10話:異質な出会い 後編
授業が始まる頃、教室を見回すと――一番前、入口脇。黒い帽子のまま俯いている黒木がいた。空気に溶ける、というより空気そのもの。誰も話しかけることはない。
やがて日常は何事もなく終わりを迎えようとしていた。
放課後のチャイムが鳴るや否や、黒木がすっと立ち、ドアへと向かう。
「待て、黒木!」
僕は声を荒げ、机をかすめて廊下に飛び出す。角を曲がった――いない。さっきの勢いで引き戸が、遅れてガタンとレールを鳴らした。
「……いない」
そこへ、ずっと姿のなかったエールがふいに現れた。
「幸、幸ー!」
「おい、どこ行ってたんだよ」
「ちょっと、用事。……気になることがあったので!」
いつものあどけない表情でそう言った。
エールの言葉に、嫌な胸騒ぎが残る。考えるより先に、僕は職員室へ足を向けていた。
――職員室。
「なに。黒木についてだと?」
「えぇ。ちょっとここ最近、記憶が飛んでまして。詳細が知りたいなーって」
ボディビルダーにでもなれそうな筋肉むきむきの体育教師、通称・熊と呼ばれているうちの担任に黒木のことを訊ねてみた。クラスメイトがクラスメイトの詳細を訊ねる。こんな滑稽なことはないだろう。
熊は顎を触りながら何かを考える素振りを見せると、オフィスチェアをくるりと回し僕の方を向いて神妙な面貌を見せた。
「先生?」
先生まで何かに耽っているみたいだ。どうしたのだろう?
そう考えているうちに先生は口を開いた。
「いや、先生な。最近、黒木よりお前が心配だよ。女子達も、最近の薄はおかしいと先生の元に言いにくるし」
尤もな指摘を受けて、僕の心臓は跳ね上がる。先生はひとしきり僕を見ると、怒涛の質問を浴びせてきた。
「記憶が飛ぶ? 病院は? 睡眠は? いじめは? 朝飯は? 水分補給は? 先生はいついかなる時も可愛い生徒の味方だからな! いつでも先生を頼りなさい!」
「どんな評価ですかっ!」
なんか学校を持ち上げて心配されてる……ッ!
確かに最近、皆から嫌われている気もするけど!
僕の行き当たりばったりな理由のせいで、熊に余計な心配をされてしまった。
熱はないか、痛みはないか、苦しくないか。どんどん顔を寄せながら、しつこいほどの質問攻めをしてくる熊を止めようと、慌てて話題を切り替える。
「先生! 僕のことはいいですから、黒木、黒木について教えて下さい!」
「ふむ、それもそうだな。いつものことだろうし」
「ひどいっ!」
心配したり、貶したり、なんなんだこの教師は!
「それで。黒木の何について知りたい」
「黒木憬って、うちのクラスメイトなんですよね」
「そうだ」
「でも、あまり黒木を見ないような。それに、東雲さんから聞きました。授業を受けなくても、学校にくるだけで出席扱い……どういうことですか?」
今一番、知りたい問題を直球に聞いてみた。
もちろん先生は断る理由などないとでも言いたげに、いつも通りの声量で告げる。
「あいつは普通でいることが難しいんだ。医師の診断書が出てる。保健室登校と連携して出席扱いにしてる。体が弱いんだ、汲んでやれ」
そういうことなら、とその言葉を聞き入れた。
熊は続けて言葉を発した。
「すまんな。これ以上は、本人の事情に関わる部分は話せない。先生に言えるのはここまでだ」
言いながら、封をした書類に手を置き、机上にある資料を閉じた。
「ほら、もういいだろう。先生は忙しいんだ、帰れ帰れ」
「え、あ、ちょ……」
そういうと熊は僕の背中を押し出し、職員室の戸を閉める。
くっ……まだまだ聞きたいことがあったのに。
「幸、黒木憬について調べてるのですか?」
職員室の前で待っていたエールが、僕の怪訝そうな顔を見て訊ねてきた。
「大丈夫なのです。このエールも協力するのです!」
「あはは、ありがとう」
「はいです! もちろん、報酬はわっとっとなのですよー」
「はいはいっ」
わからないやつのことを考えたって、いつまで経ってもわかる訳ないよな。
しばらくは様子を窺いながら、普通に過ごそう。
それが今できる、一番の最善策だ。
「そういえば、エールはどこに行ってたんだよ。教えてくれてもいいじゃないか」
学校の帰り道。河原を歩きながら、再びエールを問いただす。
エールが用事で抜けるなんて絶対にありえない。僕が超絶ラッキーマン体質になって、どんな災いも吹き飛ばせるようになるくらい、ありえない話だ。
「だから、用事なのですー」
「用事って、なんの!」
「ぶう……仕方ありませんです、強いて言うなら」
強いて言うなら? 足を止め、僕はエールの目をじっと見据えて耳を立てる。
……けれどエールは首を横に振った。
「やっぱダメなのですー! 時がくるまで、教えないのです! じゃあ私は先に帰って、わっとっとを食べるのですー!」
結局、はぐらかされた。まったく……僕に隠し事をするなんて、いい度胸だ。
帰ったら取っ捕まえて……冷蔵庫に収めてやるッ!
ぶつけることのできない怒りを、手で丸める動作をすることでコントロールした。
さて、エールがいない帰り道がこんなに静かな物だとは思わなかった。止めた足を再度、動かす。
――『……』
「ん……?」
ふと背後で、変な声が聞こえる。奇妙な笑い声のようだった。それが何なのかはわからない。空耳なのか、はたまた……。
「幽……」
川風が電線を鳴らす。ーー『……てふふっ』
おもむろに振り返る。エールが不在の中、僕は初めて自分の世界に闇を感じた。
目に映ったのは変哲もない道。周りには沈む夕陽を背景に、優雅に犬の散歩をしている人や買い物帰りの主婦が歩く。
何の変哲もない繰り返された日常。
「ははは」
あまりに不思議すぎる現象に、独りでに乾いた笑いを零した。
今日は早く帰ろう。なんとなく気持悪い。
僕は駆け足に、その場を去る。見えない何かから逃げるように。
――むに。毛の感触。
「へ……?」
「ぐるるる……わんッ!」
「ひええ!」
踏んだのは、地面じゃなく犬の尻尾だった。
今日も今日とて、普通の日常だった。なんだ、僕は僕じゃないか。
自宅まで、犬との追いかけっこが始まった。