Chapter : 7 夜のみなしご
「生きていたか、ルーク」
「……あー! 来やがりましたね、ミスター失礼」
『ほんとほんと! もっと言っちゃってくださいよ!』
一連のやりとりの後、俺達はこうして再び一日目の音楽室にいる。アラベスクの一番が、何度聞いても心地良い。決して広くはない音楽室の中、三柑の旋律が緩やかに歩いていた。
「なんだか、不思議だね。本当に生きてるんだ」
「ちょ、ちょっとその言い方酷くないですか? 自分も精一杯生きてんですよ?」
「……なんでもない。こっちの話さ」
三柑のピアノが、世界的ダンサーのゾンビの曲を紡ぎ出す。衝撃、というより違和感の方が強かった。その去就を最後まで見守らなかった蓮たちとは違う。三柑は確かに、目の前でその死を見届けたはずなのだ。なのに、生きている。想像以上に、違和感が強かった。
「うーん、不思議だ。本物か? ちょっと失礼」
俺は三柑が座っているピアノの椅子に割り込んで、奴の両ほっぺをふにふにした。
びくんと身体が震えたが無視する。鬼のように柔らかい。
「ふぁ、ふぁにふるんでふかっ!?」
「手触りをね。本当は胸がいいんだけど十八禁は駄目らしいからさ。……おー、ぬくいな」
『わたしの破廉恥レーダーが反応した瞬間、お尻に鎌刺しちゃいますからねっ!』
もち肌とはこういうことを言うのか。なるほど、胸の分がこっちに回っているのかな。
堪能していると、ペダルを踏んでいた足で俺の足指を思いっきり踏まれた。
「痛っ!」
『いい気味でーす』
「おおおおお踊り子におさわりは禁止ですっ!」
三柑は椅子から飛び退くと、俺から離れて我が身をかき抱いた。
「……こーいうの本当に弱いんで、困ります。自分、ビビリなんで……」
さて、茶番はこの辺りにして、そろそろ籠絡を始めよう。
「ごめんごめん、つい衝動的にね。反省してるよ」
「……意外ですね? センパイの辞書にはなさそうな言葉ですけど?」
「最近三訂版が出てね。追加することになったんだ」
「頭でも打ったんですか?」
「撃たれはした。衝撃だった。……ほら、お詫びだ。食べていいよ。俺はもう食べたから」
「あーっ! カツサンド! みかんゼリー! それに自分が大好きな緑茶だー! ナイスすぎますっ! 丁度昼ご飯食べ損ねてたんですよー! やたっ、遠慮なくいただきまーす!」
「うん、食べなよ。丁度、三柑がお昼を逃す予感がしてたんだよ」
『そんなピンポイントな予感はない……』
三柑は世話を焼かれるのは好きだが、一方的な施しを受けると遠慮してしまう。
だからこうやってワンクッション置くと好感度を上げやすい。簡単なお仕事だ。
三柑がご飯を食べているうちに、俺は窓を閉めてあげて、いつもピアノの近くに置いてあるアコースティックギターを手に取った。そして、ピアノ近くのいつもの席に腰掛ける。
弾いてみた。ぼろんという、不細工な音しか鳴らなかった。
三柑とレイは、それを見て、足でもくすぐられたみたいにけらけら笑った。
『あははっ、下手っぴー!』
「ふふっ。センパイがぎこちない。面白いっす」
「やったことないんでね。これから覚えようかな」
三柑はそれから、ご機嫌でカツサンドを食べていく。いい感じだ。
ストーブのじりじりとした音と、俺がおっかなびっくり弦を弾く音が音楽室に響く。
そんな俺をからかうように、三柑もまた適当にピアノを弾き始めた。
乏しい心が、淀みなく踊る指先と音色に惹きつけられる。本物はやはり違う。
視線を三柑の横顔に移そうとする途中、譜面台に置かれた便箋がちらついた。
「なあ三柑。その便箋、何なの?」
手が止まる。並のことなら、三柑は弾きながら喋る。
ということは、やはりここはポイントであるということだ。
「これ、ですか。……赤紙ですよ。ただの」
「赤紙とは穏やかじゃないね。何に呼ばれたんだい?」
「んー、呼ぶ方です。……その。星海祭、あるじゃないっすか。十四日に」
「ああ、うん。あるね。盛り上がるね。外からも人が大勢来るね」
珍しいものが見たい命知らずか、愛に満ちた、血縁か。
「……実はっすね。島の偉い人たちから、お願いされまして。……その、コンサート、やってくれって。……これは、そのチケットです」
「へえ、そうなのか。凄いことだね」
知っていることを知らないように話すのは、結構骨だ。演劇部に入っておけばよかったかな。
このコンサートは、悲劇を生む。さて、どうやって辞退させよう?
「でも、この件、断るつもりでーす。あざっしたー」
『……ほえ?』
レイの目が点になっていた。口も開いている。いい顔だ。
「なぜ? ピアノ、聞いてもらうのが好きなんだろう?」
「まさか」
冷笑。そんな彼女の一面を、初めて見る。
「自分、人に演奏聞かれるの、すっごい嫌なんで。……こんなの、論外です。絶対断ります」
「……素人並の疑問なんだけどさ」
「何です?」
「他人に聞かせるのが、醍醐味なんじゃないの?」
「……そうなんでしょうね。多分」
三柑は、窓の外にある巨大な塀を見つめて吐き捨てた。
「……もう、嫌なんです。……こわいんです」
三柑はそう言ったきり、その日はピアノを弾くだけで、一切口を開かなかった。
「あー、センパイ。遅いですよー」
「昼食を買っていたんだよ。ほら、みかんゼリーをあげよう」
「わ、やった! さすがセンパイ! 昨日に続きナイスです!」
日にち代わって、今日は二月十二日。昨日の状態は、寝ると引き継ぎだ。
部会が始まる少し前。先周通り、のはずなのだが。
「あれ?」
「……? どうしたの、一人」
「いや……」
言える訳がない。どうして先周と違って、二人はチェスを打っているんだ? なんて。
『あれー? 蓮さん、RLの自費出版本読んでたのにー! わたし、あれ大ファンなんですよ!裏設定とかも覚えたなー! あの原本には、プレミアも付いてるんですよ、雪白さんっ!』
漫画好きとは、君はどこまでも俗っぽいね。天界にも本屋があるのかな?
「あー、駄目だ。投了だ投了。強すぎんよ……」
「ハンデ有りとは言え、よくやっていたわ。まだ手はあったのに」
「そこまで勝負にこだわりを持てないんだ。素直に撤退撤退」
「四条センパイは、こだわらなくても女の人が来ますもんねー。イミフですけど」
「良く知ってんじゃん。たまに虚しくなるよ」
「嫌味。秘訣を教えて欲しいわね。応用が出来ればの話だけど」
さて、展開が変わっているけど……やっぱり原因は一つだろう。
俺が三柑と深く関わったことで、何らかの影響が部会に出ているんだ。一体、何がキーだった?
「やー。全員揃ってるね。良かった良かったー」
二葉が入ってくる。そこからは、新展開はなくいつも通りだった。
今の所、さして気にする必要はないかな。今回は三柑に張り付いておけばいいんだから。
「展示発表?」
「そ、何か一つ形にしたいなって。星海祭に、出したいんだ!」
それにしても。
「二個目は……鍋をします!」
「鍋っ! いいですね!」
これ、みんなが揃う、最後の会議だったんだな。
全て先周通りをなぞって、俺は後ろ手で部室の扉を閉めた。行動を開始する。
結果のわかっている検査を受ける必要はない。なら、行けなかったところへ行こう。
拒んでいた三柑が一体、どうしてピアノを弾くことになったのか?
「……あれ、院長だな」
教官室の前。俺は可能な限り気配を消して扉を半開きにする。三柑と、院長の姿が見えた。
院長には、私的処分の黙認や助成金の横領など、黒い噂が絶えない。
政界・有力者との繋がりも強いという。そんな男が、教官室で三柑に向かって話していた。
やはり会話までは聞こえない。諦めて近くで出待ちすることにした。
数十分すると、悄然とした三柑が、「失礼します」と教官室から出てきた。
「呼んだかい?」
「…………え?」
「どうも、ミスター失礼です」
「……センパイ、どうして? メリエス、受けにいったんじゃ……」
「嫌な予感がしてね」
魂の抜けたような顔。もともと白い肌が、さらに真っ白だ。
「……あはは。どうして、わかったんですか?」
弱っている。だから、ここしかないと思った。
「三柑が、気になるからさ。だから、気付いて当たり前だろ?」
「……へんなの」
そう言って、三柑は正体不明の涙を流した。ほろほろと。
籠絡に論理はいらない。ただ、糖衣のように包んでしまえばいい。
『……ひどいやり方。嘘つきですね。泥棒の始まりですよ』
その通りだと思った。嘘つきの方が、人の心は盗みやすい。
「俺で良かったら話を聞くよ。ね?」
「……っ、はいっ……」
呆れるほど簡単。誰かに聞いてみたくなる。こんな簡単なもの、本当に尊いの?
「月に見られた日のこと、覚えてます?」
「いや、俺は先天性だから。二葉と一緒。産まれた瞬間から、こうだったんだ」
「ははっ。じゃあ、産まれた時からもう思春期だったんすね」
頂点を過ぎた太陽が沈みにいくころ。二人で、裏山の山道を登っていた。
窓から見るだけで、行ったことがないと言う。
だから、ピアノから離れたいとも言った三柑に付き合うことにした。
誰も足跡を付けていない真っさらな白の上を、滑らないよう、ゆっくりと踏みしめていく。
「うち、親がどっちも芸術家で。……秋山新月と秋山陽乃って、知ってますか?」
『あっ! わたし、聞いたことありますよ! テレビでも観ます!』
「日本で一番有名な演奏家と作曲家だね。……そういうことなの?」
「やー、あはは。不本意ながら、そゆことです。……娘でした。昔は。きゃっ!?」
一歩前を歩く三柑が足を滑らせる。咄嗟に踏み込んで、背中から抱きしめた。
「大丈夫? 気を付けなよ。体幹がブレてるからそうなるんだよ」
「……芯がないんです。雑魚なんで」
衝撃で、三柑の脊髄の辺りの制服がズレる。見てしまった。
痣がある。三日月型などではない、普通の痣。
『……! 三柑さん、これ、叩かれた跡じゃ……!』
「親も子供も、お互いを選べたらいいのになって思いません?」
そう言って、三柑は俺から離れて山を登っていく。おっかなびっくり、ふらふらと。
「ひどい親でした。センパイはどうでした? って、あー、ごめんなさい」
「いいさ。産まれてすぐここなら、いないのと同じだ。何も思わないよ」
俺は三柑の後ろを、スピードを加減して付いていく。目を離すとまた転びそうだった。
「自分は、ゲームのキャラでした。アバターでしたよ。……おやのかんがえたさいきょうのぴあにすと。あはは、そんな感じでーす」
「……厳しかったんだ?」
「厳しかった。必死だった」
喰い気味に三柑がかぶせる。足元を踏みしめる音が、一層強くなる。
病的なものを感じさせる早口で、どこを見つめるでもなく三柑は呟いた。
「子どもにさせることじゃなかった。人間じゃなかった。学校も殆ど行けなかった。ピアノ以外、許されなかった。毎日毎日弾かされて、腱鞘炎になっても仮病だって言われて。一番以外屑って言われた。一番とっても屑って言われた。……遊べなかったなぁ。友達なんて誰もできなかった。センパイなんて、いなかった」
爪を噛みながら、三柑は幽鬼のように虚ろな顔をして振り返り、微笑んだ。
「愛のムチ、って言葉あるじゃないですか?」
「可愛がりってやつだね」
「あは。可愛くなくてもムチは振るえるんですよ。リアルムチ。痛かったなー。あと、できるまでご飯食べちゃ駄目でした。弾けるまで寝れまテンもザラです。発表会で一番取れなかったら、どうなってたのかな。死んでたかな。……その方が楽だったかなぁ」
『やめてくださいっ! 雪白さん、止めてっ!』
「助け、求めなかったのかい?」
止めない。止める理由がわからない。彼女を深く知れば知るほど、その分成功は近くなる。
過去を変えたいんじゃなかったのか?
「やめてって言ったし、助けても言ったんすよ。でも、意味なかった。何言ってるんだって顔で。あの人たちにとっては、当たり前のことだったんですね。だから、天才なんです」
「家族以外は?」
「みんな、他人なんてどうでもいいじゃないですか?」
ああ、その感覚はよくわかる。残念ながら、俺という人間はそうなのだ。
「芸術家に倫理は邪魔らしいっす。あの家だから当たり前なんだろうなーって、それだけ。
……寒いところでした。雪がいっぱいのこの島よりも、全然」
言い切ると同時に、山の頂上に辿り着く。
大きな一本杉は白く染まっていて、その下に立つ俺達は島の景色を一望できた。
白と、海と、陽の光。慰めのように、美しかった。
「きれい。真っ白」
「実際は利権で真っ黒なんだけどね、この島。原発の受け入れと同じでさ」
「……センパイ、台無し。二点です」
そいつは悪かったと上を見ると、木の上にレイが止まっていた。飴を咥えながら、ゴミを見るような視線でこちらを見下ろしている。何だよ、何が不満なんだい?
「……月に見られた日は、発表会の日でした。世界中から偉い人がたくさん来て、もちろん親も来て。……結果を出さないといけなかった。じゃないと、殺されてもおかしくなかった。あの人たち、世間体凄く大事だから。世界一の娘は、世界一じゃないと駄目なんです」
「……よわかった。三柑、弱かったから。だから、あの日……座る椅子が、ぐにゃって見えて。鍵盤が刃物みたいで。みんな、笑ってるみたいな気がして……それで……それで……」
「もういいよ」
抱きしめる。依存させるように、甘く。
俺さえいれば大丈夫だと、そうなればいい。
「センパイ、どう、しよう……。なんで? どこから、どうして、いまさら?」
こわい、と言った後、三柑は核心を口にした。彼女が壊れた、その訳を。
「三柑、弾かなきゃ……。お父さんと、お母さんが、来るって……」
『雪白さんは、人の気持ちを何だと思ってるんですか?』
「何とも。それより、どうして怒ってるのか聞いていいかい?」
夜。家に帰って思索を巡らせ、三柑から借りたギターを弾いているとレイは言った。
『こういう、女の子の好意につけこむようなやり方。……わたし、嫌いです』
「頼んだのは君だろ? それに、好き嫌いより効率で判断すべきじゃないのかい?」
『それでもっ! こういうやり方、絶対だめです! 誰にとっても、良くないです!』
あまりにも本気の怒声。意外が過ぎて、目を丸くしてしまう。
「……俺は何とも思わないし、三柑は俺を好いている。絶対にね。だったら、俺にも君にもあいつにも、三方一両得で最も効率的じゃないか」
『いい加減にしてくださいっ! あなたみたいな最低人間、誰が好きになりますかっ!』
「普通はね。でも、そういう病気なんだ。客観的事実だよ。……もしかして、知らないの?」
俺の回答が斜め上だったのか、え? という一言を漏らしてレイは固まった。
そうか、レイは知らないのか。
「ルナティックのペア間には、引力があるんだ。マイナスとプラスは惹かれ合う。プラスが貰った心の欠片が、元の宿主であるマイナスに戻りたがるから、っていうのが通説らしいよ。だからさ。三柑たちは、俺のことを自動的に好きになるんだ。そういう、現象なんだよ」
『な……』
鎌を落とした。二人だけの部屋に、冷たい金属の音が響く。
少しの間を置いて、白紙のような表情と掠れた声で、レイが語りかける。
『雪白さんは。……今、自分が言ったことの意味、わかってますか?』
「うん。合理的だよね。なるほどって感じ。普通こんな人間が、何もしてないのに、複数人の女の子に好かれるはずがないからね」
『…………ばか、なんですね。なにもわかってない』
それっきり、レイは俺が寝る直前まで何も言わなくなかった。ただ、寝る前。
『……雪白さん。決めました。わたし、もう何も言いませんね。お好きにどうぞです』
手のひらを返すように、彼女はそう言った。
「助かるよ。でも、どういう風の吹き回しだい? もしかして、怒ってる?」
『いえ。言える立場じゃないですし……。でも、わかったんです』
持って回って、レイが言った。
『いつかわたしの言ってたことを、雪白さんも分かる時が来るんだって。だから、です』
「そうか。じゃあ、楽しみにしていようかな。……お休み、レイ」
眠気に弱い俺の意識は、瞬く間に落ちていった。
だから、寝落ちる前。窓の外の二つの月を見据えて、彼女が何事かを呟いていたのを、しっかりと聞き取ることはできなかった。
『おやすみなさい、雪白さん。…………可哀想な人』
「なあ、二葉。今日、用事があるんだ。だから、手伝えないかもしれない」
「……え?」
朝。いつものように起こされた俺は、行動を起こすべく二葉にそう言った。
それだけは、予期していなかったという顔。それを、化粧みたいな笑顔で隠した。
「え、えっと。それって、大事な用事かな? 今じゃないと、できないことかな? 明日でもいいんなら、今日はその、手伝ってほしいなって……思うんだけども……」
「ごめんね、今日じゃないと駄目なんだ。本当だよ」
「…………そっ、か。嘘、ついてないね。……そっかぁ」
「悪い。どこかで、埋め合わせするよ」
「……あはは。期待しないで、待ってるね! 美人の誘いをソデにするとは、罪なやつだナー。いつか天罰が下るよ。星座になっちゃえ」
俺が生きていれば、どこかで二葉に借りは返せるだろう。今は構えない。
『……観てられませんっ』
レイはそう言って、俺が二葉と話している間じゅう、ずっと耳を塞いでいた。
星海祭の前夜。三柑はあの日、誰もいない音楽室から一人出てきた。
賛成していたのに、結局天文部室には一度も来なかった。なぜか。
あの時は分からなかった。けど、今ならその答えを知っている。
「早いね。まだ、九時にもなってないよ」
三柑は、忘我の境地にいた。いつも閉じているグランドピアノの蓋は、開いている。
血走った目線、のめり込むよう白黒に沈む小さな身体。狂騒めいた音の渦中の彼女には、俺の声が届いていない。
だから、後ろに回って、彼女のトレードマークである帽子を脱がせた。
ゆっくりと振り返った彼女の瞳が、再起動のような緩慢さで光を結ぶ。
「…………え? セン、パイ? どうして……?」
『み、三柑さん! すごいクマができてますっ! ……それに、靴下、昨日と同じ』
「……昨日別れてから、ずっと弾いてたのかい?」
きっと、家でも寝ずにずっと。追い詰められて、弾くこと以外に頭が回らないのだろう。
「だって、弾かなきゃ。……叩かれる。叩かれる。痛いの、いやだ……」
一体どうすれば、人はここまで焦燥してしまうんだろう?
酷使に震えてしまった両手をそのまま掴んで、後ろからゆっくり抱きしめた。
「いったん休もうか。ね?」
あやすように囁くと、三柑はこくりと頷いたのち、充電が切れたようにふっと倒れた。
「………………あれ?」
「目が覚めた?」
音楽室の椅子を四つ並べて、その上に寝かせて毛布をかけておいた。数分の停止のあと、三柑はようやく現状を理解したようだった。そして、俺の奇行に目を向ける。
「む、やっぱり釣られるな、これは……。左右五指の独立は、やはり難しいね」
「……なーにやってんすか」
音楽室、その倉庫にあった古ぼけた譜面を置いて、三柑の帽子を被りながら俺はピアノに挑戦していた。読み方を覚えれば特性的にすらすらと読めるのだが、指の方はそうはいかない。
同じ方向の手と足を動かして歩いてるみたいにぎこちない。また、どぅんと音階を外した。
『センスないですねー』
「ふふっ。下手くそですねー、センパイ」
「そうだね。漫画のようには、いかないみたいだ」
気の抜けた笑みで、三柑はこちらにやって来る。お尻を横からぶつけて来て、隣に座った。
三柑は、見せつけるように流麗に指を滑らせた。そして、手元を見ていない。
ぼさぼさになった髪と、少し血色の戻ったあどけない三柑の顔が、俺を捉えた。
「どうして、来てくれたんですか? ……二葉センパイ、泣いちゃいますよ」
「かもね。……でも、今は三柑が泣かなければ、それでいい」
「……どうして、っすか?」
「何でだろうね。三柑が好きだから、じゃないのかな」
レイは、そっぽを向いて何も言わない。これで間違えていないはずだと思った。
「…………そうですか。……凄く、嬉しいです。センパイ。嘘じゃないです。自分も、センパイ好きです。……てか、バレバレでしたかね?」
「そうだね。特に窓とかね。言われるまでは、気づかなかったんだけど」
人に聞かれるのが嫌だと言った彼女が、窓を開ける理由はひとつしかない。
「あは。やっぱり。じゃ、バレバレついでに、自分も一個聞いていいですか?」
「いいよ、何でも聞くといい」
「よしっ、じゃー遠慮なく! センパイ、」
太陽のような笑顔。そこから、
「どうして嘘、つくんですか?」
三柑の両腕は止まり、世界から音が消えた。
「……何のことだい?」
「センパイ、マイナスですよね。自分、知ってます。だから、ありえません。……センパイは、誰も好きにならない。嫌いにも。……だからです。だから、自分は安心するんです」
窓から差し込むオレンジ色の光が、アンニュイな彼女の表情を彩った。
瑞々しい金髪が融けたみたいで。この子は、こんな大人びた雰囲気を持っていただろうか?
「知ってますか。……女は、打算的な生き物なんですよ。センパイ?」
同じ言葉を、同じ日に、夜の校舎で彼女は言った。
「自分は、……三柑は、ビビリなんです。そういう、病気なんですよ」
「……そうか。何の項目?」
「恐怖、です。特に、対人の」
それで、色々なところに合点がいった。彼女の能力の源は、強い気持ちの裏返しだ。
「こわいんです。……嫌われるのが。ダメだって言われるのが、何よりこわい」
「心配しなくても、三柑のギフトなら」「そんなの、わかんないじゃないですか……」
薄い氷にひびが入ったような、今にも壊れそうな表情で、弱々しく呟いた。
「明日ギフトが消えたら、どうするんですか? 効かない人がいたら、どうしたらいいんですか? ……明日、死んじゃうかもしれない。未来なんて、誰にもわかんない……」
『そんなっ……』
病的とも言える恐怖心が、彼女の中に棲んでいる。
普通に考えれば、杞憂に過ぎないと笑うべきなのかもしれない。けれど、どうしようもない。
俺が色々と欠けているように、三柑もまた、御しがたい何かを持っている。
「だめなんです。こわいんです。……たとえ九十九人が立ち上がって拍手しても、一人寝てたらもう駄目なんです。寒くて、おかしくなるんです。頑張って頑張って、でも褒められないなんて、……けなされるなんて、もう、嫌なんですっ」
「……そうか。だから、俺なんだね」
要するに、安牌なのだ。好きにならない代わり、嫌いにもならない俺の存在は。
たとえコンサートでどんなやらかしをしたところで、俺の心は凪いだままだろう。
加えて、俺は三柑のピアノが好きだと公言している。加点はあっても、減点はない。
だから三柑はあの時、俺を求めたのだ。
「自分、打算的な、女ですから。……好きじゃなくてもいい。ただ、嫌わないでくれるなら」
「六花と、真逆だね。君は」
「……六花センパイは、強くてカッコいいです。あんな風に、なりたかった。……けど、自分のこと、……嫌いだもん。あの人」
「そんなことは」「ありますっ! センパイには、わかんないんです! 鈍いからっ!」
被害妄想だよ、と言うのは簡単だけど、得策ではないとわかる。
逃げ場所を、作ってやるべきだ。
「……なあ、逃げないかい? キャンセルすればいいじゃないか」
「無理っすよ。……親、院長にも、ボスにも、根回ししてます。ここで逃げたら……もっと、ひどいことになる。オシオキ、されます。……痛いのは、ヤです」
線が繋がる。会場前で見た、三人の絵面。あれは、下見と念押しだったのだろう。
思考を遮るように、隣の三柑がもたれてきた。さらさらの髪の毛が、服越しにこそばゆい。
「ねー、センパイ。センパイがどうして急に構ってくれるのか、自分にはわかんないです」
「単純明快だよ。世界平和のためさ」
「……ね。こういう空気読めないところっすよ。好きだけど、嫌いなとこ。わかります?」
『わかります……』
嘘はついていないんだが。まあ、誰に説明してもわかるまい。
三柑の前に、片手を差し出す。彼女は首を傾げた。
「なんすか、この手?」
「チケット。くれるんだろう? 右ポケットの中の」
「…………最近のセンパイ、四条センパイみたい。察しの良さが、チャラいっす」
「気が利くって言ってくれよ。……三柑のピアノ、好きだよ。だから絶対に味方だ」
「……はい」
三柑はポケットからチケットを取り出して俺に握らせると、そのまま俺の手を裏返し、そして手の甲にキスをした。
「大胆だね」
「あ、あはは。ビ、ビビリなんで、これが限界っす。……ねえ、センパイ」
「ん?」
「ちょっぴり、寂しいけど。……でも、明日が終わるまでは。それまでは」
「――嘘でもいいから、好きでいてね」
それから三柑は会場の下見に行って、また走って戻ってきて、憑かれたように弾いていた。
夜。退去時刻。二葉に会わせる顔がないという三柑に従い、遭遇を避けて帰った。
ギリギリまで家で練習したいのだと言って、繋いだ小さな手は離れ、左右に別れを描く。
帰路の途中、「本当は手伝いたかったんですけどね」という三柑の言葉が、妙に頭に残った。
「これで、大丈夫なはずだ」
『そうかも、しれませんけど。でも……』
「ん、何か問題があるかい?」
『……いえ。全部、お任せするって言ったので。おやすみなさい』
「ああ、お休み」
発表会は、三柑のトラウマ。だからこそ、俺という味方を意識させれば、きっと安定する。
多分、明日のコンサートに行けばゲームクリアだ。
彼女の信頼を得るために切り捨てた色々なものは、必要なら全てが終わってから埋め合わせればいい。ずっと使っていない目覚まし時計に電池を入れ、セットし、ぐっすり寝た。
ああ、楽なゲームだった。
そう思っていた。
自然に、目覚めた。つまり不自然。
『12:35 2月14日 日曜日』
『何やってんですか―――――っ! 頭湧いてんですか! 信じらんない!』
「うん、俺も信じられない。てかどうして起こさなかったの?」
『意識の主導権は雪白さんにあるんですっ! 独立行動できないって言ったじゃないですか!』
目覚まし時計を見ると、五時の時点で止まっている。そんな偶然があっていいのか?
手元に引き寄せて、裏側を見た。電池が、入っていない。
即座に玄関へ飛び出し、扉の状態を確認する。
『な、何してるんですっ! そんなことしてないで、早く行かないと!』
「鍵が開いてる。壊されてない。昨日、絶対に閉めたんだ。俺の記憶は絶対だ。電池を入れたのも、レイは見てたね?」
『は、はい、確かに。わたし、だから、安心して……』
手袋がある方の手で、口を覆った。思い至った、ということだ。
「誰かが、家に入って来て電池を抜いたんだ。俺を起こさないように。……そして、鍵は壊れてない。普通のやり方で、入ったんだ」
俺は絶対に二重人格じゃない。だったら、鍵を使えるのは、あと一人しかいないのだ。
『……二葉、さん?』
嫌な予感と予測が、粘つく汗となって背中をつたった。
「なあ、これ。……四日目、二葉と繋がっておかないと、アウトなんじゃないか?」
俺は、間違えてしまったのか? だって、そんなの予測できるわけがない。
ずっと二葉に頼って来たことが、爆弾になってるなんて。
「……はは。幼馴染に起こされないと、世界が滅ぶって?」
回避する手立てはあるだろう。だが、順風満帆なはずの航海に、今、予期せぬイレギュラーが悪魔となって入り込んできた。
それは、このやり直しが一筋縄でいくものではないと、俺に分からせるには十分すぎた。
『雪白さんっ、でもまだ、金の弾丸がっ!』
レイの叫びで、はっとする。そうだ、まだ今周を諦めるには早い。
もしかしたら、何かが変わるかもしれないのだ。
「よし。行ってみようか」
先周通り狂騒に駆られてしまった街を、多少の無理も顧みず走っていく。
三柑の属性は、対人恐怖。
だから、暴走したピアノを聴いてしまった者は、恐怖心が増幅され、極度の疑心暗鬼に陥る。
「お前も……お前も! 俺を殺す気だな!」
「死ねぇぇぇぇっ!」
その結果がこれだったんだなと、ようやく理解した。
俺にかかりが薄いのは、元々の恐怖心が少ないからだろう。
『雪白さんっ、気を付けて!』
「大丈夫。先周通りなら、気を付けなくてもすぐに着く」
駆けていく。やはり、俺の前だけトンボをかけたように危険度がゼロだった。
世界のご都合主義に感謝しつつ、駆けた。胸の内に、彼女の髪色と同じ弾丸を用意しながら。
「いや! いや! 嫌ああああああああっ! 怖いよ! 帰って! 誰も来ないでっ!
こわい……こわいよぉっ! ああああああああああっ!」
「三柑っ!」
吐き出しそうになるのを堪えながら、黒いドレスの魔女と化した彼女に向かって叫ぶ。
頭痛で歪むホールの床を、一歩一歩前に進む。近づかなければ。
「どうして……どうして、来てくれなかったんですっ!! 味方だって、好きだって、言ってくれたじゃないですか! 信じてたのに……信じてたのにっ! 嘘つきっ!」
「すまなかった! 言い訳をするつもりはない! 本当に悪かった!」
まるで痛まない心を口で隠して、ようやく三柑と一メートルの距離にたどり着いた。
「謝るくらいならっ、最初から約束なんてしないでよ! 馬鹿ぁっ!」
赤紫の光に包まれた三柑の叫びに隠れて、ちりりとした違和感が脊髄に刺さった。
これは、殺気。奴だ。このままではいけない!
『雪白さんっ、今です!』
「効いてくれよ……!」
立ち上がり両の拳を握りしめ叫ぶ三柑に向けて、俺は早撃ちのようにブレザーから銃を抜き、構える。引き金を、絞った。
まるで特殊な鉱石をハンマーで叩き割ったみたいな高い音がした。
同心円の金の波動が銃身から広がって、ホールを烈風のように駆け回る。撃ち出された弾丸は黄金の軌跡を描き、光となって彼女を包んだ。悲鳴と極光と赤紫が混じり合って、光度を増す。たまらずもう片方の手で、視界を覆い隠した。
光が止んだ。元通りになった三柑が、頭を押されたフィギュアみたいに、後ろへ倒れていく。
それを、電光石火の勢いで走り込み、後ろから抱きしめて保護した。
『気を失ってますけど、成功です!』
「……ああ。だけど、三柑が生きてる以外は、結局何も変わってない」
座り込み、化粧の施された三柑の頬を、ぽんぽんと叩いてみる。それと同時に、あの狙撃手がいた方向をきっと見つめた。
まだ、いた。ライフルを下ろして、立ち尽くしている。先周とは違う。
「ねえ。君、誰?」
「………………う。セン、パイ?」
腕の中で、三柑が身じろぐ。それと同時に、謎の狙撃手もライフルを落とした。
「気が付いた?」
「……あれ? 自分、どうして? ……センパイ、来なくて。それで、頭、真っ白になって、それで……。そうだ、自分は、三柑は…………」
「夢だよ、それ」
「……そっ、すか。夢かぁ。良かった、です」
まだ、三柑の頭はぼうっとしているようだ。なら、今は押しきっていいかなと、そう思う。
「――そんな。どうして。……ありえない。どうして?」
その声を聞いて、俺とレイは凍りつく。三柑は、それで一層夢だと思った。
謎の狙撃手の仮面が外れる。堅牢なその中身から、しなやかな長髪が躍った。
きっと、その瞬間だけ。血の匂いは、澄んだ香りに上書きされたはずだ。
「…………六、花?」
あまりにも、繋がらない。どうして六花が、三柑を殺す?
「オルギアを……止めたと言うの? そんな……どうして……。だったら……」
呆然自失の六花は、うわごとのように呟いて、目を見開いている。
その焦点は、やがて三柑を抱き支えている俺に向けられた。
「……どうして、私じゃなかったの?」
か細い雪のような声が、広いホールの中、まるでアスファルトに染みるようで。
離れた彼女を見上げる俺は、不思議とそのとき、悟った。
「どうして私を……選んでくれなかったの?」
違う。誤解だ。三柑とは何もない。信じてくれ――。
きっともう、どんな言葉も届かない。
彼女は俺より遥かに賢い。……そして。
「私だって、私だって……、助けて欲しかったのにっ!」
誰よりも、愚直だ。
叫びが、赤紫の光を燃やした。台風の目と化した六花から、色付きのドライアイスみたいに力が流れ出す。頑丈と遮音性が取り柄のホールが、大地の怒りめいて揺れ始めた。
光を纏った彼女が、空中に浮かび上がる。レイのように浮遊しているのとは違う。
あまりの力の流れに、立ち位置が浮かび上がざるを得ない。そんな印象を受けた。
彼女の右肩には、悪魔のような赤紫の羽根が生えていた。
「あなたさえ、いてくれればよかったのに」
問いたかった。どうしてそうなのか、どうして今こうなったのか。
聞きたいことが混ざりすぎて、上手く言葉がでてこない。ただ、今更何を問うたところで、もはや手遅れだ。金の弾丸は、尽きてしまったのだ。
「こんなの、もう、嫌。……全て、壊れてしまえばいい。あなた以外の全てなんて。私といない、あなたなんて! 全部、全部っ……、壊れてしまえばいいのよっ!」
「…………そうか」
赤紫の光の柱は、天井を突き破って空へ立ち昇って行ってしまった。
空いた穴から、そこだけ雪が降る。レイはそこに立って、片方の手のひらを差し出しながら、
降りしきる雪を見上げていた。三柑は、黙って俺から離れ、近くのピアノの椅子に座る。
「俺が死ぬこと、じゃ、ないんだな。六花。……君の、条件は」
おそらく、失恋――。
不意に、巨大な揺れが俺達を襲った。世界という枠組みを揺るがすような、巨大な揺れ。
「……ねえ、センパイ。一体、何が起きているんですか? ……自分、ばかなんでわからないんです。ずっと、ピアノばっかりだったんで……」
揺れは小さくなっていくが、消えることはない。寄せては返す波のように。
「言ってもいいけどさ。けど、どうせ信じないよ」
「早速裏切りましたもんねー。でも、言うだけ言ってみてくださいよ」
「そうだなあ。俺実は世界崩壊を止めるためにタイムリープしてるんだけど、三柑と仲良くなれば滅びは止まると思ったんだよ。でも妨害にあって失敗した。だから、今から六花が世界を滅ぼしちゃう。こんなところかな?」
「……くっだらねーっす」
「な。だから言っただろう? これは夢だって。起きたら、全部忘れるよ」
「それにしてはリアリティあるんすけどね。……そっか、やっぱり夢か。どうりで、センパイが優しいと思った。一緒にいてくれると思った。嬉しいことばっかりだと、思った」
自嘲して、三柑はピアノに触れた。いつも音楽室でそうするように。
「ねえ。どうして、来てくれなかったんですか?」
「本当に行きたかった。でも、行けなかったんだよ。凄く情けない理由でね」
「本当かなー。センパイ、嘘ばっかだもん。信じらんないっす」
「……そうか」
童話の狼少年の真意を、今、理解した。本当のことなのにな。
また大きな揺れが来た。しばらくして小さな揺れに戻るが、徐々にスパンが短くなっている。ホールのどこかで崩落の音も聞こえる。もう、ゲームオーバーだろう。
「……ねえ、センパイ」
「何だい、後輩」
「自分ら、これから、死んじゃうんですか?」
「うん。間違いなくね」
「…………落ち着いてるなあ。センパイ、怖いものないんですか? 信じらんない」
「怖いもの? うーん……。あっ。あるよ、あるある。今一番怖いものがあるよ」
「笑顔で言うことじゃないですよー。何ですか?」
もう、終わってしまうのだ。だったら最後くらい、饅頭が怖くてもいいだろう。
「三柑のピアノが怖いなあ。特に、三柑が一番好きな曲だともっと怖いね」
三柑はきょとんとして、その後、場違いっぽく笑い出した。
笑い。この場において。
それはつまり、三柑が、己の業を乗り越えたことを意味する。
「あははははっ。はー……。センパイ、本っ当馬鹿だなー。怖いの、バカらしくなってきます。……いいっすよ。とっておきですからね! 今度は、ちゃんと聴いててくださいよ。センパイ?」
三柑は身体を伸ばした猫みたいに、鍵盤に両手をついて天井を見上げた。
見えた横顔では、唇がカーブを描く。
もう、恐怖から、三柑は自由らしかった。
水滴が落ちるように、しっとりと指が鍵盤に吸いついていく。
動けなかった。
一度も耳にしたことのないその曲が、まるで心を射止めたみたいに。
夜。この曲は、夜の曲だ。
雪の日の夜、たった一人で、窓の外を見つめている。膝を抱えて、息を吐いて。
言いたい。言えないけど、言いたい。
自分はここにいるんだよと、誰かに語りかけている。
そんな想いの風景を、小さな金色のお姫様はゆっくりと紡ぐ。
滅びかけの世界で、俺は今、世界で最も美しいものを見つけた気がした。
永遠にも思われた数分。最後の一音を伸ばすペダルから足が離れ、物語は終わった。
「……はい。おそまつさまでした」
「…………素晴らしかった。言葉が、ない」
俺は今、確かに高揚している。まともに働くたった一つの感情が、打ち震えていた。
「好きだ。本当に。俺は痺れたよ」
「嘘っぽいなー。ま、ありがとうございまーす」
「この曲、何て言うのかな。教えて欲しい」
「……この曲はですね。夜のみなしご、って言います」
「作曲者は?」
「どマイナーもマイナーですよ。……世界で、たった二人しか知りません」
初めてだった。人の言葉に、鳥肌が立つ思いがするのは。
世界が、今までにないくらい大きく震えた。三柑が椅子から落ちる。俺は自分の身体能力を総動員し、何とか三柑を抱きしめる。庇うように。今に瓦礫が落ちてくるから。
そんな無粋なものに、こんな尊いものを壊させてはならないと、強く想った。
レイが、黙って空中からこちらを見つめる。とんとんと、心臓の上を指で叩いていた。
はっとする。……そうか。やれって?
「……あはは。やっぱり、怖いっすね。震えちゃって……ださいなあ……」
いいだろう。無駄だなんて思わない。俺は今、確かに三柑に震えたのだ。
「なあ、三柑。聞いてくれないか。信じてくれなくても、別にいいから」
「……はい」
「俺、たくさん嘘をついたよ。三柑に。でもすまない。悪いって、全く思えないんだ。そういう人間なんだよ、俺。本質的に、そういうのがわからないようにできてる」
返事はない。それでいい。俺は、他人の理解など求めない。
「でも、俺の中には。たった一つだけ、ほんの少し残っている感情があるんだ」
「……それは?」
「凄いな、こいつって思う気持ち。憧れだよ。……俺は今、三柑を凄いと思った。あの曲、好きだ。枯れた人外の心にもそう思わせる曲が創れる君を、俺は尊敬する。……なあ、三柑」
目を合わせて。その目に宿る黄金の光が、俺も欲しい。
「君を知りたい。……だから、君の心をくれないか?」
じっと見つめる。そうしたら、いつものように。風船の空気が抜けるよう、彼女は笑った。
「相変わらず、何言ってるかまーったくわかりませんけど。こんな貧乳の乏しい心でよければ、いくらでもどーぞ」
「……ありがとう。じゃあ、目を瞑ってくれ」
従順に、まぶたが落ちる。
壊れた屋根から差し込む、赤紫の光に照らされたその顔は、やっぱり間抜けな猫みたいだなと、そう思った。
胸元から、銃を取り出す。狙いを付けて。
「ねえ、センパイ。……曲、好きって言われて、嬉しかった。生きてて、一番」
「そっか」
「……最期に。一個だけ、聞いてもいいっすか。センパイ」
「……何だい?」
指先に、力を込めていく。
「三柑のこと、好きですか?」
「もちろん。愛してるよ」
応えると、三柑は目を瞑ったまま、笑って言った。
「うそつき」
それが今周の後輩の、最後の言葉になった。




