第一僕が動ける状態じゃあ」
「飼い主さんが待っていますよ! 猫ちゃんも寂しい、寂しいって!」
「ぐ……ふぅ」
エールの酷使に、僕は疲弊しきった体を気持ち程度、休める。
と、迷い猫は僕の心配をするように頬を舐めてくれた。
「ありがとう……キミだけだよ、僕の救いは」
「みゃあ」
――やがてエールの指示通り、飼い主を探すこととなった。
寂しげな夜の道。闇に光るほんのわずかな街灯達が行く道を照らしてくれている。
僕は当てのない散策にただただ、ため息をついてエールを問い詰めた。
「探すって、どうやって探せばいいんだよ」
「調査の基本は聞き込みなのです!」
「エールの神能人離でこの子の飼い主を探せないの? それこそバステトみたいに遠くの声もわかるとかさ」
「そんな便利な能力はないのです! バステトさんでもよろしいですが、また罪を狩る! とかって走り出しちゃいますよ?」
「う……それは困る」
またあの疲労を感じなければならないというのは、さすがに骨が折れる。
「それに、神能人離ってこう見えて結構、力を使うのですよ。ぽんぽこ当てにしないでくださいなのです」
「おっと。わっとっと分の働きはしてもらわないと」
「むぅ……」
そんなに不服そうな顔をしてもだめだ。って、僕を助けるためにきておいて不満げってどういうことだよッ!
それにしても、夜なだけあって通る人が少ない。これじゃあ聞き込みにもならないよ。
そもそもこの子はどこからきたのだろうか? 近所の子? 遠くの子?
「なあ、お前はどこからきたんだ?」
「みゃう?」
「……わかる訳ないよなぁ」
はああ、深いため息と共に何の当てもなく彷徨い歩く。
さて、一体どうしたものか。一人、迷い猫と話していると、エールは突然と大きな声を上げた。
「あっ!」
「うわっ! な、なに!」
「ナイスです、倖! それです、やってみましょう!」
「な、何をだよ」
ともかくエールが何か作戦を思いついたようなので、聞くことにした。
――話を聞いて、本当にそんなので言葉がわかるのだろうか? と不安に思ったが、ここはエールに任せることにした。
「ではいくのですー」
「うん、お願い」
猫を放ち、エールの前に座らせる。本当に人外にも有効なのだろうか……。
エールはいつもの如く高速に呪文を唱えると、びしっとポーズを取って神能人離を使った。
「人を離れて神よ来れ。人語を理解し、その性質を見抜くべし。神能人離! 大口真神!」
どくんっ。ただの飼い猫から、何かの力を得たような雰囲気を感じる。
迷い猫に憑依した神はゆっくりとこちらを振り返った。
猫の大きな目は、先の可愛いまん丸な目と違い、とても鋭い釣り上げられた目つきで、どこか狼のような荒々しい情調を感じる。
「ね、ねえ。キミはどこからきたの?」
「……わふ、みゃあ」
そんな狼と猫が混じったような声で一つ何かを喋ると、こちらの言葉が理解出きたのかテケテケと独りでに歩き始める。
僕は数秒エールと顔を見合わせ、どこかへ向かう猫について行った。
やがて僕の家から少し離れ、大きな白い建物の前にきた。
目の前には人々を迎え入れるための大きな駐車場がある。
所々、窓からは淡い光が漏れ、人が活動していることを示していた。
「ここは……」
「病院、ですね」
そう。僕達は猫が進むままについて行き、病院の前に立っていた。
迷い猫は再び寂しげに声を上げている。もしかしてこの子の飼い主は病気で、入院しているんじゃないか?
猫の世話を近所に任せたはいいものの、隙を見て逃げ出してしまった。
迷い猫は飼い主の居場所までは突き止めたが、主人が出てこないのを確認するとふらふらと歩き出し、帰り道を忘れいつのまに迷子になってしまった。
そんなところだろう。
僕は膝を折ってできる限り目線を猫に合わせながら声を掛けた。
「……この病院には、確かにご主人様がいるかもしれない。けれど、キミはこの建物には入れないんだよ」
「みゃあ、わふぅ」
鋭い眼でこちらを見つめてくる迷い猫。
うちで預かってやりたいのは山々だが、ペット禁止なんだよなぁ。
『ジェシカちゃん!』
ふと、元気そうなおばさんの声が僕達の耳に入る。
どうやら、この子を知っているらしい。
ふくよかなおばさんは小走りにこちらへ近づくと、猫を抱きしめ頬を擦り寄せた。
「あぁ、ジェシカちゃん。ジェシカちゃんだろう? 心配したんだよ……」
猫もおばさんに懐いているようだ。頭を擦りつけて甘えている様子を見せた。その光景が微笑ましくて、思わず笑みが零れる。
「みゃあ、わんっハッハッみゃあ」
「あら……なんだか見ない間に犬みたいな鳴き声になったわね」
狼の化身、神を憑依したって説明しても信じてもらえないどころか変人に思われるだろうな。
本当のことが言えないのがつらい。
「あなたがジェシカちゃんに付き添っていてくれたの?」
「え、えぇ。まあ」
僕は頬を掻きながら、曖昧に答えた。エールの姿が見えていないのは知っているけれど、あなた達……と呼ばれない点に少しの違和感を覚えた。
おばさんは僕にお礼を言うと、この子の飼い主について話し始めた。
「奥様はお体が弱くてね。入院をしている時は私がジェシカちゃんの面倒を見ているのよ。でもね……この子もこの子なりに、奥様が心配になったのかもね。
この子は元々捨て猫だったから。こうして誰かにお世話をされても、奥様がお隣にいなければダメなのね」
今の迷い猫は人の言葉を理解しているようだ。首を傾げたり、おばさんの胸に包まれながら後ろを振り向き、病院をちらちらと気にしたり。けれどやっぱり飼い主が出てこないことを知って、大人しくなった。
やがておばさんの胸の中で目を閉じウトウトする猫。これでおばさんもホッと一安心だな。
「さあジェシカちゃん、帰りましょうね」
「良かったですね、ジェシカちゃんが見つかって」
「えぇ、本当にありがとう。何かお礼をしてあげたいけれど」
「いえ、気を遣わないで下さい。僕の住むマンションに迷い込んできただけで、たまたま保護した……という形ですから」
おばさんは深々とお辞儀をすると、猫と共に家へと帰っていった。
とても人懐っこい子だったなぁ。あんな猫なら、僕も飼ってみたいと思う。
「ぶー。お礼はなんでわっとっとにしなかったのですかー」
「欲深なやつ……」
呆れた……。すぐに報酬をもらおうとするんだなぁ、この神様。
さて、迷い猫も無事に帰って行ったし、僕達もそろそろ帰ろうか。そうエールに告げる。
するとエールもまた『帰ったらちょこアイスとわっとっとを食べるのですー!』と二個目を食べる宣言を堂々と行った。
神への貢ぎ物と思えばいいのだろうか……うん、そういうことにしておこう。
「わん、わんわんッ!」
「だー! エール、助けてえ!」
やっぱりこうなった!
僕は犬に追いかけ回されながらマンションへと向かう。
「やれやれ、です」
「この神でなしー!」
エールに声を荒らげながら、僕も、犬も徐々にスピードを上げて地面を蹴って進む。
コンクリートの塀に囲まれた住宅街。家々が僕の逃走劇を覗く中、こんな住宅街に似つかわしくない大きな高層マンションが見えた。
もう少し、今度こそ、今度こそ逃げ切れる!
「僕の、勝ちだあ!」
ふと足が地についていないような感覚に見舞われた。
気づけば、重心が前へ前へと止まらず進む。
「あっ」
ごろっと石につまづいて、顔面が地面と衝突した。
あまりの痛みに涙が出そうになりながら、よろめき立つ。はあ、またこけてしまった。これは単なるドジなのか、そういう運命なのか。
とにかく、帰ろう。今日はもう休んで……ゆっくり寝よう。
引きずるように足を立たせようと動かした。が、足が重くて動かない。
「わんっ」
「あ……あれ? デジャ……ぶふぅっ!」
犬が全体重を乗っけ、僕の服を引っ張ったり顔をべろべろと舐めたり、飽きるまで遊び続けた。
「やれやれ、です。私は先に帰って、わっとっととちょこアイスを食べるのですー」
最後に見えたのはエールの飛び去る後ろ姿。
あの自由すぎる神……覚えていろよ!
……僕の苦労は、まだまだ続きそうだ。