4話:迷子の迷子の 前編
風が心地良い昼下がり。
僕は一人、自身の腕を枕に屋上で寝転び、外の空気を浴びていた。
こんなぽかぽか陽気、ウトウト眠らずにはいられない。お天道さまに感謝しながら、寝返りを打つ。
あぁ、平和だ。僕は何よりもこの静かな時間が大好きだ。
心が安らぐひと時。誰にも邪魔をされることのない、微睡みの世界――。
「幸くん」
「ふぇ……?」
ぼうっとする頭に響いたのは、現代の天使とも呼ぶべき彼女のささやき。
うっすらとした視界の中、目の前には東雲さんが立っていた。
僕の名前を呼びながら、いつものように微笑みかけてくれている。
「し、し、東雲さ……ッ!? いてっ、舌噛んだ……」
あまりの驚きの展開に舌を噛む。
これは、見間違いじゃ……ない?
「幸くん、おはよっ」
「え、あ、おっ、おはようございます……?」
ん? おはよう? それに、いつ東雲さんが僕を名前で呼ぶようになったのだろう?
まあ細かいことはいいや! 今はお昼時だけど『おはよう』だなんて。
そんな言い間違えに気づいていない東雲さんも可愛い!
「ねえ、今日はどこに連れてってくれるの?」
「えっ?」
「……?」
聞き間違いかな?
誰と、誰が……付き合ったって?
東雲さんは不思議そうにこちらを見つめ、その言葉を紡いだ。
「私達、昨日付き合ったじゃない。デートの約束、幸くんから誘ってくれたんだよ? 忘れちゃった?」
付き合った……そうだっけ?
……はっ。
もしかしたらあの住所は、そういう……!?
ふと東雲さんの表情を見ると、リンゴのように顔を真っ赤にしてもじもじと恥じらいでいた。
か、可愛いすぎる……! 現代の女神様だ!
浮かれながら彼女の姿を目に捉えると、彼女からどこか見たことのある透明な羽根が生えていた。
そういうコスプレなのかな? 今、コスプレって流行だからね! 東雲さんならどんな姿でも、何をしたって素敵だよ!
――――――。
――――。
――。
「幸くん、私、海にいきたーい、なのですー」
「ん……あはは。しののめさ……むにゃむにゃ」
「ちょこアイスがたくさん食べたーい、なのですー」
「ふふふ、チョコアイス……。透明な羽根……――ん?」
ぼんやり、僕が見ていた東雲さんの姿は霞の如く消えていく。
さらには、空気の抜けた風船のようにどんどんしぼんでいく。
途端、ふっと蝋燭の火が消えるように、彼女の姿が霧散する。
今、視界に映っているのは、僕の頬に手を当てクネクネ動く羽虫だった。
「何してるんだよ」
「やったー、幸くん大好きーなのですー! ちょこ、ちょこアイスをたらふく食わせるのですー!」
そこでようやく現実に引き戻された。
エールは嬉しそうに僕の目の前でぴょんぴょん飛び跳ねている。
人の夢まで入り込むなんて悪魔以外の何者でもない。
「ささ、学校が終わったらさっそくエールとデートなのです! 約束ですよ、たらふくのちょこアイスとたんまりのジュース、私の力の源であるお菓子、わっとっとを買うのですー!」
なんか物が増えてるし!?
それに、なんでエールなんかとデートしなきゃ……。
「男の子なら約束を破っちゃ、めーですよ?」
「神は神でも、貧乏神の類かなんかなのか!?」
やることが悪魔の所業すぎる!
エールの言い分を聞くもんかーーそう突っぱねた瞬間、エールの目尻が赤く滲み、潤んだ瞳がこちらを映した。
――え、まさか……泣くのか?
「……ひぐっ」
小さな嗚咽が零れた瞬間、心臓がぎゅっと掴まれる。
少し言いすぎたかな……?
「ご、ごめんエール……」
「幸の、ばか……」
今にも壊れそうな声。胸がちくりと痛む。
思わず手を伸ばそうとした、その時――。
「びえーーーん! ばかあーーっ! アイスもジュースもお菓子もぜーんぶ買ってくれなきゃ許さないのですーーっ!!」
さっきまでの切なさはどこへやら、鼻水と涙の大洪水が一気に噴き出し、一瞬で屋上はカオスと化した。
「や、やっぱり貧乏神だろ!? って! こっちくるなぁ!」
「ずび、ずずずぴーっ!!」
小さな手で僕の腕を掴み、鼻水を携えながらふらふらと寄ってくる。
これ以上泣かれて尊厳破壊されたらたまったものではない!
僕は慌ててエールをなだめる方向へと動いた。
「びえーん……! ええ、えーん!!」
「ご、ごめん、ごめんって! 悪かった、デートしよう! エールの好きな物を買ってもいいから! もう泣くな!」
「ほ、ほんとー、でずか? ずびび……」
エールは涙を手で拭いながら、僕に潤んだ瞳を向けてきた。その瞳は涙を溜めてうるうるしている。
案外、可愛らしいその表情に思わず穏やかな言葉をこぼした。
「うん。僕は男の子だもん、約束は破らないよ」
「……幸」
僕の言葉に合わせて、エールの表情が笑顔に変わった。
「ふふっ、ふふふ」
……笑顔、といっても邪悪なほうだけど。
僕が優しく接してやったというのに、エールは口角をにぃっと上げて不気味な笑みを浮かべる。
腰に手を据え、ふんぞり返りになりながら高笑いを始めたのだ。
「ふっ、あっはははー! やったのです、エールの高い演技力に騙されるとは……」
どやっと言いたげな表情でしたり顔を決めてくる。
「主演神様賞受賞なのです!」
「こんな理不尽な映画はいやだ!!」
目の前のハエを、今にもたたいてしまおうか。そんな感情に駆られながら、ため息をついて、なんとか抑えた。
ーーエールの高笑いと共に、僕の平和だった時間は惜しくも終わりを告げた。
キンコンカンコン、学校のチャイムが鳴り響く。
……こうして、僕の平和な昼休みはアイスのように溶けてなくなった。
――放課後
東雲さんはどうやら、学校からもっと近くの家に引っ越しただけで、転校したわけではないらしい。
今日も彼女は勉強道具を鞄にせっせと詰めている。そんな真面目すぎる彼女を見て、感心していた。
「なに鼻の下を伸ばしてるです?」
「はっ……べ、別に?」
エールは僕の顔の前に現れ、彼女へ注ぐ熱い視線を遮った。
なんてやつだ。それでも神様なのかよ……!
「そんなことより、デートするのですよ、デート!」
「う、うん」
「ちょっこアーイスー! ジューウースー! わっと、わっと、わっとっとー」
謎の歌声を響かせ、とってもゴキゲンになりながら教室を後にするエールの姿を追うように下校した。
彼女にも一言、声を掛けたかったけれど。少しでも遅れるとエールがうるさくて敵わない。
軽く友達と別れの挨拶を告げ、エールの望むままに近所のスーパーに向かった。
「幸、幸! このちょこアイスがいい!」
「どれも一緒だろ?」
近所で唯一のスーパー。
周囲は大きな街まで出るのが大変な主婦達で賑わっている。僕は買い物カゴを手にエールを追いかけ、そのまま真っ先にアイス売り場へ向かった。
先にアイスを買ったら溶ける……そんな忠告を無視して、エールはアイスの種類を選んでいく。
「パッキンダーツ! これにするのです!」
ぴっと指差す神様の先には、通常の二倍の値段で売られている高級メーカーのアイスだった。安物には目もくれず、それを欲する小さな神様。
僕には味も匂いも同じにしか見えないんだけどな。
その昔『幸は何を食べさせても違いがわからないバカ舌だからねー』と母親に言われたほど味に鈍感らしい。自覚はないんだけどなあ……。
なのでしょっちゅう、母は安物の食材で作った節約料理を食卓に並ばせていた。
「ぶー」
頬を膨らませ、エールは不服そうに文句を言いながら僕の頭を踏みつける。
「ちーがーうーのーでーすー! ツタンカーメンカップと、パッキンダーツは違うのです!
パッキンダーツは高いだけあって、匂いはもちろん味もスペシャル濃厚なーのーでーす!」
ぴょんこらぴょんこら、僕の頭を小さな両足で何度も踏みつける横暴な神様。
「痛い痛い! わかったから駄々をこねるな!」
頭部で暴れる羽虫を取っ捕まえ、なんとかやめさせる。
ああ、こんなにうるさくては従うしかないじゃないか……。とんでもない神様だなあ、まったく。
仕方なくいつもは一個百円の安物のところ、高級メーカーであるパッキンダーツをカゴの中に五つほど入れる。
エールに促されるままジュースとわっとっとも購入し、ようやく騒がしい神様の機嫌を取る。
スーパーから出る頃には、おしゃれな格好をした奥様方がこちらをチラ見。笑顔が印象的な店員の表情は、引きつっていた。
「ぱっきんぱっきん、パッキンダーツ。味もスペシャル、お口に入れれば頬が落ちるー」
わけのわからない歌を歌いながら、僕の肩の方に座って足をパタパタさせている小さな神様。
……余計な出費をした。
これでは食費がいくらあっても足りないだろう。
『あ、お兄さん、あぶなー……!』
不意に誰かがそう叫んだ。途端、頭の芯が揺れるようにぐわんと世界が一回転したような感覚を受ける。
空気でパンパンに堅くしたような物が落ちる独特の音がお天道さまめがけて響き渡る。
その数秒後。遅れて額に痛みを覚えた。
「あぎゃっ!」
思い切り尻もちをついた。お尻からも頭からも、鈍い痛みが僕を襲う。手から飛んだ学校鞄が腹をえぐるようにのしかかり、僕の意識はノックアウト寸前だった。
マイバッグが一瞬ほど宙を舞い、買った物をいらないとばかりに吐き捨てる。
「ぐはッ!」
駄目押しのごとくその物達は僕に降り注いだ。最後にマイバッグがひらりと顔元に掛かる。
もう動く気力もない。僕はただ、茫然としながら寝転んでいた。
こんな事件を引き起こした少年らは僕に駆け寄ると、一生懸命に謝罪をしていた。
「ご、ごめんなさいお兄さん! だっ……大丈夫ですか!?」
「……気にしないで」
「ほ、本当に……大丈夫ですか?」
「あはは、元気なのはいいことだよ。慣れてるから。……慣れてるから」
うん、こういうことは慣れているんだ。
我慢強い発言をすると、慌ててボールを持って戻っていく少年達。
彼らの足音が遠くなっていくのを感じると、重たい体を起こしてなんとか立ち上がった。
そうだ、アイス。あの中で一番、落ちてはいけないものだ!
「アイスは……!」
ふっとエールの方を見ると、横一列……綺麗に並べられたアイス達の姿が。
どうやら身を呈してアイスだけは守ったらしい。
その姿はまるで、敵将を討ち取った名将のよう。
「ふぅ。大事なちょこアイスが汚れたらどうしてくれるのですかー!」
「僕の頭よりアイスが先かよ!?」
「もー、最近の子供は危ないのです。食べ物を粗末にするとバチが当たるのですよー!」
……僕は常にバチが当たってるんだけど。
その夜。僕はテレビのニュースを眺めながら、エールが余計なことをしないか常に気を張っていた。
少しでも油断するとすぐ騒ぎを起こす。
そんな神と同居することになってある意味、感覚が鋭くなったかもしれないと思う今日この頃。
「もぐもぐ……んー! 美味しいのですー!」
エールはリビングに置いてあるローテーブルの上に座り、マイスプーンで幸せそうにチョコアイスを頬張る神様。
続けてわっとっとをパリパリ。
アイスで口の中を潤して、わっとっとで一気に水分を奪う。忙しそうだな、その口の中。ある意味、高度な食べ合わせだ……。
「そういえば、幸は一人暮らしなのですか?」
「え? うん、まあね」
「ふーん。高層マンションに住んでいるので、お金持ちなのかなって思っただけですー」
「一応、そうなるのかな」
うちは父が貿易商をやっている。僕とは違って立っているだけで幸運が舞い込んでくるような人だ。
仕事柄、出張することが大半で家に居る時間がほとんどなかった。
一方で、母は節約の鬼だ。テレビで影響を受けてはすぐ実践したり、いかに安物の食材で満足のいく料理ができるのかを独自で研究したり。
お陰様でお金は溜まる一方、仕送りは家賃を含めても十分にある。
このマンションが唯一の高い買い物と言ってもいいくらいだ。
父と母のことをぼんやりと思い出していると、エールが声高に言った。
「じゃあ私のためにちょこアイスとわっとっとを買い放題ってわけですね!」
「なんでそうなるんだよ……」
「もぐもぐ。細かいことは気にしちゃめっなのですー」
誰か、僕は不幸でもいいのでこの羽虫をもらってください。
心の中でそう唱えた。
夕飯を終え、静かに部屋で寝転がっている時のことだった。
――みゃーん
「ん?」
「な、なんだか猫の鳴き声がしますー」
訴えるようなか細い声が、玄関口から聞こえてきた。
やがて声はマンションを這うように遠ざかっていく。
「猫、猫さんを助けるのですー!」
「わかった、わかったから引っ張るなって!」
乱暴なエールにぐいっと腕を掴まれ、僕はよろついた足取りで玄関へ向かう。
急ぎ扉を開けると、そこにはひどく痩せ細り、消えてしまいそうなほどかすれた声を震わせる小さな白猫がいた。
小さな首輪がついている。迷い猫か……?
足取りはふらふらで、いまに倒れてしまいそうだ。
やがて子猫は階段に足をかけようとした。
その階段は、人ひとり分の幅しかない古い非常階段ーー。
「あっ危ない!」
子猫が足を滑らせた。小さな体は宙を舞う。
僕は反射的に猫を抱きかかえた。
それが身を滅ぼす行為であるとも考えず――。
「……っ!」
僕の体が手すりから投げ出される。
足が空を切り、すでに地の感覚はない。
高所の風を全面に浴びながら、僕は夜の闇へ消えていく。深い、深い闇に誘われるようにして。
八階の高さ。必死にしがみつく小さな命の重み。
地面がありえないスピードで迫ってくる。
ーー今回ばかりは怪我ではすまない。僕は、最悪の結末を覚悟した。
「――ス!」
エールの声が聞こえる。何かを叫んでいるようだ。
目の前がぐるんと一回転する。気がついた時には、目と鼻の先に地面が見えた。僕は恐怖に、目を閉じることしかできなかった。