15話:トリックスター 前編
その日の教室内はざわついていた。
どうやら僕だけでなく全員に、熊から電話があったらしい。
誰かがいじめの首謀者となって黒木を脅しているんじゃないか。そんな噂が絶え間なく続く。
どう考えても、あの電話は熊本人と見て間違いはないだろう。じゃなければ、クラスメイト全員になんて電話を掛けるはずがない。ロキにとっては僕を陥れることができれば十分なのだから。
三谷は自分の席で悔しそうに唇を噛み締めていた。今日も黒木はいない。確かに三谷からすれば黒木が第三者にいじめられている、その事実だけでもつらいだろう。
――『助けて』
……その真相を知る者はいない。
当然、僕も含めて。
その悲痛の叫びに、どんな意味が含まれているかなんて……わからない。わかるはずがない。
「薄くん、じゅんちゃんの元気がないの」
東雲さんは僕の席の前にきて、悲しそうな声でそう告げる。
……東雲さんまで落ち込んでいる。その姿が連鎖的に僕まで落ち込ませた。
早いとこ、そのロキってやつをとっちめないと。
このままじゃあ、皆――皆、不幸になっていく。当人だけじゃなく、周りまで、皆。
「お前ら何を辛気臭い顔をしている! ホームルームを始めるぞ!」
熊がいつものように教室に現れる。生徒は熊の怒号に驚きながら、慌てて前を向いた。
「……黒木のことは気になる。先生も悪かったな、お前らを疑うような真似をして」
『すまなかった』
熊は今まで見せたことのないくらい、誠心誠意を込めたお辞儀でこちらに謝罪した。
「お前らがクラスメイトを傷つけるわけがない。そうだろう」
生徒を我が子同様に可愛がっている熊だからこそ出せる言葉。皆は黙って熊の言葉を聞き入れる。
「……黒木が姿を現せば明るく迎え入れてやる、それがお前らにしかできないことだ。
仲間として、この中に黒木をいじめる者はいないと――先生は信じるぞ」
これも、黒木の傍で悪さを企んでいるロキのせいだ。しかし一体、何のメリットがあって……こんなことをするのだろう?
黒木の傍にいること自体もそうだし、悪戯で執拗に災厄を振り撒くのもそうだし。
どれも彼女にとって、メリットがなさすぎる気がする。真意はロキに訊ねてみなければわからない。
熊は最後に、僕達の顔にそれぞれ目を配らせ口を開いた。
「もしも……他校生やこの学校の生徒に絡まれている黒木を見たら、勇気を持って助けてやってほしい。頼んだぞ」
熊のいつになく真面目な言葉に心を打たれた生徒達は次々に頷いて、授業に励む姿勢へと変わっていった。
黒木のためにも……もちろん皆のために。ロキを捕まえる、これは僕だけにしかできないことなんだ。
今日も授業は淡々と終わり、ぽつぽつと生徒達は各々が帰路につく。
僕はなんとなくエールを連れて、あの日に初めて黒木と出会った校舎裏へと向かった。
確か僕が東雲さんにカッコいいところを見せるぞ! って話になって。
そうしたら既に東雲さんが不良に絡まれていて……エールの神能人離に頼って救出しようとしたら、黒木が現れた。あの時の黒木は凄かったなー。
あの不良がチキンと言えど、睨むだけで怯ませちゃうんだもんな。
その後エールもどこかに飛んで行くし、東雲さんも黒木に釘付けだし、色々とどうしようかと思った。
「……って、あれ」
――夕暮れ時の校舎裏
今日は休んでいたはず。その黒木が立ち塞がっていた。一点を見つめるように――その先には僕がいる。
僕がくるのを見越していたみたいだ……。
帽子に隠れて表情が見えないもの、小刻みに震えているところから察してエールに怯えている。そう捉えて間違いはないだろう。
「あの、黒木」
『てふふふふっ』
黒木に声を掛けようとした途端、謎の笑い声が僕の耳に纏わりついた。
一度聞けば、忘れたくとも忘れられない変わった笑い声。
「てふふっ、あんた何の用? このロキちゃんを追い回して、ストーカー行為も甚だしいわ」
そう戯けた声が、黒木の前から発せられる。姿は見えなくとも、僕の前に確かに存在している。
僕は一呼吸を置いてぐっと足に力を入れると、お腹からいっぱいに声を張り上げた。
「お前がロキか。ここ最近の不幸っぷりは、お前のせいだと聞いたぞ!」
「てふふふ! あらやだ、人の……いいえ、神のせいにしないでちょうだい! これだから人間は」
――トリックスター、ロキだ。
彼女は髪を搔き上げながら、黒木の前に現れた。微妙に歪んだ空間がどんどんと実体を現していき、やがて目視できるほどに具現する。
ロキの容姿はエールと違い、ちゃんと人に近しい姿を模していた。
百センチと少しの背丈に、黒いドレスに身を包んだ少女。いわゆるゴスロリ風のファッションを着こなしている。
透き通った白い素肌はフランス人形の様。これが人間であれば、きっとモテたであろう可憐な少女だった。
整った顔立ちではあるが、その瞳は揺らめく火のように赤く、ロキが人外であることを確かにしていた。
さらに一つ神であることを証明するならば、地面に足がついていないこと。
すらっとした細い足は、宙で組まれていた。
「てふふふ」
「ロキ! 黒木をどうするつもりだ!」
「てふっ。別に取って食おうってわけじゃないけど。そうねえ……。
わたしだけの憬ちゃんにしちゃったり、とか? てふふ……そそるわぁ」
一人で勝手に盛り上がり、妖艶な笑みを浮かべるロキ。
随分とまた……変わった性格をしているなぁ。神様は皆、クセのある性格でも強いられているのだろうか。
やがてロキは、自身の顎をさすりながら視線をエールに映した。
「ふうむ、そこの神様には悪いけど、憬ちゃんから離れる気はないからね。そこのところ、よ、ろ、し、く、ねっ! てふふふふ!」
「……なあエール、この神をしばいてもいいか?」
なんかイライラしてきた。まともな性格じゃないってのが特に!
「あらあら、怖い怖い。こんな美少女を目の前に、ひどい暴挙……。
そんなのじゃあ女の子にモテないわよー?」
「余計なお世話だ!」
なんだよ、このナルシストで特徴過ぎる笑い声の神様は!
くうう、これならエールの方が何倍もマシだ。黒木も大変だなあ、こんな神様に好かれて。同情するよ。
「で、もしかしてあんた……わたしを止めようとしているわけ?」
「色々と聞き出したいことがあるんだ。黒木にも、ロキにも」
「やだあ、ロキちゃんの秘密が知りたいの? ロキちゃん超モテるんですけどーてふふ!」
こ、この神様……疲れる。
会話をするだけで奪われていく体力、削られていく精神……。
やることだけやって、早く切り上げたいよ。
「どうせ大方、イタズラやめろーとか、憬ちゃんから離れろーとかでしょ?
てふっ、でもざぁんねん、イタズラこそがわたしの神髄。
そこのちんちくりんになんて、悪行を止めさせないわよー」
「むきー! ちんちくりんとはなんなのですー!」
先程まで黙っていたエールは、その一言に激怒する。こいつ……人を怒らせる天才か……ッ!?
「あー、今……残念な美少女、とか思ったんじゃなぁい?」
「男って聞いたけど……」
「えー? 男の子と話す方が好みー?」
「もういいッ!」
まったく会話にならない!
どこまでも煽り続ける目の前の神様に、とうとう堪忍袋の緒が切れそうになる。
何か一つ、ロキを大人しくさせる方法はないものか。エールの能力ならともかく、どうやったってただの人間が神に抗えるはずがない。
穏便に済む方法を考える中、エールが先に行動に出た。
「いい加減にするのですー! ふざけるのも大概にするのですよー!」
「きゃんっ!」
小さいながら、どんっと体当たりを打ち噛ます。ロキは一瞬ほど態勢を崩してよろめいた。
しかし体格の問題もあってか、すぐに伸されるのはエールの方だった。
「よくもやったわねえ!」
「ふぎゃー!」
ロキはエールを握りしめ、僕に向かってぶん投げる。
『神様大砲』とでも言うべきか。その軌道は逸れることなく、僕の顔面に向かって――。
「ぶへら!」
「ふぎゅうう……なのですー」
ゴンッ。ちょうど口元辺りにエールの頭が突撃する。い……痛い。そう叫ぶことすらできずに、口を抑えて踞った。
「はーあ、やだやだ。服が汚れるところだったじゃない、これだからワガママ放題の神様は」
お前が言うな……!
その一言すら口にできない。痛い、口元がヒリヒリする……。エールめ、なんつー石頭だ。
「まったく、とんだ災難だわ」
……こっちのセリフなんだけど。
痛みを堪えながら、なんとか立ち上がった。ああ、そんなことはいいんだ!
僕の目的は、ロキの悪行と止めること、黒木から引きはがすこと!
「てふふ。まあいいわ。さっきの悪行は許してあげる」
「何でお前が言うんだよ……」
「それに、今は争ってる場合じゃないの。ちょっと、状況が思わしくないわ」
「人の話を――ッ」
『聞けーッ!!』
そう叫ぼうとした僕は、慌てて口を紡いだ。
ロキが顎で何かを指し示している。ロキの視線は、後ろに突っ立つ黒木に注がれていた。
……確かに、争っている場合ではなさそうだ。
黒木は自分の体を支えるように抱え、間隔を開けずに何度も息を吐く。これが以前、熊の言っていた『呼吸が浅そうに見えた』という症状なのだろう。
しかし思っていた以上にそれは酷かった。口元に手を当てて、今にも吐いてしまいそうな様子だ。明らかに状態が芳しくない。
「これ以上ここにいたら命の灯火が消える瞬間を目の当たりにすることになる。てふふ、それも面白そうだけど、あんたは困るでしょ? わたしも困る」
「黒木……」
ロキは一拍を取ると、続け様に口を開いた。
「てふふふふ! さあ憬ちゃん、そろそろ家に帰るわよっ! じゃあね、エールの付き人さーん。あでゅー」
踵を返す黒木に背を向けながら、浮遊してついていく悪戯神。悠長に手を振りながら終始、変わった笑い声を向けていた。
「……悪戯の神、か」
「あっ言い忘れてたけど」
去って行くロキは、僕の方を見据える。どこかで聞き覚えのある『まったく同じセリフ』だ……。
『あとあと、言い忘れてましたけど』
――あの時はバステトのお陰で大変な苦労を掛けさせられたけど。
……嫌な予感がする。
途端、床が柔らかくなっていくのを感じ取った。
「なっ……」
足が取られ、動けない。
そして――地面の一部分が抜けた。
「てっふふふ! そこ、落とし穴があるから気をつけてー!」
「どわあっ!」
――ドサリ。
前回と合わせて三度目の落し穴にはまってしまった。
痛い……っ! 落ちた衝撃で思い切り尻を強打する。
腰から脳髄に掛けてビビビッと痛みの衝撃が走る。そして恒例の如く、頭部に砂が降り注いだ。
エールは咄嗟に穴の中まで駆けつける。対して僕は茫然と穴の外を仰いでいた。
けれど心は折れていない。むしろ悪戯の犯人だと本人の口から聞けて闘志を燃やしていた。
「はわわ! 大丈夫なのですか!?」
「う……ロキ。許さん」
「え、えとえと、倖?」
「ロキ! 絶対に捕まえて、僕の平穏な日々を取り戻してやる!」
「倖に平穏な時などあったでしょうか?」
エールの余計な一言が鼻についたが、ここで怒鳴っても仕方がない。その分の怒りは全てロキにぶつけてやる!
『てっふふー!』
最後の最後までロキの笑い声が響いていた。興奮する感情を抑え、誰にもバレないようゆっくりと落し穴の外に出た。
「……っしょと。最近、砂を被ることが多くなった気がする」
「まあ、落し穴にはまってますからねー」
「うへえ、口の中に砂が入ったかも。まったく、いい迷惑だ。悪戯をやったって、メリットがないだろうに」
落し穴にはめたり、こけさせたり、内容は可愛いんだけどな。やられた方はたまったもんじゃない。
いたた……落し穴のはまりすぎで腰が痛む。
「仕方ありませんですねー。そろそろいい時かもしれません。少し長いですが、よーく聞くのですよ!」
制服に付着した砂を払っていると、エールは息を吐いて語り始めた。