5話:迷子の迷子の 後編
――どさっ。八階から落ちてしまったらしい。
二つ、思い残しがあるとすれば――東雲さんにもう会えないことと、不幸だらけの人生だったなということ。
ああ……最後に、東雲さんと仲良くなれてよかっ……た。
「幸、大丈夫なのですかー?」
これは……幻聴だろうか。
きっと天使さまがお迎えに来たんだ。
「聞いているのですー?」
うん、僕は八階から落ちた。生きているはずが――。
それを確認するため、恐る恐る目を開けた。
「にゃ、にゃにゃッ――!?」
……僕は立っていた。猫を抱えたまま。
痛みもない。体も平気。足元を見ても傷ひとつない。ぴょんぴょん跳ねても問題なし。
気になることといえば――。
「……にゃ、にゃんでこんにゃことにーッ!?」
僕の意思に合わせて揺れる猫みたいな尻尾、ぴくぴく動く大きな耳。
爪を出し入れできる猫の手。あ、肉球が気持ちいい。
これは夢? 夢なのか!? それとも落下の衝撃でおかしくなったのか!?
ふわふわの耳と尻尾が僕の体から生えている。呼応するように、ゆらりと揺れた。
「エール! これはにゃんだ!」
「似合ってますですー!」
……だめだ、話にならない。
「僕はどうしてこんにゃ姿ににゃっているにょか、問い詰めているにゃ!」
猫口調で喋る僕を見て、ぷっと吹き出す神様。
この状況を作った張本人が笑うなんて……どこまで性格が悪いんだ、この神!
「ぷっ……ははは! ごめんなさいですー。幸が落ちそうだったので、神能人離で猫神シャリスさんを呼び出したのですよー」
にこにこと、悪びれることなく言い放つ。
「で、にゃんでこんな姿に……」
「まあまあ、そのうちおさまりますですよ!」
「くっ……!」
助けてもらって言うのもなんだけど、叫ばせてくれ。
エールの能力、毎回“ほどほど”がないのかよッ!!
東雲さんの告白で暴発したロミエル!
彼女のお兄さんに拳を入れたクラグノス!
そして今度は猫神シャリスって――どうしてこう毎回、個性が強すぎるんだよ!!
「あとあと、言い忘れてましたけど」
ん? 何を? ――途端、耳がぴくりと動いた。
西のほうから、悲鳴。
『うあああ! 泥棒だああ!』
続けて東のほうからも声が届く。
『だっ誰かー! 助けてー!』
誰かの悲鳴に、僕の耳と四肢がピンと反応する。
断罪せねば――そう心に語りかける神の御霊。
お腹を空かせた獣が胸の内で目を覚まし、全身を駆り立てる。
「猫神シャリスさんは、罪を裁く裁定者なのですー。
身体能力を上げるだけでなく、遠くの声を聞き分けて罪を摘みたくなる衝動に駆られますー。
気をつけてくださいねー」
「忠告が遅いよ!? ……ふーッ。シャアアアッ!」
御霊の衝動に抗うことなど不可能だった。
神の跳躍力で屋根から屋根へ――宙を舞う猫もどきの僕。
普通の猫とは違い、風を切り裂く速度で夜の街を駆け抜ける。
そんな中、耳元ではなく、遠く離れた空の彼方から、エールの呑気な声が聞こえた。
「やれやれですー」
この羽虫め……。帰ったら絶対、成敗してやる!
「すごいですー! 途中で幸が迷子になると思いましたが、シャリスさんのおかげで無事に帰ってこられましたね!」
「ぜえ、ぜえ……疲労が、一気に……」
あの後、シャリスとなった僕は、西の万引き犯を捕まえ、続けて東の悪党を捕らえた。
感謝される暇もなく、ただ本能のままに駆け続け――今に至る。
どうやら憑依中に無理をすると、その反動の疲れが一気に来るらしい。
本体の限界を御霊が見極め、勝手に引き際を決める――そういう仕組みなんだろう。
常人の僕じゃ、到底耐えられない。
「も、もう動けない……」
「何を言っているのですか。迷い猫ちゃんの飼い主さんを探すのですよー!」
「はぁ!? い、今から!? 明日じゃダメ? 近所迷惑だし、第一、僕が動ける状態じゃ」
「飼い主さんが待っているのです! 猫ちゃんも『寂しい寂しい』って!」
「ぐ……ふぅ……」
エールに無理やり起こされ、僕は疲弊した体をわずかに休める。
そんな僕を心配してか、迷い猫が頬をぺろりと舐めてくれた。
「ありがとう……キミだけだよ、僕の救いは」
「みゃあ」
――やがて、エールの指示通りに飼い主探しへ。
寂しげな夜の街。街灯の灯が淡く路地を照らす。
あてもなく歩く僕のため息が、白く夜に滲んだ。
「探すって、どうやって?」
「調査の基本は聞き込みなのです!」
「神能人離でこの子の飼い主を探せないの? シャリスみたいに遠くの声を拾うとか」
神能人離に“不可能はない”んじゃなかったのか? と詰め寄ると――
「そんな便利機能はないのです! シャリスさんを呼んだらまた『罪を狩る!』って暴走しちゃいますよ?」
「う……それは困る」
確かに、もう一度あの疲労を味わうのは勘弁だ。
「それに神能人離って、こう見えて結構力を使うのですよ。ぽんぽこ当てにしないでくださいなのです」
「おっと。わっとっと分くらいは働いてもらわないと」
「むぅ……」
助けに来ておいて不満顔って、どういうことなんだよ……!
夜の街は静かだった。人影もまばら。
これじゃ聞き込みにならない。そもそもこの子、どこから来たんだ? 近所? それとも――
「なあ、お前はどこから来たんだ?」
「みゃう?」
「……わかるわけないよなぁ」
深いため息をついた、そのとき。
「あっ!」
「うわっ! な、なに!?」
「ナイスです、幸! それです、やってみましょう!」
「な、何をだよ」
意味がわからないまま、エールが勢いよく胸を張る。
「ではいくのですー!」
「……うん、お願い」
猫をエールの前に座らせる。
小さな神様は両手を合わせ、高速詠唱ののち――びしっとポーズを決めた。
「人を離れて神よ来れ。人語を理解し、その性質を見抜くべし――神能人離! 犬神マホロギ!!」
どくん。空気が震えた。
迷い猫の体に、何かが宿る。
ゆっくりと振り返るその瞳は、先ほどの丸く愛らしいものではなく――
鋭く釣り上がり、まるで狼のような光を帯びていた。
夜の街灯を反射して、瞳がぎらりと光る。
読み取れない感情、試すような冷たい視線。
「いや、もう猫か犬かどっちなんだよ……」
僕のツッコミは夜風にかき消される。
代わりに、猫の甘え声と犬の吠え声が混ざったような奇妙な音が響いた。
掴みどころのない、夜に溶ける声。
そして――猫は気まぐれに歩き出した。
立ち止まり、振り返り、それでも確かに“どこか”を目指すように。
やがて家から少し離れた、大きな白い建物の前へ。
人々を迎える広い駐車場。窓のいくつかから淡い光が漏れている。
「ここは……」
「病院、ですね」
子猫の導くまま、僕たちは病院の前に立っていた。
子猫はまた寂しげに声を上げる。
もしかして飼い主は入院中で、会いたくて通い続けていたのかもしれない。
僕は膝を折り、できるだけ目線を合わせて言った。
「……ここにご主人がいるのかも。でも、キミは中には入れないんだ」
犬みたいに尻尾を小さく揺らし、猫みたいにじいっと見つめてくる。
何かを伝えたいのだろう。
(うちで預かってやりたいけど、ペット禁止なんだよなぁ)
『ジェシカちゃん!』
甲高い声に振り向く。
ふくよかなおばさんが小走りで近づき、猫を抱きしめて頬をすり寄せた。
「あぁ、ジェシカちゃん。心配したんだよ……」
猫も甘えるように頭を擦りつける。
その光景があまりにも微笑ましくて、思わず笑みがこぼれた。
「みゃあ、わんっ……ハッハッ、みゃあ」
「あら……なんだか見ない間に犬みたいな鳴き声になったわね」
(狼の化身が憑いている、なんて言えないよな。間違いなくおかしな人認定まっしぐらだ)
「あなたがジェシカちゃんに付き添ってくれてたの?」
「え、えぇ。まあ」
頬を掻きながら曖昧に答える。
エールの姿が見えていないのはわかっているけど“あなた達”と呼ばれないことに、少し違和感を覚えた。
それだけ、いつの間にかエールと一緒にいるのが当たり前になっていたんだろう。
おばさんは礼を言い、穏やかに語った。
「奥様はお体が弱くてね。入院の間は私が面倒を見ているの。でも、この子もこの子なりに奥様が心配だったのかも。
元々は捨て猫でね。誰かに世話されていても、奥様がお隣にいないとダメなのよ」
迷い猫は、人の言葉をわかっているかのように首をかしげ、
胸に抱かれながらも、ちらちらと病院を見上げていた。
やがて飼い主が出てこないと悟ると、静かに目を閉じる。
おばさんの腕の中で、安心したように眠り始めた。
「さあ、帰りましょうね」
「良かったですね、ジェシカちゃんが見つかって」
「えぇ、本当にありがとう。何かお礼を……」
「いえ、気になさらず。マンションに迷い込んできただけで、たまたま保護しただけですから」
おばさんは深くお辞儀をして、猫とともに去っていった。
(人懐っこい子だったな。あんな猫なら、僕も飼ってみたいかも)
そんなことを考えていると、すぐ隣でエールがぷくっと頬を膨らませた。
「ぶー。お礼はなんでわっとっとにしなかったのですかー」
「欲深なやつ……」
呆れた。すぐ報酬をねだる、この神様。
迷い猫も無事に帰ったし、僕たちも帰ろう――そう言うと、エールは『帰ったらちょこアイスとわっとっとを食べるのですー!』と堂々の二個目宣言。
神への貢ぎ物……うん、そう思うことにしよう。
やっと平穏に戻れる。
空に向かって腕を伸ばし、ぐうっとストレッチ。
――ドタドタと、忙しない足音が近づく気がしたけれど、気のせいだと信じたかった。
「わん、わんわんッ!」
「だーっ! エール、助けてえ!」
やっぱりこうなった!
僕は犬に追い回されながらマンションへ全力疾走。
「やれやれ、ですー」
「この神でなしー!!」
声を荒らげつつ、僕も犬もスピードを上げる。
コンクリ―トの塀が囲む住宅街。
家々の窓が逃走劇を覗く中、場違いなほど大きなマンションが見えてきた。
「僕の、勝ちだあ!」
――ふと、足が地についていない感覚。重心が前へ、前へ。
「あっ」
ごろっ、と石につまずき、顔面で地面と衝突。
涙が出そうな痛みに、よろめきながら立ち上がる。
(またこけた……これも不運の定めってやつか)
とにかく帰ろう。今日はもう、寝たい。
そう思って足を引きずるが、重くて動かない。
「わんっ!」
「あ……あれ? デジャヴ……ぶふぅっ!」
犬が全体重を預けて服を引っ張り、顔をべろべろと舐めまわす。
満足するまで、延々と。
「やれやれ、ですー。私は先に帰って、わっとっととちょこアイスを食べるのですー」
最後に見えたのは、飛び去るエールの後ろ姿。
あの自由すぎる神――覚えていろよ!
……僕の不幸は、どうやらまだまだ続くらしい。




